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アルジャン2 嫌な臭い2
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そして今、俺は腹いせの相手を見つけた。ヴィンセントだ。
乱暴に襟首を掴んでシシーのお気に入りの温室に引きずり込む。いつでもくつろげるように上質な食卓と椅子が置かれたその空間は、シシーが読書をしたり、家族の前で練習の成果を披露する場になっている。
当然、自室に籠もっているシシーの姿はないが彼女がいつも座る席に腰を下ろす。残念ながら数日使われた形跡がなく、彼女の残り香は感じられない。
「……アル、首が絞まるところだったぞ……」
不機嫌に睨んでくる辺り、どうも立場がわかっていないらしい。それでもさり気なく使用人に茶菓子の用意を命じるのは染み着いた習慣だろうか。だが、今の俺の不機嫌はオプスキュール伯爵家の茶菓子がどんなに美味いとしても静まりそうにない。
「ヴィンセント、お前、俺のシシーを随分貶めてくれているようだが?」
お前にとっては妹かもしれないが、俺の妻になる女だ。ということはつまりこの俺を貶めているのと同じ事だ。
「あれがどんくさい音楽馬鹿なことは事実だ。楽器の手入れは出来ても自分の手入れは出来ていない」
ヴィンセントは溜息を吐く。自分の手入れとは今朝の寝坊を指しているのだろうか。少し隈が出来ていた気がする。
「夜遅くまで練習していたぞ? 消音器を使えば気付かれないとでも思ったのだろうか。迷惑だ」
そう口にすると言うことは、ヴィンセントも過去百年の出題分析をした中間考査対策でもしていたのだろう。無駄なことを。まあ、ヴィンセントは国立大学へ進学希望だから少しばかり焦っているのだろうが……金を積めば楽には入れるのに無駄を好む男だ。
「シシーの練習程度で気が逸れるのであれば問題はお前の情けない集中力の方だ」
メイドが運んできた茶菓子を口に運ぶ。洗練されてはいないが、手作り感が満載のごろごろとしたナッツ入りクッキーはしっとりしてくつろげる味だ。
「おい、アルジャン様にお出しする菓子はもう少しまともなものを持って来い」
ヴィンセントが使用人を叱りつける。
「申し訳ございません。本日は急でしたのでセシリアお嬢様にご用意した物を運ぶようにとお嬢様から申しつけられました」
シシーのおやつを奪ってしまたのか。悪いことをした。
「俺はこれでも構わんぞ? 丁度屋敷の菓子にも飽きてきたところだ。庶民的な味も嫌いではない」
そう言えば近頃街で有名な菓子店があると噂を耳にしたが……男ひとりで入るには随分と愛らしい内装だと聞く。
「ヴィンセント、気になるのであれば流行の菓子店で全種類買い占めてこい」
お前がその足でと告げれば、舌打ちをされる。
「この時間から行って商品が残っているはずがないだろう」
「そんなに流行っているのか?」
「行列が出来て二時間は並ばなくてはいけないらしい」
そう聞いてしまうと余計に食べてみたくなる。
「明日並んでこい。ついでだ。シシーの分も確保しろ」
今日はシシーのおやつを奪ってしまったからな。
「明日も学校だ。そんな時間はない」
真面目に返されるとつまらない。
ああ、苛々する。
シシーに会いたい。
シシーに触れたい。
しかし、練習の邪魔はしないと誓っている。
「くそっ……あんな条件を突きつけて……」
思わず口に出してしまった。
「あんな条件?」
「……シシーに求婚したとき、練習の邪魔はするなと言われた」
あの少し生意気な口調が今も忘れられない。
あの生意気さも含めて俺のかわいいシシーだというのに。
「……アルは本当にセシリアのことと甘い物のことしか考えていないな」
呆れたような溜息が響く。
「あんな美女に夢中にならない方が罪だろう」
「なら本人にも言ってやれ。すっかり怯えているじゃないか」
ヴィンセントは呆れながら茶に口を付ける。
「……この二日、シシーの様子がおかしいが……なにかあったのか?」
気に掛かっていたことを訊ねれば、ヴィンセントは首を傾げる。
「おかしい? 元々じゃないのか? ああ、アルの顔が怖いと零していたことがあるぞ」
なっ……怖い? 俺の顔が?
