Liar Liar Endless Repeat Liar

ROSE

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滝川遙 Ⅱ

滝川遙 5

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 鳥の囀りが騒がしい。
 今日も耳は健康だ。
 遙は欠伸をしながら伸びる。そして時計を確認すればいつもよりも早い朝だった。
 枕元の聖書に手を伸ばし、出エジプト記を読み進める。
 毎日こつこつ積み重ねるのが心の平穏によい。
 起き上がり、頭上と足下に注意しながらロフトベッドの階段を下りる。
 ハンガーに掛かった服を手に取り、ベッド下で素早く着替え、通読表に記録する。
 気分がいい。
 いつものコーンフレークに、なみなみ注ぐ牛乳。
 完璧な朝のルーチンだ。

 スマホさえ鳴らなければ。

 朝のルーチンを妨害され、少しだけ不機嫌になる。
 コーンフレークを食べながら、行儀が悪いと注意する人も居ないのでメッセージを確認する。

 おはようございます。鷲尾です。
 昨夜保護者の方と連絡を取りました。専攻の変更は快く承諾して頂きましたので心配せず勉学に励んでください。
 夏休み中に作曲専攻の学生に参加してもらう課題があります。
 後日詳細を送ります。

 仕事が速いと驚く。
 てっきり郵送だけでやりとりをするのだと思っていた。
 そして、夏休み中の課題とはなんだろう。
 やはり数曲作らなくてはいけないのだろうか。
 作曲に関しては独学の部分が多い遙としてはきちんと講義を受けてから課題に取り組みたいと思っている。
 けれどもあの教員の指導方法はとにかく作品を作らせてからダメな部分を指摘して矯正していくタイプなのかもしれない。
 そんなことを考えながらお皿に残った牛乳を飲み干しているとインターフォンが鳴る。 
 随分早いお迎えだ。
 大急ぎで牛乳を飲み干し、シンクに皿を置く。
 慌てすぎて踏み外さないように注意しながら階段を下りる。
「随分早いね」
 扉を開けると、そこに立っていたのはピンクの髪、ではなく驚いた顔の鷲尾准教授だった。
「え? 鷲尾先生? どうして……」
 遙だって驚いた。
「あ、書類のことを忘れていたので、署名と印鑑だけもらおうと……本当に近いですね。大学から」
 動揺しているらしい。
「それ、次の登校日でもよかったんじゃ……」
「早い方がいいでしょう? ゆかりさんと過ごす時間を確保するためにも」
 ブレない。
「えっと、印鑑用意するので……上がってください」
「流石に女子学生の家に入るわけには」
「もうすぐ友人も来るので問題ありません。書類だけでしょう?」
 なにもないことを心配されることはあっても散らかっていると文句を言われることはないこの部屋は、凜と業者の人以外は殆ど誰も入れたことがない。
「二階なんです。どうぞ」
 もう一度勧めると諦めたように「おじゃまします」と中へ入った。
 ちらりと見れば、丁寧に靴が並べられている。いかにも高級そうな革靴で、よく手入れされている。
 たぶん鷲尾准教授は根っからのボンボンというやつだ。成金に育てられた遙とは違う。
「あ、お茶、淹れます」
「いえ、お気遣いなく……随分思い切った部屋ですね……」
 階段を上がりながらお茶を断った彼は、二階を見て驚きを隠さない。
「なるほど。これなら時間を気にせずに思う存分練習できると」
 彼が見たのは防音室だ。
「もうひとつ大きい防音室にすればピアノも入ったでしょうに」
「電子ピアノだからいいかなと思って」
「レコーディングも防音室で?」
 訊ねられ、どきりとする。
 そう言えば、鷲尾准教授にはチェロのことを言っていなかった気がする。
「電子ピアノはUSBメモリを挿して録音しています」
「そうじゃなくて、チェロの方。自分で演奏しているのだろう?」
 彼はそのまま真っ直ぐ防音室へ向かう。
 扉は開けっぱなしだ。
「へぇ、機材も揃っていますね。宅録としては理想的な環境……正直、学内よりも設備が整っていますよ」
「そう、ですか」
 書類に印鑑だけではなかったのか。慌てて印鑑を手に取り、鷲尾准教授に近づく。
「楽器を見せて頂いても?」
「え?」
「さすがに勝手にケースを開けたりはしませんよ」
 その言葉に安堵する。
 ピアノ椅子の上に印鑑ケースを置き、防音室に入ってケースを床に寝かせた。
 ハードケースは開け閉めにコツがいる。特に安物は。
 遙の使用しているケースはハードケースの中では安価な部類だ。つまり、開け閉めの度に緊張する。
