私には相応しくない

ROSE

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12 初めての経験

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 屋敷は古いまじないで護られているからと油断していたのは事実だ。
 実際のところ、が逃亡する恐れさえなくなった現在、ディスプリン侯爵家の警備は正門と裏門に八名ずつ交代の兵士がいるだけで、それも主に客人や客人が持ち込む品物の確認をするだけの役割しか持っていなかった。
 そもそも、スチュアートに攻撃を仕掛けようなどと言う者は今まで現れなかった。夜の民にとって夢魔は自分のつがいを奪われない限りは無害だ。それ以外で夢魔が害になるとすれば、既に本人が魅了され逆らうことができない状態なのだから、スチュアートが攻撃されることはまずない。
 今まで、そしてこれからも。
 それは生涯変わることのないはずだった。
 スチュアートは目の前で起きた出来事を信じられずにいる。
 一体なにが起きたのだろう。
 突然、背後から衝撃があった。
 生まれてから初めて、転倒した。
 そして、背後から悲鳴が上がる。熱い、熱いと苦しむ声。そして、慌てたように目の前を通り過ぎる影が。
「ベラ! しっかりしろ!」
 男が、それも夜の民ではない男が、慌ててベラの名を呼びながら駆けつけた。
 それを視線で追えば、ベラの顔が必死に顔を手で覆っている。
「ベラ……一体なにが……」
 スチュアートを突き飛ばしたのはベラだった。
 それなのに、スチュアートを突き飛ばしたはずのベラが地面に転がりもがき苦しんでいる。
「どうして……ベラ……操られているのか?」
 男は取り乱しながらも何やら小瓶を取りだし、ベラの顔に中身を掛ける。しかしその液体ではベラの苦痛を取り除くことが出来ない様子だ。
「熱い……兄さん、私……ああっ、スチュアート様! スチュアート様……」
 ベラは取り乱しながら、救いを求めるようにスチュアートを呼ぶ。
「ベラ、君を……君があいつを庇うなんて思わなかったんだ」
 男は必死に弁明しようとしている。
 あいつはスチュアートを狙った。そして、狙いがはずれてベラを攻撃したのだ。
「ベラ! 怪我は? 酷いのか?」
 男を投げ飛ばし、ベラに駆け寄る。スチュアート自身、自分がこんな力を持っているなど思いもしなかった程の怪力で男は庭の随分先まで飛んだ。
「スチュアート様……私……顔が……」
 顔が熱いと泣きじゃくる子供の様な声で彼女が言う。
「見せろ」
 すぐに医者を、いや、これは魔術師だろうか。
 見せろとは言ったものの、彼女の顔を見るのが怖い。
 ゆっくりと、ベラの顔を覆う手を剥がしていく。
「いやっ」
 見ないでという彼女の言葉を無視し、手を除ければ、右目の上が焼け爛れている。
「これは……」
 バラデュールの術だ。アビゲイルの胸元に刻まれたあの印と同じ術だ。どんな魔術でも決して消すことができず、その痕は骨にまで達する。
「そんな……」
 アビゲイルが息を呑む。
「奥様、大丈夫です。スチュアート様は必ず、奥様の為に最高の医者を探して下さいますから」
 必死に声を掛けるくせに、アビゲイルは泣いている。彼女にはわかるのだろう。ベラの傷がどういうものか。
「……エメラルド、医者を。すぐに。お前より腕のいい魔術師をすぐに呼べ。俺の妻に傷など残すな」
 こんなことで。
 ようやく手に入ったと思ったベラを、こんなことで失うのか?
 真っ先に頭を占めたのはそれだった。
 もう、無駄だとわかっている。アビゲイルと同じく、ベラのあの傷は永遠に消すことができない。
 ベラが怯えている。
 愛した女が、不安そうにスチュアートを求めている。
 こんな時でさえ、ベラからはスチュアートを誘う甘い香りが漂う。
 なんて愚かな女なのだろう。命まで奪われるかもしれないというのに。
 憐れにさえ思う。
 仮面を外し、背を向ける。
「ベラ、お前はもう、私には相応しくない」
 美しさを損ねた妻など、スチュアートには必要ない。
 それはとても冷たく響いただろう。
 せめて、あの男に報復だけはしておこう。男が飛んだ先に視線を向ける。
「ちょっと、あんた……なに言ってるの?」
 カーバンクルが信じられないと、まるで軽蔑するような視線を向けてきた。これもまた、スチュアートにとっては馴染みのない経験だ。
「顔に傷の残る醜い女は私の妻には相応しくない」
 ようやく理想の女に出会えたと思ったのにそれを壊されてしまった。
 悔しい。
 ようやく愛せる女が現れたと思ったのに。
 甘い香りが急速に酸味を増していく。ベラが怯えているのがよくわかる。
 それでいい。ベラはもっと怯えるべきだ。それが夜の民に対する正しい反応なのだから。
 ベラはここに居るべきではない。
 そう、告げようとした。
 その瞬間、頬に熱が走る。
「馬鹿!」
 頬を叩かれたのだと気付くまで、随分と時間が掛かった。
 こんな経験は初めてだ。
「あんたを護ってあんたの代わりに怪我したのよ? それを醜いだなんて、そう考えるあんたが一番醜いに決まってるだろ」
 燃えるような目で睨まれる。
「醜い?」
