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間 護りたい女
しおりを挟む試験二日目の朝、ヴィオラを迎えにアルモニー侯爵邸を訪れるとアマンダしかいなかった。
「ヴィオラはどうした?」
「ヴィオラ様は体調が優れずしばらく休学させて頂くことになりました」
メイドが感情の読めない表情でそう告げ、アマンダを馬車に乗せようとする。
「僕はヴィオラを迎えに来たんだ。ヴィオラが居ないのであればお前を乗せる義理はない」
侯爵家の馬車を使え。そう告げれば、アマンダは泣きそうな顔をする。
「お、おい……なんで泣くんだ……これじゃあ僕が悪いみたいじゃないか……」
とりあえずは試験だ。全教科満点を取れなければヴィオラとの婚約を解消されてしまうだけでなく、兄上にヴィオラを取られてしまう。そんなのは嫌だ。
しかし、この家で療養というのも不安だ。ミハエルがいるから大丈夫だとは思うが……あの嫌な光景が過る。
仕方なくアマンダも馬車に乗せ、学校へ向かうがヴィオラが側に居ないというのは妙な感覚だ。
「ヴィオラの様子はどうなんだ?」
「校医が入院を勧めていたけれどお母様はその必要はないって。あのミハエルって執事が時々様子を見に行く以外は誰もお姉様の部屋に近づけるなって凄く警戒しているわ。私にも近づくなって威嚇してきたのよ? 使用人のくせに」
アマンダは不機嫌そうに言う。つまりミハエルはまだ解雇されていない。しかし、イザベラを忍び込ませるのには失敗してしまった。ヴィオラの様子を探ることができない。
「父上に言ってなんとかヴィオラを保護することができないかと思ったが……ヴィオラ一人の為に法を曲げることは出来ないと言われてしまった。試験が終われば……この試験で全教科満点を取ればすぐにでもヴィオラに正式な結婚を申し込みに行ける。夫婦になってしまえば、もうあいつらに口出しさせない」
そうだ。婚約の段階では卒業したらということになっていたが、法律上は今すぐにでもヴィオラとの結婚は可能だ。勿論父上が許可を出した場合に限るが。学生結婚はそう多くはないけれど貴族の中では婚約者と歳が離れている場合など、学生のうちに結婚してしまうやつらも居る。問題はないはずだ。
「お姉様を疲れさせてしまった原因はあなたでしょう? あなたなんかと結婚したら今よりもっと酷くなってしまうわ」
アマンダが吼える。
「なにを言っている。お前たちが現れる前はヴィオラは穏やかだった。そりゃあ祖父さんを亡くしてからは引きこもりがちで口数も減ったが、それでも、楽器の話をするときは活き活きしていたし、僕の演奏も褒めてくれた。まあ、困ったように笑うこともあったが、ここ最近のようにぼんやりしていることは殆どなかったんだぞ」
初めは新しい家族に慣れないせいだと思っていた。けれども、工房へ行けなくなったあたりからヴィオラはどんどんやつれていった気がする。昨日倒れたときはこんなに軽かったのかと驚いた。服に隠れて見えないが、たぶん急激に痩せたのだろう。
「……お前、ヴィオラの体、見たことあるか?」
「え? ありませんが……あなたが見たことがあるのも問題でしょう」
未婚の女性の肌を見るなんてありえませんと吼えられるがそんな意味で訊いたんじゃない。
「いや、最近急に痩せたんじゃないかと思ってだな。家族なら見たことがあるかと思ったが……まあ普通はメイドが着替えを手伝うか」
僕だって一応専属の使用人が何人かいて着替えの手伝いや髪を整えたりしてくれる。今朝だってヴィオラと会うつもりだったから髪結い師には念入りに頼んだが無駄になってしまった。
「食べる量がかなり少ないと思っていましたが……昨日は殆どなにも手をつけていませんでした」