 家の中でだけ使うのであればソフトケースの方が出し入れが楽だ。
 人に見られながら楽器の出し入れをすることに慣れない遙は余計に緊張したが、楽器を傷つけたくない一心で手の震えを止める。
 蓋を開ければ遙のパートナー、ルーマニア出身の美男が横たわっている。
 楽器に性別があるのかは知らないが、なんとなくこのチェロを彼と呼びたくなってしまう。
「ルーマニア製です。あの……そこまで高価な楽器ではないのですが……」
「いや、大切に扱われてきたいい楽器ですよ」
 そう言われると悪い気はしない。
「五重奏もここで?」
「え?」
 一体何の話だろう。
 楽器をスタンドに立てかけ、鷲尾准教授を見る。
「和音弦楽器部門ピックアップユーザー、シリアルさんは君ですよね? 滝川さん」
 特定された。
 和音をやっていることすら話していないはずなのに。
「なぜ気づいたのか不思議と?」
 訊ねられ、思わず頷きしまったと思う。
 これでは肯定してしまっている。
 そのことに気づいたのであろう鷲尾准教授は面白そうに笑う。
「提出してもらった曲と演奏の癖が一致しますから。多重録音でこれだけの曲を作れるのであれば私のゼミでも上級組に入れますよ」
 褒められた、のだろうか。
「人目がなければこれだけ弾けるということも把握しました。この環境と演奏技術は君の強みです。活かしましょう」
「は、はぁ……」
 怒られはしない。
 晒されることも……たぶんない。
「それにしても……君ほど環境に恵まれている学生も珍しい」
「そう、でしょうか?」
「防音室付きの物件に住める音楽学生がどれだけいると思っていますか? それに、この私から学べるのですよ? 他のなにに自信が持てなくてもこの鷲尾鷲一が師という事実は世界中のどこへ行っても誇れる事実です」
 これは笑うべきなのだろうか。
 いや、たぶんこの人は本気だ。
 遙は居心地が悪くなった。
「さて、書類に印鑑と……ついでなので夏休みの課題もお伝えしますか。君は帰省しないと言っていたので既に頭数に入っています」
「え?」
 一体なにを言われるのだろうか。
 今すぐチェロを抱きしめて安心したいくらいには遙は緊張で硬直していた。
「鷲尾ゼミ恒例、夏のイベント手売り体験です」
「はい?」
 夏のイベント? 手売り?
「私の曲を売るついでに学生の作品だけのコンピアルバムも一緒に並べておきます。毎年売り子に数人捕まえてイベントに参加しているのですが、今年は滝川さんにお願いします」
 イベントに強制参加?
 そんなの聞いてない。
 思わず抗議の声を上げそうになる。
「これはコネ作りのチャンスです。実は、隣のブースが卒業生で、音楽で食べている人間です」
 ブースはコネと課金でもぎ取りましたと言い放つ彼に驚く。
「ちなみに学祭では会場焼き販売をします」
「会場焼き? 手焼きを会場でするってことですか?」
 まさか会場でデータを書き込んで販売?
「ええ、お客さんが視聴して気に入った曲を指定して会場で書き込みます。一番売れた曲を作った学生には特別に賞品を用意しますよ」
 毎年そんなことをしているのだろうか。
「収益は備品の購入に充てます、とは言っていますが毎年それほど売れないので精々茶菓子の購入費用で終わります」
 世知辛い。
「こういった経験を実際にしてみることで普通にアルバイトをした方が稼げると音楽家への道を諦める学生も多いのですが、滝川さんにはそこそこ期待しています」
 そこそこ。期待。
 これはどう反応すればいいのだろうと彼を見れば、嘘を吐いているようには見えない。
 そもそも三波先生とそれ以外でしか認識していない人だ。わざわざ嘘を吐いたりはしないだろう。
「あ、折角自宅に上げてもらったので、今まで作った曲のデータをください」
「え?」
「そのままイベント販売音源に使えそうな曲があるかもしれません」
 全く悪気はないのだろうが、相当非常識なことを口にしていると気づいて欲しい。
「あ、名前の表記は本名? それともシリアルで?」
 ぐいぐい迫ってくる様子に、鷲尾鷹史の顔がよぎる。
 間違いなく兄弟だ。
「こほん、すみません。つい……ただ、君の作る曲は他の学生と系統が違うように思えるので、最低五曲は用意してミニアルバムにするべきかと」
 どうせ作れるのだろうと無言のプレッシャーを感じてしまう。
 どうしよう。この状況。
 自分の家だと言うのに、逃げ場を探そうとしている。
 その時だ。
 唐突に響いたインターフォンの音に遙は飛び上がった。
「ああ、友人が来ると言っていましたね。大丈夫ですか?」
 飛び上がった遙を心配するように手を差し出す彼に誰のせいだと文句の一つも言いたくなる。

