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1 切れた弦
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おかしな話かもしれない。
目が覚めると手足のサイズが短くなって妙に地面との距離が近かっただけではない。
木製の美しい楽器を手にしていた。
自慢じゃないが、音楽の知識なんて全くない。義務教育レベルの楽譜でさえあやしいというのに、身体が勝手に動くというか、あの黒いにょろにょろを見て頭の中に勝手に音が浮かんでなにかに動かされるように手が動いた。
何が起こっているのか、理解するのにはかなりの時間が必要だった。
私、黒咲凜は、ゆるい地方公務員だ。誰がやってもさほど問題がないような面白みの欠ける仕事を日々繰り返し、スタイリッシュに定時退庁、自宅に帰ってパソコンに向かい、ゲームを作ることがささやかな趣味だった。
ゲームと言っても昔と比べたらそれほど作る敷居は高くない。ノベル式アドベンチャーゲームであれば一人でも十分制作可能で、休日は大抵絵を描いたりシナリオを書いたりしてちまちまと作業を進めていた。近頃では技術も上がり、簡単なダンジョンマップ位であれば自作できるようになったため試験的にRPG要素も加えてみた。
そして、自分の個性を出し切った第一作目はこの週末のイベントで配布予定だ。
そう、つい先ほどまでテストプレイの最中だったはずなのだ。
途中で寝てしまったのだろうか。きっとこれはおかしな夢だ。
そう思ったのに、おそらくはこの楽器の先生であろう男性が、目の前の楽譜にいくつか書き込みをしていく。
「レイナ様、このフレーズはもう少し甘く弾いてください。少し集中を欠いているようですよ」
彼がペンの先で示すのはやはりよくわからないにょろにょろだ。
甘く、とはどういうことだろう? そもそも音に甘いとかそういうものがあるのだろうか? そう疑問に思ったはずなのに、次の瞬間には身体が勝手に動いて楽器を弾いている。
この身体は、なぜ?
いや、それ以前に彼は今、私をなんと呼んだだろう。
「レイナ様、お上手です」
彼は優しく笑んだ。
レイナ。その名に聞き覚えがある。
週末のイベントで配布予定だったアドベンチャーゲーム『EVER《エバー》』の登場キャラクターの一人、主人公の姉である悪い女王の名だ。
「本日のレッスンはこれにて終了しましょう。次回までにこちらの譜面を少し練習してください」
男はそう言って新しい楽譜をこちらに渡す。
立ち上がり、手にした楽器を確認する。
「……チェロ」
確かにあの女王が人の心を操る魔術を使う時に奏でる楽器……のミニチュア?
教師らしい男は礼をして部屋を出てしまう。
訊きたいことがたくさんあった。しかし、その相手は彼ではなかったのだろう。
夢であって欲しい。おそらく、だが、黒咲凛は『EVER』の世界のレイナ・アルシナシオンになってしまったのだろう。
こんなのラノベでよくある異世界転生じゃないの。しかも、よりによって自分で作ったゲームの世界。知り尽くしている危険なシナリオだ。
全体的にシナリオの難易度は高いつもりだ。ほんの少しの匙加減で世界が消えたり、主人公もしくは攻略対象キャラクターが死んでしまう。
もちろん、レイナも例外ではない。
このゲームはレイナを倒すことが主な目的だが、隠しルートに入ればレイナを攻略できる百合ルートが存在する。そして、残念ながらそのルートではレイナは異母妹である主人公に監禁されてしまうのだ。
「……これはまずい」
死亡エンドは嫌だけれど、監禁エンドはもっと嫌だ。
監禁されている間、どんな目に遭うかはシナリオ上では明かされていないが、きっとあんなことやこんなこと、子供には絶対言えないあれやこれをされるに決まっている。