もともと食が細いところがあったが、それにしても……。
「ヴィオラは食に関心が向かない方ではあったが、料理人の作った物はちゃんと食べるはずだ。ヴィオラに合わせて量を調節しているはずだからな。けど……やっぱり昨日もおかしかった」
バターの包み紙をむしゃむしゃしていたときは本当になにが起きたのだろうと思った。いつもは僕がおかしなことをしてヴィオラに心配されるというのに。
「眠れていないと言っていたが……やはりお茶程度じゃだめか。温泉に浸かるとよく眠れるようになるとか兄上が言っていた気がするが……問題はどうやってヴィオラを温泉に連れて行くかだな」
よく眠ればきっとよくなるはずだ。ちゃんと寝て、ちゃんと食べれば元気になる。
自分に言い聞かせているみたいだ。けれど、そうであってほしい。
体が弱くてもいい。塞ぎ込みがちで殆ど部屋に居るような生活であってもいい。ただ、ヴィオラには生きていて欲しい。僕の側で、時々僕の演奏を聴いて、出来れば少し褒めてくれたら嬉しい。でも、なにもかもは望まない。もう、失いたくない。
あの光景が蘇る。ただの悪い夢だと思いたいのにあの喪失感は妙に濃厚でそれが現実であると告げているようだ。
思わず、ポケットの中に手を入れ、切れた弦に触れる。お守り代わりに持っているそれは、初めてヴィオラと出会った日に貰った分数ヴァイオリンに張られていた最初の弦だ。一番細いその弦は二週間もしないうちに切れてしまったけれど、ヴィオラとの出会いを現実の物だったと実感させてくれる。
ヴィオラさえいればなんだって出来る。ヴィオラの為ならなんだって出来る。
僕は一途な男なんだ。もう僕の人生にヴィオラの存在が大きすぎて彼女が居ない未来を考えられない。
だからこの一月頑張った。ヴィオラと過ごす時間を減らさないまま勉強も、ヴァイオリンの練習も。剣の稽古や乗馬の時間は減ったけれど、おかげで読み書きもそこそこ出来るようになった。試験の範囲ならば完璧だ。まあ、まだ時々父上の名前を間違えるけれど、あれは仕方がない。本名はとんでもなく長ったらしくて音だって覚えるのが嫌になるくらいだ。ヴァイオリン初心者の練習曲よりも長い名前だ。国王になると名前に称号だとか建国の歴史だとかいろんな要素が長ったらしく追加されて大変らしい。式典の時くらいしか使わないからと父上は苦笑しながら公文書にその長ったらしい本名を書くのを廃止する法案を通すためにまたその長ったらしい本名で署名していたけれど、三回書き直すほどどこかが抜けてしまうらしい。本人が間違えるのだから間違えても問題ないと思うのに、長すぎるせいか嫌がらせのように試験に出題されることが多いらしい。まあ、そういうのは役人になる試験だから今回は関係ない。
放課後にもう一度アルモニー侯爵家に寄って、せめてミハエルの話を聞ければと思う。しかし、あの厄介なローズマリーとか言う女がまた邪魔をしそうだ。あの女はどうも僕とヴィオラの邪魔をしたいらしい。
「おい」
アマンダに声を掛ければ不貞腐れたような顔をしている。
「なによ」
「ミハエルに用がある。放課後、お前が呼び出せ。あいつはヴィオラ以外に仕える気はないがヴィオラのことなら大抵手を貸してくれる」
アマンダは信じられないと言う顔を見せる。
「またあいつに声を掛けるの?」
「お前だってヴィオラが心配なんだろう? 手を貸せ」
既にアルモニー侯爵家で信用出来そうなのはミハエルくらいだ。
そもそもあの父親がおかしい。ヴィオラだってあいつの娘のはずなのに、ヴィオラにばかり冷たく当たる。
「お前の父親って言うのは昔からああなのか?」
訊ねれば少し驚いた顔をされる。
