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1 過度な期待1
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終業ベルを聞いて溜息が出る。今日は散々だった。
どの授業も一度経験したことがあるような気がするし、昼休みに楽器を弾こうとすればアルジャン様のいつもの気まぐれが発揮されてしまい正門前で見世物にされた。おまけに緊張しすぎて音が乱れ、「下手くそ」と罵られてしまう。そもそも人前に出るのが苦手な私を強制的に校門前に連れ出してそこで演奏しろと命じたのはアルジャン様の方だ。
アルジャン様はペルフェクシオン公爵家の長男で、彼自身王家の血筋の方だ。そしてお姉様が現王妃陛下で、王子の叔父という微妙な立場にある。
私と婚約が決まったのは今から十二年ほど前。どういった流れだったのかは全く記憶にはないが、父に連れられペルフェクシオン公爵家を訪れた際にいきなり求婚された。当時の私は意味もわからずに混乱して「練習の邪魔をしないのでしたら」なんて生意気な答えをしてしまった。あの当時から私は音楽のことしか考えていなかったのかもしれない。
アルジャン様はとても美しい方だ。赤葡萄酒色の長い髪に猛禽類のような鋭い金の瞳。顔立ちは彫刻のように整っていてすらりと背が高いのに全身が引き締まっている。動かなければ彫刻家の最新作だと言われても納得してしまうような見事な美しさなのに、中身は暴君もいいところだ。
まず、気遣いなんて一切しない。教員の注意も全く聞かないし、自分が世界の中心だからお前らは俺に合わせろとでも言うように横暴な態度だ。私なんかはいつも振り回されてしまっている。直接殴られたことはないけれど、睨まれると怖い。それに彼が不機嫌になるとどんなことをされるかわからなくて恐ろしいと感じてしまう。
放課後も当たり前の様に呼び出され、迎えの馬車が来るまでの時間を一緒に過ごさなくてはいけない。大抵は中庭か温室で、昼寝をするから膝を貸せという内容だ。彼にとって私は枕かなにかなのだろう。会話もなく、まるで腹を出して寝る獅子のような堂々とした寝姿には呆れてしまう。
けれども、今日はなにかが違った。
もしも過去に戻っているのだとすれば、なにかがあるはずだ。それなのに記憶はとても曖昧で、出来事が思い出せない。ただ、授業の内容は一度聞いたことがあったので出された課題は珍しく授業中に半分終わらせることができた。これで家に帰った後の練習時間が増えるなどと考えるあたり、私も懲りてはいないのだろう。
つまり、同じ未来をなぞることになったとしても楽器さえ無事ならそれでいいと考えてしまっている。
アルジャン様が才能を認めて下さった証である楽器さえ無事なら。
ぼんやりと考え、楽器を抱きしめたままアルジャン様の後ろを歩いていると珍しく学内で兄の姿を見た。
「ヴィニー、珍しいな。乗っていくか?」
セシリアのついでだと、アルジャン様が兄に声を掛ける。
「いや、これから転入生に校舎案内をしなければいけない。ったく……本来ならお前の仕事だぞ」
兄は呆れた様子でアルジャン様を見る。
普通なら主席であるアルジャン様が新入生や転入生の手助けをするべきなのに、次席の兄が指名されたと言うことは学校側もアルジャン様の性格をよく把握しているということだろう。
つまり、自分のしたくないことは全くしない方なのだと。
「なぜだ? お前の手の掛かる妹ひとりでたくさんだ」
アルジャン様は意地悪い笑みを浮かべて言う。その様子に兄は舌打ちした。
「セシリア、お前ももう十七なんだ。自分のことは自分で出来るだろう」
「は、はい……」
兄に睨まれ、思わず姿勢を正す。
とばっちりだとは思う。けれども、兄に怒鳴られるのは苦手だ。殴ったりする人ではないけれど、睨まれれば身動きが出来なくなってしまう。なんというか、視線が鋭く、胸の奥底まで把握されてしまいそうなのだ。
「あまり苛めてくれるな。これは俺のだ」
