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滝川遙 Ⅱ
滝川遙 7
しおりを挟む毛替えの料金と一緒に弦や小物、そしてショーウインドーのエレキチェロの代金を支払えば、鷲尾鷹史が目を丸くしていた。
店員も試奏もせずに購入するのかと何度か確認してくれたけれども仕方がない。人前で試奏なんてしても音がわからないに決まっている。
それに、ライン録りできるのであればかなり遊べると思った。エフェクターで加工するのが楽しみだ。そう考え、これは浮気ではないといつもの楽器に心の中で言い訳をする。
「遙さん、買い物が豪快だね。兄さんみたい」
「え?」
比較対象にされた鷲尾准教授の顔を浮かべ、同列に語られるのは嫌だなと思ってしまう。
「兄さんは、とりあえずで全種類買ったりするタイプだから」
「へぇ……」
自称天が万物を与えた男だからもうなにをしていても驚かない。
けれども遙から見ても金銭感覚がおかしいことは確かだ。
店員がケースに入れてくれたエレキチェロを受け取ってこの後はどうしようかなどと考えていると、自動ドアから凜が現れる。
「あれ? わっしーと一緒だったの?」
凜は驚いた顔を見せ、それから遙の手にあるものを見て頭を抱える。
画材は車に積んできたらしく身軽だ。
「遙……さっき私が服を買うときはあれこれ言っていたくせに、楽器買ったの? 馬鹿なの?」
「えっと……積めるよね?」
「いや、積むけど……」
凜はプライスカードがないかとあちこちをきょろきょろしている。
「絶対私の今日の買い物より高い」
「……まあ、ピアノと同じくらい?」
貯金が半分ほど消えた。これからまた切り詰めた生活をしなくてはいけない。
「……はいはい。負けた。遙は音楽以外の全てを切り詰められるけれど音楽になると節約を忘れるんでしょう?」
「弦はランク落としたし」
今日はスチール弦しか買っていませんと言ってもどうせレシートを見せればドン引きされるのだろう。
そんな遙と凜を、鷹史は面白そうに眺めている。
「遙さん、凜ちゃんと仲いいんだ」
「小さいときから一緒だから」
短く答えると、凜がじっと鷹史を見る。
「ってかわっしー馴れ馴れしくない? 私とあなたってそんな凜ちゃんなんて呼ばれる関係だった?」
凜がそんなことを言うなんて珍しいなと思いながら二人を見守る。
「え? だっていつも鞄に『目立つの大好き凜ちゃん』ってキーホルダー付けてるから凜ちゃんって呼ばれたいのかなって」
鷹史は意外と他人をよく見ている。
それと同時に凜が彼をわっしーと呼んでいる事実に正体を知っていたのかと問い詰めたくなってしまう。
「別にいいけど、あなたに凜ちゃんって呼ばれるの違う気がする」
「えー、じゃあ、凜さん?」
「それでいいよ」
頷く凜のシャツを軽く引っ張る。
「なに?」
「……知り合いだったの?」
「でかくて目立つでしょ。彼。それと誰にでもぐいぐい近い距離で話しかけるからそこそこ有名なの。悪い意味で……」
最後は本当にギリギリ聞き取れる程度の声量で言う。凜なりの気遣いだろう。そんな気遣いが出来るのかと驚くと同時に居心地が悪くなってしまう。
「さて、荷物も多いしさっさと車に積もう」
凜がそう言い出してくれたときには本当に救われた気分だった。
鷹史に別れを告げ、店を出るつもりだったその時に、見知った人に声を掛けられるまでは。
「あら? 滝川さん?」
柔らかな声の主は三波先生だった。
「こ、こんにちは」
今日はよく知り合いに会う。
確かに三波先生がここでレッスンをしているのを知っていたが、時間まで合ってしまうとは思わなかった。
それに、三波先生のレッスンが終わる時間帯ということは、つまり彼女のつきまといが準備していると言うことだろう。
「お買い物?」
「は、はいっ、今帰るところでした」
普段レッスン室で会う三波先生なのに、場所が違うだけで緊張してしまう。
「あ、鷹史くんも一緒だったのね。二人は仲いいの?」
「たまたま会っただけです」
別に彼は友達でもなんでもないと否定する。
実際、出来れば関わりたくはない相手なのだから。
「まだ僕の片想いみたい。ゆかちゃん先生は今帰り?」
「うん。レッスンも終わったし、今日は廉ちゃんが来るから太郎ちゃんのご飯買って帰ろうかなって」
廉ちゃんと太郎ちゃんとは何者なのだろう。甥っ子かなにかだろうか。
遙は三波先生のことをあまりよく知らない。ただ、演奏家としてもそこそこの実力者だとは思う。たぶん彼女は自分の演奏よりも指導の方が上手なタイプだと勝手に感じていた。
