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滝川遙 Ⅱ
滝川遙 4
しおりを挟む遙が家の前に辿り着くと、手提げ袋を持った凜が玄関扉に背をくっつけるようにして立っていた。
「あ、遙! やっときた。お弁当ちょっと冷めちゃったけど、一緒に食べよ」
待ってたんだからと約束もしていないくせに言う姿が憎らしい。
「急にどうしたの?」
「いや、遙が鷲ちゃん先生のところに入り浸ってるって噂聞いたから」
「入り浸って……はいない。二回呼び出されただけ……たぶん」
一体どこからそんな噂が流れるのか。呆れてしまう。
鍵を開け、凜を中に通す。
いつの間にかメッシュだったはずのピンクが全体になっているななどと思いながら凜の頭を見ていると、不思議そうな顔をされた。
「どうしたの?」
「いや、追試だらけだって騒いでいたはずなのに髪を染め直す余裕はあるんだなって」
「辛辣」
大袈裟に傷ついたわという仕草をするくせに、凜は笑っている。
「それで? 賄賂持ってノートを貸せってこと?」
「はい、その通りです……」
中学も高校も宿題を写させてくれとお菓子やらジュースを持って遙の家に来ていた。
最初は呆れていた母も、慣れて諦めてしまう程度には頻繁に。
「あのさ、全部の講義一緒なわけじゃないんだよ? 他にノート借りれる相手いないの?」
「うーん、二人ほど心当たりはいるのだけど……あいつにだけは絶対借りたくないってカンジなんだよね」
凜はそこそこ社交的なのだからなんとかなるだろうと思っていたら、以外にも相手をえり好みしていたらしい。
「借りる方の立場なんだから頭くらい下げたら? 留年するよりはマシでしょ?」
「そうなんだけどっ! あいつら本当に性格悪いってか、男と女で態度がらっと変わるの。特にあの男……勝手に私を女子と間違えたくせにっ!」
凜は思い出して腹を立てている。
確かに、黙っていれば女性に見えなくもない。
鷲尾准教授がうっかり遙を男子学生と間違えたように、凜のことを女子学生と間違える教員だっている。
「でもノートの心当たりって言うくらいなんだから成績はいい人なんだ」
「うん。むかつくくらい頭もよくて才能もある」
凜がそこまで他人を意識するのは珍しいなと思いながら、二階に上げた。
といっても椅子もテーブルもない。
仕方がないからベッド下のデスクセットを譲ってあげる。
「遙、テーブルくらい買ったら?」
「置く場所どこにあるの?」
「あー、確かに……ぎりっぎりにピアノと防音室だもんねぇ。遙の使い方だとこの部屋凄く狭く見える」
そもそも客を招くことを想定していないのだから仕方がない。遙一人であれば勉強と食事は同じ机で済む。
遙はピアノ椅子を引っ張り、高さを調節して、ロフトベッドの階段に腰を下ろして弁当を広げる。
チーズハンバーグ……。
しばらく食べていない豪華な夕食だ。
「やっぱり遙、ハンバーグだった」
そういう凜が持っている弁当はボリューミーな唐揚げ弁当だった。
共通しているのは野菜が足りないことだなと思っていると、それを先読みしていたのか紙パックの野菜ジュースを差し出される。
「どうせ毎日冷凍パスタばっかりなんだろうなって思って」
「そうだけど」
「飽きないの?」
「飽きない」
凜は呆れたように溜息を吐く。
それから割り箸を割って大きな唐揚げにかぶりついた。
見た目の割にたくさん食べる凜が弁当一つで足りるのだろうかと思いながら、遙もハンバーグに箸をのばす。
こういうのでいい。
両親に連れて行かれる肩の凝るレストランで食べるハンバーグよりもチェーン店の少し冷めたハンバーグの方がおいしく感じられる。
「そういえば、和音凄いことなってるよ」
「……投稿するデータ間違えたら通知凄かった」
だから開き直ってもう一曲投稿したら、さらにわっしーから大量のメッセージが届いて通知を切ったところだ。
わっしーは一通で済ませればいいのにメッセージをいくつにも区切って送信してくる。
たぶんスマホでの短いメッセージのやりとりに慣れている若い子なのだろう。
「わっしーに返信してあげないの?」
「……あんまり関わりたくない」
そう答えたけれど、対抗心のようなものが胸の奥底でうずいているような気がした。
相手の方が実力が上。
