Liar Liar Endless Repeat Liar

ROSE

文字の大きさ
上 下
6 / 17
シリアル

シリアル 4

しおりを挟む


 不覚だった。
 昨夜は調子に乗りすぎて、防音室の床で倒れるようにして眠っていた。
 チェロをきちんとスタンドに立てかけてから気絶したことだけは自分を褒めてやろうと思った遙だったが、弓を緩め忘れていることでそれも減点した。
 ルーチンを崩すな。
 調子に乗りすぎた昨日の自分を蹴り飛ばしたくなる。
 ノートパソコンは起動されたままだし、DAWには最後の録音データが録音のままになっており、どうやら寝息や起き上がった音まで録音されていたらしい。表示される波形を見てうんざりする。
 一応パソコン画面に表示される時計を確認し、いつもの起床時間よりも少し早いことを知る。
 今からでもルーチンを整えよう。そう思ったが風呂にも入らず寝ていたことを思い出し、慌ててシャワーを浴びる。
 今日は鷲尾という教員に呼び出されていたのだと思い出しうんざりした。
 試験の結果がそんなに悪かったのだろうか。わざわざ呼び出すと言うことは補講でも……。うんざりする。
 昨夜はチェロばかり弾いてしまいピアノの練習が疎かだった。
 ピアノの追試がある。
 追試。その響きだけでうんざりした。実技科目さえなければ追試なんてことにならないのに。そう考えてしまうが、そもそも芸術の道を選んだのは遙自身だ。
 濡れた髪のまま服を着る。タオルで水気を切りながら、朝のコーンフレークを用意した。
 昼休みまでに鷲尾という教員の研究室に行かなくてはいけない。それまで軽くハノンでも弾いておこう。
 通しで弾いて約一時間。昼休みの時間までは間に合うはずだ。
 こちらも分析のために電子ピアノにUSBメモリを挿して録音することにする。
 自分の演奏を客観的に分析することは重要だとはわかっているつもりだ。けれども弾いている最中というのは気分がよくて実際よりも上手になったような錯覚に陥りやすい。
 うぬぼれは敵だ。
 なにより、遙は人前での演奏が出来ないのだから、体で覚えるしかない。
 素早く朝食を済ませ、電子ピアノに向かう。
 様々なエフェクトが簡単にかけられてしまう電子ピアノはやはり実際よりも上手に弾けているように錯覚させる、気分よく演奏出来てしまう効果がある。
 遙は一番響きを抑えてくれるプリセットを選び朝の練習を始めた。



 昼休みの十分前、遙は音楽科棟で迷子になっていた。
 音楽専攻の学生は教員の研究室なんてゼミ担でもない限りそうそう足を運んだりはしない。
 鷲尾という教員の研究室はどこだっただろうと、一部屋一部屋ネームプレートを確認して歩く羽目になった。
 そうして練習室の側にある音楽科教員の研究室が密集した地帯にようやく「准教授 鷲尾鷲一」と書かれたプレートを見つけた。
 あの教員は准教授だったのかと驚く。随分と若く見えたから、てっきり時間講師の非常勤だと思っていた。
 ノックをしようとして、扉が僅かに開いていることに気がつく。
 音楽科棟の研究室は防音室仕様になっているのに勿体ないと思ってしまう。
 ドアストッパーを噛ませて換気でもしているのだろうか。
 そう考え、中から声が聞こえることに気がつく。