「遙? 鍵開けっぱなしはさすがに不用心すぎるよ」
 勝手に中に入ったようで、玄関を開けた音がした。
「あれ? 誰か来てるの?」
 凜が階段を上がってくる。
「おはようございます。確か……かげりんさん、でしたね」
「え? 鷲ちゃん先生? なんで遙の家に……」
 凜は大袈裟に驚いてみせる。
「書類に印鑑を貰いに」
「い、印鑑? え? なに? そーゆー関係なの?」
 凜があたふたと慌てる姿を見て、一体どういう関係だと思われたのだろうと、遙の緊張が僅かに解けた。
「……とても不名誉な誤解をされたような気がします。滝川さん、彼女はいつもああなんですか?」
「あ、凜は一応男性です」
「……失礼しました。ああ……昨日からやらかしすぎですね……これは深刻なゆかりさん不足だろうか……」
 単に三波先生以外に興味がないだけだろう。
 この教員が担当になるということはこれに慣れなくてはいけないということだ。
「遙……また男子と間違えられたの?」
「別にどっちでもいいのだけど、先生が思ったよりも気にしちゃってるみたいで」
 こそこそと凜に告げると、鷲尾先生の耳に届いてしまったらしい。更に申し訳なさそうな様子を見せる。
「滝川さんが私の受け持ちになるための届けが必要なので前期のうちに書類を整えようと。そうしないと夏休み期間の活動が成績に反映されなくなります」
 勿体ないでしょうと彼は言うけれど、そんな規則があったのだろうか。
 ちらりと凜を見ても、やはりわかっていない様子だった。二人とも入学時に真面目に説明を聞いたり学則を隅から隅まで読んだりするタイプではない
 遙は慣れない環境でがちがちに緊張してしまっていたし、凜はライバル認定したいお洒落な子を見つけたらしくその子にばかり視線を向けていた。
「はい、ここに印鑑と署名で手続きが終わります。日付は入れておきました」
 用意がよすぎる彼はきっとこの後も予定が詰まっているのだろう。
 そう言えば、三波先生が午後から街中の音楽教室でレッスンがあると言っていた気がする。
 思い出して、きっと鷲尾准教授はそれを把握しているのだろうと思った。
 事前連絡もなく朝から学生の家に来たのにはそれなりに理由があるはずだ。
「ところで、滝川さんは三波先生の指導を受けていますよね?」
「え? あ、はい」
 ほら来た。
 なにを言われるのかと身構えてしまう。
「……三波先生は発表会に出たがらない生徒をケーキで釣ろうとするという噂を耳にしたことがあるのですが」
 そう言われ、初回レッスンの時に緊張しすぎていると、ご褒美にどこだかのお店のケーキをくれると言っていたような気がする。
 緊張しすぎて途中リタイアしたこともあり、その話は消えてしまったが。
「あー、えっと……ピアノを弾いているうさぎさんのかわいいケーキがどうとか言っていたよな……」
「どこのお店のものかご存知ですか?」
 疑問形のくせに、教えなさいとの命令にしか聞こえない。
「あー、この子、初回レッスンの時に吐くほど緊張して途中で逃げちゃったんですよ……だから、たぶんお店まで聞いてないと」
「……使えませんね。まあ、いいでしょう。ピアノを弾くうさぎのケーキを作っている店を片っ端から探していけばゆかりさんのお気に入りの店がわかる……問題は……午後までに店を特定出来るか?」
 ぶつぶつと独り言をこぼす姿が恐ろしく感じられた。
「あ、あの……鷲尾先生、私たち……そろそろ出かける予定なんですけど……」
 おそるおそる声を掛ける。
 彼が道を塞いでくれているおかげで毛替えに持っていく弓が取れない。
「ああ、すみません。長居してしまいましたね。では、イベントの詳細は夜にでも連絡します」
「は、はい……」
 いろいろ詐欺に遭った気分だ。
 発表会に出なくて済むと思ったら、イベントで手売りだとか、夏休み返上で課題がありそうな気配だとか。
 鷲尾准教授を見送り、毛替えに持っていく弓のケースと財布、スマホだけを持ち玄関へ向かう。
「……濃い先生だけど、やっていけそう?」
「……うーん、でも、意外と吐かないから大丈夫かも?」
 正直苦手なタイプではあるはずなのに、吐くほど緊張したりはしない。
 その事実に少しだけ驚きながら、遙は凜が所有する、初心者マークの輝いた軽自動車に乗り込んだ。
 

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