Liar Liar Endless Repeat Liar

ROSE

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滝川遙

滝川遙 1

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 夢で生きていけるほど現実は甘くない。
 みんな心のどこかでは気づいている。
 けれどもここに居る人達はその現実から目を逸らして生きているのだろう。はるかもそのひとりだ。
 芸術で大学に入ったところでその道で生きられるのはほんの一握りであるという現実から目を背けながら弦を張り替える金すらなく、切れてくれるなと祈りながら弾く日々。
 音楽のことだけ考えて生きていたい。
 けれども現実は甘くない。
 前期日程の試験。
 結果表を見て目の前が暗くなった。

 滝川遙たきがわはるかは夢見がちと言うほどではないが、やはり他の同級生と同じくある程度は夢を見て芸術学部に入った。コースは音楽。専攻は残念ながらピアノだ。弦楽器を希望したが、専門の講師がいない。そもそも弦楽器はここらでは少数派なのだ。それでも今更他で受験するなんて考えられなかった。
 一応ピアノは五歳から習っていた。けれどもピアノ専攻でやっていけるほどの腕ではない。
 合格したのだって単純に筆記試験の点が取れていたからだ。
 滝川遙には致命的な欠点がある。音楽家を目指す上での致命的な欠点。
 それはあがり症だ。
 人前に出るのが苦手。
 試験でも盛大にやらかしてしまった。
 音楽の実技試験は受講者全員と教授、そして非常勤講師たちに注目された場で課題三曲を演奏する。課題移調伴奏、課題曲、自由曲の三曲。課題移調伴奏は編曲が含まれる。
 遙は前後の受講者の演奏も、自分が礼をした後のことも覚えていなかったが成績表にはでかでかと「可」の文字があった。それも講師陣の慈悲の可だ。

 レッスンではきちんと弾けていた部分が全く弾けていませんでした。次は頑張りましょう。

 力が入りすぎています。もっとリラックスを心がけましょう。大丈夫。練習ではきちんと弾けています。

 もう少し本番に向けたメンタルトレーニングを重視した方が良いかも知れません。いつも真面目に練習しているだけに残念な結果でした。

 添えられたコメントが痛い。とても気を使わせてしまっている上に遠回しに「向いていない」と言われているように感じてしまう。
 自覚はある。
 人の視線が怖いだとか人前に出ると震えてしまったり呼吸が出来なくなるような感覚に陥る。もうすぐ十九年になる人生なのに全く慣れるということを知らない自分の体に怒りさえ感じていた。
 才能という物が人前での演奏を示すのであれば遙は間違いなく才能のない人間だ。メンタルコントロールをできない。練習の成果を本番で発揮出来ないようであれば演奏家への道は閉ざされてしまっている。
 これは本格的に進路に困る。まだ焦るほどではない。しかしあがり症を克服できなければこのコースで夢に届かなかった人間が選べる次の道、教職課程すら閉ざされてしまう。
 溜息が出る。
 成績表をトートバッグに押し込み、重たいハードケースを背負う。
 専攻科には用意されていない弦楽器。けれども練習室でなら弾くことが出来る。空き講時間を有効活用するためだと頭の中で言い訳し、毎日持ち運んでいる。
 きっかけは単純だった。憧れだ。
 人が憧れるきっかけは様々だと思う。ゲームやアニメのキャラクターがその楽器だったからだとか、知り合いがたまたま演奏していて、だとか。ピアノ以外の楽器を専攻する子達は吹奏楽部でたまたま担当楽器になったからなんて子が多かったりもする。ピアノ科から声楽やパーカッションに移る子も珍しくはないから入学したときの専攻が全てでもない。
 遙が毎日持ち運んでいる楽器はチェロだ。真っ赤なハードケースに猫のキャラクターのステッカーを貼っている。一目で自分のケースだとわかるように。
 この楽器を選んだきっかけは単純な憧れだった。
 小学生の頃、音楽の授業で見せられた映像の中に真っ赤なドレスを着たチェリストが居た。演奏していた曲すら覚えていないのに、その真っ赤なドレスがとてもかっこよく見えた。
 幸運な環境だったと思う。遙は同年代の学生と比べてもとても恵まれた環境だと。
 正直なところ両親とはあまり上手くいっていない。けれどもやりたいことをやらせてくれる。それなり以上の支援も。
 弦楽器を始めたいなんて突然言い出した我が子を教室に通わせてくれると言うだけでも恵まれている。そのくらい弦楽器は敷居が高い。すぐ辞めるかも知れない。実際同じ教室に通う人の顔ぶれはよく替わっていたと思う。それでも遙の父は楽器を買い与え教室に通わせてくれた。そればかりは素直に感謝している。
 しかしこんなにも移動が大変な楽器だとは思わなかった。もっと小さな楽器だったら楽なのにと思わずにはいられない。
 試験終わりの憂鬱な気分を解消すべく練習室に向かおうかと思ったが、音楽科棟の練習室は管楽器の先輩達が埋めてしまっていることを思い出す。そうなると教育学部のある棟へ迷路のような道を通り、更に古い階段を上がって二階へ行かなくてはいけない。増改築を繰り返したこの建物は本当に迷路のような作りなのだ。
 しんどい。この中身よりも重いケースを背負って階段を上がるだけでも重労働なのにあの迷路を通らなくてはいけないのかと考えると帰宅した方が幾分かマシに思えた。
 よし、帰ろう。
 家に帰るにもまた坂道が難関ではあるのだが、キャンパスから徒歩五分の距離そう悪くない立地だ。
 玄関を出ると移動する学生が多い中庭を栗鼠が駆け抜けていくのが見えた。誰かが餌付けしているのか、どこかふっくらしているように見える。
 夏期休暇前のこの時期はどうしても暑い。あまり長距離を歩くとなると楽器が心配になってしまう程度には。
 正門を出て左手に、やや急な坂道を上がればカフェオレのような色をした外壁が目に入る。その建物のD室が遙の家だ。
 風呂場とトイレさえ別れていればそれほど住む場所に拘りはなかったが、不動産会社を経営している父のおかげでとてもいい物件に住むことが出来ている。この点でも恵まれているだろう。
 玄関で靴を脱ぐ。楽器を倒さないように置くために椅子を置いてある。壁と椅子の隙間にケースを入れて倒さないように気をつけながら靴を脱ぐ。
 一階は浴室とトイレと収納があるだけなのでまたケースを背負って二階に上がる。
 ユニット防音室、電子ピアノ、ロフトベット。ロフトベッドの下に机が入るタイプで、ついでに服を掛けたりもしている。これが部屋にある全てだ。
 遙が圧倒的に恵まれているのはこの防音室の存在だ。好きなだけ練習できる。本番に活かされなくても。
 防音室にケースを押し込んでとりあえずパソコンを起動する。パソコンは防音室内の折りたたみデスクの上に置きっぱなしのことが多い。自分の演奏を録音して分析するのに便利だからだ。
 一応メールだけは確認しておこうと思いながら、今日の試験結果が気になってしまう。
 追試はまだマシだ。どうせ追試になるのは遙だけだから、ピアノ科の教授と二人きりの追試になる。まだ相手がひとりならあそこまで酷くはないだろう。
 メールを開けばりんから届いた添付ファイル付きの一通の他はソフトウェアのバージョンアップキャンペーンを知らせる広告や新作プラグインの広告で埋め尽くされていた。
「なんだろう?」
 凜は遙の数少ない友人と呼べる存在だろう。小学校低学年の頃から一緒で、大学入学を決めたのだって凜の存在が大きい。専攻こそ違うが、一緒に過ごす時間も少なくはない。