「鷹史、ここはお前の休憩室ではないと何度言ったらわかる」
「えー、だって寝転がるのに丁度いいソファーあるし」
「体がはみ出ているくせに気にならないのか? これから面談があるんだ。邪魔だよ」
 やや不機嫌そうな声は教員の方だろう。のんきな声はあの鷲尾鷹史だ。
 二人の声質が似ているように感じられる。
「兄さんとお昼食べたかったなー」
「学内では鷲尾先生と呼べと言っているだろう。ったく……」
 呆れたような声と共に、ゴンと音が響く。たぶん楽譜かなにかの角で頭を叩いたのだろう。
「いたーい」
「早く出ろ。面談の邪魔だ」
 そして、扉に近づいてくる。
 遙は思わず姿勢を正した。盗み聞きしていたなんて思われたくない。
 ただノックをしようとしたら中の会話が聞こえてしまっただけなのだ。
「あ、滝川さん。早いですね」
 扉を開けた鷲尾准教授が少しだけ驚いた様子を見せる。
「ほら、鷲尾くん、面談の邪魔だから出て行ってください」
「……はーい」
 研究室のソファーで寝転んでいたらしい鷲尾鷹史はしぶしぶという様子で立ち上がると遙を見て微笑む。
「あ、遙さん、今度ゆっくりお話ししようね」
 ゆったり手を振って歩く。なんというか、彼の動きはのそのそというオノマトペが付きそうだ。
「友達ですか?」
「あ、いえ……なぜか距離が近くて……」
 教員の手前友達だと言うべきだっただろうか。そう悩むが、嘘を吐く必要もないなと思い直す。
「すみません。少し距離感のおかしい子で。体ばかりが大きくなった五歳児だと思って接してやってください」
 どうやら教員としてではなく兄としての対応なのだろう。
「はあ……えっと、面談になるって……そんなに酷い成績だったんですか?」
 回答欄を全部ずらしてしまっただとかそんな初歩的なミスでは済まないほど酷い成績だったのかもしれない。
「いや、そうではなく……まあ、座ってください」
 いかにも高級そうなソファーを手で示され、落ち着かない。
 断ることも出来ずに、おどおどしながらソファーの片隅で縮こまった。
「紅茶でいいですか? 最近いろいろ取り寄せていて……パッケージがお洒落で女性に人気だとか」
 どう見てもこの教員は男性なのに、凜と同じくフェミニンな趣味でもあるのだろうかと見てしまう。
 が、そんな風にも見えない。
 鷲尾准教授は高く見積もっても三十歳程度に見える。
 少し高級感があるシンプルな紳士服といった装いで、たぶん体型に合わせて手を加えられた既製服かオーダーメイドなのだろう。全身から高級感が溢れている。
 男性にしては少し長い髪も清潔感がありこまめに手入れされているのだろうと感じられた。
 なにより、その顔立ちは雑誌の表紙になっていてもおかしくない。世間一般の基準であれば美形なのだろう。芸能人に詳しくない遙でさえ、なにも言われなければ人気俳優が歩いていると認識してしまいそうな外見だ。
「あ、いえ、結構です」
「感想が聞きたいので」
 彼は無理矢理お茶を選んで用意した。
「研究室に来る学生全員に出しているので気にしないでください。人気のものをまた取り寄せようかと」
 目の前に差し出されたティーセットも女性が好みそうな花柄で、百円ショップでは探せなさそうな高級感がある。これはこの教員の趣味なのだろうか。それとも女子学生を呼ぶために用意しているのだろうか。
 どちらにしても問題だと思いながら、出されたお茶に手を伸ばす。
 飲みやすい温度だった。味についてはよくわからない。ただ、ハーブなのだろうなという香りが強いお茶だと感じた。
「さて、まずは試験結果ですね。おめでとうございます。今期唯一の満点です。少し意地悪な問題も出題したつもりでしたが、素晴らしい」
 答案用紙を返却される。
 確かに全問正解していたようだ。
 遙はほっと胸をなで下ろす。
 しかし、今度はなぜ呼ばれたのかと疑問を抱いた。
「なぜ呼ばれたのか不思議そうですね」
 教員が笑う。
 この男はたぶんあまり性格がよくないのだろうなと感じ、僅かに警戒した。
 座学講義なんて内容だけ聞いていればいいのだから教員の顔なんて覚えなくてもいいと考えていた前期の自分を蹴り飛ばしたい気分だ。
 後期はできる限りこの教員の講義を履修しないようにしよう。
 そう考えた瞬間、彼の口から飛び出した言葉に驚く。
「本日呼び出した理由は、あなたを私のゼミに勧誘するためです」
「へ?」
 思わず素の声が出た。
 まだ一年だ。ゼミを決める時期でもない。
「実は教員の間でよく話題に上がる学生がいましてね、座学の成績は非常に優れているのに、実技になると全く実力が発揮出来ないあがり症の子で、このままピアノ専攻では卒業できないのではないかと心配されている……ええ、滝川さん、あなたです」
 ぐさりと言葉が突き刺さる。
 確かに今のままではいずれ留年するかもしれない。
 今はまだ実技試験で先生達が励ましてくれる段階だ。けれども後期も同じ結果なら? 来年度は? そう考えると確かに留年する可能性がある。
「実は、ゆかりさ……いえ、非常勤講師の三波先生から相談されまして。とても努力家で熱心に練習しているのに本番で緊張しすぎてしまう学生がいると。それに、編曲課題の譜面の出来が大変よいとも」
 三波先生は確か数回指導してもらったことのある非常勤講師だったはずだ。同じコマ内に複数の学生が受講するため、ピアノ科教授の他に五名ほど非常勤講師が指導に来ている。遙の担当は教授のはずだったが、あがり症が酷すぎたため、非常勤講師たちのレッスンを一周して誰が一番相性がいいのかと教授有り難すぎて逆に申し訳なくなる気遣いを受けた。