なんとかこの状況から抜け出す方法を考えなければ。
ぐるぐると思考の渦に飲み込まれていると、扉が開いた。
「……先客?」
冷たい目の少年だった。上質なシャツに半ズボン。シンプルなジャケットだが、とても高価な品であることはなんとなくわかる。
黒い髪を束ねられるほど伸ばし、一本に結っている。
これは…… 。
ホセ・エミリオ・コントラト。隠し攻略キャラクターだ。ピアノを使った魔術を得意とする宮廷魔術師……のはずだが随分と幼く見える。
「レイナ……これからレッスン?」
彼はようやくレイナを見つけたようで、そう訊ねた。
「いいえ、今終わったところよ」
できるだけレイナの口調を思い出しながら答える。
自分で考えたキャラクターのはずなのに、妙に緊張する。
「そう……」
ホセは答えて視線を逸らす。
こいつは考えが読みにくい。シナリオの中でもかなり苦戦したキャラクターの一人だ。
彼はレイナへの恋心を打ち明けられないまま、長年、レイナに寄り添って生きた。そして、メインシナリオでは、レイナと共に主人公に倒される。
「君の音、聴きたかった」
彼は少し寂しそうにそう言って、部屋を出ようとする。
音。ああ、そうだ。彼は、音楽の魔術師だ。音楽のことしか考えていないことの方が多い。
「待って」
ホセを引き留める。
彼とは接点を作っておいた方がいい。
物語を隠しルートに進めてしまうと非常に厄介だ。ホセルートに進むとレイナはホセの手で葬られてしまうことになる。それは避けたい。
「練習の成果、あなたに聴いて欲しいの」
そう、告げると彼は軽く瞬きをする。
「ああ」
去ろうとした体をこちらに向け、部屋の中に戻り、ピアノの椅子に腰を下ろす。
「伴奏は私が」
意外な申し出に驚く。
『EVER』の世界ではゲームの終盤でしかレイナの演奏シーンはない。そしてそのシーンは彼女のソロプレイだ。
レイナ・アルシナシオンは最後までホセの愛に気づくことさえできない孤独な存在だ。誰かと合奏をするなんてこと自体が信じられない。
驚きつつも、ホセが既にピアノに向いて準備をしているので、慌てて演奏の準備をする。
楽器の構え方は体が知っている。弾き方も、多分、合わせ方も。
そう思ったのに、最初の音を出そうとした瞬間、大きな音を立て弦が切れる。
一番顔に近い、一番太い弦だ。
「きゃっ」
思わず小さな悲鳴を上げる。
「レイナ、怪我は?」
ホセに訊ねられ、首を振る。
弦は目の横をかすめたが怪我はしていない。少し驚いただけだ。
しかし、ホセは警戒しているように見える。
「古い術《じゅつ》だ……」
小さな声ではあったが、聴き洩らさなかった。
「今日は止めよう。楽器の手入れの方が大切だ」
ホセはピアノを片づけ、それからレイナのチェロに近づく。
「弦、張り替える」
彼はレイナの楽器を手に持って出ていこうとする。
「ちょっと、それ、どうするつもり?」
別に無くても困らないと思ったが、レイナは違う。
彼女の魔術にはチェロが必要だ。
あるひとつのルートではチェロを壊されたことがレイナの死因だった。
今、ホセが手に取っているチェロとは別のものだろうが、この世界で楽器を持っていないのは不安になる。
「どうって、弦を張り替える」
ホセは冷たく感じられる声で言う。
シナリオやイラストを描いている時、彼の声は温かいものではなさそうだとは思ったが、実際耳にするととても冷たく感じられる。
話し方の印象だろうか。ひんやりとした声。氷の魔力を持つ彼にはぴったりだ。
しかし、楽器を手に取る様子はとても丁寧で几帳面な印象を受ける。
「替え方、教えてくれる?」
訊ねてみる。彼は音楽がとても好きなはずだ。音楽家には敬意を持っている。そんな設定だったと思う。ただ、子供に対してもそれが同じかはわからない。幼少時の細かい設定など考えてもいなかった。
おそるおそるホセを見上げる。