 アイコン出来たよ~
 お代は学食で

 たったそれだけの短いメッセージと共にイラストのデータが添付されていた。
 二次元のイケメンなのか美女なのかわからない人物がチェロを弾いているらしい絵だ。紫にブルー系統のメッシュが入っている個性的な髪色のキャラクターは一体何なのだろう。そう思ったところで、数日前に音楽投稿サイトに演奏を投稿してみろと言われていたことを思い出す。

「見られるのが怖いなら見てないところで弾けばいいじゃん」
 さも当たり前という様子で凜は言う。男だか女だかわからない個性を突き抜けた格好の凜は良くも悪くもひと目を気にしない遙からすればとても羨ましい性格をしている。
「見てないところって……自宅の防音室?」
「うん。折角あるんだし、機材も揃ってるでしょ」
 ややハスキーな声。本当に性別不詳だななどと下らないことを考えながら続きを待った。
「練習ならちゃんと弾けるなら練習を録音して公開すればいいんじゃないの? 人前に出るのが怖ければ自信がつくまで部屋で練習しろってカンジ?」
「なるほど?」
「上手くいけば宅録のバイトになるかもよ?」
 そう言う凜はイラストでちまちま小遣い稼ぎをしている。絵具を買う金を得るためだと言っているが、それなら製作もデジタルアートにしてしまえばいいのではないかと口にすれば怒らせてしまう。匂いや質感が重要らしい。
「投稿用のアイコン描いてあげるから頑張りなさい!」
 ばしんと背を叩かれ、突然の痛みに驚いた。

 まさか本気だったとは。
 一応SNSのアカウントも持ってはいる。音楽投稿用のサイトもいくつか調べてみたこともあったが、いざ自分が使うとなると敷居が高いような気がしていた。動画サイトなんかはなおさらだ。顔こそ隠していても手元を映している動画は多い。想像しただけでも震えてしまいそうだといつも最後まで観られずにブラウザを閉じてしまう。
 送り付けられたアイコンを見て溜息が出る。
 これはプレッシャーをかけられている。遙の逃げ場を塞ぐいつもの手段だ。
 気が重い。
 それを誤魔化すようにケースから楽器を取り出す。
 今の楽器は三番目だ。最初は分数楽器、二番目は中国製。今の楽器はルーマニア製のよく鳴る楽器だ。
 美しい虎目に癒やされる。抱きしめれば安心する。なによりその響きが愛おしい。
 遙は心を落ち着けたい時はいつも練習曲を弾く。基礎教則本には必要なことが全て詰まっていると信じている。だからこそ、練習曲は無駄にはならない。
 防音室の扉を閉めれば完全にひとりの世界だ。
 チェロと遙だけの対話。
 人生にこの時間だけがあればいいのに。
 そんな願いは、人間として生きている限り絶対に叶うことがないのに、遙はいつまで経っても諦めることが出来ずにいる。
 
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