黒炎の宝冠

ROSE

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 あの晩餐会の夜から、兄姉たちとの絆は固いものになったと思う。
 次兄はことある毎にレイナを部屋に招くようになったし、長兄はなにかと理由を付けてはレイナの様子を確認しに来るようになった。それどころか、昨日などは突然散歩に誘い出し、音楽魔法についていくつかのことを教えてくれた。特に、父から受け継いだ洗脳の魔力については他の兄姉たちには決して話さないようにと念押しした後、使うために必要な条件を教えてくれた。
 曰く、父と戦うための手段らしい。

「レイナの魔力はとても強力だ。普通の楽器では耐えられない。より有効に使うためには編曲も必要になるだろう」

 長兄の言葉を脳内で反芻しながら、音楽魔術理論の本を開く。音楽知識と魔術知識の両方を熟知していないと魔術編曲は困難である。普通は。
 しかし、それを簡単に行える人物を一人だけ知っている。ホセだ。そして彼にとってはそれは呼吸と同じような行為であり、他人がなぜそれをできないのか理解できていない。教師には向かない人物だ。となると真面目に座学で学び、自分で応用するしかない。
 昔読んだ叔母の日記の情報に特殊な弓について書かれていたが、レイナはまだそれが実在するかを確認できていない。ただ、『EVER』の世界でレイナが使っていた、国全体を洗脳するような魔法を使うために必要なアイテムだと思われる記述だった。そして、厄介なことに、それは常に弓の形をしているわけではないという。持ち主に相応しい形に変化するらしい。レイナが使うなら弓、父が使うならリードかなにかだろうか。本を広げながら考える。
 危険な物には近づかない方が良い。

「レイナ様、練習時間長過ぎってまた説教されちゃいますよ」
 聞き慣れた声が響く。アルベルトだ。
「弾いてないから大丈夫よ。今は理論のお勉強」
 いつ練習室に彼が入り込んだのか全く気付かないほど本に熱中していたようだ。
「あれ? レイナ様もう上級理論は習得済みでは?」
「音楽魔術理論の編曲中級ってところかしら。最上級になると自分の魔力に一番合った編曲をできるみたいだけど、そこまでは望まないからせめて合奏でもっと威力を発揮できるようになりたいわ」
 もしかすると長兄と合奏できるかもしれない。そうだとしたらそれはとても嬉しい。
「なるほど。そう言うのならホセが得意だけど、僕も少しなら手伝えるかもしれないな。でも、レイナ様そもそも音楽魔術自体そんなに実践経験ないでしょ」
 アルベルトに言われ思う。
 魔力の性質的にあまりおおっぴらには使えない。
「基礎的なところとしては、灯りを点したり、水を溢れさせたりと言ったところですかね」
「治癒魔法が使えるようになるといいわね。ノアお兄様が元気になってくだされば、オルガンと合奏できるもの」
 あの立派なオルガンが使われないのはとても勿体ない。それにオルガンとチェロの合奏も中々素敵だ。
「……レイナ様、ノア殿下が元気になることを望んでいるのか、殿下と合奏したいだけなのかわかりにくすぎます」
「あら、元気になったお兄様と合奏したいの」
「つまり合奏の方が重点ってことですよね?」
 アルベルトは呆れた様子を見せる。これではまるで音楽のことしか考えていないような扱いではないか。
「いいじゃない。ノアお兄様、あれでも結構な腕前なのよ」
 あの穏やかな見た目に反してかなり攻撃的な魔力の持ち主だけど。
「レイナ様のそのぶれない軸のあるところ、僕は結構好きですよ」
「それはどうも」
 アルベルトは自己愛が過ぎるせいで少し礼儀がなっていないのではないだろうか。いくらレイナの友人話し相手とはいえこれでも一応レイナは第三王女だ。父に言いつけてそれなりの処分を求めることだってできる立場だと理解した方がいい。
「ところでレイナ様、念願の妹ができたとか」
「それ、私の兄姉たちに言ったらミラゲロ侯爵家が滅びるわ。ジェイコブお兄様曰く、我々はそれを家族とは認めない。ということらしいの」