「どこからどう見ても美形だろう。神が与えた完璧な造形だ」
「あー、はいはい。お前の視線だけで人を殺せそうだとか木陰でこっそり泣いていたぞ」
どこか面倒くさそうにそう口にするヴィンセントは生意気にもこの俺をからかうつもりなのではないだろうか。
「……シシーには優しく接しているだろう」
「どこがだ。お前に虐待されているという噂まであるぞ」
うんざりした様子でそう告げるヴィンセントの言葉は嘘なのか真なのかさえ曖昧だ。
それはときどき少しばかり威圧的な部分はあるかもしれないが、シシーに対しては完璧な婚約者だろうに。見た目も家柄も最上だし、成績も落としていない。出会った瞬間からシシー一筋だ。まあ、少しばかり嫉妬深いところは認めるが……なにが問題だ。
しかし、思い返せばシシーの瞳が揺れる時間が長くなった気がする。感情の揺れだ。だが、彼女の考えはいつも読めない。
「……音が乱れていた」
つい下手くそなどと言ってしまったが、それはシシーの実力がそんなものではないと知っているからだ。
「……音楽祭にはヴァネッサ姉上も来るから……緊張している、のだろうな……しくじったらなにこそ罵られるか……」
ヴィンセントは頭を抱える。ああ、こいつも出るのだったな。
ヴァネッサはヴィンセントとシシーの姉だ。既にミスティーク侯爵家に嫁いでいるが、それはもう恐ろしい女だ。ヴィンセントはやつを自然発生した狂気と呼んでいる。自分の姉に対してとんでもない表現を使うとは思うが、それが殆ど事実だからどうしようもない。
特にヴィンセントがお気に入りらしく、小さな頃からそれはもういじめにいじめ抜いていた。なんというか、わざわざ理由を作ってからヴィンセントをいじめる。俺とは違う意味の問題児だ。人の弱味を的確に把握することに長け、すっかりと夫を支配しているのだと聞く。
少し前に参加させられた夜会で公衆の面前で自分の夫を椅子扱いしている姿にはシシーが将来そうならないことを必死に願ってしまったほどだ。
「ヴァネッサは、シシーのことは可愛がっているだろう?」
妹がかわいいと……ああ、シシーが嫌がる露出の多い服を着せたり(あれは眼福だったが)、お茶に招いて睡眠薬を盛ったり……池に突き落としたこともあったな……やはり危険人物だ。
「結婚して少しは大人しくなったが……暴言の精度が上がった気がする」
出来ることなら二度と会いたくないとヴィンセントが言いたくなるのも理解できる。特にヴィンセントは酷い目に会い続けているから。
婚約者候補が来る直前に、シシーの下着を握らされただかで、妹に問題のある興味の抱き方をされていると思われそれはもうこっぴどく振られたらしい。なぜその下着を俺に寄こさなかったと数日罵った覚えがある。
今思い返しても惜しい。シシーの脱ぎたての下着……。欲しくないはずがない。
「ヴィンセント、シシーの下着を取って俺に寄こせ」
そう命じれば、本気で軽蔑した視線を向けられる。
「……お前、変態を隠そうともしなくなったな」
「触れられないのだから匂いくらいは欲しいに決まっているだろう」
へたれのヴィンセントが妹の下着を入手できるとは思わないが。
「シシーには気付かれないようにやれよ。今のところ俺はシシーの完璧な婚約者だからな」
「完璧な変態の間違いだろ。ったく……今以上に嫌われたらどうする気なんだ。修道院にでも駆け込むんじゃないか?」
ヴィンセントは深い溜息を吐く。
「シシーを俺に差し出さないのであれば、オプスキュール伯爵家は歴史から永遠に抹消されることになるが?」
シシーを手に入れるためならいくらでも権力を利用する。たとえ下着一枚だろうと。
「……いくらセシリアが不出来な妹とは言え……こんな変態に嫁がせるのは流石に憐れに思えてきた……」
頭を抱え溜息を吐くヴィンセントが気に入らないので茶でも掛けてやろうかと思った瞬間、声がした。
「お姉様……練習の最中です……どうか手を離して下さい」
半分泣きそうなシシーの声。
慌てて振り向けば、つい先程まで話題に上がっていたシシーの姉、ヴァネッサが、弓を握ったままのシシーの腕を強引に引いてこちらに向かってくる。
「だめよ。部屋に引きこもりっぱなしなんて。どうせならお庭で練習なさい。開放感のある場所の方がのびのびとした音になるでしょう」