「ここ」
彼は静かに椅子を引く。
「座って」
言われるまま椅子に座ると、ホセがチェロを横に立てる。そして、壁際の机をレイナの前に運び、チェロを上に寝かせた。
「替えの弦持ってくる」
どうやら替え方を教えてくれるらしい。
言葉数は少ないけれど、怖い人ではなさそうだ。
シナリオを書いている最中、ホセという人物についてあまり深くは考えなかった。彼はレイナに従う人物。彼女を愛して、その心を秘めたまま生涯に幕を下ろすか、心変わりをしてレイナの命を奪うか。
レイナの魔力にただ、操られていただけなのか、本心からレイナを慕っていたのか、それすらも曖昧に描かれている。
いや、ルートによってその生涯がもっとも変化する人物だ。
生物の長い歴史の中で角の形のようなほんの些細なことが生存と絶滅を分けるように、ホセの生涯は主人公の、そして周囲の人物の些細な選択で大きく変化してしまう。
つまり、彼は物語の中の犠牲だ。
戻って来たホセの手には弦が四本。
「弦を替える時は、必ず一本ずつ」
静かにそう言って、丁寧に弦を外す。長く細い指だ。
彼はピアニストで、作曲家でもある。いや、将来的にそうなるのだろうか。
音楽の魔力で、もしくは魔力を込めた音楽で人の心を惑わす。そして、とても優秀な魔術師だ。
じっとホセの手を見る。慎重で繊細な動きに思えた。
丁寧に弦が張り替えられていく様子は美しい。
「楽器は君の一部だ。手入れを欠かしてはいけない」
ホセはそう言ってレイナの弓を手にチェロを鳴らす。
どうやら耳で音を合わせているらしい。絶対音感というやつだろうか。
「松脂、もう少し多い方が滑らかになる」
冷たいようだが、教えることはしっかり教えてくれるようだ。
しかし、ホセはピアニストのはずなのに、なぜチェロの弦の張り替えや調弦ができてしまうのだろうか?
「あなた、他にはどんな楽器ができるの?」
興味本位で訊ねる。彼が音を鳴らしたとき、レイナが鳴らしたときよりも楽器が良く響いた気がする。
「ピアノ。弦楽器も一通り経験はある」
淡々と答えられる。
一通りということはチェロにも触れたことがあるのだろう。
「どうしてピアノなの?」
「音がたくさん使える」
ごくシンプルな理由だった。けれどもそれがホセという人物を表しているのかもしれない。
彼は可動範囲が広いのだ。
張り替えと調弦《ちょうげん》のお礼を言い、時計を見ると、かなり遅い時間だった。
子供にとっては。つまり、夕食の時間だ。
「いけない。お夕食に遅れちゃう」
食堂に向かわなくては。
そう、頭の中に浮かぶ。レイナの父である国王はとても厳しい人物だ。
付け加えると、他人に対しては厳しい、だ。遅刻をしてはきっと夕食を抜きにされてしまうだろう。
部屋を出ようとして、思う。
ここはどこだろう。
「……ホセ、食堂はどっち?」
彼が知っているとは思えないが、思わず訊ねる。
「ひとつつ下の階の奥」
彼は静かに答える。
「レイナ、今日、少し変」
心配そうに見つめられ、戸惑う。
彼はレイナと親しいのだろうか?
「そうかしら?」
誤魔化そうとしたけれど、上手い言い訳が思い浮かばない。
「うん。D線が少し狂ってた。普段のレイナならありえない」
彼はそう言って扉を支えてくれる。
「気がつかなかったわ。ありがとう」
これは、おそらく、ホセには今の私がレイナではないことを気づかれてしまう。
「弦は定期的に交換して」
見送りの言葉まで楽器の話だ。
本当にホセ・エミリオ・コントラトという男は音楽のことしか考えていないようだ。
自分の生みだしたキャラクターなのに、彼のことを何もわかっていないだなんておかしな話。
思わず笑ってしまう。
食堂までの道は面白いほど、自分で考えたダンジョンマップそのものだ。
そしてふと気になる。
何も作らなかった行き止まりの部分はどうなっているのだろう?
