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タルトのこぶん

タルトのこぶん 1

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 数日前から気にかかってはいた。
 タルトと遊んでいる時にフローレンスから向けられる視線。その意味を。
 頼むから余計なことはせずに口で言ってくれ。



「ただいま」
 帰宅しても玄関に出迎えがない。
 おや? また書斎か?
 近頃は普通に翻訳の仕事だけしているように見える。特に専門用語の多いものは時間がかかると言いながらも積極的に引き受けているようだ。きっと苦戦しているのだろう。
 ポケットの中身に触れながら、緊張をほぐそうと息を吐く。
 仕事帰りに受け取ってきたばかりだ。きっと数日は鞄に押し込んで先送りになるだろう。
 そう考えながら靴を揃えても、タルトすら出迎えに来ないのは妙だ。
 書斎でフローレンスの膝に乗って邪魔をしているのだろうか? きっとかわいい猫ちゃんを撫でながらでは彼女も仕事にならないはずだ。
 おやつで釣ろう。
 居間の入り口に鞄を置き、キッチンへ向かう。
 小魚には反応しないから小さなチーズにでもしようかなどと考えていると、妙だ。
 布が落ちている。
 いや、布と呼ぶには立体的すぎる。
 この黒と紫の派手な組み合わせは……フローレンスの下着……だと?
 思わず目を逸らす。
 なぜこんなところに。
 フローレンスは服を脱ぎ散らかしたりはしないし、タルトだって洗濯物で遊ぶような馬鹿な猫ではない。
 これはなにかが起きたに違いない。
 あまり見るのも失礼かと思ったが、現状を把握しなくてはいけない。
 下着は引きずられてここに来たようだ。長椅子の方にはブラジャーらしきものと肘置きにぶら下がったワンピースがある。
 つまり、中身だけどこかへ行ってしまったということだろう。
 一体なにが起きた?
 まさか、小型化しただとかそう言うことだろうか。
 考え込んでいると、背後からなにかが落ちたような音がした。

(いたっ)
 声がする。子供の様な声に聞こえるのは猫の鳴き声なのだろう。僕には言葉で聞こえてしまうが。
 慌てて声の方を確認する。
 転がり落ちたのは見覚えのない猫?
 紫がかった銀に近い毛色の猫は猫の癖に階段の上から転がり落ちたらしい。なんてどんくさい猫だ。
 猫はよろよろと起き上がる。
「怪我はないかい?」
 思わず声をかける。人間は診られるけれど動物は自信がない。しかし軽い怪我の手当てくらいならなんとかなるだろう。
 そう思ったが、猫がこちらを向いた瞬間思考が停止する。

