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シリアル Ⅱ
シリアル 6
しおりを挟む鷲尾准教授の家ではかなり濃い時間を過ごさせてもらったと思う。
お腹いっぱいケーキを食べて、わっしーの演奏を聴いた。腹が立つほど上手い上に、彼は心の底から楽しんでいる。全力で嫉妬したくなるのに、同じ舞台にすら立てていないともどかしく感じられた。
廉は効果音サンプリングをいくつか実演して見せてくれたし、楽曲に使う際の馴染ませ方のようなものも少しだけ教えてくれた。けれども彼の曲を聴いた後だとやや説得力が無い。
後からこっそり鷲尾准教授が教えてくれた話によると、ネット上ではかなり有名な「悲鳴が入る」「ラップ音が混ざっている」などというホラー系の曲ばかり投稿している人らしい。本人は無自覚で。
所謂心霊的なことは遙には理解出来ない。
ただ、本人の意志ではどうしようもならない問題というのは解決が難しいのだと勝手に親近感のようなものを抱いた。
夜、新しい楽器で遊んでいると、一瞬だけ着信音が鳴る。
確認すると知らない番号だった。
それからその番号からメッセージが届く。
三波廉です。
連絡は電話でもメールでもいつでも歓迎、と言いたいところだけど、電話は出られない時が多いかも。
わざわざ電話番号を教えるためだけに連絡をくれたのかと驚いてしまう。
ありがとうございます。
今日はとても勉強になりました。
そう短く返事をする。
これになにを続けていいのかわからない。
ただ、音楽で生きている人間を見て、学ぶべきことは多いと思った。
それに。
驚くことが多かったけれど、楽しかったと思う。
鷲尾准教授は間違いなく変人だが悪い人ではないし、廉も変わっているけれどいい人だったと思う。
なにより、凜以外の他人とこんなに話をしたのはいつぶりだろう。
そう考えると自然に音が溢れてくる。
その晩、遙は三曲作り上げた。
新しい楽器を使って。
朝のルーチンを一通り終え、和音を確認する。
相変わらずわっしーから大量のメッセージが届く他はタローさんが常連になったくらいしか変化はない。
先日仕上げた曲をいつもの楽器を使い、シリアルの癖を意識して録り直してみたが、投稿するべきが悩み、結局画面を閉じた。
鷲尾准教授に相談するべきだろうか。
少し悩んで、いちいち相談しては彼にも迷惑だろうと思い直す。
凜はそろそろ補講から解放されただろうか。
カレンダーアプリを確認する。
そう言えば夏休み期間に強制参加と言われたイベントはどうなるのだろう。
当日にいきなりあれこれさせられないか不安になった。
とりあえず作曲理論の本でも読んで勉強しておこう。
机の上に積みっぱなしになっていた本を手に取り、開いた瞬間通知音が鳴る。
こんにちは。鷲尾です。
イベントのブースが確定しましたのでお知らせします。
どうやら一斉送信らしい。
既に隣は卒業生だとか言っていた気がするのに確定したという表現を使うと言うことは、本当に金とコネでなんとかしたのかもしれない。
そして、日程を確認すると来週だ。
期日までに楽曲を提出しなかった学生は後期の単位取得に影響が出ますのでみなさん頑張って下さい。
鷲尾准教授の胡散臭い笑みと声で再生されてしまう。
期日は三日後の午後七時だ。
つまり他の人にはとっくに日程を知らせた後なのではないだろうか。
遙は慌てて先日作った三曲を確認する。
曲のテーマが発表されていなかったということは自由なのだろう。
けれどもどんな曲を提出すればいいのかわからない。
単位を落とすのだけは嫌だ。
三曲とも添付して鷲尾准教授宛に送信する。
今から課題用に新しい曲を作っていいものができるとは思えない。
むしろ、考えすぎてなにも作れない可能性の方が高い。
これで弦楽器は禁止だとか言われたらどうしようか。今から打ち込みだけでなんとなく曲を作って満足のいく出来になる保証はない。
最早サンプルを適当に並べてそれらしい物を作って誤魔化すしかないだろうか。
そんなことを考えていると鷲尾准教授からの返信があった。
こんにちは。
データを確認しました。
パラデータとプロジェクトファイルを持ってゼミ室まで来てください。
たったこれだけの短い文なのに逆らったらどうなるかわからないという圧力を感じてしまう。
なにより彼は遙の予定も確認せずに来いと命じている。