「いいえ。少なくとも伯爵家に居たときは優しかったわ。とても穏やかで、よく笑っていた。少し金遣いが荒いところがあって、私になんでも買ってくれようとするけれど、それは幼い頃に会えなかった埋め合わせをしようと思っているのだと思っていたわ。むしろ、お姉様に接するときだけ別人みたい。なんというか、お姉様を積極的に苦しめたがっているようにも思えるわ」
酷いことをするの。とアマンダは言う。
おかしい。今まであの男はヴィオラに興味がなかったはずなのに。やはりあのローズマリーだろうか。
「できるなら、ヴィオラを工房に避難させたい。あそこなら少しは落ち着くはずだ」
「無理よ。お父様が上から更に新しい鍵を付けてしまったの」
ありえない。あの工房はヴィオラの所有物だ。親だって勝手に手を加えていいものじゃない。なにせあの工房とその周辺の土地の所有権に関しては父上が正式にヴィオラの所有物だと認める権利書を発行している。百年間はヴィオラの血を引く者にしか譲渡できないとなっているのだから父親には手を出せない。
「あの工房に手を出しているとなると……国家反逆罪で罰せないだろうか」
この試験期間でかなり詰め込んだとは思うが法律の詳しい活用となると兄上の知恵を借りるべきだろう。合法的にヴィオラを手に入れる方法を考えないと。
「あの工房、そんなに特別なの?」
「ああ。ヴィオラの祖父さんがヴィオラの為に作った工房で、生前贈与の際に父上が正式にヴィオラの所有物だと認めている。ヴィオラからあの工房と周辺の土地を相続できるのはヴィオラの子だけで百年間は売買も禁止されている」
売買の禁止はヴィオラの死後百年有効だっただろうか。
「父上って……国王様が?」
「ああ。父上もヴィオラがお気に入りだからな。ずっと娘が欲しかったから僕の婚約者じゃなくなっても兄上たちのどちらかの妻にすると断言していたくらいだ。もしくは自分の後妻でもと……ヴィオラのやつ……父上に見つめられて赤くなるとか……本当に見た目のいい男に弱い」
面食いの遺伝子とやらで美形には弱いと本人も言っていた。特に、父上の顔は好みらしい。
「まあ、兄弟の中で僕が一番父上に似ているからな。僕の外見だってヴィオラ好みに決まっている」
「外見だけ誇られても……いや、見た目のいいダメ男に弱いお姉様なら……ええ……面食いの遺伝子ね……」
アマンダはじっとこちらを見て納得した様子だ。
「なっ、お前! 今僕をダメ男と言ったか?」
「ええ、言いましたとも。顔以外褒めるところがないじゃない」
「なっ、僕はこの国の王子だぞ! それに運動とヴァイオリンの腕は国一番だと父上も兄上達もいつも褒めてくださる」
「いっつもいっつも兄上兄上って、お兄さんが居ないとなにもできないダメ男じゃない」
「お前だってお姉様お姉様ってヴィオラにべたべたと」
「私はいいの! ずっと欲しかったお姉様だもの!」
その言葉に少し驚く。
ヴィオラが居ないと言い争っても止めてくれる人がいない。けれど、アマンダはアマンダでヴィオラを大切に思っているようだ。
ずっと欲しかったというのは、他にきょうだいが居ないからだろう。
「……お前にとって……ヴィオラはいい姉か?」
「勿論。まだ接し方がわからなくて怯えているような部分はあるけれど、とっても優しいわ」
怯えている、か。確かにヴィオラはそういう部分があるかもしれない。人と接するのが苦手という雰囲気はある。それでも、僕を拒まずにいてくれる。
今はそれで十分だ。
学校に着いて馬車を降りる。やっぱり隣にヴィオラが居ないのはヘンな気分だ。落ち着かない。