全て妹の為よと言わんばかりのヴァネッサは、実際どうやって妹を泣かせようかと考えているに違いない。
「あら? 先客かしら?」
扇で口元を隠しながら白々しく訊ねるその姿、やはり会いたくはない相手だった。
「あら、アルジャン様じゃない。セシリア、折角だから練習の成果を聞かせてあげなさいよ」
「……先程下手くそと評価されたばかりですので自主練習を……させて下さい……」
手を離して欲しいのだろう。シシーの目に涙が浮かんでいる。
「ヴァネッサ、手を離せ。あまり強く握っては演奏に支障が出る」
本来であれば今すぐシシーを抱き寄せて保護したいところだが、先に立つのは身分上問題になる。
「相変わらずセシリアを楽器の一部としか思っていらっしゃらない様子ですわね」
ヴァネッサはからかうような目でこちらを見た。
「その才能を潰そうとするな」
ヴァネッサを牽制するために睨む。身分ならこちらが上だ。
「あら、セシリアを潰そうとしているのはどちらかしら?」
感情の読めない視線がなにかを牽制しているようだ。
「セシリアの練習の邪魔をするなと言っている」
忌々しい誓いではあるが、求婚したときに誓ったのだ。当然シシーの練習を邪魔するものがあれば排除する。
しばらく睨み合えばヴァネッサは呆れたように溜息を吐きシシーの手を離した。
「セシリア、あなたどれだけ出来の悪い演奏を披露したの?」
「……も、申し訳ございません……」
シシーはなにも言い返せずにただ謝罪を口にする。
気に入らない。
なぜシシーが謝罪する必要がある。
その苛立ちを感じ取ったのか、シシーの体がびくりと震えた。
上手くいかない。
また怯えさせてしまった。
「さっさと練習に戻れ」
思わず冷たい声が出た。
怯えたシシーが慌てて頭を下げ、駆け足で立ち去るのをただ見送ることしか出来ない。
「……あれは完全に怯えきっていたな」
ヴィンセントは溜息を吐く。
「……ヴァネッサが余計なことをしなければあそこまで怯えさせずに済んだ」
そうだ。
ヴァネッサがわざわざ連れ出さなければシシーの自主練習を邪魔することもなく平和な茶を楽しめたはずなのだ。
ヴァネッサは当然のように椅子に座り、それから現状を楽しむように笑う。
どんな意図があるのか。
ただ、自分以外の全てを玩具程度にしか考えていない目の前の女ほど厄介な存在はいない。
苛立ちを誤魔化すように茶菓子に手を伸ばす。
遠くからヴァイオリンの音が響き始めたが、指が全く動いていないようだ。
緊張させてしまった。
苦しめたいわけではないというのに。
自分に苛立つ。
それを誤魔化すように追加の焼き菓子を口に放り込んだ。
乱暴に襟首を掴んでシシーのお気に入りの温室に引きずり込む。いつでもくつろげるように上質な食卓と椅子が置かれたその空間は、シシーが読書をしたり、家族の前で練習の成果を披露する場になっている。
当然、自室に籠もっているシシーの姿はないが彼女がいつも座る席に腰を下ろす。残念ながら数日使われた形跡がなく、彼女の残り香は感じられない。
「……アル、首が絞まるところだったぞ……」
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ヴィンセントは溜息を吐く。自分の手入れとは今朝の寝坊を指しているのだろうか。少し隈が出来ていた気がする。
「夜遅くまで練習していたぞ? 消音器を使えば気付かれないとでも思ったのだろうか。迷惑だ」
そう口にすると言うことは、ヴィンセントも過去百年の出題分析をした中間考査対策でもしていたのだろう。無駄なことを。まあ、ヴィンセントは国立大学へ進学希望だから少しばかり焦っているのだろうが……金を積めば楽には入れるのに無駄を好む男だ。
「シシーの練習程度で気が逸れるのであれば問題はお前の情けない集中力の方だ」
メイドが運んできた茶菓子を口に運ぶ。洗練されてはいないが、手作り感が満載のごろごろとしたナッツ入りクッキーはしっとりしてくつろげる味だ。
「おい、アルジャン様にお出しする菓子はもう少しまともなものを持って来い」
ヴィンセントが使用人を叱りつける。
