Liar Liar Endless Repeat Liar

ROSE

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滝川遙 Ⅱ

滝川遙 3

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 緊張からくる頭痛と吐き気、そして震え。散々だ。
 はるかは今、目の前のわし准教授に怯んでいる。
滝川たきがわさんは、音楽で食べていきたい人?」
 昨日とはまた違う香りのお茶を差し出しながら訊ねる彼の表情は感情が読めない。
「え? あ……できることなら……」
 ここに居る学生はたぶんみんなそれを夢見ている。
 あわよくば。絶対に。無理だとは思っているけれど一応。
 みんなそれぞれ温度差がある。
 あわよくば音楽のプロに、それがダメでもなんらかの形で音楽に関わりたいと教職課程を選ぶ学生も多い。
 夢で生きていけるほど現実は甘くない。けれども夢を見なくては動けない。
 鷲尾准教授はじっと遙を見た。
 その視線が怖くて思わず俯く。
「正直、君は演奏家には向いていない。人前に出る訓練が圧倒的に足りていない。今から克服できるかと考え、卒業までに達成出来るかというと困難だと考えた方が現実的です」
 それは遙自身がよくわかっている。
「しかし、作曲家としてならやっていける可能性はあります」
「え?」
「まあヒットソングを生み出しまくって大富豪になりたいと言うのであれば無謀と断言しますが、細々となんとか日々の生活がなり立つ程度であれば、という話になりますが」
 わりと暴言を吐かれている気がする。
 それでも彼の言葉の続きを聞こうと思えたのは、彼が音楽で生きている人間だからだろう。
「君には教員という逃げ道も難しい。それだけの技術があっても指導者には向いていないというか……そもそもあがり症を克服しなくては指導も無理でしょう」
 鷲尾准教授はノートに「演奏家」「作曲家」「音楽講師」などの文字を書き、それから音楽講師に大きなバツ印を付ける。
「作曲だけでは食べていけないと、環境音をサンプリングして販売しているような人もいます。作った曲を分解してサンプルパックとして販売する方法もあります。君は有名人になりたいという訳ではなさそうなので、音楽で食べていきたいというのであればそう言った道も頭の片隅に残しておいてください」
 意外とちゃんと考えてくれている。
 失礼だとはわかっているが、遙は心底驚いてしまった。
 てっきり三波みなみ先生への下心だけで声を掛けてきたのだと思ったから。
「課題の譜面を見る限りだと写譜しやふという道も選べそうですが、人前に出たくない癖に楽器を弾きたいと」
 棘のある言い方だと思ってしまう。けれどもまさにその通りなのだ。
「あがり症を克服しないととは思っているのですが……」
「できるならするべきです。しかし、それにばかり気を取られて他の部分を潰すような無駄な学生生活を送っては限られた時間の無駄です」
 一呼吸置いて彼はじっと遙を見た。
「君が学生の期間でするべきことはコネ作りです。私や三波先生でもいい。他の先生方、卒業生。そして将来有望と思える同級生や先輩後輩。多少才能がなくてもコネと見栄で仕事が手に入る場合があります」
 自称天が万物を与えた男の言葉がそれとは驚いた。
「誰もが私ほど神に祝福されているわけではありませんから」
 美術館に飾られていそうな笑みを見せる目の前の男に呆れてしまう。
 まともなことを言っていたようで感動しかけたのに、この一言で台無しだ。
 けれども、この自信家に見える面が彼の言う「見栄」なのかもしれない。
「まずはコネ、人脈を駆使してチャンスに触れる。できないかもしれないなんて思っても口にしない。たとえ困難に思えても、仕事のチャンスがあれば『できます』『やります』『お任せください』くらいの見栄でその仕事を掴み取る。勿論、こんな手が通用するのは最初の数回です。そこで成し遂げられないのであれば本人の実力不足ですが……実力があるのにこのチャンスを掴めない人間は多い。むしろ、実力がある人間の方が大きなチャンスを目前にして怯んでしまう」
 鷲尾准教授がようやく視線を机の上に向けてくれたので遙はほっとした。
 このまま見つめられ続けていたら呼吸が出来なくなりそうだった。
 芸術家として生きていく上で大切なことを言っていると思う。
 けれども、彼は若くして成功してしまった人だ。その人の言葉を鵜呑みにしていいものだろうか。