今日は発展科目の試験だ。試験前にヴィオラの「頑張ってください」が聞きたかったけれど、そんなわがままを言っている場合ではない。まずは満点だ。点さえ取ればヴィオラを助けられる。そう考えながら試験会場に入れば、なぜか担当教員が緊張した様子だった。
試験の出来にはかなり自信がある。こう言うとヴィオラは「殿下はいつもそうおっしゃっています」と少し呆れた顔を見せるのだが、今回は本当に自信がある。むしろあれだけ頑張って満点を取れないのであれば僕は一生満点が取れない。むしろ惚れた女との約束すら守れない間抜けになってしまう。
少し教員を急かしてできるだけ早く採点を終わらすように言ってアルモニー侯爵家へ向かう。勿論、帰りは僕ひとりだと言いたいところだが、ミハエルを呼び出して貰わなければいけない。渋々アマンダも馬車に乗せてやった。
帰りは少し静かだった。初めての試験で疲れたのか、それとも結果に自信がないのか、単純にヴィオラを案じているだけなのか、アマンダは無口だった。そもそもヴィオラが居なければこいつと会話をする必要すら感じない。
あまりにも静かだったので、ヴィオラに会えなかったときの保険として手紙を書いておく。返事は貰えないかもしれないが、なるべく不安にさせないように……普段はあんまり言葉で言ってやれない愛してるをたくさん綴っておく。それに、前よりかなり字も綺麗になったからな。これを見たらきっと褒めてくれるはずだ。自分の名前もちゃんと書けるようになったしな。
手紙を折りたたんだ頃、丁度到着した。馬車から降りてヴィオラへの面会を要求したが、やはり追い返そうとされる。
「僕はヴィオラの婚約者だぞ。婚約者の容態くらい把握する権利があるだろう」
「お嬢様は高熱が続いておりとてもお会いできる状況ではありません」
メイドが淡々と言う。けれども、直感的にそれは嘘だと思った。
ヴィオラが体調を崩していることは事実だ。極端にやつれてもいる。けど、あれは感染するような病気じゃない。たとえ熱が出たとしても会えないなんてことはあるだろうか。
しばらくメイド相手にゴネたが全く効果はなかった。仕方がないので馬車に戻る振りをしてアマンダにミハエルを呼び出して貰う。
ミハエルはすぐに現れた。
「どういったご用件でしょうか」
「ヴィオラの様子は?」
「気を失ったり覚醒したり……大抵魘されています」
ミハエルは目を伏せ、静かに答える。
「旦那様が亡くなられたときもここまでは酷くなかったというのに……」
ミハエルから見ても今のヴィオラの様子は相当酷いらしい。
「原因に心当たりは?」
「明白でしょう?」
ミハエルは馬鹿にしたように言う。こいつは本当にヴィオラ以外に対しては全く敬意を持っていない。
「僕はあのローズマリーとかいうヴィオラの新しい母親が……危険だと思っている。あいつは、よくわからない方法でヴィオラを追い詰めていないか?」
「おや? 頭の悪い王子だと思っては居ましたが……ヴィオラ様が危険となると少しは頭が働くようですね」
素直に感心したという様子を見せられ余計に腹が立つ。
「どうもあの女は小僧を操ってヴィオラ様に危害を加えていますね。しかし自分で直接動かずに使用人を操っているのが質が悪い。私も人事権を奪われてしまいました」
ミハエルはとても不快そうだ。よくミハエルを敵に回すなんて恐ろしいことができるな。
「私も今はヴィオラ様に耐えて頂く以外、方法がありません。見つける度に追い払うのは可能ですが、使用人としての身分ではヴィオラ様を危険に晒すことは避けたい。あんな男でもヴィオラ様にとっては家族ですし……物的証拠を揃え確実に逃げ場を塞いでから始末しなくては」
腑抜けと言おうとしたが、違った。こいつは着々となにかを準備している。しかも、相当使用人の領域から超えたなにかを企んでいる。