 現にエレナはすれ違っても決して視線を合わせないし、ノアでさえ話しかけられても気付かないふりをするし、エマはエレナの後ろに隠れてやり過ごそうとする。ジェイコブに至っては存在を無いものとして振る舞うどころかレイナをやたらとかわいがるそぶりを見せるようになった。
 あの厳しいが公正なジェイコブがそんな行動に出るのには驚いたし、同じ城で暮らしていて半分とは言え血縁のある、それもまだ幼い彼女にそんな仕打ちをする兄姉たちに共感することは難しい。
 ジェイコブには「私の可愛い妹はレイナだけだ」と断言されてしまった。かといって彼はエレナやエマも大切に思っているだろう。ただ、同じ魔力を持っているからレイナを特別気に掛けてくれているのだ。
「ジェイコブお兄様、あの外見であの性格だけど意外と優しいということに最近気がついたの。あと、魔術理論を教えるのがとても上手で、週末はお兄様と一緒に少し遠出をして実践訓練をして頂くことになったの」
 遠出、と言っても王宮内の訓練場なのだけれども。
「ジェイコブ殿下のシスコンは有名だよ。レイナ様が生まれたときから可愛くて仕方がないご様子だって」
 そんな噂は耳にしたことが無い。思わずアルベルトを疑ってしまう。
「お兄様、昔から私には特別厳しかったわ」
「時間が許す限り練習を見守ったりしてるらしいですよ。座学の成績も頻繁に確認されてるらしいですし、ああ、ルイスの身辺調査が凄いことになってるみたいですね。昨夜ホセの屋敷でルイスに会ったら大分げっそりしてました。男も身だしなみが大切なので化粧水を分けてあげようとしたら断られちゃったな」
 アルベルトは面白そうに笑う。
「身辺調査?」
 なんの話だろう。少なくともレイナは知らない。
「妹の婚約者に本当に相応しいかの調査じゃないですかね。ああ、僕も調査されましたけど。完璧に美しく才能にも恵まれ、妻との相性も完璧な僕に欠点があるとしたら僕は僕を愛しすぎていること程度だと思うのだけど、レイナ様の友人としては全く問題の無い範囲ですよね?」
「とってもなめらかなお口はそろそろ礼儀を思い出した方がいいとは思うけど、あなたは結婚相手じゃなければとても一緒に居て楽しい人よ。あなたが婚約者だったらなんらかの手段で始末してたかもしれないけど」
 勿論冗談だ。アルベルトのことはそれなりに気に入っている。だけども、婚約者はルイスで良かったと思う。彼は外面がいいから、兄姉たちとは問題を起こさないでくれるだろう。
 しかし、アルベルトは全く気にした様子がない。
「僕の魅力は僕自身が一番理解しているからなにも問題ないよ」
 これさえなければアルベルトは完璧なのだが、この性格のせいでご婦人方も離れていく。彼は5分間のお喋りを楽しむのには理想的だが、家族として生涯を過ごすには向かない人間だろう。
「ああ、レイナ、やっぱりここに居た。すまないが少し匿ってくれ」
 突然扉が開いたかと思うと、息を切らせたルイスが転がり込み、慌てて鍵を掛ける。
「ルイス、どうしたの?」
 珍しくいつもは完璧に整えられた髪まで乱れている。
「……この数日、ずっと誰かに監視されているようでね。流石に第三王女の護衛が居る空間では手出しはできないだろうと思って……休憩させて貰うよ」
 ルイスはうんざりした様子を見せる。珍しい。完璧に外面が崩れている。
「さっきアルベルトの言っていた身辺調査かしら?」
 レイナはアルベルトを見る。
「ルイスは見られて困ることがたくさんあるんじゃないの? 僕は完璧すぎて調査員も欠点を見つけるのに苦労しただろうけど」
「アルベルトの欠点はそのうぬぼれとお口がなめらかすぎるところだからわかりやすくて調査は楽だったのでしょうね」
 思わずアルベルトに言い返してしまう。
「どうしてアルベルトがここに居るのかな?」
 ルイスが笑顔のまま不機嫌そうに言う。彼は笑っているけど笑ってない、空気の淀みというのだろうか。レイナの中で眠る魔力と近いものを感じるときがある。
「いやぁ、ちょっと様子見。気になる噂がちらほら耳に入ったからレイナ様はどんな感じかなと思ってね」
 何か心配してくれたのだろうか。
「今のところ私のお勉強の邪魔にしかなっていないのだけど、居るなら実演して見せてよ。アルベルト、音楽魔法が得意でしょう?」