きっとたぶんこれは夢。
頭のどこかでまだそう思っているせいか、随分と余計なことを考える余裕があった。
どうせなら異世界を満喫しよう。
創造主が自分の世界を見物するなんてよくある話ではないか。
もし、異世界に行けたら、いろいろやってみたいことがあった。
たとえばステータス画面。ゲームの世界なら見ることができるのが定番だ。なにせ主人公補正が……。掛かるわけがない。私は主人公ではなく、主人公に倒される悪い女王だ。
「ステータス画面って悪役も見られるのかな?」
思わず口に出してしまう。
そもそもゲームとは違ってコマンドすら見えないのだからどう対処すればいいのだろう。
よくあるのは「ステータス」など口に出すと見えるというパターンだが……。
「ステータス」
しかし何も起きない。
当然だ。主人公ではないのだから。
「これってつまりセーブも持ち物確認も好感度確認もできないってことだよね? 今どのルートに居るかもわからないってことだよね?」
大問題じゃないか。
どうか夢であってくれ。そうれなければ、ルート確認する方法が……。
ひとつつだけある。
ホセだ。
彼の行動はルートごとに大きく変わる。ということは、ホセを見ればどのルートにいるかわかるはずだ。
しかし……このレイナはいま、いくつなのだろう。
『EVER』の物語は主人公が十六歳から始まる。つまり、レイナが二十一の時点の物語になる。今のレイナはどう見ても子供だ。ホセの行動でルート確認できるようになるまで一体何年かかるのだろう。
頭を抱える。
我ながらとんでもないゲームを作ってしまった。
もっと全員でハッピーエンドになれるルートを用意しておくべきだった。次回作は絶対レイナが幸せになれるルートを作ろう。
そう誓って食堂の前に立つ。
大丈夫、姿勢や作法は体の方が覚えている。
そう、言い聞かせ、呼吸を整える。
それでも、国王や兄妹たちに会うのはひどく緊張した。
目が覚めると手足のサイズが短くなって妙に地面との距離が近かっただけではない。
木製の美しい楽器を手にしていた。
自慢じゃないが、音楽の知識なんて全くない。義務教育レベルの楽譜でさえあやしいというのに、身体が勝手に動くというか、あの黒いにょろにょろを見て頭の中に勝手に音が浮かんでなにかに動かされるように手が動いた。
何が起こっているのか、理解するのにはかなりの時間が必要だった。
私、黒咲凜は、ゆるい地方公務員だ。誰がやってもさほど問題がないような面白みの欠ける仕事を日々繰り返し、スタイリッシュに定時退庁、自宅に帰ってパソコンに向かい、ゲームを作ることがささやかな趣味だった。
ゲームと言っても昔と比べたらそれほど作る敷居は高くない。ノベル式アドベンチャーゲームであれば一人でも十分制作可能で、休日は大抵絵を描いたりシナリオを書いたりしてちまちまと作業を進めていた。近頃では技術も上がり、簡単なダンジョンマップ位であれば自作できるようになったため試験的にRPG要素も加えてみた。
そして、自分の個性を出し切った第一作目はこの週末のイベントで配布予定だ。
そう、つい先ほどまでテストプレイの最中だったはずなのだ。
途中で寝てしまったのだろうか。きっとこれはおかしな夢だ。
そう思ったのに、おそらくはこの楽器の先生であろう男性が、目の前の楽譜にいくつか書き込みをしていく。
「レイナ様、このフレーズはもう少し甘く弾いてください。少し集中を欠いているようですよ」
彼がペンの先で示すのはやはりよくわからないにょろにょろだ。
甘く、とはどういうことだろう? そもそも音に甘いとかそういうものがあるのだろうか? そう疑問に思ったはずなのに、次の瞬間には身体が勝手に動いて楽器を弾いている。
この身体は、なぜ?