「申し訳ございません。本日は急でしたのでセシリアお嬢様にご用意した物を運ぶようにとお嬢様から申しつけられました」
シシーのおやつを奪ってしまたのか。悪いことをした。
「俺はこれでも構わんぞ? 丁度屋敷の菓子にも飽きてきたところだ。庶民的な味も嫌いではない」
そう言えば近頃街で有名な菓子店があると噂を耳にしたが……男ひとりで入るには随分と愛らしい内装だと聞く。
「ヴィンセント、気になるのであれば流行の菓子店で全種類買い占めてこい」
お前がその足でと告げれば、舌打ちをされる。
「この時間から行って商品が残っているはずがないだろう」
「そんなに流行っているのか?」
「行列が出来て二時間は並ばなくてはいけないらしい」
そう聞いてしまうと余計に食べてみたくなる。
「明日並んでこい。ついでだ。シシーの分も確保しろ」
今日はシシーのおやつを奪ってしまったからな。
「明日も学校だ。そんな時間はない」
真面目に返されるとつまらない。
ああ、苛々する。
シシーに会いたい。
シシーに触れたい。
しかし、練習の邪魔はしないと誓っている。
「くそっ……あんな条件を突きつけて……」
思わず口に出してしまった。
「あんな条件?」
「……シシーに求婚したとき、練習の邪魔はするなと言われた」
あの少し生意気な口調が今も忘れられない。
あの生意気さも含めて俺のかわいいシシーだというのに。
「……アルは本当にセシリアのことと甘い物のことしか考えていないな」
呆れたような溜息が響く。
「あんな美女に夢中にならない方が罪だろう」
「なら本人にも言ってやれ。すっかり怯えているじゃないか」
ヴィンセントは呆れながら茶に口を付ける。
「……この二日、シシーの様子がおかしいが……なにかあったのか?」
気に掛かっていたことを訊ねれば、ヴィンセントは首を傾げる。
「おかしい? 元々じゃないのか? ああ、アルの顔が怖いと零していたことがあるぞ」
なっ……怖い? 俺の顔が?
「どこからどう見ても美形だろう。神が与えた完璧な造形だ」
「あー、はいはい。お前の視線だけで人を殺せそうだとか木陰でこっそり泣いていたぞ」
どこか面倒くさそうにそう口にするヴィンセントは生意気にもこの俺をからかうつもりなのではないだろうか。
「……シシーには優しく接しているだろう」
「どこがだ。お前に虐待されているという噂まであるぞ」
うんざりした様子でそう告げるヴィンセントの言葉は嘘なのか真なのかさえ曖昧だ。
それはときどき少しばかり威圧的な部分はあるかもしれないが、シシーに対しては完璧な婚約者だろうに。見た目も家柄も最上だし、成績も落としていない。出会った瞬間からシシー一筋だ。まあ、少しばかり嫉妬深いところは認めるが……なにが問題だ。
しかし、思い返せばシシーの瞳が揺れる時間が長くなった気がする。感情の揺れだ。だが、彼女の考えはいつも読めない。
「……音が乱れていた」
つい下手くそなどと言ってしまったが、それはシシーの実力がそんなものではないと知っているからだ。
「……音楽祭にはヴァネッサ姉上も来るから……緊張している、のだろうな……しくじったらなにこそ罵られるか……」
ヴィンセントは頭を抱える。ああ、こいつも出るのだったな。
ヴァネッサはヴィンセントとシシーの姉だ。既にミスティーク侯爵家に嫁いでいるが、それはもう恐ろしい女だ。ヴィンセントはやつを自然発生した狂気と呼んでいる。自分の姉に対してとんでもない表現を使うとは思うが、それが殆ど事実だからどうしようもない。
特にヴィンセントがお気に入りらしく、小さな頃からそれはもういじめにいじめ抜いていた。なんというか、わざわざ理由を作ってからヴィンセントをいじめる。俺とは違う意味の問題児だ。人の弱味を的確に把握することに長け、すっかりと夫を支配しているのだと聞く。
少し前に参加させられた夜会で公衆の面前で自分の夫を椅子扱いしている姿にはシシーが将来そうならないことを必死に願ってしまったほどだ。
「ヴァネッサは、シシーのことは可愛がっているだろう?」
妹がかわいいと……ああ、シシーが嫌がる露出の多い服を着せたり(あれは眼福だったが)、お茶に招いて睡眠薬を盛ったり……池に突き落としたこともあったな……やはり危険人物だ。
