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フローレンスの兄

フローレンスの兄 3

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 ダニエルに客室を明け渡し、居間の長椅子で眠った。
 ダニエルは最後まで遠慮したし、なんなら自分はフローレンスの書斎に寝袋で寝泊まりしてもいいとまで口にしていたが、あの書斎こそどんな危険物があるかわからない空間だ。土下座する勢いで客室を使って貰った。
 長椅子だって悪くない。フローレンスと同居する前は研究室の床で寝ていたことだってあるんだ。なによりフローレンスの趣味である骨董品の長椅子は年代物だがとても品物がいい。座るだけでなく寝転ぶにも十分過ぎるほどに快適だ。
 それに、早起きのフローレンスより先に目覚めることが出来た。完璧な朝だ。
 フローレンスより先に朝食の支度が出来る。なんて素晴らしいのだろう。
 そう思ったが、理想と現実の差を痛感する。
 フローレンスほどは酷くない。
 とは言え、僕も決して料理が出来る方ではないという現実を忘れ去っていた。
「……すまない。卵くらいは焼けると思っていたのだが……」
 黒焦げの炭化物。どう見たって健康によくない。
 パンケーキは半生だし、食べられそうなのは手で千切った野菜くらいのものだ。
「大丈夫。おいしいです」
 少し眠そうなダニエルがニコニコと笑ってみせる。
「いえ、無理しないで下さい。あの、コーンフレークがあります」
 フローレンスも毎日朝食に失敗しているからコーンフレークとヨーグルトだけは決して切らさないようにしている。
「え? 大丈夫。おいしいです。フロー、一緒、住む頃、毎日食べるしました」
「……その……兄たちは私の料理をいつも美味しいと言ってくれていたので……私、料理得意だと思っていました」
 フローレンスが申し訳なさそうに言う。
「……いや、うん。その、君は……うん。下手ではないよ」
 十日に一度くらいは奇跡のように美味しい物を作ってくれる。たぶん基礎は問題ないはずだ。もしくは彼女の祖国とこちらでは味付けが違うから僕の好みと合わないだけ……だと思いたい。
「あ、夕食、僕、作るします。フロー、祖国料理懐かしむします」
 ダニエルは全く悪気がなさそうだが、隣でフローレンスが傷ついた顔をしている。
 もしかして、ダニエルは料理上手なのだろうか。
「それは楽しみです。あ。フローレンス、お茶を貰ってもいいかな? 君の淹れてくれるお茶、いつも美味しいよ」
 落ち込んでいるフローレンスが今日はちゃんとお茶を淹れられることを祈る。
 時々とんでもなく苦いお茶を出されるときがあるからこればかりは運だ。
「……ブラン様はいつも優しいです……」
 フローレンスのしょんぼりした表情を見ると胸が痛む。
 だが、僕も命は惜しい。
「やっぱりちゃんとお料理教室に通った方がいいですね」
 フローレンスの言葉に思わず背筋が伸びる。
 どうもフローレンスはあの料理教室が気に入っているらしい。僕も日程が合えば一緒に行く約束をしてしまっているし……折角フローレンスがやる気なのに反対することは出来ない。
「ダニエルと一緒に料理をしたりはしないのか?」
「実家では時々一緒にお菓子を作ったりしていました」
 フローレンスの表情が明るくなる。
「僕も食べてみたいな」
 頼む。僕の帰宅までにこの発言のことは忘れていてくれ。
 そう祈りながら精一杯フローレンスの機嫌取りをしようとした。
「はい、では明日のおやつに焼き菓子でも」
 ね? とダニエルに目配せするフローレンスを見ると、やっぱり自然な動きで家族とはとても親しいのだろうと感じさせられる。
 胸の奥がちりちりと痛む。
 ダニエルは既にこの家族の輪の中に僕を歓迎してくれるつもりらしい。それはとてもありがたい。
 僕だって、そんな関係に憧れもある。
 けれども。
 僕はまだ自分の中の後ろめたい気持ちを受け入れられていないのだと気づいてしまう。
 慌てて朝食を飲み込み、身支度を調える。
 近頃はタルトが玄関まで見送りに来てくれることが増えていたし、それによってフローレンスからの見送りが妨害されることの方が多かったから、どうせ今日もそうだと思っていた。
 けれども、靴を履き終えたところでフローレンスに腕を引かれる。
 ちゅっと、頬に柔らかい感触。
「いってらっしゃいませ。早く帰ってきてくださいね」
 少しだけ恥ずかしそうな様子を見せるフローレンスに鼓動が速まる。
「あ、ああ……いって、きます……」
 見送りのキスを貰うのは随分久しぶりの様に感じられる。
 浮かれそうだ。
 けれどもそれと同時に、ずっしりと重い空気を感じ取った様な気がしてしまった。

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