アルジャン様が楽しそうに言う。兄の反応も私の反応も彼にとっては玩具のようなものなのかもしれない。
「……アル、お前も、婚約しているとは言え未婚なんだぞ。あんまりどこでも連れ歩くな。べたべたしすぎだ。少しは配慮してくれ」
「俺に意見できるほど偉くなったのか? ヴィンセント」
一瞬でアルジャン様の空気が変わる。機嫌を損ねてしまったのだ。
「あ、あの……アルジャン様? そろそろ馬車が着きますよ?」
帰りましょうと声を掛ければ、舌打ちをされる。
「ここからが面白いところだったが……まぁいい。妹のおかげで命拾いしたな。ヴィニー」
アルジャン様はどこか楽しそうな口調で、たぶんわざと兄を挑発した。
やはり彼にしてみれば私たち兄妹は玩具のような物なのだろう。
アルジャン様は強引に私の手を引いて歩き出す。やはり歩幅が違いすぎて小走りになってしまう。
「ヴィニーは……随分お前を気に入っているようだな」
不機嫌そうな声が響いた。
どういう意味だろう。そもそも、兄がなにに対して意見したのかさえわからない。
兄はいつだって冷たく、私を不出来な妹と評価しているというのに。
困惑していると、丁度馬車が到着したので大人しく乗り込んだ。
馬車の中では相変わらず無言で、視線すら合わない。というよりは、私の方が緊張してしまって視線を合わせられない。だから、自然と視線は楽器ケースに向かってしまう。
早く弾きたい。今日はそれこそ気を失うまで。
そわそわと落ち着かないまま居ると、ふいにアルジャン様が口を開く。
「……音楽祭、お前、課題曲を変更しろ」
突然の言葉になにを言われたのか理解できない。
「はい?」
「……あの曲は暗すぎる。もっと華やかな曲にしろ」
理不尽な言葉と同時に目の前に楽譜を突き出される。
わざわざ用意して下さった事実にまず驚き、楽譜を見て意識が遠のきそうになる。
いくらアルジャン様の命令でもこれは無理だ。こんな超絶技巧曲……学生が演奏できる作品じゃない。
「あの、アルジャン様……わ、私の腕ではこの曲は……」
「俺がやれと言っている。音楽祭まで二週間もあるんだ。十分だろう」
なんて過度な期待を……。
そうして思い出す。あの夢の中では散々だった。
そう、あの時もアルジャン様が突然曲を変更しろと……超絶技巧曲を差し出してきた。けれど……曲が全く違う。むしろ難易度が上がっている。
ただでさえ人前で注目されるのが苦手な私は音楽祭に参加するだけでも相当な苦行だというのに、アルジャン様の婚約者という立場のせいで余計に注目されてしまう。失敗は許されないのだという重圧だけで吐いてしまいそうだ。
あの時はもう、二週間寝る間も削ってひたすら練習してようやくなんとか形にはなったけれど、結局「下手くそ」と言われてしまった。
「ヴァイオリンくらいしか誇れるものがないんだ。期待を裏切るな」
更に念を押される。
あの猛禽の鋭い瞳で見られれば体が縮こまってしまいそうだ。
なんて理不尽な人なのだろう。こう思うのは今日が初めてではない。けれども、困ったことに私はこの方に褒められたいと思ってしまう。
せめて、唯一褒めて頂いたヴァイオリンだけは……期待を裏切りたくない。
それにしてもこの選曲は酷い。宮廷の演奏家だってまともに演奏できる奏者はどれだけいるだろう。技術が難しく速度が難しい上に無伴奏なのだ。もっと困ったことに……本番は人前でこれを弾かなくてはいけない。そう考えただけで頭が真っ白になりそうだ。
ヴァイオリンは好き。演奏するのは好き。だけど、人前に出るのは、見世物になるのは嫌い。嫌いと言うよりは怖い。他人の視線が、注目されるのが怖い。
きっといつも粗相をしたと叱られてしまうせいだとは思う。アルジャン様の婚約者になってからはさらに些細な失敗を責められる。だから余計に私には自尊心というものが足りていないのだと自覚はしている。けれども、自覚したからと言ってそれが改善できるわけでもない。
ただ、出来ることはやらなくては。
アルジャン様に失望されたくはない。