 この私が? この素顔を目にして醜いと?
 生まれて初めて向けられた言葉に、スチュアートは叩かれた怒りよりも困惑する。
「あの子は、あんたの魔力に惑わされなくてもあんたを護ろうとした。そんなの、あんたが大切だったからに決まってるじゃない」
 叩いたくせに、カーバンクルの方が泣きそうな顔をしているのはなぜだろう。
「美しくなければ生きている意味などない」
「だったら今ここで死ねば? どんなに外見を整えたってあんたのその心の醜さは隠しきれない」
 それだけ言い残し、カーバンクルは影に話しかけている。
 彼は使役だ。主である王の他の使役とでも連絡を取っているのだろう。
外国そとくにに法外な金額でどんな依頼も受ける魔術師はいるけど、彼は今依頼を受けていないようでね。それに、とても気まぐれだから、依頼を受けてくれるかどうかもわからない。国に呼ぶのは難しいだろうね」
 医者に連絡を入れたらしいエメラルドが静かに言う。
「メディシンには彼女の状態を伝えてはあるけど、応急処置程度しかできないだろうと」
 アビゲイルの時も彼が診ている。同じ状態だ。きっと治療は困難だろう。
「あの男を捕らえて、治療法を吐かせるか」
 魔族の術を使っている。しかし、ベラほども魔族の気配を感じさせない妙な男だった。
「私が捕らえておこう。シチュー、彼女の側に居てあげなさい。心細いだろうし、きっと先程の君の言葉にとても傷ついている。今からでも遅くないから、ちゃんと謝罪して彼女を支えるんだ。君は、彼女を手放したら生きられなくなってしまうよ」
 エメラルドは静かに、それでも真剣な様子で言う。
「生きられない? 私が?」
 馬鹿げたことを。
 そう返そうとして、その意味に気づく。
「君は根が優しいから、傷つけて死なせてしまったとなると後悔するだろう? それに、こんなにも執着した相手をそう簡単に手放せるのかい?」
 本能が求めた相手を失えば、大抵、正気を保てなくなる。エメラルドが言うのはそう言うことだろう。
「狙われたのは私だ。私と居れば、ベラは命まで失ってしまうかもしれない。この国は、彼女にとって安全ではない」
 ベラはとても弱い存在だ。自分の魔力も使いこなせずに、あの妙なうさぎさえ、彼女の思うようには動かない。身を守る術など持っていない。それなのに、スチュアートを庇い、負傷した。
 なんて愚かな女なのだろう。
「彼女の心の変化は、君が一番感じ取れているだろう?」
「ベラが怯えて失望したことをか?」
 次に会えば、うさぎが武装して待ち構えていそうだ。
 叩かれた頬が痛む。
「生まれてこの方、戦う必要がなかった。稽古程度の剣術と武術しか知らぬのだが……生まれて初めて、あの男をただ痛めつけたいと考えている」
 生まれて初めての感情に戸惑う。
 ベラは、知らなかった感情をいくつも与えた。それが良いものだけでないとしても。
「シチューは我が国の民としては珍しく、穏やかだからねぇ。態度は大きいけれど、基本的には争い事が嫌いだし、面倒事は金で解決するものだと思っているし、女性の扱い方も知らないし……ああ、なんて可哀想なんだろう。シチューに捨てられたら私の妻に迎えよう。もっと絶望して、もっと可哀想になればいいのに」
 王族とも繋がりが深いくせに婚期を逃しまくっているエメラルドは間違いなく、性癖の方に問題がある男だ。しかし、仕事はできる。地位と金はあるのに残念な男だ。
「庭ごと地下に落とす。拷問を手伝え」
「いいけど、途中で気を失わないでよ? シチュー、血生臭いの苦手でしょう」
 指を鳴らせば地下に移る。ベラを傷つけた男は気を失っているようだ。
「貴様、私のベラを傷つけておいて呑気に寝るな」
 背を踏めば、男は呻く。
「シチュー、いきなりそんな風にしてはいけないよ。手順というものがあるんだ。力任せにしてしまっては殺してしまうかもしれない。ここは私に任せて、君は彼女の側に居てあげなさい」
 エメラルドは穏やかに言うが、手には既に大きな鋭い針のような拷問に使う道具であろう物が握られている。
「今行けば、またベラを傷つける」
「君は彼女に思い切り罵られるべきだし、嫌われたって文句を言えない失言をしてしまったのだから自分の顔に同じ傷を作るくらいの誠意を見せるべきだとは思うけど」
 エメラルドは笑顔を浮かべたまま、横たわる男の髪を掴む。
「さて、君は私と楽しもうか。直接するのは何年ぶりかな。久々過ぎて少し加減を間違えてしまうかも知れないけど、君、魔術師だから多少は耐えられるでしょう?」
 穏やかに見えて、エメラルドの中身はとんでもない。相手が苦しめば苦しむほど興奮してしまう彼のことだ、最期まで楽しむに違いない。
「目的を忘れるな。そいつが知らぬのなら、誰があの術を使ったのか吐かせてから楽しめ」
 少し気がかりなのは、ベラがあの男を兄と呼んだことだ。
 本当に、ベラの兄だとすれば、殺してしまえばベラを悲しませることになる。
 これ以上、ベラを傷つけたくはない。
 指を鳴らし、庭に戻る。しかし、既にそこには誰もいない。
 メディシンはもう到着したのだろうか。
 ベラの匂いを辿れば、行き先は寝室のようだった。


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