 なんて可憐な猫だろう。
 紫水晶の瞳がフローレンスと同じ色に見えてどきりとする。きっと猫界でもフローレンス級の美女扱いに違いない。

(あ、ぱぱおかえりー)
 見惚れていると、タルトがご機嫌な様子で歩いて来た。
「ただいま」
(あのね、こいつ、ぼくのこぶん)
 誇らしげに紹介される。
「え?」
 子分? どこから連れて来た?
(しんいりだからぼくのこぶん!)
 タルトは誇らしげに言うが、銀の美猫は困惑したように瞬きしている。美しい上に賢そうな猫だな。
「名付けるなら……そうだな、フロー……はまずいか」
 悩むな。フローレンスに似た雰囲気の猫。
(ブラン様! 私です。フローレンスです!)
 猫が必死に語りかけてくる。
 え? なんだって?
「フローレンス?」
 本当に君なのかと聞きそうになり、僕自身猫になってしまったことがあるから否定できない。
(……お昼寝から起きたら猫ちゃんになっていました……)
 ぐすんと今にも泣きそうに見えるのは普段のフローレンスがちらつくからだろうか。
(こいつね、ままのしょさいでだいじなのにいたずらしようとしてたわるいやつだよ!)
 タルトは告げ口するつもりなのだろう。
「この猫はお前の大事なママだぞ」
 書斎の大事ななにかで元に戻る方法を調べようとしたのだろう。
(え? だってままはにんげんっていきものだよ?)
 タルトは首を傾げる。
 こいつも相当不思議な経験をしてきたはずだが人間が猫に変わるのは信じられないらしい。
(はっ! ぼくもおおきくなったらにんげんになる?)
 子供らしい考えだ。が、可能性を否定できなくなってきたな……。もしかしたら人間になるかもしれない。
「いい子だったらなるかもな」
 もうなにが起きても不思議ではない。むしろタルトが人間の子供の可能性も否定できない。
(よーし! ぼくいいこだからにんげんになるぞー!)
 タルトは謎の気合いを入れるが悪い子だから無理と言うことにしておきたい。
 まだフローレンスに求婚すらできていないのに子供が居ては困る。
 思わずポケットを握りしめる。
 買ったはいいがいつ渡すべきか決められずにいる小箱。わざわざラスールにサイズを教えてもらったのは情けないとは思っている。
 けれども、折角買ったのだからフローレンスに渡すだけでもしたい。
「フローレンス、大丈夫だ。元に戻る方法を探そう」
 ひょいと抱き上げればおとなしい。
 僕だって戻れたのだからきっとフローレンスも大丈夫だ。
 それにフローレンスの方がこういった非科学的なことに慣れているだろう。
 そう思ったのに、フローレンスは硬直している。
「フローレンス? どうした? 大丈夫か?」
(はうっ……フローしあわせぇ……)
 うっとりとした表情で蕩けきった猫が腕の中に。
 は?
 一体何だと言うのだ。
(私、このままずっと猫ちゃんでも……)
「いや、それは僕が困る」
 恋人が猫だなんて頭がいかれたと思われてしまうに決まっている。それはいくら僕だって嫌だ。
(そ、そうですよね。ひとりで二匹も猫ちゃんの面倒を見るのは大変ですよね……)
 しょぼーんと耳まで垂れる姿が本当に愛らしい。
 猫になってもフローレンスらしさを感じられる。
 と、いうことは、つまり普段のフローレンスも愛らしいということなのだろう。
 猫になっても困ったような眉は変わらないのだななどと見ていると、紫水晶の瞳が困り果てた様子を見せる。
 見すぎてしまったな。
「えっと、書斎でなにを探すんだ?」
 階段を上りながら訊ねて誤魔化す。
(なにか手がかりがあればと……)
 困り果てた表情がいつものフローレンスよりも更に困っている様に見える。
 つまり彼女にさえなにが起きているかわからないのだ。

 僕が猫になった時はどうやって戻った?
 そもそもどうして猫になった?
 書斎の床にフローレンスを下ろしながら考える。
 僕の時はいつの間にか猫になっていつの間にか戻ったとしか思えない。
「君は人間が猫になる方法を知っているか?」
 訊ねれば、首を振られてしまう。
(動物に変身する方法は……物語くらいしか)
「その物語が手がかりになるとは思えない……か。最近なにか変わったことは?」
 訊ねたところでフローレンスが覚えているのかあやしいが、一応確認はしておく。
 フローレンスは少し考え込むような仕草をして(少しタルトと似ている気がした)それから首を傾げる。
 つまりわからないということだろう。
 書斎を調べようにも僕にはタイトルすら読めない本が殆どだ。フローレンスの助手に徹するしかなさそうだ。
 助手?
 そう考えたときに最強の助っ人が思い浮かぶ。
「ラスールくんに連絡をしてみたらどうだ? 彼はこういったことにも詳しいのでは?」
 前にマーク・レルムストーカー野郎が襲撃してきた時は僕を助けてくれたくらいだ。きっとこういった分野にはとても詳しいだろう。
 しかしフローレンスは首を振る。
(それが……ラスールはお兄様の結婚式だとかでしばらく帰国すると……昨日出発したばかりです)
 なっ……。
 彼は祖国に帰ったら危険なのでは?
 いや、彼のことだから何事もなく戻ってくる。普通ではないのだから。問題ない。
 それよりもしばらくとはどのくらいしばらくなんだ?
 下手をすればその期間ずっとフローレンスは猫のままだ。
 いくら可憐な猫ちゃんとはいえフローレンスだ。ひとりで留守番させ続けるわけにもいかない。それにタルトと一緒にしておくと余計なことを吹き込むかもしれない。それは避けたい。
「仕方がない。手当たり次第資料を当たろう。と言っても僕はタイトルすら読めないから君が気になる本を取ってページを捲るくらいしか手伝えないのだが……」
 日記の時にもう少し真剣に言語の勉強をするべきだったと反省しても遅い。
(すみません。助かります。では、まずはこちらの棚の……えっと……上から二番目の棚の赤い背表紙の本を……)
 猫の身長では棚もよく見えないのだろうか。
 ひょいと抱き上げ、棚の前で「この本か?」と確認する。
 が、猫が硬直している。
 あ、また蕩けきった猫になっている。
 これは……先に一声掛けるべきだったな。


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