 いつだって【妻】との相性は最高だと言っているもの。すぐにでも実演してくれるはずだ。
「アルベルト、レイナは私の婚約者だと何度言わせる気だ。せめて教師か使用人を同席させろ」
「僕はレイナ様の親友だからね。お飾りの婚約者と違って信用されているんだよ」
 ルイスとアルベルトは笑顔を貼り付けたまま睨み合っている。不穏な空気さえ感じ取らなければ遠目には和やかに談笑しているようにしか見えない。
「二人とも仲良く私のお勉強の邪魔をするなら帰って下さる? ノアお兄様に教えて頂きますから」
 そう言ったところで、ルイスが追われていたことを思い出す。
「レイナ、編曲なら私が教える。だから、いかないでくれ」
 参ったように言うルイスに驚く。
「ルイス、編曲が得意なの?」
「ああ。その……技巧重視の曲は苦手だから、少し簡略化してもその魔法が使えるように自分で直すことがある」
 ルイスは少し恥ずかしそうに言う。
 ああ、そうだ。彼は中々ヴァイオリンの技術が中級以上に上がらない。しかも最近は剣術に熱心だと言う。
 ルイスが上達しないのは、彼は本当はあまりヴァイオリンが好きではないからかもしれない。彼はアルベルトと違って常に自分が一番輝いていたい人間ではない。むしろ、なるべく目立たずに自分を優位に、そして安全に置きたい人間だ。
「お兄様から頂いた楽譜が私には少し難しいの」
 誕生日に貰った楽曲集を見せる。
「……殿下はレイナならできると信じて下さっている。私も、努力家のレイナならいずれはこの譜面で弾きこなせるとは思うけれど、どの辺りが難しいのかな?」
「ここの重音とか、あとは、こっちの曲のこの部分は独奏じゃ無理だと思うの」
 重音を多用するだけの技能はレイナにはない。
「これ、ピアノやオルガン奏者か合奏じゃないと厳しいかな。うーん、レイナの魔力ならなんとかなるかもしれないけど、私程度の魔力だと曲が弾けたところで術が発動しないかもしれないな」
 ルイスは考え込む。
「あー、これ宮廷演奏家でも難しい楽曲集だよ。演奏家じゃ魔力が足りないし、魔術師じゃ演奏技能が足りない高難易度な魔法ばかりだよ」
 アルベルトは横から覗き込んで言う。
「アルベルトでも難しい?」
「曲自体は演奏できるのだけどね。独奏でこの魔法を使おうとしたら僕の大事な妻が悲惨なことになりそうだよ」
 楽曲自体は演奏可能。楽器が持たない。ということは、アルベルトの魔力ならこの魔法は使えるということか。レイナはじっとアルベルトを見る。彼の魔力は未知数だ。
「レイナ様の場合、魔力の量と楽器は申し分ないと思うけど、問題は魔力をきちんと制御できるかだ。ああ、演奏技能面だと多分三ヶ月くらい練習すればできると思うよ」
 あっさりと言われ驚く。それはアルベルトが三ヶ月かかったという意味だろうか。
「お前、この曲弾けるのか?」
 ルイスは信じられないとアルベルトを見る。
「あれ? 今日はここは僕の演奏会になるのかな? 僕と妻の美しい愛を披露しても良いけれど、レイナ様が嫉妬しないかが心配だよ」
 アルベルトはからかうようにわざと気取って言う。
「あら、私は私でとっても素敵な楽器と出会えたからもう嫉妬なんてしないわ。見た目も音も私好みの美女だもの」
 楽器の性別は女性で良いのかわからないが、アルベルトも「運命の彼女」と言っていたのでおそらくは女性なのだろう。
「ふふっ、レイナ様の楽器も女性なのかな?」
「あら? そういうものじゃないの? アルベルトがいつもヴァイオリンを彼女と呼ぶから、てっきり楽器はそういう物だと思っていたの」
「楽器をそんな風に呼ぶのはアルベルトくらいだよ」
 本気にしないでとルイスが言う。
「でも、ノアお兄様はオルガンのことを教授って呼ぶのよ。だから、もしかすると、沢山練習すると楽器と会話ができるのかもしれないわ」
 現にアルベルトは時々【妻】に話しかけている。
「いや、別に……会話というか……いや、まぁ、長く付き合うと楽器の方が語りかけてくれる時はあるけど……明確に言語というわけではないかな」
 アルベルトは困惑している様子だ。なんだろう。からかいすぎたと反省しているように見えてしまう。
