黒炎の宝冠

ROSE

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8 演奏会

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 ルイスの様子が気になったが、気持ちは切り替えなくてはいけない。
 演奏の順番は年齢順。つまり、長兄に始まりアリアで終わる。この厄介さに最も早く気がついたのは次兄だった。
「参ったね。この順番だと、妙な魔法を使われたら、解くことができない」
 おそらく長兄も同じことを考えているのだろう。少し苛立った様子で舞台へ上がっていった。
 彼の伴奏者は彼と同じくらい屈強そうに見える軍人だが、とても柔らかい音を出す。手首を相当繊細に扱えるのだろうなどと思わず見入っていると、ホセに声を掛けられた。
「レイナ、気をつけて」
「え?」
「……彼女」
 ホセは視線でアリアを示す。既に準備ができているらしい彼女はフラン・エチソと共に壁際に立っている。初めて見たが、やはり設定通りの容姿なのですぐに認識できた。
 レイナとしては気になるのはフラン・エチソの方だ。彼はホセを一方的にライバル視しているが本人もかなり優れた演奏家だ。そして、予知能力を持っている。厄介だ。あの二人が組むと行動範囲を予測しての追跡をされる可能性がある。ストーカーが強化されてしまうではないか。
「なにか仕掛けてくるかもしれない」
 ホセはそれだけ言って視線を舞台に戻す。
 いつの間にか長兄の演奏は終わり長姉の使用人が彼女のハープを舞台に運ぶところだった。
 長姉の選曲は技巧が目立つ華やかな曲だ。そして彼女の演奏に合わせて美しい花が咲く。
「うーん、やっぱり貴族相手だとああいう魔法の方が評価高いかなぁ」
 ノアが考え込む仕草をする。
「そもそもなにが審査基準になるのかよくわかりませんしね」
 誰が、なにを基準に審査するのかすら知らされていない。どうやって順位が決まるのか。そもそもその順位がなにに影響するのか、兄姉は誰も知らない様子だ。
「まぁ、僕は僕の演奏をするだけだけどね」
 エレナと入れ替わるようにノアが舞台に上がった。彼はここに備え付けられたパイプオルガンを演奏する。
 ノアの演奏は厳かだ。演奏と外見がジェイコブと反対なのではないかと思うほど、普段の彼の様子と音楽が一致しない。
 技巧重視のフーガだった。舞台の両端に炎の柱が上がっていく。見ているレイナの方が緊張する程炎は交互に現れたり消えたりを繰り返す。
 とても美しくて、恐ろしい光景だ。遠目で見れば綺麗でも、あの炎はノアの気まぐれで人を傷つけられる。
 息苦しくなるほど長く感じられたその演奏は時間としては長くなく、すぐに次姉と交代する。
 次姉はクラリネット奏者だ。彼女の演奏はとても甘い印象で愛らしい。今日も穏やかで愛らしい曲を選んでいた。エマの魔法は控えめでふわふわとシャボン玉のようなものが浮かぶ。
 綺麗。
 思わず見惚れる。レイナはまず選ばない魔法だ。
 うっとりと彼女の演奏に聴き入っていると、そろそろ準備をするようにホセに促された。彼は当然のようにレイナの演奏用の椅子を持っている。
「調弦は?」
「済んでるわ」
 そう、答え、エマの退場を待つ。
 演奏を追えたエマはどこかほっとした様子だった。彼女はとても緊張しやすい。しかし、レイナはそう言った経験がない。舞台に立っても楽器を抱きしめると凄く安心できてしまう。
 舞台に進めば、ルイスとアルベルトが見える。ルイスに軽く手を振れば彼は嬉しそうに手を振り返してくれた。
 ホセの準備ができていることを確認し、視線で合図する。
 今日選曲したのは、技巧重視のかなり難易度の高い曲だ。失敗のリスクも勿論ある。しかし、兄たちは期待してくれている。それに、この曲は聴く人の一番幸せな思い出を見せてくれる。
 相手がホセであるから信頼して選曲できた面もある。この曲は合奏の形をとりながら、実際のところは競い合いだ。レイナ自身の技術も重要だが、伴奏者にも高い技能が求められる。
 しかし、ホセはまるでレイナの一部であるかのように完璧に弾きこなしてくれた。