必死に楽譜を頭に叩き込もうと指でなぞりながら頭の中で再生する。
結局、私も兄と同じだ。もう、条件反射のようにアルジャン様に従わなくてはいけないと体に染み着いてしまっている。
これは恋だとか愛だとかそんな甘ったるい感情じゃない。ただの服従だ。そして、支配者がいることに安堵する面がある。
不要と言われるまでは支配されていたい。
鋭い視線を感じながら、躓きやすそうなところを探る。
時間がない。
躓きそうな部分を集中練習してあとから全体流し練習をするべきだろう。
家に着く頃にはもう高熱を出しそうな程頭を酷使していたと思う。
「人に聞かせられる仕上げにしろ」
別れ際に、そう言われ、思わず背筋が伸びる。
アルジャン様は一体私をなんだと思っているのだろう。
彼に婚約者らしい扱いをされたことはないような気がする。
遠ざかっていく馬車を見送りながら考える。
毎年、誕生日と特別な行事の時に贈り物を下さる。催しの際に同伴させられることもある。けれども、婚約者と言うよりは主君と使用人のような関係に思えてしまう。たとえそれが事実だとしても私はそれに逆らえない。
別に巷で流行の恋愛小説のような甘い台詞を囁かれたいだとか、そんなことは全く期待していない。けれども、もう少しだけ柔らかい表情を見せて欲しいと思ってしまう。
普通婚約者同士となると、もっとお茶の席で談笑したり、日頃の雑談なんてものがあってもいいのではないかと思う。
けれども……私がしているのは、お茶の席では茶菓子を彼に譲り、理不尽な要求に振り回されることばかりだ。そもそも授業の時間に呼び出して中庭で膝を貸せだなんて学生として有るまじき行為だと思うのに、彼が相手では逆らえない。機嫌を損ねたらなにをされるかわからないのだから。
なにより、アルジャン様が私なんかに求婚してきたのはなにかの間違いだと思う。それとも、あの日の私の態度が気に入らなかったので一生苛めてやろうとでも考えたのだろうか。
いや、彼の場合苛めようなんて発想もないだろう。彼にとってはそれが当然の権利なのだから。
夕食を断り、譜面台に楽譜を並べる。躓きそうな部分には先に印を付けた。
楽器を用意しながら、彼の言葉を反芻する。
『ヴァイオリンくらいしか誇れる物がないんだ。期待を裏切るな』
その言葉は、家族からもずっと言われ続けている。
セシリアはヴァネッサほど美人でもないし、ヴィンセントのように優秀でもないのだからたまたま気に入って下さったアルジャン様の機嫌を損ねないようにしろ。
なにをやってもどんくさいお前が唯一人並み以上に出来るのがヴァイオリンなんだ。それでアルジャン様の機嫌取りをしろ。
父も兄もずっとそんなことばかり口にしている。
たまたま、彼の目についてしまって、たまたま、他の人よりヴァイオリンの練習が好きだっただけ。それ以外はなにも、誇れる物がない。
外見も、頭の出来も、姉や兄に敵わない。せめてお母様に似てもう少し豊満な体になれたなら、今よりはアルジャン様の視線を惹きつけられたかもしれない。
私の体は同世代の子と比べても貧相に見える。特に栄養が足りていない訳でもないはずなのに痩せ気味だし、背だってアルジャン様と並ぶと悲しいくらいに足りていないように見えてしまう。運動は苦手。勉強も、得意と言えるほどではない。お世辞にも美人と言える外見ではないし、実年齢より幼く見られがちだ。顔つきが幼いせいか少し背の高い初等部の子か、精々中等部程度にしか見てもらえないことが多い。
アルジャン様はどうして。
疑問を抱かずには居られない。
いや、彼はしばらく私を観察して、結局「つまらない」という理由で捨ててしまう。
別に構わない。彼にとって価値がないなら捨てられたって。
そう、思うはずなのに、私はやっぱり彼の期待を裏切りたくないと思う。
世間が言う婚約関係とは違うけれど、私は確かに首輪付きなのだ。
そんなことを考えながら弓を動かす。
この曲は、元が歌曲だ。だから、歌うような演奏をしなくてはいけない。