「え? 太郎くんも来るの? いいなー」
「またおっきくなってね。ほら、ころころー」
三波先生はスマホを取りだし、鷹史に写真を見せる。
「うわぁ、かわいい」
赤ん坊なのだろうか。
遙も見たいと、無意味に背伸びしてしまうと、それに気づいた三波先生が笑って画面を見せてくれた。
「もふもふ……」
かわいい柴犬だろうか。むちむちした犬の写真だった。
そして、この犬に見覚えがある気がする。
まさかと思う。
柴犬の太郎。
タローさんは三波先生なのだろうか。
けれども最初にタローさんから貰ったメッセージは三波先生とは違う雰囲気に感じられた。
訊ねるべきか迷って、今訊ねれば、鷹史にもシリアルの正体がバレると思い口を閉ざす。
そこに良くも悪くも(たいていの場合は悪いが)空気を読まない男が現れ、なぜか遙はほっとした。
「ゆかりさん! こんなところで会えるなんて偶然ですね」
鷲尾准教授だ。両手に大量の洋菓子点の袋を持っている。中身は全てケーキなのだろう。そんなにどうするつもりだろうか。
明らかに偶然ではないであろう男の登場に、三波先生の笑みが引きつっている。
「こ、こんにちは、鷲尾先生。大荷物ですね」
「学外では鷲一と呼んでください。実は学生達からおいしいケーキ屋を聞いて……つい、買いすぎてしまいました。よければ一緒にお茶でもどうですか? この量は一人では消費できません」
たぶん各店舗で十個以上は購入しただろうという箱の大きさに呆れてしまう。
三波先生が断ったらどうするつもりなのだろう。
遙はそっと凜の方に動き、その場から脱出しようとした。
しかし、凜の隣に辿り着く前に阻止されてしまった。
「滝川さん達も一緒に。甘い物、お好きでしょう?」
笑顔でお茶のお誘い。それなのに圧力を感じて断ることが出来ない。
「えっと……」
「タダで食べ放題なら悪くないお誘いじゃん。でもね、私たち大荷物なの」
凜が助け船を出してくれる。
確かに今の遙は大荷物だ。新しい楽器まで購入したのだから。
「では一度荷物を滝川さんの家に置いてから私の車で私の家に来ませんか?」
そこまでして遙を逃がしたくない理由があるのだろうか。
そう考えたのを読まれたのか、鷲尾准教授の顔が近づいてくる。
「同性の滝川さんが居た方がゆかりさんも安心できるでしょう?」
耳元で囁かれ飛び上がりそうになった。
一応三波先生に警戒されている自覚があったのだろうか。
「あ、折角なので新しく購入した楽器も持ってきて下さい」
「え?」
「試奏、まだでしょう? スタジオをお貸ししますよ?」
「いえ、結構です」
遙自身驚くほど、きっぱりと断れた。
そう、鷲尾准教授のことは苦手ではあるはずなのに、どうしてかそこまで緊張しない。美形過ぎて非実在人物とでも脳が誤認してしまっているのだろうか。
「鷹史の目の前で楽器を購入したのでしょう? シリアルさんはその楽器を使用しない方がいいですよ?」
耳元で忠告を受ける。
「課題にぴったりの楽器なので、相性のいいプラグインを探すのをお手伝いしますね」
断るなと笑顔で圧力をかけられる。
つまり、逃げたら鷹史にシリアルの正体をバラすとでも言うのだろう。
脅しに使われると言うことは、今のところ鷹史は遙がシリアルだとは気がついていないらしい。
その割に、随分と付き纏ってくるが。
「いーな、僕も遙さんのおうち行きたい」
「ダメに決まってるでしょ」
遙が断るよりも先に凜が止める。
「鷹史、あんまりしつこいと嫌われるぞ」
「兄さんにだけは言われたくないなー。ね? ゆかちゃん先生?」
同意を求められた三波先生は困り果てた顔をしている。
「えーっと、私……今日は用事が……」
「廉くんも呼びましょう。ケーキはたくさんあります」
逃げようとしたのに、三波先生も逃げ道を塞がれた。
これはもう諦めるしかなさそうだ。
「……鷲尾先生っていつもこうなんですか?」
「え、ええ……だいたいこんな感じだけど……この性格以外は凄い人だから……」
さらりと悪口を言った気がするが、この性格も凄い方に含まれると思う。
ある意味、遙が見習うべきなのはこの性格の方なのではないかと考えてしまうほどには。
あきれ果てる凜も、鷲尾准教授には押し負けたらしい。
「……食材買いに行くのは今度にしようか」
「……うん」
冷凍庫の中に冷凍パスタはあと何個あっただろう。
そんなことを考えながら、鷲尾准教授に監視されるまま、凜の車へと向かった。
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