そもそもプロジェクトファイルを持っていって開けるのだろうか。
そう思ったが、確かゼミ室には彼が自費で様々なソフトウェアを導入したパソコンがあるのではなかっただろうか。
パラデータは万が一の時の為なのか、それも評価に関わる部分なのか。
遙は慌ててパソコン内を確認し、USBメモリにデータをコピーする。
もしやとんでもない駄目出しが飛んでくるのではないだろうか。
そう考えると途端に緊張してしまう。
気合いを入れ直してゼミ室へと向かった。
ゼミ室は音楽科棟にある鷲尾准教授の研究室からそう遠くない一室で、一応防音の為の工夫はされているが、練習室ほどしっかりとした防音室ではない。
「こんにちは。早かったですね」
「えっと……家はすぐなので……」
「滝川さんが一番乗りです」
「え? 他の人も来るんですか?」
てっきり遙だけ呼び出されたのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
「当麻くんが来ます。彼は、三年ですが……楽譜の読み書きが苦手で……ええ、未だに楽譜に苦戦しています」
三年でそんな人がいるのかと驚いてしまったが、楽譜が読めなくても曲が作れてしまう時代だ。もしかすると作品はものすごい人なのかもしれない。
遙はわずかに期待すると同時に、初対面の人が現れると知って緊張してしまう。
背筋を伸ばし、それから思い出してUSBメモリを鷲尾准教授に差し出した。
「ああ、データも用意してくれたのですね。さすが。早い。パラデータと言っても理解しない学生も数名いるので、滝川さんは優秀です」
それは本当に作曲ゼミの学生なのだろうかと遙は目を丸くした。
パラデータは楽器のパートごと、トラック別に書き出したデータで、他の人にミックスダウンを依頼する時などはこの形で用意する必要がある。が、遙は全ての作業を自分ひとりで行うため、滅多に用意することがない形式だ。
「今回データを持ってきて貰ったのは、滝川さんがマスタリングまで済ませてしまっていたからです。今回は全員のデータを集めて私がマスタリングします」
鷲尾准教授はパソコンでデータを確認しながら言う。
「は、はぁ……」
だったらデータだけ送信すれば済む話だったのではないだろうか。
そんな遙の考えを読んだのか、鷲尾准教授は笑う。
「ついでなので、滝川さんにエレキチェロの効果的な加工方法を教えようかと」
「え? いいんですか?」
それは是非とも知りたいと、遙は身を乗り出す。
買ったはいいがまだ使いこなせているとは言い難い。
それでも生のチェロとはまた違った面白さがある。なにより、容赦なくエフェクトを乗せやすい心理的な部分が大きい。
一瞬、鷲尾准教授が呆れを見せた。
「シリアルの件がバレたくないのであれば、シリアルのアカウントでエレキチェロを使わないように気をつけてください」
「はい。だから、この曲をチェロで弾き直して投稿するか悩んでて……」
提出した中の一曲のデータを指さす。
「なるほど。あなたには選択肢が二つあります。シリアルの正体を明かすことと、シリアルには専属作曲家が居るという設定を作ることです」
「設定?」
どういうことだろう。
「滝川遙に専属演奏家としてシリアルが居るという考えでも問題ありません。つまり、二人を別人として扱います」
そう説明し、彼は思い出したような表情をする。
「ああ、まだ本名で活動するのかシリアル名義で活動するのか決めていませんでしたね。今回のアルバムはどうしますか?」
一度に考えるべきことが増えすぎて、遙は反応に迷う。
シリアルの正体はバレたくない。
シリアルを通して滝川遙を探られるのは落ち着かないと思う。
なにより、鷲尾鷹史に知られたくない。
和音でも現実世界でも彼に付き纏われるのは勘弁して欲しい。
「学内の発表は……本名の方が……いや、他の名前を用意するべきでしょうか?」
「ここで知名度を上げて将来も同じ名前で活動することになるかもしれません。慎重に決めた方がいいでしょう。ふざけた名前で活動して有名になってしまって後悔する人も少なくありません」
だったらなおさらシリアルは論外だ。なんでもいいと思って朝食を選んでしまった。
「いいですよ。一晩考えて。明日の昼までにメールで教えてください」
「は、はい。考えておきます」