いや、それ以前に彼は今、私をなんと呼んだだろう。
「レイナ様、お上手です」
彼は優しく笑んだ。
レイナ。その名に聞き覚えがある。
週末のイベントで配布予定だったアドベンチャーゲーム『EVER《エバー》』の登場キャラクターの一人、主人公の姉である悪い女王の名だ。
「本日のレッスンはこれにて終了しましょう。次回までにこちらの譜面を少し練習してください」
男はそう言って新しい楽譜をこちらに渡す。
立ち上がり、手にした楽器を確認する。
「……チェロ」
確かにあの女王が人の心を操る魔術を使う時に奏でる楽器……のミニチュア?
教師らしい男は礼をして部屋を出てしまう。
訊きたいことがたくさんあった。しかし、その相手は彼ではなかったのだろう。
夢であって欲しい。おそらく、だが、黒咲凛は『EVER』の世界のレイナ・アルシナシオンになってしまったのだろう。
こんなのラノベでよくある異世界転生じゃないの。しかも、よりによって自分で作ったゲームの世界。知り尽くしている危険なシナリオだ。
全体的にシナリオの難易度は高いつもりだ。ほんの少しの匙加減で世界が消えたり、主人公もしくは攻略対象キャラクターが死んでしまう。
もちろん、レイナも例外ではない。
このゲームはレイナを倒すことが主な目的だが、隠しルートに入ればレイナを攻略できる百合ルートが存在する。そして、残念ながらそのルートではレイナは異母妹である主人公に監禁されてしまうのだ。
「……これはまずい」
死亡エンドは嫌だけれど、監禁エンドはもっと嫌だ。
監禁されている間、どんな目に遭うかはシナリオ上では明かされていないが、きっとあんなことやこんなこと、子供には絶対言えないあれやこれをされるに決まっている。
なんとかこの状況から抜け出す方法を考えなければ。
ぐるぐると思考の渦に飲み込まれていると、扉が開いた。
「……先客?」
冷たい目の少年だった。上質なシャツに半ズボン。シンプルなジャケットだが、とても高価な品であることはなんとなくわかる。
黒い髪を束ねられるほど伸ばし、一本に結っている。
これは…… 。
ホセ・エミリオ・コントラト。隠し攻略キャラクターだ。ピアノを使った魔術を得意とする宮廷魔術師……のはずだが随分と幼く見える。
「レイナ……これからレッスン?」
彼はようやくレイナを見つけたようで、そう訊ねた。
「いいえ、今終わったところよ」
できるだけレイナの口調を思い出しながら答える。
自分で考えたキャラクターのはずなのに、妙に緊張する。
「そう……」
ホセは答えて視線を逸らす。
こいつは考えが読みにくい。シナリオの中でもかなり苦戦したキャラクターの一人だ。
彼はレイナへの恋心を打ち明けられないまま、長年、レイナに寄り添って生きた。そして、メインシナリオでは、レイナと共に主人公に倒される。
「君の音、聴きたかった」
彼は少し寂しそうにそう言って、部屋を出ようとする。
音。ああ、そうだ。彼は、音楽の魔術師だ。音楽のことしか考えていないことの方が多い。
「待って」
ホセを引き留める。
彼とは接点を作っておいた方がいい。
物語を隠しルートに進めてしまうと非常に厄介だ。ホセルートに進むとレイナはホセの手で葬られてしまうことになる。それは避けたい。
「練習の成果、あなたに聴いて欲しいの」
そう、告げると彼は軽く瞬きをする。
「ああ」
去ろうとした体をこちらに向け、部屋の中に戻り、ピアノの椅子に腰を下ろす。
「伴奏は私が」
意外な申し出に驚く。
『EVER』の世界ではゲームの終盤でしかレイナの演奏シーンはない。そしてそのシーンは彼女のソロプレイだ。
レイナ・アルシナシオンは最後までホセの愛に気づくことさえできない孤独な存在だ。誰かと合奏をするなんてこと自体が信じられない。
