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オレンジガム
しおりを挟むふわりと香る爽やかな柑橘。
香水というよりはもっと人工的で安っぽい、駄菓子みたいな香りだった。
私は柑橘アレルギーで本体はもちろん、お菓子やソースに使われている柑橘類も食べられず、オレンジオイルでも腫れてしまうことがある。だから身の回りには柑橘系のものを置かないようにしていた。たとえ香料だけだとしても。
引っ越して少し経った頃だった。築五十年の中古住宅を格安で購入し、母と二人暮らしを始めた。
購入の決め手はシャンデリアだという。昭和の家によくあったらしい天井の飾りがどこか実家に似ていると母がそこを気に入ってしまったのだ。
壁紙や床を張り替えればそれなりに綺麗に見えるようになったが、やはり古い家なだけあって欠陥も多い。
扉の立て付けが悪いだとか、床暖房を潰してしまっているから使えずに冬場は寒いだとか、トイレの個室が狭すぎて座るとすぐ目の前に壁があるだとか不満になる点はある。
そんな家でも住めば都とでもいうのだろうか。だいぶ馴染んできたところだった。
近所の小学校で吹奏楽部が練習をしている。保育園の子供達が散歩に通る。
子供の多い地域らしい。久しぶりの平日休みは随分と子供の気配が多かった。
家のすぐ側に公園があるわけではないが、裏の通りのどこかに保育園があるらしい。小学校は大きな通りを渡った向こうにあるはずなのに、吹奏楽部の演奏は窓を開けずともよく響いていた。
休みの日は昼まで寝たい私としてはこの騒音だけは勘弁してくれと言いたくなる。
うんざりしながら起き上がり、練習が終わる時間は何時だろうと少し苛立ちながら着替えを済ませた。
それにしても、よほど練習に熱心な学校なのだろうか。
午前中も昼間も夕方も練習している気がする。
こんなに騒がしい地域だと知っていたら引っ越したりなんてしなかった。
遅い朝食にトーストを焼き、たっぷりチョコレートソースを塗る。
苛立ちには甘い物が一番だ。
気持ちを切り替えよう。
なにか別のことに集中すれば騒音なんて気にならなくなるはずだ。
自分にそう言い聞かせ、そういえば積みっぱなしのゲームがあったことを思い出し、今日はゲームで時間を浪費しようと決めた。
数ヶ月前に購入したRPGは有名作品だ。出来ることが多いのでメインストーリーのネタバレがあっても気にならない。寧ろ私はキャラクターの育成をメインに楽しむタイプだ。
ゲームを始めるとつい時間を忘れてしまう。
昼前に始めたはずなのに、気がつけば二時を過ぎていた。
始めたばかりにしてはそこそこキャラクターが育ってきたなと満足しつつこのペースであればもう一つ上の難易度で初めてもよかったのではないかと考えてしまう。
そんなときだった。
なにか物音が聞こえる。
それは声だった。
赤ん坊の泣き声が聞こえる。
乳児の泣き声だ。
けれどもこの近所にそこまで幼い子供は居ないはずだ。それに乳児の泣き声がよその家から家の中まで聞こえるとも思えない。
ゲームの演出かとも思ったが、赤ん坊の泣き声が挿入されるようなジャンルではない。
どこから聞こえるのだろう。テレビを点けていただろうか?
ゲームをスリープモードにしてリビングを確認する。
テレビは点いていない。けれどもどこかから赤ん坊の声が聞こえる気がした。
気味が悪い。
けれども猫の鳴き声は赤ん坊の声と似ていると聞くし、床下に猫がいるのかもしれない。姿を見かけたら保健所に連絡しよう。
念のため、どの辺りから聞こえるかもう少し探ることにした。
その時だ。
ふわりと爽やかな香りを感じた。
香水というよりはもっと人工的で安っぽい、駄菓子に使われるような柑橘系の香りだ。
我が家ではそんなものは購入しないはずなのに、オレンジの香りがする。
自分では決して食べないけれど、知っている。
スーパーの駄菓子コーナーに並んでいるようなオレンジが描かれたパッケージのガムの香りだ。
母は歯に貼り付くからとガムなんて食べないし、もちろんオレンジであれば私も購入しない。
どうして家の中からガムの香りがするのだろう。
匂いの出所を探そうとした。
けれども突き止める前に匂いが消えてしまう。
そして、赤ん坊の声も聞こえなくなった。
気のせい、だったのだろうか。
気味が悪いと思う。
匂いも音もわからなくなったし、ゲームに戻って忘れよう。
そうしてその日は夜までゲームをやりこんだ。
やはり爽やかな香りが漂っている。
定時に仕事を終え、リビングに入るとまたオレンジの香りがする。
まるで子供が駄菓子をポケットに突っ込んだまま歩き回った後のような微かな匂いだ。
けれどもはっきりとオレンジガムの香りだと認識出来てしまう。
二階から足音が聞こえる。
珍しい。母はもう戻ってきたのだろうか。仕事終わりは私よりも遅いはずなのにと思いながら、階段を上がりかけ、気づく。
足音の感覚が違う。
もっと小刻みで軽快とでも言うのだろうか。
小さな子供が走り回っている音に聞こえた。
子供なんていないはずなのに。
自分の子は勿論、姪も甥もいない。だから我が家に子供がいるはずがないのだ。
おそるおそる階段を上がり、物音のする部屋の方へ向かう。
洗濯物を干すために使っている八畳間だった。
物干し竿と椅子、アイロン台くらいしか置いていないその部屋は、確かに子供が走り回れるだけの空間がある。
けれども扉を開けても誰もいない。
そしてぴたりと音が止まった。
ふわりとオレンジの香りがすれ違うように漂う。
いる。
思わずそう感じた。
なにかがいる。
それは子供の足音で、猫の鳴き声で、オレンジガムの香りのなにかだ。
気味が悪い。
けれどもなにか害があるわけではない。
ただそこにいるだけ。
たったそれだけがどうしてか不気味に思えてしまった。
その晩、母にオレンジガムの香りと子供の足音の話をした。
「やっぱりいるのねぇ。格安物件だからなにかはあると思っていたけど」
のんきにそんなことをいいながらお茶を啜る姿に呆れた。
「知ってたの?」
「男の子が時々遊んでるだけでしょ?」
「見えるの?」
母の言葉に驚く。
私には姿までは見えない。ただ、オレンジガムの香りと足音、それに赤ん坊の泣き声が聞こえるだけだ。
「面倒見のいいお兄ちゃんが妹と一緒に遊んでいるだけだよ」
母はそう言う。
母は無害なそういうものをあまり気にしない。つまりオレンジガムの香り程度で引っ越しを考えたりはしない。
そうなると、もう慣れるしかないのだ。
実際、子供達は無害だった。
時々家の中を駆け回り、猫のような声で泣く。
その時にふわりとオレンジガムの香りが漂う。
けれども、それ以上はなにも起きない。
そうして過ごしているうちに、私もすっかり慣れたようで全く気にならなくなってしまった。
また、爽やかな匂いが漂う。
今日も少年は元気に妹と遊んでいるらしい。
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