明日の朝までには一番難しい部分をとりあえず流せる程度には仕上げないと。
それはもう、死に物狂いで練習した。
どの授業も一度経験したことがあるような気がするし、昼休みに楽器を弾こうとすればアルジャン様のいつもの気まぐれが発揮されてしまい正門前で見世物にされた。おまけに緊張しすぎて音が乱れ、「下手くそ」と罵られてしまう。そもそも人前に出るのが苦手な私を強制的に校門前に連れ出してそこで演奏しろと命じたのはアルジャン様の方だ。
アルジャン様はペルフェクシオン公爵家の長男で、彼自身王家の血筋の方だ。そしてお姉様が現王妃陛下で、王子の叔父という微妙な立場にある。
私と婚約が決まったのは今から十二年ほど前。どういった流れだったのかは全く記憶にはないが、父に連れられペルフェクシオン公爵家を訪れた際にいきなり求婚された。当時の私は意味もわからずに混乱して「練習の邪魔をしないのでしたら」なんて生意気な答えをしてしまった。あの当時から私は音楽のことしか考えていなかったのかもしれない。
アルジャン様はとても美しい方だ。赤葡萄酒色の長い髪に猛禽類のような鋭い金の瞳。顔立ちは彫刻のように整っていてすらりと背が高いのに全身が引き締まっている。動かなければ彫刻家の最新作だと言われても納得してしまうような見事な美しさなのに、中身は暴君もいいところだ。
まず、気遣いなんて一切しない。教員の注意も全く聞かないし、自分が世界の中心だからお前らは俺に合わせろとでも言うように横暴な態度だ。私なんかはいつも振り回されてしまっている。直接殴られたことはないけれど、睨まれると怖い。それに彼が不機嫌になるとどんなことをされるかわからなくて恐ろしいと感じてしまう。
放課後も当たり前の様に呼び出され、迎えの馬車が来るまでの時間を一緒に過ごさなくてはいけない。大抵は中庭か温室で、昼寝をするから膝を貸せという内容だ。彼にとって私は枕かなにかなのだろう。会話もなく、まるで腹を出して寝る獅子のような堂々とした寝姿には呆れてしまう。
けれども、今日はなにかが違った。
もしも過去に戻っているのだとすれば、なにかがあるはずだ。それなのに記憶はとても曖昧で、出来事が思い出せない。ただ、授業の内容は一度聞いたことがあったので出された課題は珍しく授業中に半分終わらせることができた。これで家に帰った後の練習時間が増えるなどと考えるあたり、私も懲りてはいないのだろう。
つまり、同じ未来をなぞることになったとしても楽器さえ無事ならそれでいいと考えてしまっている。
アルジャン様が才能を認めて下さった証である楽器さえ無事なら。
ぼんやりと考え、楽器を抱きしめたままアルジャン様の後ろを歩いていると珍しく学内で兄の姿を見た。
「ヴィニー、珍しいな。乗っていくか?」
セシリアのついでだと、アルジャン様が兄に声を掛ける。
「いや、これから転入生に校舎案内をしなければいけない。ったく……本来ならお前の仕事だぞ」
兄は呆れた様子でアルジャン様を見る。
普通なら主席であるアルジャン様が新入生や転入生の手助けをするべきなのに、次席の兄が指名されたと言うことは学校側もアルジャン様の性格をよく把握しているということだろう。
つまり、自分のしたくないことは全くしない方なのだと。
「なぜだ? お前の手の掛かる妹ひとりでたくさんだ」
アルジャン様は意地悪い笑みを浮かべて言う。その様子に兄は舌打ちした。
「セシリア、お前ももう十七なんだ。自分のことは自分で出来るだろう」
「は、はい……」
兄に睨まれ、思わず姿勢を正す。
とばっちりだとは思う。けれども、兄に怒鳴られるのは苦手だ。殴ったりする人ではないけれど、睨まれれば身動きが出来なくなってしまう。なんというか、視線が鋭く、胸の奥底まで把握されてしまいそうなのだ。
「あまり苛めてくれるな。これは俺のだ」
アルジャン様が楽しそうに言う。兄の反応も私の反応も彼にとっては玩具のようなものなのかもしれない。
「……アル、お前も、婚約しているとは言え未婚なんだぞ。あんまりどこでも連れ歩くな。べたべたしすぎだ。少しは配慮してくれ」
