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2 田中家での生活
しおりを挟む着替えがないので一度家に戻ると告げると、卓也は新品の下着と寝間着用の浴衣、それと外出用の着物を貸してくれた。どうやら家に戻ると危険らしい。
友達の家に泊まるという経験をしたことがない僕にとって初めての経験がこんなお屋敷に、しかも住み込みで働いている若い女性と猫まで居るところに泊まるなんてかつてないほど緊張してしまった。
なにより、卓也の家は伯母さんの家とは違う方向で落ち着かない。
なんというか、歴史がありすぎるというか……いかにもな雰囲気があるのだ。
「……トイレの場所先に訊いておいていい?」
「そっちだ。あと向こうにもある。向こうの方が新しい。安心しろ。両方水洗だ」
卓也は表情ひとつ変えずに案内してくれる。
「卓也の部屋は?」
「寝る部屋は昔と同じだ。が、書斎に居ることも多い。あー、書斎に居るときはあまり話しかけられたくはないが……まあ、敦ならいいだろう」
少しだけ悩む様子を見せ、僕であれば受け入れると言ってくれる卓也。
相変わらずのイケメンだな。
他人にあまり興味がないように振る舞っているくせに、誰よりも優しい。困った時は手を貸してくれるし、頼まれると断れない性格だ。
やや自信過剰なところは欠点でもあるが、それを嫌味に感じさせないだけど外見も備えている。
正直、妬ましく思うこともある。
けれども、怖いときに頼れる相手なのだから妬みすぎないようにしなければ。
僕だって恵まれていると言えば恵まれている方なのだから。
伯母さんが全財産を相続させてくれたり、親が大学までは面倒を見てくれたり、店の開店資金も援助して貰った。
友人はそんなに多くないけれど、困った時に頼れるヤツが二人も居る。これで他人を妬む方が罰当たりだ。
「夜中に叫んで戸を叩いたらごめん」
「安心しろ。君の部屋の周りはおはぎが見回りしてくれる」
「え? 猫頼りなの?」
おはぎという黒猫がそんなに頼りになる猫には見えない。
けれども胸を張って爽やかな印象の瞳を輝かせている。まるで「頼ってくれ」とでも言っているようだ。
まさか。
猫の言葉がわかるというのはこんな感覚なのか?
「……卓也の家に居ると猫の言葉がわかるようになったりする?」
「いや? そんな話は聞かないが。早希ちゃんはうちに来る前から猫の言葉がわかる子だった」
気のせいだったのかもしれない。実際おはぎが鳴いても僕にはなにもわからない。
「まあ、今日はゆっくり休め。浴衣は一人で着られるか?」
「……ちょっと待って……お祭り以来だからなぁ。ネットで着方検索する」
旅館みたいな浴衣を用意されるとも思わず、少し戸惑ったけれども卓也の好意だ。無下にはできない。
「必要なら着付けを手伝おう」
「卓也、洋服ないの?」
「好まないからな」
今どき珍しい。そう言えば高校の頃も家では着物だと言っていた気がする。
「家でくらいジャージでだらしなく過ごしてもいいと思うのに」
「……まあ、君ならば何を着ても似合うのではないか?」
卓也は少し首を傾げてそう言う。
なんでも似合うのはそっちだろうに。
そう思ったけれど、言葉には出さなかった。
夜、激しい物音で目を醒ます。
すすり泣く声ではなかったけれど、なにか強い衝撃があったかのような音だった。
怖い。
最高級であろう布団と枕で贅沢な眠りに就いたはずなのに、こんな嫌な汗をかいて目を醒ますなんて最悪だ。
けれども確認しないままでいるのはもっと怖かった。
ゆっくりと襖の前に近づく。
またなにかがぶつかる、いや、なにかを弾き飛ばすような音が響いた。
怖い。
部屋の前になにかがいるのだ。
思わず叫びそうになった口を自分の手で押さえ込み、ゆっくりと音を立てないように気をつけながら襖を僅かに開ける。
「うわぁっ」
思わず声が出てしまった。
緑色の目。
二つの目がこちらを見ている。
そして、大きな鳴き声を上げた。
「……おはぎ……くん?」
卓也の飼い猫が見回りをしてくれると言っていた気がする。
本当に見回りをしていたのだろうか。
「敦、大丈夫か?」
少しして、卓也が走ってきた。湯上がりだろうか。首にタオルが掛かっている。
「……うん。凄い音がしたと思ったら、おはぎくんだったみたい」
そう話す間も、おはぎは何度か鳴いている。
「ふむ、そうか。おはぎ。よくやった。だが、敦は視線恐怖症だ。あまり見つめないでやってくれ」
卓也はおはぎの頭を撫でる。撫でられた猫はどこか誇らしげにも見えた。
「敦、大丈夫だ。とりあえず、君に憑いてきたものはおはぎが追い払ってくれた」
「えっと……なんか連れてきてた? で? 猫が追い払ってくれたって……どうやって?」
「決まっているだろう。猫パンチだ。強烈だぞ」
は? 猫パンチ?
猫パンチで除霊だなんて聞いたことがない。
「猫には人間にはない特別な力がある。そう考えてくれればいい。今夜はもう大丈夫だから休め」
「あ、うん……ありがとう」
卓也が大丈夫だというのなら大丈夫なのだろう。
けれども、一度目が醒めてしまうと中々眠りに就けなかった。
田中家の食卓は想像以上に質素だった。
いや、人間より猫の方がいい物を食べていた。
大トロらしきマグロ、霜降りの牛肉。それらが惜しげもなく盛り付けられているのは猫の餌皿で、その食器すら職人の技が光る一級品に見える。
それがおはぎともう一匹、茶虎の猫に運ばれ、人間はにぼしご飯と味噌汁だった。
「……いつもこういう食事なの?」
「ああ。気にするな。早希ちゃんが用意してくれるときはいつもこんな感じだ」
今日は寝坊してしまったのだと悔やむ様子を見せる卓也。
どうやら普段は彼が食事の用意をしているらしい。
「あー、お世話になっているし、僕が食事の支度をしようか?」
独り暮らしだし料理はそこそこ出来る方だと思い提案すれば、ものすごい速度で卓也が顔を上げる。
「本当か? 助かる。敦は昔から料理が上手いからな。絶品プリンも用意してくれると尚嬉しい」
「あれ? 卓也そんなにプリン好きだっけ? いいよ。そんなに大変じゃないから」
キッチンはリフォーム済みで使い勝手のいい設備になっているようだし、料理も嫌いではない。
「プリン……敦さん、プリン得意なんですか?」
早希ちゃんまで食いつくなんて、もしやプリン好きはこっちなのか? 彼女の為にプリンの取り寄せをしていたのか?
「得意、と言っていいのかはわからないけど……まあ、家族や友達には好評、かな?」
そう言えば洋子伯母さんも喜んでくれたな。
「今日の夕食から敦に頼むか。早希ちゃん、昼間は敦とおはぎを連れて出かけてくる。留守番を頼むよ」
「はーい。じゃあ、たいやきさんと庭掃除していますね」
茶虎猫の餌を追加しながら早希ちゃんが言う。
餌と言ってもあれは刺身ではないだろうか。
なんて贅沢な猫なのだろう。
「敦、猫の食事は早希ちゃんに任せていい。その、とても拘りが強い子なんだ」
「あ、うん……」
猫に贅沢な食事をさせる担当は彼女なのか。
「おはぎさん、夜もすごーいマグロ用意しますからねー」
上機嫌な彼女は、少し怖い。本当に別の世界に住んでいる人のようだ。
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