知らない子

ROSE

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生まれなかった子

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 小さいときから他の人には見えないものが見えていた。
 母の話では家の中を走り回る猿や空を飛ぶぬいぐるみが見えていたらしい。
 頻繁に見たのは蛇だ。
 酒を飲んだ父に蛇が巻きついているのをよく見た。
 そういう話を人前でしちゃダメだよと母はよく言っていた。

 夏休み、母の実家のある小樽に連れていかれた。目的は先生に会うこと。
 先生と言っても学校の先生ではない。母の先生らしいけれど、所謂霊能者とかそう言った類いの人で何人もお弟子さんを抱えた拝み屋の人だった。
 先生は私をとても可愛がってくれた。
 見た目は両腕にひどい火傷のあとがある怖い男の人だ。母と同じかそれより少し上くらいに見える。いつも作務衣を着ていて、少し張るような声で話した。腕の火傷は若い頃の厳しい修行の名残だと母が言っていた。
 先生は私が他の人には見えないものの話をしてもうんうんと聞いてくれて、他の大人みたいに気のせいだとか忘れろなんて言わない。代わりに怖いときに唱えるおまじないを教えてくれたり、お守りをくれたりする。
 本当にたまにお手伝いを頼まれることもあった。なんでも蛇が見える場所を教えてほしいと。
 先生にはあの蛇が見えないらしかった。だけど、その存在を否定したりはしない。
 熱心に話を聞いてくれるし、信じてもらえるのはなんだか嬉しかった。