「……ヴィオラが安全ならそれでいいが……本当に大丈夫なのか?」
あの妙に克明な夢のせいで余計に不安になってしまう。
「今のところあの女も小僧も無理にヴィオラ様のお部屋に入り込むことはありませんし、工房も鍵を増やされた以外は無事です。一応日々の見回りを増やし、工房に火を付けられることがないようにと警戒はしています」
工房に火。
その言葉がより鮮明に夢を思い出させる。
「……工房もだが……楽器にも気を配ってやって欲しい。ヴィオラが特別大事にしているヴァイオリンとヴィオラがある。その、父親に見つからないところに隠してくれないか?」
たぶん、夢の中で砕かれていた楽器はそのどちらかだ。
「でしたら、クレメント殿下がお持ちになられた方が安全かと。このお屋敷に置いていてはどこであっても危険です」
そう言ったかと思うと、ミハエルは一瞬姿を消し、またすぐに姿を現した。楽器ケースを手に。
前々から思っていたが、このミハエルは妙だ。何年も同じ姿をしているし、人間とは思えない動きをする。大体ひとりで十人分以上働ける執事とかおかしいだろう。家令とか言っていた気がするが、そのほかにヴィオラの教育係までしていた。領地の経営や土地の管理なんかも全部こいつの仕事だ。しかも趣味は危険生物飼育。人間の体一つで全てをこなせるとは思えない。
「お前、時間を操る魔術師かなにかか?」
試験にも出ていたが、魔術なんて遠い昔話のようなものだ。一応宮廷魔術師という職業は今もぼやっと残ってはいるが、それは伝統を重んじて残している程度だろう。魔術なんて、既に忘れ去られた過去の存在。少なくとも国の公式見解ではそうなっている。
けれども目の前のミハエルを見れば、まだ魔術が存在するのではないかと、確信に似た感覚がある。
「魔術師、ですか……まぁ、遠くはありませんねぇ」
どこか面白そうにそう言ったかと思うと、僕の手にしっかりと楽器ケースを握らせる。
「私はヴィオラ様を幸せにすると、旦那様に誓いました。ヴィオラ様の命が尽きるその瞬間までお仕えすると。ええ、幸せになったヴィオラ様の寿命が尽きる瞬間まで……ヴィオラ様を幸せに出来ないのであれば……またやり直すしかありません」
一体なにを言っているのだろう。この男は。
やはり考えが読めなくて不気味だ。
「クレメント殿下にはなんとか無事に満点を取ってヴィオラ様との婚約を死守して頂かなくては。ヴィオラ様は元々沈みやすいお方ですが近頃は本当に沈む一方ですのでなんとか引き上げてください」
このままでは溺死しますと言われても困る。あの沈みやすい性格は生まれつきだろう。祖父さんが居たときだって些細な事ですぐにくよくよしてた。それでも、まあ楽器を弄ればすぐに元気になるのだが。
「やっぱりヴィオラも音楽を専攻するべきだったな。そうすれば、試験期間も堂々と楽器を弾けたのに」
あいつの場合は点検どころか解体して磨き直したりしそうだが。
少しでもヴィオラの気を紛らわせることが出来ればいいのに。
「そうだ。ヴィオラに手紙を渡してくれないか?」
さっき馬車で書いたことを思い出し、ミハエルに差し出す。
「渡すだけ渡しますが……文字を読める状態ではなさそうです」
「なっ、そんなに酷いのか?」
ヴィオラは僕より賢いはずなのに文字も読めなくなってる? どういうことだ?
「私もヴィオラ様には生存して頂かなくては困りますから」
ん? なんかヘンだぞ?
いくら僕がいつもヴィオラにおつむが残念と言われているにしたって、今日のミハエルがおかしいことくらいはわかる。
「お前……なにか知っているな? 知っていて誤魔化そうとしている?」
ヴィオラがおかしくなった原因か、もしくはこれからなにが起こるか……ミハエルは知っている?
