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守りたい存在
しおりを挟む殿下の演奏はいつも以上に煌びやかで素晴らしいものだった。
ミハエルの選曲がまた殿下の癖を把握し尽くしているかのように彼の長所を活かす曲であったことも大きいだろう。
それ以上に、真っ直ぐブレることのない柱が彼をよく響かせている。
気合いを入れて練習しなくては。
そう、触発されてしまう程度に回復している自分自身に驚く。
やはりクレメント殿下は凄いお方だ。
少し前まで成績が残念だとかおつむが残念だとか言えてしまう相手であったはずなのに、今のあの方は神が万物をお与えになったとしか思えないほど、全てが完璧に見えてしまう。
愛情表現がやや脅迫に聞こえてしまうのは個性と割り切れる範囲だろう。
溢れ出る自信が眩しい。
指のリハビリに基礎練習曲を日に一時間。それから殿下が選んだ大量の楽譜の中からいくつかを選び、弾けそうな部分だけを試しに弾いてみる。
元々技巧が派手な曲は好まない。と言うよりは技巧重視の曲を弾けるだけの実力がない。殿下もそれを理解してなのか私が弾きやすい曲ばかりを選んでくれていたようだった。
「練習か?」
今日の授業を終えたらしい殿下がノックもせず、それどころか従者のひとりも付けずに部屋に入ってきた。
アルモニー侯爵家で過ごしていたときも思ったが、彼は従者のひとりも連れずに歩く。一応護衛や世話係もいるはずなのだが、撒いてしまうのだ。
殿下の身体能力について行けるのは彼の護衛くらいだろう。その人すら時々置いて行かれてしまうのだけれど。
「まだ基礎が鈍いのですが、曲だけ決めてしまってから練習しようかと、今の状態で弾けそうな曲を探していました」
「どれどれ」
殿下は今日の課題をぽんと机に載せると、譜面台から楽譜の束を取る。
これではもう練習にならない。
弓を緩めて片付けの準備を始める。
「おい、猛練習は終わりか?」
「疲れてしまいました」
「くそっ、今度はもう少し早く終わらせてくる」
悔しそうにそう言って、下手くそな舌打ちをする姿はどうも顔と合わないと思ってしまう。
美形過ぎて舌打ちの音が響いたとしても本人から発せられたと気づかないだろうに、そこから発するものがあまりにも下手なのがまたずれてしまっている。
そんなことを考えながら、楽器を鹿革で拭いていく。松脂が残ってしまわないようにと気をつけながら、そう言えばしばらく殿下の楽器を手入れしていないと思う。
「殿下、楽器のお手入れはされていますか?」
「当たり前だ。僕だってそのくらい出来る」
いつも弦の交換だの表面が綺麗に拭けないだのそんな理由で工房に足を運んでいたくせにと思い、全て会いに来るための口実だったのかと理解する。
「では、これからは元の交換もご自分で」
「やだ。お前の手が治ったらお前に任せる」
演奏家の中には自分で元の交換が出来ない人も居る。演奏を指導する立場であっても元の交換は職人に任せるような人も。
けれどもクレメント殿下は自力で出来てしまうらしい。
「お前の方が楽器に合う弦を選んでくれるだろう? それに……お前が交換してくれた時の方が……音がいい気がする」
それは錯覚ではないだろうか。
そう思ってしまうが、気分の問題というのもあるだろう。殿下ほどの優れた演奏家を支えられるのであれば職人として誇らしい限りだ。
「ご自分でいろいろ試してみるのも良いとは思いますが……好みの問題もありますし。私には殿下の理想とする音がわかりませんので、最終的には殿下が判断なさることだと思います」
楽器は拘り出すと終着点がない。
本体の出来は勿論、弦、弓、駒、松脂……様々な要素でいくらでも拘ることができる。その果てしない組み合わせの中から自分の理想を探すというのは、演奏家が生涯をかけて旅する冒険のようなものだろう。
殿下の旅の終着点は一体どこなのだろうか。好奇心と共に、同行するのは自分の作品であって欲しいと願ってしまう。
「僕の理想なんて初めからお前だ」
「え?」
「……最初の音が、あの音が欲しい」
最初の音。
初めての響きに届かないといつも口にしている。
きっとそれは思い出補正で聞き比べれば現在の足下にも及ばないだろう。
それでも、理解出来てしまう。
初めて鳴らした時、音の振動が魂を揺さぶるような感覚。
自分がこの楽器を鳴らしたのだという感動はどんなに上達した後だって特別だ。
「きっと僕の最後の音だってあの時の音には敵わない。それでも、あの時のように震えたいんだ」
愛おしむように楽器ケースを撫でる。その仕草にどきりとしてしまう。
音楽の天使が存在するとすれば彼のような見た目をしているのだろう。そう考えてしまうほどの美がそこにあった。
少しの間、見惚れてしまっていたと思う。
先に口を開いたのは殿下の方だった。
「少し、話がある。その、お前にとってはあまり聞きたくない話だとは思うが……楽器を片付けたら隣で話そう」
深刻そうな表情に、一体なにを言われるかと緊張してしまう。
美形だから余計に深刻さを強調してしまう。そう思うのはなにも面食いの遺伝子に敗北したからだけではないはずだ。
楽器をケースに戻し、定位置に置く。ケースの上に布を掛けるのは他の誰かに触れられていないか確認するための気休めだ。
このところ、自分で思っているよりもずっと神経質になっていると感じる。
殿下の後をついて隣の部屋に移動する。
部屋の中では既にお茶の準備がされていた。
殿下は手で座れと示すと、当然のように私に勧めた席の隣に座る。
大切な話をするのではなかったのだろうか。
