Liar Liar Endless Repeat Liar

ROSE

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シリアル

シリアル 2

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 待ち合わせをしているわけでもないのに当然のように隣の席に座る凜にうんざりする。今朝は顔を見たくなかった。
 凜が音楽投稿サイトなんてしつこく誘わなければこんなにもやり場のない感情で乱されることもなかっただろうと恨めしく思ってしまう。

「ごめんって。朝のルーチン乱されるの嫌いなのは知ってたけど……でも、練習公開しただけでセッションのお誘い来るんだよ? やっぱり遙は才能あるんだって」
「化け物に遭遇した気分」
 音楽の化け物。うん。怪人だとかしゃれた感じではない。妖怪だとかそんな印象だと心の中で繰り返す。
 次元が違う。そんな言い訳をしたくもなってしまう。
 あの文面はどう見たって中学生。もしかしたら小学生かもしれない。
 勝てっこない。圧倒的な実力差だ。
 そんなやつと同じ舞台に引きずり出されて気分は最悪なのに、機嫌がよさそうな凜に腹が立つ。
「コーンフレークはふにゃふにゃだし聖書は一行も読めなかった。それに、朝の練習が全く出来なかったんだけど?」
 人生の中で音楽に使える時間は限られている。特に、学生という身分は単位のために音楽以外にも力を入れなくてはいけない。
 音楽のことだけ考えて生きていたい。けれども音楽のことを考える度にその道の困難さに気づかされる。
 年下の怪物がいい例だ。
 更に最悪なことに、今日はチェロを防音室内に置いてきてしまった。
 朝の衝撃が大きすぎて、準備の時間がなかったのだ。
 気が重くなる。
 学部共通科目の哲学は、寝ていても試験に合格できそうな物ではあったが出席日数が重要になる。そして、結果を見ないわけにもいかない。
 遙はなるべく凜を視界に入れないようにしながら、教授が入ってくるのをじっと見た。
 紙の束を持っている。つまり、答案用紙が戻ってくる。
 試験結果くらいオンラインで確認させてくれてもいいのにと恨めしく思ってしまうが、人数が人数だ。入力するよりも紙で返した方が手間が少ないのだろう。
「はーるーかっ、機嫌直してって」
「うるさい。講義始まる」
 頬を突こうとする凜の手を振り払い、教壇を直視する。
 学籍番号順なのか、名前順なのか、それとも成績順なのか。
 教授ごとに違うから緊張してしまう。
 哲学は座学だけだ。筆記試験なのだから出席さえしていれば全く問題ない。はずだ。
 それなのに、教授の前まで取りに行くだけの距離で吐きそうな程に緊張してしまう。