 先生の家に行くと、リョーマと言う同じ歳の男の子がいた。先生の息子だけどへんなものは見えないらしい。
 先生がお弟子さんとなにかをしている時はリョーマと遊んでいることが多かったけれど、敷地から出てはいけないとよく言われた。
 先生の家は大きなログハウスのような建物と、お詣りをするための別館、それと家族が暮らす家がある山一体が敷地だった。
 建物のそばの駐車場になっている場所より先は子供だけで出てはいけないと何度も言われたし、リョーマも普段がらそう言い聞かされているようだった。
 その日は先生の別のお客さんもいたから子供は外で遊んでいた。
 遊ぶと言っても虫を捕まえたり走り回ったりする程度で二人ともおもちゃは持っていなかった。
 駐車場で拾った木の枝を手に石を転がして遊んでいた。
 どっちが遠くまで転がせるかとかそんな遊びだったと思う。
 あの頃はそんな遊びでも夢中になれた。
 けれども何度か石を転がした後、私の使っていた枝が折れてしまった。
 だから新しい枝を探そうときょろきょろ辺りを見渡した時、黒い影が見えた。それはお客さんの車の下から這い出てきたように見えた。
 びっくりしてとっさにリョーマの腕を掴んだ。
「なに? どうした?」
「なんかいる」
 車の方を指してもリョーマには影が見えないようだった。
 けれども影は車の下から私たちの方へゆっくりと近づいてくる。
 蛇だと思った。いつも父に巻き付いている蛇よりも大きな蛇に見えた。
「蛇がいる」
 リョーマの手を引いてゆっくりと離れようとした。
「ほんっと怖がりだな、おまえ」
 リョーマが馬鹿にするように言うから少しむっときたけれど、それ以上に這い寄ってくる足のない生き物が恐ろしかった。
「先生のところに行かなきゃ」
「父さんは仕事中だよ」
「でも」
 大きい。
 あれが蛇なら私たちなんてひと呑みにしてしまえるほど大きい。
 私はそれが怖くて堪らなかった。
 馬鹿にされたけれど、リョーマの手を引っ張って、ログハウスのような建物に駆け込んだ。
 ここは先生が相談を受けたりお祓いをしたりする建物だから、たぶん安全だと思った。
 見た目はお洒落だけれど、たぶん特別ななにかがある建物だ。
 だから私はその場所に行くのが嫌いではなかった。
 木の階段を上って、ガラスのはめられた木の扉を開くと金属のベルが鳴る。
 中に入ってもここには誰もいなかった。けれどもここならあの蛇は入ってこないと思った。
 お香の匂いがする。この場所はいつもこのお香を焚いているから、なんだか落ち着く。
「いくら山ん中でも蛇なんてそうそう出てこないのに」
 リョーマはつまらなさそうにそう言って、ソファーに寝転がった。この調子じゃもう外で遊べないと思ったのだろう。
 つまらなさそうなリョーマを見ていると、電話が鳴った。
 この建物には手回し式の電話が壁に取り付けられている。もう携帯電話を持つ人が増えてきたというのに、当時も既に骨董品のようなそれが、なんと現役で仕事をしていたのだ。
 電話は壁に掛けられていて、子供の背では微妙に届かない。特に私は背が低い方だったから、受話器を取ることが難しい。
 けれどもリョーマは全く反応せずに天井を眺めている。
 大人もいないようだ。現に誰も来ない。
 よその家の電話に勝手に出るのもどうかと思ったけれど、なぜかその時の私は受話器を取ることで頭がいっぱいだった。
 木の椅子を踏み台代わりに運んで、椅子に乗って受話器を取ってしまったのだ。
「もしもし、先生はいまいません」
 ここに電話をすると言うことは先生のお客さんだろうと思ったからそう言った。
 けれども、電話の声はテレビの砂嵐みたいなヘンな音がする。
「きみは……」
 掠れたような声がした。
「きみは……生まれなかった子だね……」
 その声を聞いた途端、体ががたがたと震えはじめた。
 この電話の相手はきっと悪いものだ。怖いものだから早く電話から離れないと。
 そう思うけれど、手が磁石みたいに受話器にくっついてしまっている。
「そっちに……いてはいけない」
 これ以上聞いてはだめだ。そう思ったとき、おまじないを思い出した。
 慌てておまじないを唱えた。
 それがどんなおまじないだったのか、今はもう思い出すことが出来ないけれど、確かにその時必死に唱えた。
 そうしたら、受話器がストンと手から落ち、あの嫌な感じが離れていった。
「なにやってんだよ。電話に悪戯するなって言われてるだろ?」
 リョーマの呆れた声が響く。
「え?」
「その電話、父さんのお気に入りなんだから」
 さっさと戻せというリョーマの声で、あのベルが聞こえていたのは私だけだったのだと感じた。
 リョーマは電話を無視していたのではなく、ベルが聞こえていなかったのだ。
 リョーマに受話器を戻して貰って、それから先生が来るのを待った。私の両親は、家の方で、先生の奥さんとお話をしているらしい。
 戻ってきた先生は、部屋の中を一周見渡して、それから私を見た。
「なにか見たのかい?」
「……電話が聞こえました。あと……蛇もみた……と思う……」
 リョーマには見えなかった。リョーマには聞こえなかった。
 そう思うと、リョーマに嘘つき呼ばわりされるのではないかと怖くなった。
「電話に出たの?」
 いつもより優しい声で訊ねられたから、そのまま頷いた。
「相手はなにか言っていた?」
「……生まれなかった子って……そっちにいてはいけないって」
 たぶん、次は「迎えに行くよ」って言おうとしていたと思う。
 けれど、それを言葉にするのが怖くて黙り込んだ。
 すると先生は少し考え込んで、「おいで」と二階に招いた。
 二階は先生がお祓いをするお部屋がある。仏像だとか掛け軸だとか、あとよくわからない大切だと思われる物がたくさん。
 あとお坊さんが座るような厚い座布団がいくつかある。
 先生は私を座布団に座らせて、それから数珠を持たせて手を合わせるように言った。
 それから、たぶんお経だと思う。結構長い間それを唱えて、私の両肩を何度か数珠で撫でた。
 
 全部終わってから、先生に訊ねた。
「生まれなかった子ってどういう意味?」
 普段は質問に答えてくれる先生は、少し黙り込んで、それから私の頭を撫でた。
「……そのうちね」
 そのうちね。
 大きくなったら。
 その夏、それ以上のことは教えて貰えなかった。

 あの夏から十年ほど過ぎたとき、私は母の口からあの時の意味を教えて貰った。
 先生は体を壊してしまって、数年会っていない。
 母の話だと、私が生まれたとき、息をしていなかったらしい。もう、死んでいると判断されそうになった時、ようやく息をしたと。
 無事に生まれないかも知れないと言われていたから、先生のところで祈祷をお願いして、先生が必死に祈祷してくれたからあの時息をしたのだと。
 生まれなかった子。生まれるはずじゃなかった子。
 私がおかしな物を見やすい体質だったのは、それが原因かもしれないと。
 今の私は、もうなにも見ることがない。
 けれども、時折……あの頃の気配を感じるような気がするときがある。
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