 演奏が終わると、観客はしばらく呆けた様子で、それから飛び上がるように拍手をする。
 ルイスを見れば、悲しそうな顔をしていて、レイナの視線に気付いて慌てて笑みを浮かべたように思えた。一体、彼にはなにが見えたのだろう。気になるけれど、訊ねるのは失礼かもしれないと思う。
 舞台袖へ向かうと、アリアとすれ違う。彼女の楽器はなんというか、風変わりだ。エレキヴァイオリンのように見える。
「お姉様、とても素敵な演奏でしたわ」
 すれ違う際に声を掛けられる。
「そう」
 技術には自信がある。伴奏者も最高で失敗もなかったのだから、当然だ。
 舞台袖の壁際に下がる。ホセは警戒しているようだが、あの風変わりな楽器のせいだろうか。共鳴する部分がない。『EVER』の世界でアリアが使っていた物とも違う。
「あの楽器、どういうものなのかしら?」
 思わず口に出る。
「……宮廷魔術師と宮廷楽団が共同開発した試作品。素人でもそれなりの演奏と魔術が使えるようになる」
 ホセが答える。つまり、ホセもあれを作った一員なのだろう。
「お父様の命令かしら?」
「そう。彼女の為だと知っていたら断った」
 ホセはそう言って、胸元から音叉を取り出す。
「レイナ、これを」
 レイナに音叉を手渡し、ホセは舞台を見る。
「ご兄姉の様子がおかしくなったら使って」
 彼が一体なにに警戒しているのかはわからない。
 アリアの演奏は、楽器の音こそ風変わりではあるが、演奏する曲は初級入門といった印象だ。そういえば、『EVER』の中で、彼女はルイスにそのことを馬鹿にされるシーンがあった。場違いな実力だと。
 けれども彼女の育った環境を考えれば初めて手渡された楽器でそこそこ弾けている方だとは思う。
「四年でこれじゃあこの先も期待できないだろうね」
 ノアが厳しい声で言う。
「仕方がないわ。彼女は基礎教育も受けずに育ったのでしょう?」
 読み書きがどの程度できるのかさえ定かではない。しかし、レイナの日記という名の練習記録を盗み見る辺りでは、一応は文字が読めるのかもしれない。
「レイナ、気をつけて。見たことのない魔法の色だ」
 ノアが客席の方を見ようとする。
「またルイスがおかしくならないと良いけど……」
 ホセは兄姉たちが危ないと思ったようだけど、ノアの様子では客席の方が危ないようだ。
「どういう魔法かわかりますか?」
「……少し、レイナの魔法に近いかもしれない。でも、違うな。多分、パズルみたいに考えを入れ替えてしまうものだろうね。どの程度できるのかはわからないけれど、下手をすれば記憶も弄れるようになるんじゃないかな?」
 とても危険な魔法だと彼は言う。

《レイナお姉様が一番じゃなきゃだめ》

 頭の中に声が響く。

《レイナお姉様は最高得点よ》

 まさかとは思うが、彼女は審査員を洗脳しようとしているのだろうか。
 なぜだろう。胸の奥で黒い感情が湧き上がりそうになる。
「こんな馬鹿なことをしなくても、レイナの実力は確かだと思うけど……あの異物、随分レイナにつきまとうじゃないか。レイナ、あれになにかしたのかい?」
 ノアが呆れたように訊ねる。
 心当たりがないから困っている。
「強いて言えば、うっかり挨拶をしてしまったことでしょうか」
 長兄の言うことは聞いておくべきだった。後悔しても遅い。
 音楽への情熱を愚弄する行為を平気で行える人間に関わるべきではなかった。
「……本当にそれだけ?」
 ノアは疑うようにレイナを見るが、心当たりはない。
「……私の見た目が好みだったとか? あまり嬉しくはないけど……」
 フランと接触しているということは、テオドラともなんらかの接点があるだろう。テオドラはフランに片思い中のはずだ。
「ふむ。兄さんは先程の罰としてレイナとルイスの結婚を延期させようと考えているようだけど、僕はそれに反対した方がいいかな?」
 ノアは顎に手を当てて考える仕草をする。
 会場に拍手が響く。アリアの演奏が終わったらしい。
「お姉様! 私の演奏聴いて頂けましたか?」
 舞台から勢いよく掛けてきたアリアに声を掛けられる。ここで相手をしてはいけない。ノアとの会話に夢中になっている風を装う。