「俺に意見できるほど偉くなったのか? ヴィンセント」
一瞬でアルジャン様の空気が変わる。機嫌を損ねてしまったのだ。
「あ、あの……アルジャン様? そろそろ馬車が着きますよ?」
帰りましょうと声を掛ければ、舌打ちをされる。
「ここからが面白いところだったが……まぁいい。妹のおかげで命拾いしたな。ヴィニー」
アルジャン様はどこか楽しそうな口調で、たぶんわざと兄を挑発した。
やはり彼にしてみれば私たち兄妹は玩具のような物なのだろう。
アルジャン様は強引に私の手を引いて歩き出す。やはり歩幅が違いすぎて小走りになってしまう。
「ヴィニーは……随分お前を気に入っているようだな」
不機嫌そうな声が響いた。
どういう意味だろう。そもそも、兄がなにに対して意見したのかさえわからない。
兄はいつだって冷たく、私を不出来な妹と評価しているというのに。
困惑していると、丁度馬車が到着したので大人しく乗り込んだ。
馬車の中では相変わらず無言で、視線すら合わない。というよりは、私の方が緊張してしまって視線を合わせられない。だから、自然と視線は楽器ケースに向かってしまう。
早く弾きたい。今日はそれこそ気を失うまで。
そわそわと落ち着かないまま居ると、ふいにアルジャン様が口を開く。
「……音楽祭、お前、課題曲を変更しろ」
突然の言葉になにを言われたのか理解できない。
「はい?」
「……あの曲は暗すぎる。もっと華やかな曲にしろ」
理不尽な言葉と同時に目の前に楽譜を突き出される。
わざわざ用意して下さった事実にまず驚き、楽譜を見て意識が遠のきそうになる。
いくらアルジャン様の命令でもこれは無理だ。こんな超絶技巧曲……学生が演奏できる作品じゃない。
「あの、アルジャン様……わ、私の腕ではこの曲は……」
「俺がやれと言っている。音楽祭まで二週間もあるんだ。十分だろう」
なんて過度な期待を……。
そうして思い出す。あの夢の中では散々だった。
そう、あの時もアルジャン様が突然曲を変更しろと……超絶技巧曲を差し出してきた。けれど……曲が全く違う。むしろ難易度が上がっている。
ただでさえ人前で注目されるのが苦手な私は音楽祭に参加するだけでも相当な苦行だというのに、アルジャン様の婚約者という立場のせいで余計に注目されてしまう。失敗は許されないのだという重圧だけで吐いてしまいそうだ。
あの時はもう、二週間寝る間も削ってひたすら練習してようやくなんとか形にはなったけれど、結局「下手くそ」と言われてしまった。
「ヴァイオリンくらいしか誇れるものがないんだ。期待を裏切るな」
更に念を押される。
あの猛禽の鋭い瞳で見られれば体が縮こまってしまいそうだ。
なんて理不尽な人なのだろう。こう思うのは今日が初めてではない。けれども、困ったことに私はこの方に褒められたいと思ってしまう。
せめて、唯一褒めて頂いたヴァイオリンだけは……期待を裏切りたくない。
それにしてもこの選曲は酷い。宮廷の演奏家だってまともに演奏できる奏者はどれだけいるだろう。技術が難しく速度が難しい上に無伴奏なのだ。もっと困ったことに……本番は人前でこれを弾かなくてはいけない。そう考えただけで頭が真っ白になりそうだ。
ヴァイオリンは好き。演奏するのは好き。だけど、人前に出るのは、見世物になるのは嫌い。嫌いと言うよりは怖い。他人の視線が、注目されるのが怖い。
きっといつも粗相をしたと叱られてしまうせいだとは思う。アルジャン様の婚約者になってからはさらに些細な失敗を責められる。だから余計に私には自尊心というものが足りていないのだと自覚はしている。けれども、自覚したからと言ってそれが改善できるわけでもない。
ただ、出来ることはやらなくては。
アルジャン様に失望されたくはない。
必死に楽譜を頭に叩き込もうと指でなぞりながら頭の中で再生する。
結局、私も兄と同じだ。もう、条件反射のようにアルジャン様に従わなくてはいけないと体に染み着いてしまっている。