驚きつつも、ホセが既にピアノに向いて準備をしているので、慌てて演奏の準備をする。
楽器の構え方は体が知っている。弾き方も、多分、合わせ方も。
そう思ったのに、最初の音を出そうとした瞬間、大きな音を立て弦が切れる。
一番顔に近い、一番太い弦だ。
「きゃっ」
思わず小さな悲鳴を上げる。
「レイナ、怪我は?」
ホセに訊ねられ、首を振る。
弦は目の横をかすめたが怪我はしていない。少し驚いただけだ。
しかし、ホセは警戒しているように見える。
「古い術《じゅつ》だ……」
小さな声ではあったが、聴き洩らさなかった。
「今日は止めよう。楽器の手入れの方が大切だ」
ホセはピアノを片づけ、それからレイナのチェロに近づく。
「弦、張り替える」
彼はレイナの楽器を手に持って出ていこうとする。
「ちょっと、それ、どうするつもり?」
別に無くても困らないと思ったが、レイナは違う。
彼女の魔術にはチェロが必要だ。
あるひとつのルートではチェロを壊されたことがレイナの死因だった。
今、ホセが手に取っているチェロとは別のものだろうが、この世界で楽器を持っていないのは不安になる。
「どうって、弦を張り替える」
ホセは冷たく感じられる声で言う。
シナリオやイラストを描いている時、彼の声は温かいものではなさそうだとは思ったが、実際耳にするととても冷たく感じられる。
話し方の印象だろうか。ひんやりとした声。氷の魔力を持つ彼にはぴったりだ。
しかし、楽器を手に取る様子はとても丁寧で几帳面な印象を受ける。
「替え方、教えてくれる?」
訊ねてみる。彼は音楽がとても好きなはずだ。音楽家には敬意を持っている。そんな設定だったと思う。ただ、子供に対してもそれが同じかはわからない。幼少時の細かい設定など考えてもいなかった。
おそるおそるホセを見上げる。
「ここ」
彼は静かに椅子を引く。
「座って」
言われるまま椅子に座ると、ホセがチェロを横に立てる。そして、壁際の机をレイナの前に運び、チェロを上に寝かせた。
「替えの弦持ってくる」
どうやら替え方を教えてくれるらしい。
言葉数は少ないけれど、怖い人ではなさそうだ。
シナリオを書いている最中、ホセという人物についてあまり深くは考えなかった。彼はレイナに従う人物。彼女を愛して、その心を秘めたまま生涯に幕を下ろすか、心変わりをしてレイナの命を奪うか。
レイナの魔力にただ、操られていただけなのか、本心からレイナを慕っていたのか、それすらも曖昧に描かれている。
いや、ルートによってその生涯がもっとも変化する人物だ。
生物の長い歴史の中で角の形のようなほんの些細なことが生存と絶滅を分けるように、ホセの生涯は主人公の、そして周囲の人物の些細な選択で大きく変化してしまう。
つまり、彼は物語の中の犠牲だ。
戻って来たホセの手には弦が四本。
「弦を替える時は、必ず一本ずつ」
静かにそう言って、丁寧に弦を外す。長く細い指だ。
彼はピアニストで、作曲家でもある。いや、将来的にそうなるのだろうか。
音楽の魔力で、もしくは魔力を込めた音楽で人の心を惑わす。そして、とても優秀な魔術師だ。
じっとホセの手を見る。慎重で繊細な動きに思えた。
丁寧に弦が張り替えられていく様子は美しい。
「楽器は君の一部だ。手入れを欠かしてはいけない」
ホセはそう言ってレイナの弓を手にチェロを鳴らす。
どうやら耳で音を合わせているらしい。絶対音感というやつだろうか。
「松脂、もう少し多い方が滑らかになる」
冷たいようだが、教えることはしっかり教えてくれるようだ。
しかし、ホセはピアニストのはずなのに、なぜチェロの弦の張り替えや調弦ができてしまうのだろうか?