「本名が無難ですが、本名を出したくない場合、本名の一部を使う人もいます。例えば……廉くんですね。彼は名前のみのRENで活動しています。和音では、タローです。あのアカウントはゆかりさんと共有アカウントなので毎日チェックしておきましょう」
さらりととんでもないことを暴露してくれた。
「え? タローさんってあの犬のアイコンのタローさん?」
「ええ。廉くんとゆかりさんの共有アカウントで、アイコンは廉くんの飼い犬のタローくんです」
実物は写真で見るより大きいですよと言われ、驚く。
「姉弟でアカウント共有しているんですか?」
「二人とも元々は聴くためにアクセスしていたのでそれぞれのアカウントは必要ないと判断していたようですね。最近は二人で作品を仕上げて投稿しているようですが……この曲はピアノ部分がゆかりさんです」
和音の画面を見せながら説明する鷲尾准教授は見た目だけは爽やかな美形なのに、話している内容が半分以上ストーカーなのではないかと思ってしまうほど、知らなくていい情報を知りすぎている。
「鷲尾先生は、音楽活動の時に別名を使ったりしているんですか?」
「いえ、私は本名をそのまま使っています。名前に鷲が二羽も居るので覚えやすいでしょう?」
なるほど。特徴のある名前ならそれを利用するという手もあるのかと遙は考える。
シンプルな方がいい。けれどもシンプルすぎると同じ名前の人がたくさんいるかもしれない。
どうするべきだろう。
考え込んでいると、勢いよく扉が開く。
「遅くなりました! ソーヤ到着ですっ!」
元気よく入ってきたのは少年、に見えてしまう。
けれども遅くなったと言って入ってきたのだから、来る予定だった当麻という先輩なのだろう。
遙より背が低いが。
「いえ、夏休み期間中ですからね。提出する物だけ提出してくれれば構いませんよ」
鷲尾准教授が笑顔で迎える。
いや、さっさとデータを出せという手だ。
「あ、学内用の共有フォルダにあります」
「では用意してください。ああ、紹介します。こちらは後期から私のゼミに所属します、滝川遙さんです」
急に名前を呼ばれ、遙は背を正した。
「た、滝川ですっ……よ、よろしく……おねがい、します」
視線を向けられるのが怖い。
見た目年下の推定先輩だとしても。
「そんなに緊張しないで。俺は当麻創也。三年だよ。エレクトロな感じの曲ばっかり作ってるんだけど、滝川くんはどんな曲を?」
「え? あ、その……特に専門は……」
さらりと男子と間違えられた気がするが、否定することも出来ずに目を逸らす。
鷲尾准教授の方に助けを求めるが、彼はただ眺めているだけだった。
「一年生だっけ? まだまだ大丈夫。わっしー先生いろいろ教えてくれるから」
「わっしー先生はやめなさい」
一瞬だけ、鷲尾准教授が不快そうにする。
弟と同じあだ名が嫌なのだろうか。
「えー、だってわしおって言いにくいじゃん」
「当麻くん、君だけ特別に楽譜も提出してもらいます」
「そんな! 俺が楽譜書くの苦手なの知ってるくせに」
「これも勉強です」
ぴしゃりと言い放つ鷲尾准教授に驚く。
意外と厳しい先生なのだろうか。
「折角です。滝川さんもパソコンを起動して、ちょっとした講義を開きましょう。直接単位にはなりませんが、後期の実技で役に立つはずです」
突然講義が始まると言われても、ノートもなにも持って来ていない。
けれども、作曲分野については殆ど独学の遙にとって有り難い提案だった。
「あの、購買でノートとペン買ってきていいですか?」
「ノート? ああ、筆記用具はあの棚にあります。わざわざ買いに行かなくていいですよ」
そう言って、五線ノートとシャープペンシルを渡される。
準備がいい。
どうやら鷲尾ゼミは相当恵まれた環境らしい。
「講義終わったらおいしいお菓子貰えるよ」
当麻がこっそりと表現するにはやや大きすぎる声で言う。
「君は毎回当てにしすぎです」
ノートで軽く小突きながら、鷲尾准教授は溜息を吐いた。
「ではまず、滝川さんのプロジェクトファイルを開いてください。当麻くんは提出用のデータを人に見せられるレベルに整えなさい」
どういう意味なのだろう。
好奇心が刺激されてしまう。
けれども遙が当麻のデータを見る前に、鷲尾准教授は遙の為だけの講義を始めてしまった。
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