「そろそろルイスと一緒にドレスを選ぼうと思っていたのに、残念です」
「一緒に選ぶの? 当日まで楽しみにさせといた方がいいんじゃないかい?」
「私、あまり興味がないので、ルイスの好みで選んで貰った方がいいのかなって」
 レイナ・アルシナシオンの外見は整っているし、黒咲凛の感覚からすればかなり好みだ。しかし、レイナを着飾らせたところで自分を鑑賞して楽しむことができないのであればあまり着飾ることを楽しめない。美しい私、ではなく、美しい物を見ていたいのだ。
「それに、一緒に選べばルイスのは私が選べるでしょう?」
 ルイスは穏やかながらも整った外見だ。着せ甲斐がある。
「レイナ、ルイスの外見かなり気に入っているんだね」
「そう言われて見ればそうですね」
 メイン攻略キャラクターにしているくらいだから、多分そう。
 ルイスは危ないところも多いけれど、心を開くと一途に愛してくれる。束縛が少しきつくて嫉妬深いだけで……。
 うん。とても一途だ。
「彼と結婚しないでって言ったら、レイナ、どうする?」
 ノアの言葉に驚く。一体なにを言い出すのだろう。
「お兄様?」
「彼は、暴走するととても危険だよ」
「それは誰だって同じですよ。それに……私は……」
 いつからだろう。ルイスに捨てられるのが怖いのは。それは、『EVER』の世界の話だけじゃない。彼になら傷つけられてもいいと思ったのに、今は傷つくことを恐れている。
「……ルイスともっと音を重ねたいです」
 そう、口にすると妙にしっくりくる。少なくとも、この肉体は彼とそういう関係になりたいのだ。
「レイナらしいね」
 ノアは笑う。
 すると、審査結果が出たらしく、全員が舞台に呼ばれた。
 多分優勝は、レイナかノアだろう。技巧面的に。もしくはジェイコブ。しかし、芸術面で評価されるとすればエレナかもしれない。そんなことを考えながら舞台に立つ。
「今夜の演奏会は、子供たちには伏せていたが、王位継承者を決めるための審査を兼ねていた。審査員の意見と、私の最終的な判断で最も優れた者を次王とする」
 父の落ち着いた声が告げた内容を理解するのに時間が掛かった。
「王位継承者を?」
 長兄は眉をひそめる。本来であれば彼が継承するのが筋だ。それに、彼には真面目すぎる以外に欠点が浮かばない。
「そうだ。審査員たちは厳正な審査をした。そうであろう?」
 父は客席の方を確認する。
 嘘だ。アリアが彼らを洗脳したはずだ。
「厳正な審査の結果、王位を継承するのは、レイナ、お前だ」
 父の言葉に耳を疑う。
「お父様、それは間違いです。ジェイコブお兄様ほど王の器に相応しい方はいらっしゃいません」
 兄が二人とも存命なのに、レイナが王位を継承する理由がない。
 こうやって辻褄を合わせようとしている?
「これは厳正な審査の結果だ。それに、私は、お前こそが相応しいと考えている。その才能は見事だ。なにより、民を愛する心を持っている」
「私が愛するのは音楽だけです」
 レイナは反射的にそう言い放つ。
 事実だ。レイナ・アルシナシオンは音楽のことしか考えられない。玉座など無理だ。
 思わず、長兄を見上げる。
「……レイナならばやむを得ない……しかし、この選考方法には疑問が残る」
「曲目も魔法もお前たちが自身で選んだものだ。準備期間も平等。なにが不満だ?」
 長兄と父が睨み合う。こういうものは苦手だ。レイナは思わず視線を逸らし、客席のルイスに助けを求める。
 ルイスは心底驚いている様子だ。ぽかんと口を開け、それから気を取り直したようにいつもの笑みを浮かべる。
 隣のアルベルトは考え込むように顎に手を当て、それから自分の髪を弄りだした。彼もまた、なにか疑問を抱いているようだ。
「来年には私は隠居してレイナに譲位する。それに伴い、レイナには悪いが、ルイスとの結婚は少し延期して貰う。即位後、政に慣れるまでは」
 父は勝手にぽんぽんと話を進めてしまう。
「そんな……来週にはルイスとドレスの話をしようと思っていたのに……」
「ルイスと結婚したいのであれば王位を継承しなさい。そうしないのであれば彼を国外追放にする」