これは恋だとか愛だとかそんな甘ったるい感情じゃない。ただの服従だ。そして、支配者がいることに安堵する面がある。
不要と言われるまでは支配されていたい。
鋭い視線を感じながら、躓きやすそうなところを探る。
時間がない。
躓きそうな部分を集中練習してあとから全体流し練習をするべきだろう。
家に着く頃にはもう高熱を出しそうな程頭を酷使していたと思う。
「人に聞かせられる仕上げにしろ」
別れ際に、そう言われ、思わず背筋が伸びる。
アルジャン様は一体私をなんだと思っているのだろう。
彼に婚約者らしい扱いをされたことはないような気がする。
遠ざかっていく馬車を見送りながら考える。
毎年、誕生日と特別な行事の時に贈り物を下さる。催しの際に同伴させられることもある。けれども、婚約者と言うよりは主君と使用人のような関係に思えてしまう。たとえそれが事実だとしても私はそれに逆らえない。
別に巷で流行の恋愛小説のような甘い台詞を囁かれたいだとか、そんなことは全く期待していない。けれども、もう少しだけ柔らかい表情を見せて欲しいと思ってしまう。
普通婚約者同士となると、もっとお茶の席で談笑したり、日頃の雑談なんてものがあってもいいのではないかと思う。
けれども……私がしているのは、お茶の席では茶菓子を彼に譲り、理不尽な要求に振り回されることばかりだ。そもそも授業の時間に呼び出して中庭で膝を貸せだなんて学生として有るまじき行為だと思うのに、彼が相手では逆らえない。機嫌を損ねたらなにをされるかわからないのだから。
なにより、アルジャン様が私なんかに求婚してきたのはなにかの間違いだと思う。それとも、あの日の私の態度が気に入らなかったので一生苛めてやろうとでも考えたのだろうか。
いや、彼の場合苛めようなんて発想もないだろう。彼にとってはそれが当然の権利なのだから。
夕食を断り、譜面台に楽譜を並べる。躓きそうな部分には先に印を付けた。
楽器を用意しながら、彼の言葉を反芻する。
『ヴァイオリンくらいしか誇れる物がないんだ。期待を裏切るな』
その言葉は、家族からもずっと言われ続けている。
セシリアはヴァネッサほど美人でもないし、ヴィンセントのように優秀でもないのだからたまたま気に入って下さったアルジャン様の機嫌を損ねないようにしろ。
なにをやってもどんくさいお前が唯一人並み以上に出来るのがヴァイオリンなんだ。それでアルジャン様の機嫌取りをしろ。
父も兄もずっとそんなことばかり口にしている。
たまたま、彼の目についてしまって、たまたま、他の人よりヴァイオリンの練習が好きだっただけ。それ以外はなにも、誇れる物がない。
外見も、頭の出来も、姉や兄に敵わない。せめてお母様に似てもう少し豊満な体になれたなら、今よりはアルジャン様の視線を惹きつけられたかもしれない。
私の体は同世代の子と比べても貧相に見える。特に栄養が足りていない訳でもないはずなのに痩せ気味だし、背だってアルジャン様と並ぶと悲しいくらいに足りていないように見えてしまう。運動は苦手。勉強も、得意と言えるほどではない。お世辞にも美人と言える外見ではないし、実年齢より幼く見られがちだ。顔つきが幼いせいか少し背の高い初等部の子か、精々中等部程度にしか見てもらえないことが多い。
アルジャン様はどうして。
疑問を抱かずには居られない。
いや、彼はしばらく私を観察して、結局「つまらない」という理由で捨ててしまう。
別に構わない。彼にとって価値がないなら捨てられたって。
そう、思うはずなのに、私はやっぱり彼の期待を裏切りたくないと思う。
世間が言う婚約関係とは違うけれど、私は確かに首輪付きなのだ。
そんなことを考えながら弓を動かす。
この曲は、元が歌曲だ。だから、歌うような演奏をしなくてはいけない。
明日の朝までには一番難しい部分をとりあえず流せる程度には仕上げないと。
それはもう、死に物狂いで練習した。
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