「……無事に全教科満点を取れたら……お兄様の名で私宛に手紙を。ヴィオラ様のお部屋の窓の鍵に細工くらいならして差し上げられます」
「なぜ兄上の名なんだ?」
窓から侵入できるようにしてくれるということか? ヴィオラの部屋は三階だぞ? まあ僕なら壁を登れるが。大体アルモニー侯爵家の外壁はごつごつした石で出来ているから登りやすい。防犯意識が低すぎるんじゃないかと前々から思っていた。
「クレメント殿下の名は使用人も把握しています。あなたからの贈り物は全てあの栄養過剰なご婦人が一度検閲することになっていますので私宛の手紙も検閲される可能性が」
「……お前、あの女のこといちいちそんな面倒くさい呼び方をしているのか?」
「私の主は旦那様亡き今となってはヴィオラ様ただお一人ですので」
一瞬ミハエルの瞳が緑色に光った気がする。なんというか不気味だ。やっぱりこいつ、人間のふりした魔物かなにかなんじゃ……。
「僕は、お前が人間じゃなくてももう驚かない」
「はぁ、私は一度も人間だとは申し上げたことがございませんが」
呆れた顔を見せられる。
「は? 本当に人間じゃないのか?」
そんな気はしていたが、からかっているという様子ではないところに驚いてしまう。
「ええ。私は旦那様と契約した、あなた方の言葉を借りるのであれば魔物というところでしょうか」
真顔で淡々と白状されると反応に困る。
「魔物? あの物語に出てくる悪魔とかそう言った類いか? ヴィオラは知っているのか?」
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思わずミハエルを見上げれば、面白そうに笑う。
「悪魔なんかと一緒にされるのは少しばかり不快ですね。いいえ。私はかつて精霊と呼ばれた種族ですね。旦那様曰く、私は闇の精霊王だそうです。確かにかつては国を支配した一族ではありますが……なにせ寿命が長すぎて退屈で……」
ミハエルは一瞬懐かしむような表情を見せる。
「魂の響きを対価に旦那様に仕えてみようと……初めはただの好奇心でしたが……ヴィオラ様の音は本当に私好みでしてねぇ。ヴィオラ様が最初に作ったヴィオラを彼女の死後譲り受けることを条件にヴィオラ様が幸福の中寿命が尽きるまでお仕えさせて頂くことになっています」
真顔で答えられるとどこまで本気なのかわからない。
「ヴィオラの楽器職人としての腕が気に入っているということか?」
「いいえ。彼女が弾き込んだ長年魂を震わせた楽器だからこそ価値があるのです」
演奏家としてのヴィオラが好きということなのだろうか。それにしてもおかしな話だ。
「意外と知られていませんが、精霊という物は音楽を好むものでして。大切に愛された楽器には魔力が宿ります。人間の僅かな生の間仕える対価としては十分かと」
ヘンなやつだ。
「じゃあ、僕の演奏は対価になるか?」
ヴィオラを護る協力をしてくれるならいくらでも演奏してやる。
「……窓の鍵で二曲。もし失敗したときは、最初の楽器をお譲り頂ければ、もう一度戻して差し上げます」
面白そうに言うミハエル。
もう一度戻す?
それは、つまり……。
「僕は一度失敗しているということか?」
こいつは時間を操る魔術師かと訊ねたとき、否定しなかった。
「あまり頼り切られても困ります。本来であればあまり干渉できないのですから」
「闇の精霊というのは、どういうものなのだ?」
時間と闇の関係がわからない。
「ヴィオラ様が必要であればあなたにお話しするでしょう」
ここから先はヴィオラ次第だとミハエルは口元に指を立てる。
「長居をしては怪しまれますよ」
ミハエルはそう言うけれど、他の使用人達がこちらに気付く気配はない。
「お前、なにかしたのか?」
「対価を頂けるなら喜んで」
とってつけたような笑顔のまま、僕を馬車に押し込んで扉を閉める。そして完璧な見送りの姿勢に入るのだから使用人ごっこを相当楽しんでいるらしい。
それにしても、あの精霊というのは本気なのだろうか。
ミハエルの言葉が全て本当なら……。
あれは夢じゃなかった。
僕は本当に一度ヴィオラを失っている。
急がなくては。あれがいつのことかすら思い出せない。けれどもあまり時間は残されていないはずだ。
明日の試験は実技科目。落とすはずがない。
試験終了時に採点票を貰ってすぐに父上のところへ行かないと。
物的証拠はミハエルに任せればいい。
僕は、父上の許可さえ貰えれば……。
今度は絶対に失敗しない。ヴィオラが限界を迎える前に助ける。
意味なんてない。