 むちゃくちゃだ。
 勝手に婚約者に選んでおいて、レイナが彼を気に入ったと知ればこの仕打ち。
 いや、これはレイナに断らせないための手段だ。
「……審査に、本当に不正はありませんか?」
「当然だ。全員に、魔法の使用を許可しているのだから」
 魔法使用可。つまり、父は最初からアリアに洗脳魔法を使わせる気だったということだ。
「……ルイス……」
 客席を見れば、彼の顔が青くなっていく。今にもふらつきそうな彼を支えるのはアルベルトだ。
「……わかりました。お兄様方と共に、努力させて頂きます」
 ルイスを国外追放にするわけにはいかない。今は、納得した不利をしよう。
 二人の兄に視線を送る。ノアはすぐにレイナの考えを理解してくれたようだが、ジェイコブはとても心配そうだ。
 二人の姉を見れば、二人とも顔が青い。父の豹変に驚いているのか、レイナが即位すると不都合があるのか。次姉の方はおそらく、すぐにでも嫁がされる可能性があるからだろう。彼女はただ、穏やかな生活を望んでいる。
 不可解なのは父が長兄に玉座を渡したくないと考えている点だ。
 すぐにでもルイスに駆け寄りたい気持ちを抑え、一礼し、舞台を降りる。
 自分でもわかるほど震えている。レイナは緊張などすることがないはずなのに、未知のなにかに怯えていた。
「レイナ、大丈夫?」
 ノアに声を掛けられ、びくりとする。
「え、ええ……平気ですわ」
 どういう経緯であれ、レイナは玉座に就く運命らしい。
「それにしても、父上はなにを考えているのか……。確かに演奏の腕だけならレイナが優れているとは思うけど、それだけで玉座を譲るなんてどうかしてる。別に、レイナが悪いというわけじゃないよ。でも、ほら、レイナは、音楽にしか関心が向かないだろう? 国政に向いているとは思えない」
 ノアは心底案ずるように言う。それはレイナ自身自覚している事実だ。
「でも、断ればルイスを国外追放にするって……彼と会えなくなってしまうのは嫌です」
 こんなくだらないことのために、巻き込まれる彼が哀れだ。
「レイナ……そんなに彼が気に入っているのかい?」
 ノアは驚きを見せた。
「レイナが彼を大切に思っているなら、僕もそれを尊重したいと思うし、兄さんだってそう考えるはずだ」
 ねぇ、ノアは長兄を見上げる。
「……そうだな」
 ジェイコブは静かに答え、それから長姉と次姉を見渡し、再びレイナに目を向けた。
「お前には兄姉が四人もいる。頼れ」
 意外な言葉だった。
「お前一人では困難なことも兄姉と共になら乗り越えられるだろう」
 真摯な瞳に見つめられ、どきりとする。
 これは長兄なりの励ましや慰めなのだろうか。いや、彼は真剣にそう考えているだろう。
「お兄様こそ玉座に相応しいお方なのに……」
 泣いてしまいそうだ。
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「私は、お前なら玉座を譲っても惜しくない」
 あまりに優しい声に、とうとう耐えきれなくなり涙が溢れ出てしまう。
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「ごめんなさい……」
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 次兄は深い溜息を吐く。
「それにしても、どうして僕じゃなくて兄さんに抱きつくのかな? レイナは。僕の方がレイナをかわいがってきたと思うのだけど?」
 からかうような声に少しだけ緊張が和らぐ。
「……ジェイコブお兄様はお体が立派なので楽器を抱きしめるときのような安心感があります」
 更にぎゅっと抱きしめれば、長兄がわずかに揺らぐ。
「レイナ……婚約者のいる娘が兄とは言えこういうことをするべきではない」
 硬直した間に考えたらしい長兄の言葉はそれだった。
「では、ルイスにはしてもいいのでしょうか?」
 婚約者がいるからだめなのであれば、婚約者になら問題ないと言うことだろうかと訊ねれば、二人の兄は複雑そうな顔をする。
「……好ましくはない」
「ルイスは喜ぶだろうけどねぇ。僕たちはあまり嬉しくはないかな」