「今度ジェイコブお兄様にも訊いてみるわ」
 ノアのオルガンが教授なら、彼のフルートはなんなのだろう。
 ぼんやりと考えながら、また言い合いを始めたルイスとアルベルトを眺める。
 なんだかんだでこの二人、仲いいな。



 練習室で一時間ほどルイスとアルベルトの言い合い混じりの講義を受け、自室へ向かう。当然のようにルイスが付き添っているけれど、気にしないことにする。彼はレイナの楽器を持とうとしたが、それだけは断る。楽器は命だ。自分で運ばなければならない。
「どうして小さな体でこんなに大きな楽器を選んでしまったのかってお父様に笑われたことがあるわ。ジェイコブお兄様はあんなに大きな体なのに楽器は小さいでしょう? 逆じゃないのが面白いって」
「確かに、レイナがいつも運ぶにはチェロは大きすぎるように思えるな」
 まだコントラバスじゃなかっただけマシだと思う。そもそも楽器本体よりケースの方が重い。その代わり、ホセの用意してくれた特注品と思われるケースは自動車事故に遭っても楽器だけは無事で済みそうなほど頑丈に思える。
「このケース、とっても重いけど、多分この城の一番高い塔のてっぺんから落としても楽器は無事だと思うの」
「そこまでの耐久性は求められてないと思うけど、ホセならそのくらいやりそうだね」
 彼の音楽愛、楽器愛は恐ろしい。噂によるといつでもどこでも自分のピアノを召喚できるらしい。むしろその術をほいほい使うために魔術の道に進んだという話だ。
「彼、あまり自分の楽器には拘っていないように思えたけど、そうでもないのね」
「確かに、楽器は選ばず誰の楽器でもどんな楽器でも弾きこなせるけど、やっぱり自分の楽器は特別じゃないかな」
 そう言って、ルイスは黙り込む。どうしたのだろうか。
「ルイス?」
「……いや、なんでもないよ」
 今、ルイスはなにかに気付いて、それを隠そうとした。それも、下手に。
 彼は隠し事が得意な方なのにこれはおかしい。
「気になるわ」
「レイナ……わかったよ。君がホセの話ばかりするから嫉妬してしまったんだ」
 ああ、これは誤魔化そうとしている。
「ルイスったら。婚約が決まった日にホセの話をしたら凄く食いついたのはルイスじゃないの。てっきり、彼のことが大好きなんだと思っていたわ」
 そしてそれは正解ではないかもしれないが、間違いでもない。
「ホセのことは好きだよ。彼は裏表がないというか、本当にしたいことしかしない人だからね。だから不安なんだ」
 手を引かれ、驚く。
「レイナ、私は、君が彼に惹かれていくのが怖い」
 不安そうな表情を見せられ、戸惑う。
 レイナがホセに惹かれる? あり得ない。
 『EVER』の世界で、レイナ・アルシナシオンは人を愛する心を持てないまま朽ちていく。
「ルイス、ホセは音楽家としてとても優秀で尊敬しているけれど、それは兄たちや先生に向けるものと同じものだわ」
 レイナ・アルシナシオンは音楽のことしか考えられない人間だ。たとえ破滅するとわかっていても音楽に取り憑かれてしまう。
「レイナ、私は君を失いたくない」
 不安そうな瞳に覗き込まれ驚く。
 ルイスの手が微かに震えていることに気がついた。
「ルイス……」
 それは、政略的な話だろうか。レイナは第三王女だ。現状では王位継承の順位は低くルイスが王配になれる可能性は極めて低い。しかし、王族との婚姻は彼と彼の一族の将来に大きな影響を与えるだろう。音楽魔法が得意ではないルイスが手っ取り早く地位を手に入れるにはこの婚約はとても重要だ。
「君が王女でなければ攫って閉じ込めておきたいのに……私の身分では君が心変わりしてしまえば、すぐに捨てられてしまう……」
 ルイスは恋愛小説でも好むのだろうか。レイナには理解できない考えだ。
 こういう過剰なサービスは求めていないというのに、不安そうに揺れる瞳から目を逸らせない。
「私があなたとの婚約を解消して他の婚約者を探してしまわないか心配なの? 大丈夫よ。そんな面倒なことしないわ。婚約者捜しに時間を割いてはただでさえ減らされてしまった練習時間がもっと少なくなってしまうもの」
 レイナ・アルシナシオンならこう考えるだろう。考えついた言葉をそのまま口にして、後悔する。いくらなんでもこれは失言ではないだろうか。