「滝川さん」

 教授の声が妙に響いた。
 心音が騒がしい。
 慌てて立ち上がったせいか、固定式折りたたみ椅子が跳ね上がり、室内に大きな音を響かせてしまう。
 視線が集まった気がした。
 ただ音に反応しただけだと頭は理解している。
 けれどもそれだけで心臓が口から飛びでそうなほどに緊張してしまう。
 遙は震える足を前に出し、階段状になった通路を歩く。
 教壇はこんなにも遠かっただろうか。
 そして、あと少しで教壇というところで、異様に背の高い男が目に入ってしまう。
 二メートルはありそうな長身。整ってはいる顔立ちなのに強面に見えるのは唇や耳の大きなピアスが目立つからか、首元や指に施されたタトゥーの影響か。
 別に彼がなにかをしているわけではないのに、目に入った途端威圧を感じてしまう。
 次元が違う。
 圧倒的ななにかを感じ取った気がした。
「滝川さん、早く」
 教授の声で現実に引き戻される。
 その間も、彼の指先に視線が行ってしまう。
 長く美しい指だ。体と同じく手も大きい。そしてその大きなパーツをキャンバスに図案が埋め尽くされている。
 住む空気が違う気がする。
 そして、一度見れば十分過ぎるほど目立つ外見のはずなのに、彼の名を思い出すことが出来ない。
 遙は小さく首を振り、深呼吸して教授の前に立つ。
「おめでとう。よく頑張ったね」
 教授は笑顔で答案用紙を差し出した。
 満点だ。
 けれどもこの講義なら誰だって満点を取れてしまいそうなのに、どうして教授はあんなに嬉しそうなのだろう。
 次の学生が呼ばれたことに安堵しながら席に戻る。
「どうだった?」
 凜が小さく訊ねてきた。
「別に、普通だけど」
「……嫌味ね。ほんっと」
 そう答え、凜は教壇に向かう。
 凜は単純に講義を聴いていないだけだろうと思いながら、最前列の彼を見る。
 気怠そうな印象で、そのくせにポケットを気にしてそわそわしているようにも見える。誰かからの連絡を待っているのだろうか。
 スマホを確認したい。けれども講義中は禁止だからと葛藤しているような様子が少しだけ可愛らしく見えた。
「うっげ……補講……」
 ずーんと沈んだ凜が戻ってくる。
「なにをどうしたらこの講義で補講になるの?」
「あは……ちょっといろいろ……」
 出席さえしていれば誰でも合格出来る試験のはずなのに不合格になったのだろうか。
 呆れた。
 これで実技科目は点を取れているのだから驚いてしまう。
 凜と遙は真逆だ。
 座学が取れない凜と、実技が取れない遙。
 足して二で割れば普通の生活が出来そうなのに、世の中とは上手くいかないものだと思ってしまう。
 最後のひとりにまで答案を返し終えると、教授の短い挨拶で講義が終わる。なんと試験に不合格だった学生が三人も居たらしい。
「よかったね。補講ひとりじゃないって」
「よくないっ! 遙も一緒に来て」
「なんで? 合格したし。ピアノ基礎Ⅰの追試でそれどころじゃないし」
 音楽の実技追試は試験の翌週なのだから時間がない。
「なんで練習であれだけ弾けて本番ダメなのさ」
 凜は不満そうにそう言って「いっそカーテンで仕切ってもらえば」なんて言う。
 馬鹿にしないで欲しい。カーテンの向こうに誰かが居ると思えばそれだけで頭の中が真っ白になってしまうに決まっている。
 凜は結局のところ遙のあがり症を理解していない。自分が一番の理解者だという顔をして、少しの訓練でなんとかなる程度のものだとたかをくくっているのだ。
 少し苛立ちながら凜を置いて講義室を出る。次は音楽概論の試験結果が戻ってくるだろう。凜は美術科目だから行き先が違う。
 少しだけほっとする。
 ルーチンが崩れたときの不安定さのまま凜と接するのは疲れる。普段であれば気にならない些細な事に腹を立てやすくなってしまうのだ。
 だからといって音楽専攻の学生達と同じ空間になって落ち着くかと言えば話は別だ。
 ここに居る人達は、みんな遙を見下している。
 場違いな子が夢だけ見て入学して親の金を無駄にしていると思っているだろう。
 かと言って、彼らが本気で音楽家を目指しているかと言うと、そうは見えない。
 この中の何人が卒業後も音楽を続けているだろうか。
 趣味として継続する人は多いだろう。けれども音楽で食べていける人は、同じ学年でひとりでも居るのだろうか。
 便利な時代になった。
 パソコンで、自宅から作品を発信できる。いや、既に出先からスマホで発信できてしまう時代だ。
 誰でも、手軽に作品を発信できてしまう。
 大学で学んだりしなくたって、天性で開花する人だって存在してしまう。
 また、あの圧倒的な才能を思い出す。
 あの『わっしー』のような人間が世の中にはごろごろしているのだ。
 そう考え、暗い気持ちになっていると、トートバッグが震えた。
 スマホの着信だ。
 何事かと確認すれば、和音の新着メッセージ通知だった。
 こんな時間に中学生が?
 中学校は既に夏休みだっただろうか。夏期講習などには行っていないのかもしれない。
 そんなことを考えながらメッセージを確認する。
 そして、確認前から相手が『わっしー』であると確信している自分に気づき、驚いてしまった。
 どれだけ意識しているのだろう。
 たった一度再生しただけなのに。

 シリアルさん。こんにちは。わっしーです。
 いきなりセッションのお誘いは迷惑でしたか?
 僕はもっとシリアルさんの演奏が聴きたいです。
 セッションじゃなくてもいいので、演奏投稿してもらえたら嬉しいです。