 兄たちの反応にレイナは困惑してしまう。
 つまり、ハグは喜ばしいことではないらしい。
「チェロは抱きしめるととっても喜ぶわ。人間はだめなのかしら?」
 抱きしめると安心する。それは兄も楽器も同じだ。それならばきっと、ルイスを抱きしめたときだって安心するはずなのに、二人の兄は好ましくないという表情をする。
「ルイスへのハグは、正式に結婚してからにしないと、兄さんがルイスをいじめてしまうよ」
 ノアはからかうように言う。
「それはだめよ。ルイスは私の婚約者なのだから。お兄様方も仲良くしてくださらないと」
 そう言ったところで、ルイスがなにか大切な話をしたがっていたことを思い出す。
「ああ、ルイスがなにか話があるって。会ってきてもよろしいですか?」
 二人の兄に訊ねれば、二人は顔を見合わせて渋々と言った様子で頷いてくれた。
 レイナは少し駆け足でルイスを探す。
 煌びやかな彼は、同じく目立つ外見のアルベルトと共に居た。
「ルイス」
 声を掛ければすぐに気がついたようで、少しだけ疲れた笑みを見せる。
「レイナ、君、大丈夫かい?」
 きっとあの出来事のことを言っている。
「私は、まぁ、なんとかなるわ。お兄様方が協力してくださるし。それよりルイス、ごめんなさい。まさかお父様があんなことを言うなんて思わなくて」
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「驚いたよ。でも、君は無理をしていないかい? 玉座なんて、望んでいないだろう?」
 心配そうに見つめられると少し居心地が悪い。
「あなたと会えなくなってしまうのは嫌よ。だったら、沢山お勉強が必要だけど、女王になった方がいいのかなって」
 とても消極的な理由だ。国民には申し訳ないけれど、それでも、ルイスが大切だ。
「レイナ様、なんだかんだでルイスのこと大好きですよね」
 アルベルトがからかうように言う。
「そう、なのかしら。でも、ルイスには側にいて欲しいと思うし……もっと私の音を聴いて欲しい。それに、ルイスの音ももっと聴きたいし、音を重ねたいわ」
 レイナには好きの感情がよくわからない。
「それが、好きなんじゃないんですか? 僕と一緒でも結構ルイスの話題多いですし」
 そう言われれば、そうかもしれない。
「ホセの話も多いわ」
「……レイナ様、そこはルイスが一番と言うべき場所では?」
 アルベルトは呆れている。
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「レイナ、私は君から離れたりはしないよ。それどころか、君が離れてしまわないか、いつも不安なんだ」
 優しい手が抱きしめ返してくれる。
「……待っててくれる? 私がちゃんと王様できるまであなたは待っててくれる?」
 離れないで欲しい。縋るようにそんなことを言ってしまう。
「レイナ……ああ。勿論。君が、私を選んでくれて、本当に嬉しいよ」
 優しく、頭を撫でられる。
 ルイスの言葉の意味が少し理解できなかったけれど、大きな熊のぬいぐるみを抱きしめるように、ぎゅっと彼の胸に顔を埋める。
「いちゃつくなら余所でやって下さい。ここ、人目があるかもしれませんよ?」
 アルベルトが呆れたように言う。
「ルイスは私の婚約者なのにいけないこと? お兄様方も、正式に結婚するまではだめとおっしゃっていたけれど」
 けれどもルイスに抱きしめられると、チェロを抱きしめているときのような幸福感と、チェロにはない安心感がある。
「私、ハグするの大好きだけど、ルイスにハグされるの、とっても好きよ」
 そう告げれば、ルイスは驚いたように目を開き、それから頬を薔薇色に染める。
「……レイナ……えっと……ありがとう」
 急に恥ずかしそうに手を離し、口元を覆ってしまうルイスに驚く。
「おや? ルイス、いつもレイナ様にぐいぐい迫るくせに照れているのかい?」
 アルベルトはからかうように言う。
「し、仕方ないだろう。レイナに好きだなんて言われたのは初めてだ」
 この反応には少し戸惑う。
 ルイスはこんな性格だっただろうか?