「レイナ……それは、練習時間が減るのが嫌だから私で妥協するという宣言かい?」
 ルイスは呆れと驚愕の混ざった様な顔をしている。今のは失言だったかもしれない。
「あなたが不安なら、そう考えてくれて構わないわ。でも、ルイス。私、あなたのこと気に入っているのよ?」
 別にフォローなどではない。面倒ではあるが、嫌ってはいない。それに、兄姉たちと問題を起こさないでくれるのが本当にありがたい。
 そう、嫌っていない。
「レイナ……」
「ジェイコブお兄様もあなたのとこ気に入っているみたいだし……あ、でもお兄様は私のお兄様だから、こっそり二人で合奏したらだめよ?」
 身辺調査をするくらいだ。ものすごく気に入っているに違いない。
「レイナ、君は結局音楽のことばかりなんだね」
「音楽のことだけ考えて生きるつもりだったのに、そこに入り込んできたのはあなたよ、ルイス」
 レイナ・アルシナシオンの人生に必要なかったはずの存在。だから、『EVER』の世界のレイナ・アルシナシオンは妹に婚約者を奪われても何も感じなかった。いや、悲しんだかもしれない。けれどもその悲しみは音楽で誤魔化し、それを受け入れた。
「私……あなたになら……傷つけられても構わないって思うの」
 ルイスになら、この身を焼き尽くされても構わない。魔力を奪われ灰にされるあのエンディングも許してしまうだろう。そう思うのもきっとまた本心だ。
「それは……私が君を傷つけることを前提なのかな?」
「凄く傷つけてるじゃない。誘ってもなかなか合奏してくれないし、私の練習時間交渉だってしてくれないでしょう? 凄く悲しい」
 そう言って誤魔化す。本当のことは言えない。
 ルイスはというと困ったように笑う。
「私が君を愛していると言っても、信じてはくれないのだね」
「大きくなったら、その意味がわかるようになるかしら?」
 まだ子供よと強調しておく。
 それで少しでも彼の気が休まるなら。
「君が大きくなったときに、他の男に心を奪われないかとても不安だよ」
 ルイスが頬に触れる。思ったよりも指先が固い。これは演奏家の手だ。
「ルイス、本当は結構練習しているのね」
「君に嫌われないようにと努力はしているつもりなのだけれど……いつまで経っても上達しない」
 別に嫌ったりはしない。
 むしろ、隠れて練習しているという事実に好感を抱く。
 彼はレイナやアルベルトほど音楽を愛していないけれど、レイナの要求に対しては真摯であろうとしてくれているのだ。
「正直なところ、私は音楽よりは剣術の方が向いている。けど、レイナはそういうものには興味がないだろう?」
 確かに、黒咲凛の知識を得る前のレイナ・アルシナシオンなら興味を持たなかっただろう。しかし、彼女の知識を持つレイナにはわかる。剣は立派な楽器だ。
「リズムを刻むのに良さそうね。今度合奏してみましょう」
「レイナ……その発想は想定外だよ」
 ルイスは苦笑する。
「私の好きな物だけ押しつけるのはよくないわ。ルイスの好きな物と私の好きな物を一緒に楽しめたらきっともっと楽しいと思うの」
 レイナなりの妥協案のつもりが、ルイスを呆れさせてしまったらしい。
「ありがとう。少し気が楽になったよ」
 ルイスがぽんぽんと頭を撫でる。王女に対する態度じゃないと思いつつも悪い気はしない。
 少し照れくさくて、落ち着かない。それを誤魔化すように少しだけ早足で歩く。
「レイナ、待って」
 部屋の前に着いた途端、ルイスに止められた。緊張感のある響きだった。
「ルイス?」
「レイナ、君の部屋になにか居る」
 ルイスは警戒するようにレイナを背に隠そうとする。
 部屋に? 思わず首を傾げる。
 残念ながらレイナの部屋には貴重品なんてない。あるとすれば希少な楽譜くらいだが大半はレイナが大量に書き込みを重ねた物なので転売も困難だろう。
 ルイスが仕草で指示すると、護衛が来る。
 二人の男性が警戒した様子で重い扉を開けた。
「……何者だ」
 ルイスの冷たい声が響く。護衛がすぐに中の人物を押さえ込んだ。
「……私の部屋に貴重品なんてないわ。あるとすればせいぜいルイスに貰った髪飾りくらいよ。泥棒に入るならエレナお姉様のお部屋の方が高価な宝石が沢山あるわ」
