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ヴィンセント1 視線が合わない
しおりを挟むこの数日、アルジャンの様子がおかしい。
あの男のセシリアへの執着は凄まじく、時に妹を憐れむことさえあるほどだと言うのに、そのアルジャンがセシリアを送り届けることなく先に帰ると言い出した。
「ヴィニー、今日はシシーと帰れ」
「は?」
「シシーの練習が長引きそうだ」
アルジャンはセシリアに求婚した日の約束だけは忠実に守り続けている。
つまり、あの音楽馬鹿の練習を邪魔しないという約束だ。
見た目も姉と比べれば見劣りし、頭の出来は兄の足元にも及ばない。そんなセシリアの唯一与えられた才能、それが音楽だ。
全ての音楽の神に愛されているとでも言うのだろうか。天性の才能。気難しいヴァネッサでさえ唯一認めるセシリアの長所だ。アルジャンもそこを気に入っている。はずだ。
だと言うのに、あの馬鹿はセシリアの才能を潰そうとしている。
本番直前に超絶技巧曲に演目を変更しろだなんてセシリアでなくても絶望するだろうに、アルジャンは完璧を求める。
寝ないで練習を続け、限界を迎え暴れ出したときには婚約を白紙に戻してやるべきだと思った。けれども、父はそれに同意しないだろう。
ペルフェクシオン公爵家との婚姻はオプスキュール伯爵家にとって重要だ。父が権力を得るために。あの欲まみれの父がセシリアを追い詰めている。
そもそも父がセシリアにヴァイオリンを習わせ始めたのだって上位貴族の家に嫁がせる為だ。教養のひとつ程度で極めさせるつもりはない。今だって、アルジャンがセシリアの腕を気に入っているから月に数回宮廷楽団の演奏家を講師に招いているだけで、評価こそ気にしてもセシリアの演奏自体には興味を持っていない。
セシリアと視線が合わなくなったのはいつからだろう。いつも俯き気味で、うじうじと情けない妹だと思う。
父があんな態度だから、余計にセシリアは俯く。
成績は中の上くらい。一般的にはそこそこと評価される。しかし、俺の妹だからこそ不出来だと罵られる。
ヴァネッサも要領がよく、勉強は出来る方だった。セシリアは要領が悪いのだ。真面目に課題に取り組む割に出来が悪い。努力が空回りする。
それ以前に常にアルジャンに振り回されているのだ。あのわがままにあれだけ付き合ってあの成績を維持できているのであれば褒められるべきだろう。
だか、オプスキュール家の人間はそこを評価しない。俺を含めて。
いや、不出来な妹なのだからさっさと解放しろとアルジャンに言いたい。
あの子が限界を迎える前に。
嫌な夢を見た。
浴室で首を吊ったセシリア。父を殴り殺すアルジャン。
ただの夢だと思うのに、やつれていくセシリアを見る度に限界が近いのではないかと感じてしまう。
気にはかけているつもりだ。
しかし、元々素直ではない性格が災いしてつい、きつい言葉が飛び出してしまう。
散々姉に追い詰められてきた身としては、妹を守りたい気持ちはある。
はやく父の手を逃れるべきだろう。
そして、アルジャンからも。
セシリアはアルジャンに怯えている。幼い頃はアルジャンの顔が怖いと漏らしていたこともあった。それが次第に俯き、怒らせないようにとただ従うようになってしまった。
いや、セシリアなりに努力はしているのだ。要領の悪いあの子なりに、アルジャンに認められようと。
一言でも褒められれば、あの子は立ち上がれるだろう。
けれども、誰もあの子を褒めない。
ヴァネッサはアルジャンの前ではセシリアをかわいいと言い、セシリアを傷つけることに対して怒りを見せることもある。けれどもあのいかれ頭のことだ。俺にしてきたようにセシリアを追い詰めるなにかをしていても驚かない。
朝食にさえ現れなくなったアルジャンがなにを考えているのか全くわからない。
ただ、セシリアの練習時間が延び、消音器を使えば気付かれないとでも思っているのか深夜まで練習を続けている。
「何時だと思っている。さっさと楽器をしまって寝ろ。迷惑だ」
寝間着にガウンを羽織ってセシリアの部屋を訪れる。
騒音のせいで眠れず迷惑だという風を装い、結局試験問題の解析に戻るのだから俺も素直ではない。
「も、申し訳ございません……」