むしろ積極的に他人と一緒に演奏したがるということはあがり症の遙には決して乗り越えられない大きな壁の向こうにいる存在と言うことだ。
嫉妬するだけ烏滸がましい。
嫉妬するなんて自分の実力があの人と同じ程度かそれ以上あると思い込んでいる証拠だ。同じ舞台にも上がれないくせにそんな感情を抱く資格はない。
自分の中のざわめきを誤魔化すようにハンバーグを口に入れる。
「こーら、ハンバーグだけ食べない。ご飯も食べなさい」
「はいはい」
食べているところを見られるのもあまり好きではないけれど、凜が相手だとガチガチに緊張するようなこともないので少しだけ気が楽だ。
今のところ遙の演奏を観客として聴くことが出来る存在は凜だけだろう。凜はずっと一緒に居るから空気みたいな存在だ。
お節介で結構身勝手。
勉強嫌いでいつも外見を整えることにばかり夢中になっている。
性格も全然違うはずなのに、家の前で待ち伏せされても不快に思わない。
つまり凜は遙にとって唯一の友人ということなのだろう。
「そういえば、遙、なんで鷲ちゃん先生の研究室に行ってたの?」
「え? ああ、作曲ゼミに勧誘っていうかもう後期から専攻変えなさいって言われて……別にどうしてもピアノじゃなきゃ嫌と言うわけでもないし、定期演奏会も出なくていいって言われたら凄く魅力的に思えたなと」
お味噌汁が欲しいななどと考えながら、最後のひとかけらを口に運ぶ。
「え? じゃあ鷲ちゃん先生が担任なるの?」
「うん。両親には先生から連絡してくれるって。私に任せたら留年しても親に連絡しなさそうだって」
男子と間違えられたことはわざわざ口にしなくてもいいだろう。
飲み物が欲しいなとキッチンへ向かい、お茶を探して見つからない。
仕方なく鷲尾准教授に持たされたティーバッグセットの中からなんとなく聞いたことのありそうな名前のお茶を探す。
ほうじ茶が飲みたかったなと思いながら、たしかアールグレイは定番の紅茶だった気がするとマグカップ二つにお湯を注いだ。
「あら珍しい。遙が紅茶だなんて」
「鷲尾先生に貰った」
「へー、あの先生女子から凄く人気だけど、変なことされなかった?」
「ないない。むしろ音楽で食べていく気があるかって聞かれた」
濃いのか薄いのかわからない紅茶を凜に渡して、弁当容器をよけたピアノ椅子に腰を下ろす。
「コネ第一号になるから学生のうちにできる限りコネを作っておきなさいだって」
「へー、そういうカンジの先生なんだ。残念なイケメンって噂ばっかり聞くからどんな人なんだろうって思ってた」
残念なイケメンと言われ、納得する。
三波先生のつきまといをしている姿を見れば誰だって天は人格を与えてくれなかったと思ってしまうだろう。
「夏休み中も何度か面談するって言われたけど、そんなに必要なのかな?」
一口飲んでみても濃いのか薄いのかわからない。徳用パックの紅茶となにが違うのかすらわからないのだから高級ティーバッグをたくさん持たせた鷲尾准教授は後悔してもいいと思う。
「面談、ねぇ……作曲専攻の知り合いはいないからよくわからないな。それより遙、どうせそろそろ冷凍食品のストックがなくなる頃でしょ? 車出してあげるから、明日付き合って」
「へ?」
なぜ冷凍庫の中身まで把握しているのだろう。そう思ったが、なんだかんだでスーパーまで車に乗せてくれるのが凜だ。周期を把握していても驚かない。
「絵の具とかいろいろ買いに行かないとなくなりそうなの。遙も弦買い足したりあるんじゃない? 楽器は置いて行きなさいよ。載らないから」
この数日更にたくさん弾くようになったから確かに予備の弦は買い足して置いた方がいいかもしれない。ついでに弓の毛替えも頼もうか。
弓だけなら持って行けるはずだ。
「……はいはい、弓の毛替えね。行ってあげるから私の買い物にも付き合いなさい」
その言葉に、遙はなんとなく嫌な予感がした。
凜は買い物が長い。
そして、こういうときは大抵、服を買いたいときだ。
「一人でショッピングってなんか寂しいからさ」
「……他に友達いないの?」
どう考えたって誘う相手を間違えている。
けれども大量の冷凍食品を買いに車を出して貰えるという誘惑は大きい。
遙は観念して明日一日を犠牲にすることにした。
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