「これでも一応教員なので、学生のサポートはできる限りするつもりです。特に、君は三波先生が特別気に掛けている。それも、一種の才能です」
 才能。
 その言葉が痛い。
 圧倒的な才能を持っている人にそれを言われてしまうと嫌味か皮肉にしか聞こえなくなってしまう。
「あー……君は……欠点を並べられた方が信じるタイプかな?」
 面倒くさそうな顔を見せられ、こちらが本性なのかと納得する。
「え、まあ……たぶん」
「うん。そのはっきりしない態度は君の最大の欠点だ。どうせ家でも細かいことをいつまでもうじうじ考えているのだろう? 時間の無駄だ。失敗について考えている暇があれば一曲でも書け。やはり君は私のゼミで預かる。保護者には私の方から連絡しておこう。君に任せたら留年しても親と話をしなさそうだ」
 随分と失礼な言葉ばかりポンポン出てくる。
 遙は驚きすぎてなにも言えない。
 たぶん彼はこれが素なのだ。普段は教員として仮面を被っているのだろうが、とても自信家で、他人をどこか見下している。
 それでも、彼の言っていることは半分以上真実だった。
 失敗はいつまでも引きずってしまうし、自主反省会をしては全ての出来が気に入らないような気がしてしまう。
 このままでは留年の危機だというのに、親に相談すら出来ない。いや、相談しようという意志すらないが正確だろう。
「……滝川さん、君はなにか一つでも他人に自慢できることはあるかい?」
「え?」
「別に音楽分野でなくてもいい。人生の中でこれは中々他人には出来ないであろうという自分を褒められることはあるかい? 別になんでもいいよ。片足で一時間以上立っていられるだとか、人より食べるのが速いだとかそんなことを言っていた学生もいる」
 なんでもいいから言ってごらんと言われてしまうと逆に難しい。
 そもそも他人に誇れるような部分がない。
 毎日同じ物を食べていても気にならないなんていうのは単純にだらしがないだけだろうし、時間を忘れて練習してしまうのは自己管理能力が低すぎるからだ。
 自慢できることなんて……浮かばない。
「これは……重症だな。いや、逆にこれを……」
 鷲尾准教授はひとりでぶつぶつとつぶやき始める。
 大学で教員をやるような人はみんな変人だとは思っているけれど、彼ほどの変人はなかなかお目にかかれないのではないだろうか。
 そんな失礼なことを考えながら、鷲尾准教授の反応を待つ。
「君はとても興味深い。だから、私が全力でサポートしよう。よかったね。強力なコネを一つ入手した。上手く使いたまえ」
 自分で自分を強力なコネだなんてどうかしていると思う。
 けれども、自信満々に並べた数々の実績を考えると確かに強力なコネなのかもしれない。
「夢で食べていくのは甘くない。でも、君は夢の中でしか生きられない人間だろう?」
 まるで全てを見透かすような言葉に、落ち着かない気分になった。
 本当に、この人のところで大丈夫なのだろうか。
 けれどもすでに作曲専攻に移ることは確定されてしまっているような雰囲気だ。
 別に絶対にピアノを弾きたいわけではないからそれでもいい。作曲専攻だってピアノ応用まではコース必修に含まれる。
 ピアニストを目指しているわけでもピアノ講師を目指しているわけでもない。だったら、積極的に断る理由もない。
「……えっと……お、お世話に……なります」
 肝心な言葉さえ咄嗟に言えない自分に腹が立つ。
「賢明な判断です。ところで、昨夜提出してくれた曲のタイトルは?」
「えっと……ありません」
 なにも考えないで作りましたとは言えない。ただなんとなく浮かんだだけで、言葉に出来ないその日の思いだとかそういったものでしかない。
 日記。たぶんそんな言葉が一番しっくりくる。
「今ここでタイトルを付けるとしたら?」
「え? えっと……イン・ザ・クローゼット、で……」
 むしろ遙自身がクローゼットに隠れたい気分だ。
「……あー、うん。そうか……」
 なぜか鷲尾准教授が考え込む。
 まずいタイトルだったのだろうか。
 おそるおそる彼を見上げれば、またノートになにかを書き込んでいる。
「夏休みは帰省しますか?」
「い、いえ、こっちのアパートに居ます」
「そう。じゃあ、夏休み中に何度か面談の予定を入れておきますね。書類は直接保護者の方と郵送でやりとりしますのでご心配なく」
 詳細は後日メールを送りますと一方的に予定を決められてしまう。
 そもそもそんなに面談が必要なのだろうか。