 そして彼女はひとつふたつ消えたくらいでは気にしないだろう。
 なんとなく、予想はしていたけれど、侵入者はアリアだった。
「お姉様! 私、お姉様にお会いしたくて!」
 アリアは必死な様子で言うが、これは拙い。長兄に知られたら週末の訓練の話はなかったことにされてしまうかもしれない。
「留守の時は鍵を掛けなくてはだめかしら?」
「是非そうしてくれ」
 ルイスはレイナを確認してから、護衛にアリアを連れていくように命じる。
「なにかなくなっている物はないかい?」
 ルイスが訊ねるのでレイナは部屋に入って一周見渡す。
 お願いだから宝石泥棒に入ったと言って欲しい。そう願うけれど、裏切るように机が開かれた形跡がある。
「……私の練習記録、いつもと置いてある角度が違うわ」
 日記を付けるのは王族の義務と随分前の教師に言われて始めたが、何を書いていいのかわからずに、そしてレイナ・アルシナシオンと黒咲凛の融合を怪しまれないために詳細な練習記録を付け、練習を重ねてきた。
「日記じゃないのかい?」
「一般的には日記ね。でも、私の場合は練習の内容や楽曲の解釈しか記録していないの。勿論、他の方の演奏を聴いて参考になった部分も記録しているけれど」
 あのアリアが既にレイナルートへ動こうとしているのであれば、レイナの日記を見たがるのも理解はできる。ただ、残念ながらレイナは日記らしい日記は書いていないのだ。
「うーん、姉の日記から秘密を握り脅迫しようとした、とか?」
「脅迫材料なんてないと思うけど」
 弦の交換の記録、弓替えの記録。椅子の高さの変動の記録。
「私は特に競い合うこともないから知られて困る情報は特にないわ」
 この練習記録を見たところで、レイナの技術をアリアが身につけられるわけではない。
「他にはおかしなところはないかい?」
 ルイスに訊ねられたが、特に思い浮かばない。
「大丈夫そう」
「なら、今後は部屋を出るときに鍵を掛けたり、見張りを立てておいた方がいい。ジェイコブ殿下には私から話しておこう」
 ルイスはそう言って部屋を出ようとするが、それは拙い。
「ルイス、お願い。今日のこと、お兄様には内緒にして?」
 アリアとの接触に気付かれては週末の約束が消えてしまうかもしれない。
「しかし……」
「なにもなくなっていないし、私は無事よ。ただ、会いに来ただけかもしれないし」
 お願い。と、彼の目を覗き込んだところで効果があるかは不明だ。
「だけど、レイナ。人の部屋で勝手に待ち伏せするのは好ましいことではないだろう? 特に、君の立場だとなにが起こるかわからないのだから」
 ルイスが心配してくれているのもわかる。けれど、今はそれどころではない。
「彼女との接触があったことを知られては折角仲良くなれたジェイコブお兄様に嫌われてしまうかもしれないわ」
 精一杯の悲しい顔を作ってみせれば、抱きしめられる。
「わかった……でも、なにかあったら必ず私に言っておくれ」
「うん。約束する」
 苦しいくらいぎゅっと抱きしめられ、困惑する。なにも危険はなかった。そもそも政略結婚の相手になにをしているのだこの男は。
 呆れてしまう。
 けれど、レイナ・アルシナシオンとしては、嬉しいかもしれない。じんわりと胸の奥が温かい。
 今、凄くチェロが弾きたい。この胸の奥からあふれ出す気持ちを音にしたい。
「ルイス、私の演奏、あなたに聴いて欲しいの」
「レイナ、後にして。今は……このまま君を抱きしめていたい……」
 細身の見た目からは信じられないほど、力強い腕から逃れられそうにない。
「うん、わかった……」
 この胸の奥の熱を忘れたくない。ちゃんと形にしたい。
 たぶんこの気持ちを言葉として、知識としては知っているけれど、それは言葉にしてはいけない気持ちだ。
 演奏したい欲求と、あと少しだけこのままでいたい不思議な感情がせめぎあう。
 その後、異変に気付いたジェイコブが駆けつけてくるまで、レイナは大人しくルイスの腕に閉じ込められていた。
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