「結婚して少しは大人しくなったが……暴言の精度が上がった気がする」
出来ることなら二度と会いたくないとヴィンセントが言いたくなるのも理解できる。特にヴィンセントは酷い目に会い続けているから。
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「ヴィンセント、シシーの下着を取って俺に寄こせ」
そう命じれば、本気で軽蔑した視線を向けられる。
「……お前、変態を隠そうともしなくなったな」
「触れられないのだから匂いくらいは欲しいに決まっているだろう」
へたれのヴィンセントが妹の下着を入手できるとは思わないが。
「シシーには気付かれないようにやれよ。今のところ俺はシシーの完璧な婚約者だからな」
「完璧な変態の間違いだろ。ったく……今以上に嫌われたらどうする気なんだ。修道院にでも駆け込むんじゃないか?」
ヴィンセントは深い溜息を吐く。
「シシーを俺に差し出さないのであれば、オプスキュール伯爵家は歴史から永遠に抹消されることになるが?」
シシーを手に入れるためならいくらでも権力を利用する。たとえ下着一枚だろうと。
「……いくらセシリアが不出来な妹とは言え……こんな変態に嫁がせるのは流石に憐れに思えてきた……」
頭を抱え溜息を吐くヴィンセントが気に入らないので茶でも掛けてやろうかと思った瞬間、声がした。
「お姉様……練習の最中です……どうか手を離して下さい」
半分泣きそうなシシーの声。
慌てて振り向けば、つい先程まで話題に上がっていたシシーの姉、ヴァネッサが、弓を握ったままのシシーの腕を強引に引いてこちらに向かってくる。
「だめよ。部屋に引きこもりっぱなしなんて。どうせならお庭で練習なさい。開放感のある場所の方がのびのびとした音になるでしょう」
全て妹の為よと言わんばかりのヴァネッサは、実際どうやって妹を泣かせようかと考えているに違いない。
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「あら、アルジャン様じゃない。セシリア、折角だから練習の成果を聞かせてあげなさいよ」
「……先程下手くそと評価されたばかりですので自主練習を……させて下さい……」
手を離して欲しいのだろう。シシーの目に涙が浮かんでいる。
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ヴァネッサを牽制するために睨む。身分ならこちらが上だ。
「あら、セシリアを潰そうとしているのはどちらかしら?」
感情の読めない視線がなにかを牽制しているようだ。
「セシリアの練習の邪魔をするなと言っている」
忌々しい誓いではあるが、求婚したときに誓ったのだ。当然シシーの練習を邪魔するものがあれば排除する。
しばらく睨み合えばヴァネッサは呆れたように溜息を吐きシシーの手を離した。
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「……も、申し訳ございません……」
シシーはなにも言い返せずにただ謝罪を口にする。
気に入らない。
なぜシシーが謝罪する必要がある。
その苛立ちを感じ取ったのか、シシーの体がびくりと震えた。
上手くいかない。
また怯えさせてしまった。
「さっさと練習に戻れ」
思わず冷たい声が出た。
怯えたシシーが慌てて頭を下げ、駆け足で立ち去るのをただ見送ることしか出来ない。
「……あれは完全に怯えきっていたな」
ヴィンセントは溜息を吐く。
「……ヴァネッサが余計なことをしなければあそこまで怯えさせずに済んだ」
そうだ。
ヴァネッサがわざわざ連れ出さなければシシーの自主練習を邪魔することもなく平和な茶を楽しめたはずなのだ。
ヴァネッサは当然のように椅子に座り、それから現状を楽しむように笑う。
どんな意図があるのか。
ただ、自分以外の全てを玩具程度にしか考えていない目の前の女ほど厄介な存在はいない。
苛立ちを誤魔化すように茶菓子に手を伸ばす。
遠くからヴァイオリンの音が響き始めたが、指が全く動いていないようだ。
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