セシリアは手を止め、視線が合わないまま頭を下げる。
「弦楽器の音は消音器を使っても完全には消えない。さっさと寝ろ」
近づかなくてもわかる。セシリアの顔色は相当悪い。
追い詰められている。
思わず、溜息が出た。
慌てて楽器の手入れをするセシリアを横目にメイドを呼びお茶の用意をさせる。
心を落ち着かせるハーブは安眠にいい。
道具だけ用意させ、楽器の手入れをしている姿を監視しながらお茶を淹れる。
悪くない出来だ。
香りを確認して満足する。
楽器ケースを閉じる音を確認し、すぐにカップを差し出す。
「飲んですぐ寝ろ」
「えっと……お兄様、これは?」
困惑した表情を浮かべられ、少しばかり傷つくのは俺の勝手だ。
普段蔑ろにしているくせに、善意は素直に受け取られたいだなんて勝手が過ぎる。
それでなくても気まぐれで妹を甘やかしたいだなんてどうかしているのだ。
「気持ちが落ち着くハーブだ。よく眠れる。さっさと飲んで寝ろ」
おずおずとカップに手を伸ばし、一口飲んで、苦いと表情を作る。
「……ほんっと、いつまでも子供だな」
仕方がないと角砂糖をふたつ入れてやれば驚いた様子を見せる。
失礼な。
小さいときはよくやってやっただろうに。
セシリアがアルジャンと婚約するまではそこそこいい関係だったと思う。
勉強漬けの俺と、音楽漬けのセシリア。
それでもたまに本を読んでやったり、一緒におやつを食べたりしていた。
幽霊話を怖がったセシリアが寝室に駆け込んできたことだってある。
いい兄かと訊かれれば誇れたものではないが、かわいい妹だった。
どこで間違えたのだろう。
「……お兄様、私の好み、知っていらっしゃったのですね」
セシリアはカップに視線を落としたまま言う。
「俺の記憶力なら誰の好みでも推測できる」
嘘ではないが、半分以上妹の前でのかっこつけだ。
いい兄ではないが、妹にくらい出来のいい兄だと思われたい。
「……お兄様はなんでもできて……アルジャン様からも信頼されていますね」
ふいに、カップを持つセシリアの手が震えた気がした。
今、アルジャンの話題を出すべきではないだろう。
「下らないことを言っていないでさっさと寝ろ」
寝るまで監視するぞと視線を送れば、セシリアは溜息を吐く。
「はい、お兄様……絵本の読み聞かせは結構です」
昔話を出され、思わず笑ってしまう。
「悪かったな。歌は苦手で子守歌は歌ってやれないんだ」
歌えたとしても、子供の頃とは違う声だ。
セシリアは驚いた様にこちらを見る。
ああ、この子の瞳の色は俺と同じ緑色だった。そんなことすら忘れてしまうほど、長い間視線が合わなかった気がする。
「ちゃんと寝ろよ。寝坊したら置いていくからな」
そう言って、しまったと思う。
これでは明日もアルジャンは来ないと告げているようなものではないか。
セシリアは言葉の意味に気付いたのだろう。また顔を伏せてしまう。
このままでは……あの悪夢が現実になるのではないだろうか。
馬鹿馬鹿しいとは思いながらもその考えを振り払えない。
セシリアが寝台に横たわるのを確認し、それから子供の頃にしてやったように頭を撫でる。
「……今日のお兄様、なにか変です」
「……そういう気分だっただけだ。早く寝ろ……悪い夢は……お兄様が食べてやるから」
子供の頃言っていた呪いを口にして思わず笑ってしまう。
夢を食べるなんて御伽話の怪物みたいだ。
「……はい。おやすみなさい」
頭を撫でていた手をぎゅっと握られる。
「……眠るまで、ここに居て……と言っては……迷惑、ですよね?」
控えめに甘えられ驚く。
「お兄様、セシリアが寝るまでここにいて」
幼い日の妹が浮かぶ。
あの頃は、絶対に側に居ないと嫌だと駄々を捏ねていたくせに、今は随分と控えめな主張だ。
どうせ断られる。無駄なことを口にしてしまったとセシリアの表情が告げている。
「……仕方ない。寝付くまでだぞ」
放っておけなかった。
雷にすら怯えていた幼いセシリアが、家族にまで怯えているなんて耐えられない。
お兄様はずっとお前の味方だ。
そんな言葉は言ってやれないから。
せめて今夜だけは安らかな眠りに包まれて欲しいと願った。
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