どうして隣に座るのだろう。
私の疑問に気がつかないのか、それとも無視をしているだけなのか、茶菓子を勧め、自分も焼き菓子に手を伸ばしている。
大切な話ではなかったのだろうか。
「あの、殿下。お話とは」
先に耐えきれなくなったのは私の方だった。
クレメント殿下があそこまで遠慮がちに深刻そうな様子で持ち出そうとする話とは一体何なのかと鼓動が速まる。
無駄に煌めく瞳が、少しだけ不安そうにこちらを向いた。
「その……お前の……家族の話だが、話をして大丈夫か?」
辛いのであれば無理にとは言わない。そんな気遣いをされたことに驚く。
本当に、よく見てくださっているのだと感じる。
「はい、問題ありません」
家族と言うのは、父だけではないのだろう。
チェロと子犬の母子を含め、それでいて家族と呼んでしまっていいのかと悩むような様子を見せられるとこちらの方が申し訳なくなってしまう。
「そうか……なら、まず、お前はどうしたい? あいつらとの関係は……いや、うん。僕は反対だが、お前がその、関係を修復だとかそういうことをしたいのであれば……できる限り譲歩してやる」
一体なにを言い出すかと思えばそんなことか。
私と父の関係は最早修復など望めないだろうし、あのローズマリーという女性に関しては、そもそも修復すべき関係さえ持ち合わせていない。
ただ一つ気がかりなのはアマンダだろう。
父が何らかの罪に問われるとしてもアマンダは巻き込まれて欲しくない。そう願っている。
けれどもそれだけでいいのだろうか。
アマンダの幸せを願うとすれば、あの家族と縁を切る方が良いのではないかと思ってしまう。
「私は……アマンダを守りたいと思っています」
そう告げれば殿下は意外そうな表情をする。
「そう、か。お前はあいつを嫌っていないのだな」
少し考え込むような仕草をされても本当に考え事をしているのか疑いたくなるのは以前の殿下であれば残念なおつむでまともに考えられないと思っていたからだろう。
けれども、今の殿下は私よりもずっと多くのことを考えてくれていそうだ。
「……その、父親には……会いたいと、思うか?」
「え?」
出来ることなら言いたくないといった様子で私の反応を待つ。
「……会わなくてはいけないとは思っています」
心の整理だとかそう言った面で考えればまだ覚悟は出来ていない。
今会ったところでなにかが変わるとは思えないし、また傷ついて、それでもなにかを期待してしまう自分に失望するところまで容易に予測出来てしまう。
それでも。
あんな人でも私の父なのだ。
「結婚の報告くらいはしなくてはいけません、でしょう?」
そう告げれば、殿下は数回瞬きを繰り返し、それからみるみる赤くなる。
「お、お前っ……なんでそういうことはさらりと言うんだ」
なぜか少し不機嫌そうな反応をされてしまう。
「お前がそういう女だとは知っていたが……ま、まあ、お前がまだあの男を親と呼ぶのであれば……僕も報告に同行するべきだな」
とても複雑そうな反応を見せられ戸惑う。
たぶん、殿下は父と私を会わせたくはないのだろう。私だって、出来れば会いたくはない。
「ヴィオラ、僕はあいつがまたお前を傷つけないか……不安だ。それに……あいつが……いや、僕が抑えられなくなってしまうかもしれない。その時は……ヴィオラ、お前は逃げろ」
「え?」
「演奏家として、手は守るつもりだ。けれど……僕はあの男を見て抑えられるかわからない」
強く握りしめる拳が、どれだけの怒りを抑え込んでいるのだろう。
あの荒々しい演奏を思い出す。
「裁判をしたところで、あいつは精々投獄か奉仕活動で終わる。けれど、裁判になればお前も引きずり出される。法廷で、お前がまた傷つくところは見たくない」
ぎゅっと手を握られ、それでも傷つけないように加減されていることに気がつく。
こんなにも気遣いをしてくれる方だとどうして気がつかなかったのだろう。
きっと今までずっと、この方は不器用に私を大切にしてくれていた。
「僕は、お前を傷つけたあいつを許せない。左手の中指を切り落としてやりたい程度には許せない」
多少発言が猟奇的なことには目を瞑ろう。元々愛情表現が脅迫になるお方だ。
「父上も、できる限り重い刑になるように専門家を集めているところだ」
「それは、王族として問題では? 家族の問題です」
「馬鹿、お前はもう父上の娘だろう。僕の妻なんだ。明確に悪意のある相手を放っておく訳にはいかない」
その言葉に胸が痛む。
明確な悪意。
実の親をそんな風に表現されてしまうことがとても苦しい。
「……実は、僕がお前を誘拐したと言って、アルモニー侯爵家から抗議が来ている。お前に会わせろと」
とても悩んだのだろう。まだ口にするべきではなかったとでも言いた気な表情だ。
「今日も、来ているのですか?」
「……イザベラが追い返した。けど……たぶんまた来る」
父の性格を考えるとそこまで熱心に通ったりはしないだろう。
私が王宮に居ることになにか不都合があるのかもしれない。
彼の考えは全くわからないけれど、殿下が現状を快く思っていないことは感じられる。
「無理はするな。会いたくないなら僕が追い返す」
握られていた手が離れたかと思うと、手を引かれ、指先に口づけられる。
「惚れた女ひとりくらい守ってみせる」
それがあまりに流れるような美しさで、とても現実の物とは思えない。
決意の宿る星空の瞳さえも絵画のようだ。
面食いの遺伝子に敗北した私はあまりの出来事に硬直し、ただ見惚れることしか出来なかった。
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