 なんとか回避する方法はないかと考えていると、突然扉が開く。
しゆうちゃん、今日鷲ちゃんち行っていい?」
 気怠そうな声。
 ノックもせずにのそのそと入ってきたのは鷲尾たかふみだった。
「……鷹史、ノックをしなさい。面談中です。それと、鷲ちゃんは止めなさいと何度言ったら覚えられる?」
 あからさまに苛立ちを見せる辺り、兄弟仲は良好なのだろう。兄より背の高い弟は、とても懐いている様に見えるが躾がなっていない犬のようだ。
「面談? あ、遙さん! あれ? 担当鈴木先生じゃなかったっけ?」
 遙を見て笑みを見せる鷹史は、なぜか遙の情報を把握している。
「ってかさ、兄さん、女子学生と二人の時は扉開けておかないといけないんじゃなかったっけ?」
「ん? ああ。そうだが……」
 鷲尾准教授は一瞬硬直し、遙を見る。
 それから数秒考え込み、あからさまに驚いた様子を見せた。
「……すみません。てっきり男子だと思っていました」
「あ、えっと……慣れてます」
 言われてようやく思い出す。数年前に不祥事があっただとかで、男性教員が女子学生と研究室で二人きりになってしまうときは扉を開けておかなくてはいけないという規則がある。扉を閉めたいときは女性教員にも同席して貰う必要があった。
 つまり、先程までの状況は規則違反だ。
「女子学生をこんな扱いしてしまったなんてゆかりさんに知られたら……」
 鷲尾准教授が青ざめていく。
 気にするところは規則違反よりも三波先生の反応なのかとやや呆れ、むしろ彼は三波先生に夢中だから学生に手を出すようなことはないだろうと勝手に納得している。
「ごめんね、兄さんはゆかちゃん先生に夢中すぎて他の人類に興味がないから」
「は、はぁ……」
 三波先生とその他の人類で判別されているのであれば性別を間違えられるくらい全く気にならない。
 むしろ、自分の性別さえどうでもいいと思っている。
 女性として生きるのに向いているかと言えば、遙は世間一般の女性像からはかけ離れている。お洒落にも恋愛にも興味がない。結婚願望もない。むしろ凜の方が女性らしさのようなものが多いのではないかと思っているくらいだ。
 だからといって自分を男性だと思っているわけでも男性になりたいわけでもない。ただ、月に数日体調が乱れる不便な肉体程度にしか思っていない。
「僕は遙さんのことすごくかわいいって思ってるよ」
「へ?」
 この人は一体なにを言い出すのだ。
 遙は思わず鷹史から離れようと腰を浮かせて数センチ壁側に移動した。
「……鷹史、嫌われているぞ。それと、研究室で口説こうとするな。外でやれ」
 ゴンッっと硬い音が響く。
 鷲尾准教授が鷹史の頭をバインダーで叩いたらしい。
 体罰も規則違反。しかし兄弟のじゃれあいと言われてしまったらそうでしかない。
「あー、滝川さん……次からはドアストッパーを用意しておく」
「え、あ、はい……お気遣いなく……」
 ばつの悪そうな様子を見せる鷲尾准教授に少しだけ驚く。
 彼は失敗してもふんぞりがえっているようなタイプに見えたから余計意外と感じられたのだろう。
 お詫びと言わんばかりにティーバッグの詰め合わせを持たされ研究室の外まで見送られる。
 かえって居心地が悪い。
 廊下を歩けば窓の外は烏の集団が彼らなりの規則で整列している。
 夕方か。
 そう言えば凜の補講はどうなったのだろうなど考えていると、鷲尾准教授の研究室からチェロの曲が漏れている。
 この五重奏は遙の曲だ。
 間違えて投稿してしまった曲を、あの教員が聴いている?
 更に居心地が悪くなり、早足で音楽科棟を出る。
 意外と和音を使っている人は多いのだろうか。
 ユーザー数を見ていなかったけれど、音楽をやっている人間には有名なのかもしれない。
 
 特定されるかも。

 そう考え、別に犯罪行為をしているわけではないのだから怯える必要はないと思い直す。
 ただ、練習記録音源を投稿しただけ。
 日記代わりの演奏を投稿しただけ。
 つまりやっていることはブログと似たようなものだ。それが文字ではなく音になっただけで……。
 そう考え、とても恥ずかしい気持ちになる。
 シリアルがやっていることは自分の日記を全世界に公開しているようなものではないか。
 もうオリジナル曲の投稿は止めよう。
 遙は顔が熱くなるのを感じながら、家へ向かう坂道を歩いた。
 



 
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