「もっとハグしたかったけど、お兄様に見つかったらお説教だものね。今日はもう我慢するわ。アルベルト、あなたも私がはやくルイスと正式に結婚できるように、私のお勉強に協力してね? そうしたらお兄様方の次にいい席で式に招待してあげるわ」
「レイナ様、それはもう完全に僕は眼中になくルイスが大好きって宣言しちゃってますよ?」
 アルベルトは呆れ、ルイスは照れている。
「私、なにかおかしなことを言ったかしら? ルイスは私の婚約者よ。私とルイスの友人であるアルベルトが私たちの結婚に協力することはなにも不自然ではないと思うの」
「いや、協力はしますけど。レイナ様、そんなに力まなくても座学は余裕でしょう?」
 王族としてそれなりの教育は受けてきたはずだ。けれども、レイナには対人スキルがない。
「そうね。座学はそれほど心配していないけれど、私、音楽以外にはそれほど興味がないから、社交的なことって苦手なの。だから、苦手なことはアルベルトに任せることにするわ。私の親友だもの、頼りにしていいわよね?」
 アルベルトは褒めればすぐにその気になってくれるから、きっと協力してくれるはずだ。
「勿論。僕に任せて下さい。特に噂話の収集は得意ですよ」
 これはつまり大抵の人間の弱味は簡単に掴めるという意味だろう。
「ありがとう。それと、ルイスのこと、お父様から守って下さる? きっとまた良くない魔法でルイスに近づくと思うの」
 父の目的はわからないけれど、ルイスには危険だ。そう、アルベルトに頼めば、ルイスは少し不機嫌そうな顔をする。
「アルベルトになど守られなくても私は」
「またジェイコブお兄様の下敷きにされては困るもの。アルベルトは音楽魔法が得意だから、良くない魔法を掛けられたら、すぐに解いてくれると思うわ。私がずっと側に居られたらいいけど……きっとこれから沢山お勉強をしなくてはいけないからそれは難しいと思うの」
 とても悲しそうな表情を作れば、ルイスは慌て出す。
「レイナ、泣かないで。大丈夫。もうあんな魔法に掛かったりはしないから。レイナ、君が私を愛してくれているとわかった今なら、もう操られたりはしないよ」
 手を握られ、少し驚く。
 また、沢山練習をしている手だ。
「ルイス……あなたの手、とっても努力している人の手だわ」
「え? あ、ああ……もう少しちゃんと手入れをすればよかったかな。指先が少し硬くなってしまって、恥ずかしいな」
 ルイスは慌てて左手を隠す。
「ううん。私、その手が好きよ」
 レイナがいつも合奏したいと言うからだろう。きっと真面目な彼は、沢山練習してくれている。
「そうだ、レイナ。実は君に言っていなかったことがあるんだ」
 ルイスは姿勢を正す。
「なぁに? 悪い話だったら、今は聞きたくないわ」
 とても真面目な表情をされてしまうと、なにを言われるか少し怖い。
「その、レイナは喜んでくれると思ったのだけど……」
 ルイスは少し言いにくそうな顔をする。
「早く言いなよ。それとも、これを見せた方が早いんじゃない?」
 アルベルトはじれったそうに、勝手にルイスの楽器ケースを手に持つ。
「アルベルト! 扱いに気をつけろ」
 ルイスはやや焦りを見せる。
 ケースがいつもより大きいような気がする。気のせいかと思ったが、隣に並んだアルベルトの【妻】が入ったケースよりも大きいので、実際いつもより大きなケースなのだろう。具体的には二本入りそうな大きさだ。
「あら? 楽器を新調したの? それとも予備? 使う魔法によって楽器を替えるとか」
 あまり多くはないけれど、ごく稀に複数の魔力を持っている人は使う魔法によって楽器を持ち替えたりはする。けれどもルイスはそんなに魔力の幅が広くないはずだ。
「あ、いや……レイナが合奏をしたいといつも言っているから……ヴィオラを始めたんだ。やっと、なんとか人に聴かせられる程度になったから、報告しようと」
 思わず瞬きを繰り返してしまう。
 こんな展開、考えていなかった。シナリオにはない。黒咲凜の記憶を光の速さで辿っても、やはりこの展開はなかった。
「ルイス……本当に?」
 しかし、レイナの反応としては、驚きと、喜びが大きい。
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「あ、うん。そんな反応だとは思ってたよ」
 ルイスは少しだけ残念そうだ。
「ヴァイオリンをやめてしまうわけではないのよね?」
「うん。完全にやめたりはしないよ。でも、もしかしたらヴィオラの方が合ってるのかもしれないと思う時があるんだ」
 これは意外だ。正直なところ、ヴィオラはアルベルトに強要してもいいかもしれないくらいには考えていた。
「これもまた愛だよね」
 うんうんとアルベルトは頷く。
 まさか、この楽器が重要とされる世界で、こんな理由で楽器を変えるなんて展開を予測できただろうか。
「レイナが喜ぶなら、私はなんだってするよ」
 まっすぐ見つめられ、体が硬直してしまう。
 一体これはなんだろう。鼓動が、少し速い気がする。
「ルイス……無理はしないで。でも、合奏ができるのは本当に嬉しいわ」
 ちゃんと、いつも通り言えただろうか。少し不安に思いながら、笑う。
 ルイスは少しだけ驚いた様子を見せ、それからいつもの穏やかな笑みを見せてくれる。
 これはもう、認めるしかない。
 レイナは、きっとルイスを諦められない。
 たとえそれが、破滅に向かう感情だとしても。


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