青の記憶を瓶に詰めて

ROSE

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「さっさと練習に戻れ」

 アルジャン様の言葉が妙に脳内で反芻された。
 ひどい出来なのは自覚している。だからこそ練習に集中したいというのに、姉が強引に引きずり出した。そのせいで、アルジャン様を余計に不快にさせてしまっただろう。
 練習は順調とは言えない。心の乱れがそのまま音の乱れに繋がっているのを実感できてしまう。
 朝が来る。
 また、アルジャン様との朝食の時間がやってきてしまう。
 焦りばかりが募り、気付けば朝陽が昇っている。
 
「セシリア様、まさか、一晩中練習を?」

 起こしに来たリリーが青ざめて見える。
「ひどいお顔です」
 言われるまでもなく理解している。
 制服のまま、一睡もせずにひたすら練習を続けていた。
 それなのに、指の動きが悪い。基本的な部分で躓いてしまっているのが自分でも理解出来てしまうほどに。
「そうね」
 楽器を拭いてしまわないと。
 本番まで時間がない。
 それでなくても昼休みにはアルジャン様に進捗確認をされるはずだ。
 時間がない。
 こんな出来では失望させてしまう。
「セシリア様……今日はお休みになられた方がよろしいのではないでしょうか……」
 不安気なリリーの声に振り向く余裕すらない。
 アルジャン様になにを言われるかわからない。休んでいる暇などない。
 また失望されてしまう。
 価値のない「つまらない」存在になってしまう。
 本能的な恐怖なのか、悪夢の影響なのか。
 気がつけば体が震えていた。
 目眩がするのはたぶん、寝不足のせい。
「セシリア、また寝坊か?」
 呆れたような声が響く。
 アルジャン様だ。
 どうしてこうも毎日規則正しく監視しに来るのだろう。それ程まで、不出来な私を罵りたいのだろうか。
 今、彼に会いたくない。
 そう思ったのに、無慈悲にも扉が開かれてしまう。
 そして、アルジャン様の視線が向いた。それから少しの間彼が硬直したように思えた。
「……まさか、寝ていないのか?」
 ずかずかと近づいて来たかと思うと肩を掴まれる。
「ひどい顔だ……」
 不機嫌を隠そうともしない響き。
 慌てて謝罪しようと、口を開く前に体が浮く。
 視界がずれ込む感覚に、なにが起きたのかわからなくなった。
「リリー、セシリアは今日、欠席する。ついでに俺もだ」
 逆らうことを許さない響きにリリーも怯えてしまっているだろうと感じた。
「あ、あの、お言葉ですが……その判断は旦那様が……」
 リリーは私よりもずっと勇敢で、アルジャン様の命令を拒もうとしている。
 そこで、自分が寝台に横たわらされていることに気がついた。
 枕の感触が随分と久しい物のように感じられる。
「オプスキュールの使用人はいつから俺に意見出来るようになった?」
 空気が凍り付いたような気がした。
 アルジャン様はリリーに威圧している。
 そして、当たり前の様に私の隣に寝転んだ。
「セシリア、寝ろ。その状態では練習するだけ無駄だ」
 これは徹夜して全く成果がなかったことを見透かされている。そして、私が眠るのを監視するのだとでも言うように、鋭い視線でその場に縫い付けられた。
 所謂金縛りだろうか。そう思ってしまうほど体が動かない。
 いや、金縛りだと思ったのは錯覚だった。アルジャン様の腕が、物理的に拘束している。
 腰に回された腕。背中に密着する体。
 いくら婚約者でもこの距離は問題がある。
「あ、あの……アルジャン様……さ、さすがにこれは……」
 未婚の男女の距離ではありません。そう告げようとしたはずなのに、まるで抱き枕にでもするように抱きしめられた。
「黙ってさっさと寝ろ」
 まるで自分もこれから寝るから邪魔をするなとでも言うような響きに頭が混乱している。
 一体どういう状況なのだろう。
 一瞬、体の心配をしてくれたのかと思ってしまった。期待しすぎだ。そんなこと、あるはずがないのに。
 学校でも昼寝ばかりしている人だ。きっと寝足りなくて休む口実に利用したのだろう。ついでに、抱き枕にまで任命されたのだ。きっとそうに違いない。
「……抱き心地が悪い……もっと太れ」
 不満そうな声が響く。
 勝手に抱き枕にしているのはアルジャン様だというのに、彼はなんでも自分の思い通りにならないと気が済まないのだろう。
 この状況で眠れるはずがない。
 なにより、この姿勢は演奏に支障が出そうだ。
「……アルジャン様……その……指の動きに支障が出そうなのでこの体勢は……」
 困ります。
 その言葉は口から出なかった。
 ぐるりと景色が揺らぐ。
「これで我慢しろ」
 一体なぜ?
 疑問が口から飛び出してくれないほど驚いている。
 彼の上に乗せられて、ぬいぐるみのように抱きしめられた。
 そして、まるで寝かしつけようとでもするように、背中をとんとんと叩かれた。
 一体なにを考えているのだろう。
 こんなことをして……アルジャン様がただの親切なんてありえない。
 何か目的があるはず……。なのに、私の頭ではそれを考えつかない。
 結局暴君アルジャン様の考えなんて読むことが出来ないのだ。
 大人しく従わないと。
 なにをされるかわからないのだから。
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