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序 死ねるはずがないだろう
しおりを挟む憎い。
あの男が憎い。
憎い。
あの女が憎い。
大人しくしていてあげたじゃない。
従順ないい妻で居てあげたはずよ。
なのに。
どうして。
どうして私が死ななくちゃいけないのよ。
絶対にお前たちを殺してやる。
絶対に忘れるはずがない。間違えるはずがない。
最後に私をここに突き落としたのは間違いなくあの男だった。
私の夫であるその男は、私の妹と共謀して私を死に追いやったのだ。この暗くて冷たい古井戸の底へ。蓋をして見なかったことにでもするつもりだろうか。
こんな理不尽なことがあってたまるか。
そもそも私を指名して求婚してきたのはあの男の方だったはずだ。
私は家から出ることさえ出来れば相手なんて誰でもよかった。あの家より酷い場所なんてきっとないと知っていたから。
けれどもあの男は妙だった。私を指名して求婚してきたくせに着飾らせること以外に興味がないようで、これなら養女として迎えられた方がまだ納得が出来るという程に、ただの着せ替え人形と化していた。それでも、あの家よりは幾分かマシだ。
自分が他人と違うことは薄々感づいていた。どうも私は他人よりも選択肢の幅が広いらしい。両親はそれが気に入らないようでよく怒鳴ったり叩いたりしてきた。部屋は大抵外から鍵を掛けられたが、窓から脱出を試みると窓にも格子を入れられてしまった。
それはまるで化け物を封じ込めようとしているようだった。
曰く、私の中には悪魔が棲んでいるらしい。
悪魔を封じ込めるために私は部屋からでることが出来なかった。
軟禁状態な私は殆どやることがなく、本を読んだり絵を描いたり、刺繍を刺したりすることが多かった。そのうち妹の課題を押しつけられ、どこぞの男へ贈るための刺繍を命じられたりするようになったが、逆らうと両親がうるさいので従順なふりをしていた。
それも、婚約者の存在があったからだ。
成人すれば、家を出られる。相手がどんな男かは知らないが、結婚すれば少なくとも今の生活からは抜け出せるし、形式だけでも伯爵夫人の称号が手に入るのだ。男爵家の養女ではなくなる。
それだけが救いのように思えていた。けれども現実は甘くない。
あの妹は嫁ぎ先に頻繁に姿を現した。そして、私の夫であるあの男に何度も言い寄っていた。初めは夫もやんわりと拒絶を表していた。一度だけ彼にしては珍しく怒鳴りつける様子も目にしたことがある。けれども妹は諦めなかった。
そうして、とうとう夫が寝取られた。
相手が妹であれば離縁して慰謝料をというのもまた難しい。夫ならば慰謝料を相場よりも多く支払ってくれるだろうが妹と両親はそれを許さないだろう。なにせ私にはなにも渡したくない人たちだ。
大人しく従順な姉の物は全て自分の物。
きっとあの女はそう思っていたのだろう。だから、私の夫に手を出して……私が突然掴みかかったときは激しく動揺していた。
「他人の夫に手を出すような獣は人間の枠組みで考える必要はない、でしょう?」
首をひねってへし折ってやろうと思った。少なくともそれを出来るだけの力はある。
「獣は大人しく肉になりなさい」
あの男の夕食にでもしてあげるわ。
妻が居るのに他の女に手を出すような獣にはそれが相応しい。
肉の処理はしたことがないけれど本でしっかり勉強している。問題ないわ。
簡単に首をへし折れると思ったけれど、あの女は予想よりも激しく抵抗してくれた。
そして、その現場をあの男に目撃されてしまったのだ。
「なにをしているんだ」
慌てて駆け寄った男は、私の方へ手を伸ばした。
「ヴァネッサ」
名を呼んだかと思うと、とんと私の体に手が当たる。
それは予想しない方向からの衝撃で、体がふらつき足がなにかに当たった。
そしてこの肉体は重力に負けた。
「ヴァネッサ!」
男の叫びが響く。
ああ、突き落とされたのだと悟った。
そうして頭へ衝撃。
この角度、この距離。生存できるはずがなかった。
あの男は妻を失って悲しむ芝居をして、妹はそれを慰める健気な義妹のふりをしているだろう。そうして、ごく自然に私を事故死と処理して……。
ふざけるな。
そんなの許すはずがない。
私がなにをしたというのだ。
先に私の物に手を出したのはあの女の方だ。
先に私を裏切ったのはあの男の方だ。
なのに。どうして私だけ。
気がつけば天に手を伸ばしていた。
この恨み……。
死ねるはずがないだろう。
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