 どれだけせっかちなのだろう。それともSNSでは貰ったメッセージにはすぐに返信しなくてはいけないのだろうか。
 朝は開くだけ開いて返信していなかったことを思い出す。
 けれどもどう返信すればいいのかわからない。
 遙は気持ちを言語化することすら苦手なのだから。
 返信に悩んでいると、チャイムが響く。
 しまったと慌てて講義室に駆け込めば、前の時間の終了を知らせるチャイムだったと気づく。
 今日は本当によくない。
 ルーチンを崩された日というのは何事も上手くいかないのだ。
 気がつけば、溜息が漏れる。
 わっしーにどう返信しよう。
 そもそも返信する義務はあるのだろうか。
 考え込んでいると、隣に誰かが座った。
 驚いて隣を見れば、先程の教室で最前列に居た長身がある。
「えっと……滝川さん、だよね?」
「え? あ、ひゃいっ」
 ただ返事をしようとしただけなのに、驚きすぎて声がひっくり返ってしまう。
「あ、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど……」
 とても申し訳なさそうな表情をする彼は、見た目ほどは怖くない人なのかもしれない。
「あ、いえ……」
「えっと……そのカバン、かわいいね。えっと……コーンフレークのキャラクターだよね?」
 話題に困って必死に遙の持ち物を観察しましたと言わんばかりの不自然さでトートバッグに描かれたキャラクターを指さす。
「あ、ひゃい……そのっ……懸賞で当たって……」
 バーコードを集めたら抽選で貰えるトートバッグは毎朝食べているコーンフレークのマスコットキャラクターだ。名前までは知らないが、なんとなく見ていると落ち着く気がするので愛用していた。
「すごいね。僕、懸賞なんて当たったことないや」
 外見に似合わず穏やかな声で、遙を怖がらせないように気を使っているような話し方をする彼に驚く。
「えっと……なにか用?」
 音楽概論の講義は殆ど一年生しかいないのだから、目の前の彼も一年生のはずなのに、見覚えがないような気がしてしまう。
 こんなに目立つ男にどうして今まで気づかなかったのだろう。
「あ、いや、滝川さんの演奏、ちゃんと聴いたことないなって思って……どんな人なのかなって」
 申し訳なさそうに言われると、遙の方が悪いことをしてしまった気分になる。
「ごめん……えっと……同じ学年、だよね?」
「うん。あ、僕はわしたかふみです。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げられる。
「滝川……遙です」
「遙さんって呼んでもいい?」
「え? えっと……どうぞ?」
 距離感がわからない。
 助けを求めようにも、凜はこの講義にいない。
 遙は動揺を隠せないまま、ほんの僅かに尻を動かし鷲尾から離れようとした。
「あ、ごめん。近かった?」
 しゅんとした様子で椅子一つ分離れる。
 悪気はないと示す態度に遙の方が申し訳なくなってしまう。
「えっと、用事は?」
 早く会話を終わらせたい。
 その一心で訊ねた。
「あ、いや、その……遙さんと話してみたかっただけで……えっと……いつもチェロ持ってたから。今日は持ってないね」
 やはりこの大学でチェロを背負って歩くのは目立っていたのかと反省する。目立ちたくないと言いつつ十分目立つ行動を取ってしまっている。
「えっと……寝坊、して?」
 寝坊ではない。ただ、圧倒的な才能差に打ちひしがれて時間の経過を忘れてしまっていただけだ。
「チェロ、聴いてみたいな。あんまり弾いている知り合いがいないから。あ、伴奏必要だったら僕弾くよ」
 やろうよと顔が接近してくる。
「そこ、静かに」
 響いた教授の声が神の救いに感じられた。後期も絶対この教授の講義を受講しようと胸に誓う。
 離れていった鷲尾に安堵し、教壇を見る。
 この教授は各席まで答案用紙を持って来てくれるらしい。全員の顔と名前を覚えているなんて熱心な教授だと思う。
「滝川さん、よくやったね。満点は君だけだよ」
「あ、ど、どうも……」
 こんな基礎問題で満点を取れない人がいるのだろうか。講義さえ聞いていれば、というより楽譜が読めれば点を取れるような出題だったはずだ。
 遙が首を傾げていると、教授が溜息を吐いた。
「鷲尾くん、君はあとで研究室に来てね。回答欄が全部ずれていたから追試だよ」
「え? ずれて……あ、はいっ……」
 答案用紙を受け取った鷲尾は確認して悲しそうな様子を見せる。
 悪い点数を取って親に叱られることに怯えた子供の様な反応に見えてしまい、遙は首を傾げる。
 どうも、この鷲尾は同世代にしては行動が幼いように思える。
 しかし関わりたくはない。
 補講がない学生は先に退出していいと言われ、遙は真っ先に講義室を出る。
 今日は厄日だ。早く帰ろう。 
 自宅の防音室が一番落ち着く。しっかりと施錠してスマホも電源を切ってしまえば凜に邪魔されることもないだろう。
 午後の講義もどうせ試験が戻ってくるだけだ。座学は問題ないと、講義室を出た足で真っ直ぐ帰宅した。



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