たった一言。それだけの遺書。その意味はわからないけれど、あんな風になってしまう程ヴィオラを追い詰め、助けられなかった僕にも責任はある。
あの時は、本当に婚約解消されるなんて思わなかった。父上が相当呆れていて、同じ時期にアルモニー侯爵家からヴィオラとの婚約解消を言い渡され……アマンダと婚約しろと言われた。僕はそれがどうしても嫌で……そうだ。あの時も。ヴィオラと会いたいと言っても、あのローズマリーとか言う女がそれを拒んで……仕方がないから夜に忍び込んで……壁を登ってヴィオラに会いに行ったら……。
折られた指が痛々しかった。こんなに痩せられるのかと思うほど痩せ細った体。僅かに残る涙の痕。
必死に否定したかった。けれども、状況がそれを許してはくれなかった。
ヴィオラは自ら命を絶った。けれどもその原因を、最期の一撃を与えたのは間違いなくあの男だ。ヴィオラの最後の心の支えを、祖父さんと一緒に作った、彼女と同じ名前の楽器を、たぶん彼女の目の前で壊した。
いつも諦めたような様子を見せていたけれど、本当はあんな父親でも、ヴィオラは褒められたかったのだと思う。あんな男でも、ヴィオラは愛していた。本当に時々彼女の口で語られる昔の父親の話はもう絶対に手に入らないとわかっているものを懐かしみ、焦がれているようにも思えた。
ヴィオラを追い詰めた原因はたくさんあったと思う。母親を亡くしてすぐに新しい家族が越してきて、人生の大半を過ごした屋敷がどんどん作り替えられていくだけじゃなく、行動を制限されていく。たったひとりの血縁者のはずの父親は、異母妹ばかりを可愛がり、ヴィオラを疎んじているのを隠そうともしない。それどころか故意に傷つけようとしている。その状況でせめて僕だけはヴィオラの味方で居続けなければいけなかったのに、成績の悪さを理由に婚約を解消されてしまった。そしてヴィオラの父親はそれを利用した。あいつにとってはヴィオラは完全に邪魔者だったのだろう。かわいいアマンダを王子の妻にできる好機だと思ったに違いない。
ヴィオラが死ねば、屋敷も財産も全てあいつらの手に渡る。あのローズマリーという女は相当金遣いが荒いらしく、ヴィオラの祖父さんが残した莫大な遺産の殆どを使い切ってしまっていたらしい。だから余計にヴィオラに残された財産を狙っていたのだろう。けれども、ミハエルは絶対にヴィオラの財産をあいつらに渡さなかった。工房も護ろうとして、祖父さんが残した土地を売られるのもなんとか避けようとしていた。
あの時、ミハエルは屋敷から遠く離れた領地に行かされていたらしい。僕が怒りのままあの男を殴っている最中に、どこかから現れたミハエルが止めた。
止めたんだと思う。確かにあいつを殴っていた。その途中だったはずなのに……。
僕はなぜか、ヴァイオリンを弾いていた。
とても懐かしいような気がした。ヴィオラに貰ったはずのヴァイオリンが、まだ僕に馴染みきっていない音で鳴っている。
意識を向ければ、ヴィオラが居た。いつも通りのヴィオラが。僕のわがままに振り回されてくれる、それでも楽器のこととなると少し強気になるヴィオラが。
泣きそうになったのを必死に堪えた。
全部、悪い夢だった。いつも通り、僕の大切なヴィオラが居る。
それからは、前と同じように、ヴァイオリンを貰って、前よりも必死に弾き込んだ。
毎日、ヴィオラに愛を伝えたつもりだった。けれども、伝わらない。
そりゃあ僕は素直じゃないところがあるけれど、なによりヴィオラを愛してる。ずっと僕の妻になるのはヴィオラしか居ないと言い続けているのに、不安そうで、どこか諦めた様子のヴィオラを見ているのは辛い。
不安にさせてしまったのはきっと僕だ。ちゃんとヴィオラへの愛を伝えられていないから。
ヴィオラは時々僕を小さな子供を見るような目で見る。そのくらい僕の言動は子供っぽいのかもしれない。そう自覚しながら、精一杯口説いてきたはずなのに、挙げ句の果てには脅迫だなんて言われてしまう。
上手くいかない。
それに毎回あのアマンダが邪魔をしてくる。最初はあの母親になにか入れ知恵されているのかとも思っていたけれど、アマンダはアマンダで純粋にヴィオラへ好意を向けているようにも思えた。
だったら。ヴィオラを護る人間はひとりでも多い方がいい。
今の僕はアルモニー侯爵邸に入り込めない。そうなると、家の中ではアマンダにヴィオラを護って貰うしかなさそうだ。
前回は、そのことにすら気付かず失敗してしまった。けれども、もう間違えない。
今度こそ、ヴィオラと幸せになってやる。
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