「あなた、他にはどんな楽器ができるの?」
興味本位で訊ねる。彼が音を鳴らしたとき、レイナが鳴らしたときよりも楽器が良く響いた気がする。
「ピアノ。弦楽器も一通り経験はある」
淡々と答えられる。
一通りということはチェロにも触れたことがあるのだろう。
「どうしてピアノなの?」
「音がたくさん使える」
ごくシンプルな理由だった。けれどもそれがホセという人物を表しているのかもしれない。
彼は可動範囲が広いのだ。
張り替えと調弦《ちょうげん》のお礼を言い、時計を見ると、かなり遅い時間だった。
子供にとっては。つまり、夕食の時間だ。
「いけない。お夕食に遅れちゃう」
食堂に向かわなくては。
そう、頭の中に浮かぶ。レイナの父である国王はとても厳しい人物だ。
付け加えると、他人に対しては厳しい、だ。遅刻をしてはきっと夕食を抜きにされてしまうだろう。
部屋を出ようとして、思う。
ここはどこだろう。
「……ホセ、食堂はどっち?」
彼が知っているとは思えないが、思わず訊ねる。
「ひとつつ下の階の奥」
彼は静かに答える。
「レイナ、今日、少し変」
心配そうに見つめられ、戸惑う。
彼はレイナと親しいのだろうか?
「そうかしら?」
誤魔化そうとしたけれど、上手い言い訳が思い浮かばない。
「うん。D線が少し狂ってた。普段のレイナならありえない」
彼はそう言って扉を支えてくれる。
「気がつかなかったわ。ありがとう」
これは、おそらく、ホセには今の私がレイナではないことを気づかれてしまう。
「弦は定期的に交換して」
見送りの言葉まで楽器の話だ。
本当にホセ・エミリオ・コントラトという男は音楽のことしか考えていないようだ。
自分の生みだしたキャラクターなのに、彼のことを何もわかっていないだなんておかしな話。
思わず笑ってしまう。
食堂までの道は面白いほど、自分で考えたダンジョンマップそのものだ。
そしてふと気になる。
何も作らなかった行き止まりの部分はどうなっているのだろう?
きっとたぶんこれは夢。
頭のどこかでまだそう思っているせいか、随分と余計なことを考える余裕があった。
どうせなら異世界を満喫しよう。
創造主が自分の世界を見物するなんてよくある話ではないか。
もし、異世界に行けたら、いろいろやってみたいことがあった。
たとえばステータス画面。ゲームの世界なら見ることができるのが定番だ。なにせ主人公補正が……。掛かるわけがない。私は主人公ではなく、主人公に倒される悪い女王だ。
「ステータス画面って悪役も見られるのかな?」
思わず口に出してしまう。
そもそもゲームとは違ってコマンドすら見えないのだからどう対処すればいいのだろう。
よくあるのは「ステータス」など口に出すと見えるというパターンだが……。
「ステータス」
しかし何も起きない。
当然だ。主人公ではないのだから。
「これってつまりセーブも持ち物確認も好感度確認もできないってことだよね? 今どのルートに居るかもわからないってことだよね?」
大問題じゃないか。
どうか夢であってくれ。そうれなければ、ルート確認する方法が……。
ひとつつだけある。
ホセだ。
彼の行動はルートごとに大きく変わる。ということは、ホセを見ればどのルートにいるかわかるはずだ。
しかし……このレイナはいま、いくつなのだろう。
『EVER』の物語は主人公が十六歳から始まる。つまり、レイナが二十一の時点の物語になる。今のレイナはどう見ても子供だ。ホセの行動でルート確認できるようになるまで一体何年かかるのだろう。
頭を抱える。
我ながらとんでもないゲームを作ってしまった。
もっと全員でハッピーエンドになれるルートを用意しておくべきだった。次回作は絶対レイナが幸せになれるルートを作ろう。
そう誓って食堂の前に立つ。
大丈夫、姿勢や作法は体の方が覚えている。
そう、言い聞かせ、呼吸を整える。
それでも、国王や兄妹たちに会うのはひどく緊張した。
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