 その中で一番相性がよさそうだったのが、教授と非常勤講師の三波先生だった。
 後期はどちらに指導をお願いするべきか本気で悩む程度には、どちらのレッスンでも未だに緊張してしまうのだが、三波先生は時間外のオンラインレッスンをしても構わないと言ってくれている。有り難い提案だと気持ちが傾いてきていた。
「勝手に課題の譜面を見せて貰ったのだけど、本当に出来がいいなと思ってね。うちのゼミ、未だに楽譜が読めない三年もいるから……正直これだけ楽譜の読み書きも出来て編曲もそこそこ出来るならぴったりだと思うんだ。ってことで、後期から作曲専攻に転向しませんか? 勿論、二年まではピアノも必修だけれど、ピアノ実技が減って、発表会も生演奏しなくていいのは君にとっても大きなメリットだと思いますよ?」
 爽やかそうな笑みを見せるくせに、どうも断るなと言う圧を感じてしまう。
「えっと……なんでまた……」
DAWディーエーダブリユー、えっと……音楽作成ソフトの使い方は知っているかな?」
「まあ、趣味で少し……弄ったりはしますけど……」
「それは素晴らしい。打ち込み? レコーディング? それともサンプルを切り貼りするタイプかな?」
「ぜんぶやります」
 急にぐいぐい来る。この勢いは鷲尾鷹史にそっくりだと思った。
「えっと、課題に提出する楽譜は、自分で楽譜ソフトを使って作りました」
「だと思った。DAW付属の楽譜機能で提出してくれる学生もいるけどやっぱり専用ソフトの方が見た目が綺麗なんだよね。あ、ゼミ室には私の私物で学生達が自由に使えるパソコンも揃えてあるよ」
 私物でという言葉に、それは大学的に問題がないのだろうかと心配になってしまう。
「人数分ソフトウェアを揃えようとしたら上から許可が下りなかったんだ。予算がないと」
 大学から予算が出ないものをあっさり私物で揃えられるこの教員は何者なのだろう。
 驚いてじっと見てしまうと、彼は逆に驚いたという顔をした。
「あれ? もしかして、音楽専攻の学生なのに、私を知らないと?」
「す、すみません……初回の教員自己紹介は聞いていたはずなんですが……」
 正直あまり興味がなかったから講義概要シラバスを広げて年間履修計画を立てることの方に夢中になってしまっていた。
 なにせ初回は出席回数以外成績に関わらない。
「これでも作曲家としてそこそこ知名度があるつもりだったのだけどな」
 はい、とプリントの束を渡される。
 なんだろうと見ればずらずらと有名映画やアイドル、舞台や歌手やご当地ヒーローなどのタイトルや名前が並んでいて、その横に曲名のようなものが書かれている。
「光栄に思ってくれて構いませんよ。天が万物を与えたこの私が直々に勧誘しているのですから」
 なるほど。こういう人なのか。
 呆れてしまう。それと同時に、この人くらい自信家になれればいいのにと思ってしまった。
「えっと、一応……少し考えさせてください……」
「断る理由がありますか? ゆかりさ……いや、三波先生のお願いをこの私が叶えない訳にはいきませんから、君に断られるのは非常に不本意です」
 本音をもう少し隠して欲しい。
 しかし、この人はたぶん間違いなく天才なのだろう。天才は変人が多いと聞く。
 天才の元で学べる。それに発表会で生演奏しなくてもいいというのは大変魅力的だ。しかし、そうなると卒業までこの変人と過ごすことになる。
 ふと、三波先生を思い出そうとして、彼女の顔が出てこない。
 ただほんわかとした穏やかな女性だったと思う。
 ただの女好きなのか彼女に惚れているだけなのかは知らないが、学生の前でそれを隠しもしないのは少し問題だろう。
「じゃあ、一晩差し上げます。明日の朝までに作品を一つメールに添付してください」
「え? 明日、ですか?」
「趣味で弄ったことがあるということは作曲、したことがあるのでしょう?」
 そう言われてしまうと怯む。
「メロディしかない状態で送ってくる学生もいますから、大作を送らなくてはいけないなんて物怖じする必要はありませんよ」
 彼はそう言って、名刺を差し出した。
 他の教員は大抵、名前と肩書きにメールアドレスと電話番号くらいしか書かれていないのに、彼はSNSのアカウントまで並べていた。
 教員のメールアドレスは名前と研究室の番号で構成されている。名刺がなくとも送れるとは思ったが、大人しく受け取った。
「今から新しく、は難しいと思うので、帰ってから探してみます」
「はい。よろしくお願いします。あ、そのお茶、口に合いましたか?」
「え? あー、飲みやすい温度でした。あまり飲んだことがないのでよくわかりません」
 鷲尾准教授は少しだけ不満そうな様子を見せたけれど、それ以上はなにも言わず、見送ってくれた。
 研究室の外まで学生を見送る教員も珍しいなと思ったが、その理由がすぐにわかってしまう。
 昼休みの終わり直前、教育学部のピアノ講義の為に非常勤講師たちが出勤してくる時間帯だ。
 つまり、三波先生が来る。
 それを待つために話を延ばして引き留めたのだろうかなどと思うと、本当にこの人のゼミに入って大丈夫なのだろうかと不安になってしまう。

 とりあえず曲だけ提出しよう。出来が悪ければ勧誘もされないはずだ。
 けれども新しく一曲用意しろと言われずに済んだのは幸運だと思う。
 じっくり評価されると思えばきっと頭が真っ白になってしまいなにもできずに無音のデータを送ることになっただろうから。



しおりを挟む

処理中です...