青の記憶を瓶に詰めて

ROSE

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序 自暴自棄になった

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 六月十五日午前二時。私は死んだ。
 
 ――はずだった。
 
 あの日のことは鮮明に思い出せる。なにせ婚約者の、いや、元婚約者のアルジャン様に婚約解消を告げられたからだ。
 理由は「つまらない」だった。雲の上のような完璧なあの方にとって私という存在はとてもつまらない生き物だったらしい。そもそも求婚してきたのはあちらの方だというのに、十二年の婚約生活の中で彼に褒められたのはヴァイオリンの腕だけだった。
 元々アルジャン様は口数が少なく、なにを考えているのかわからないお方だ。たぶん世界は自分とそれ以外という認識しかしていないのだろう。他人を全て自分の思い通りに動く駒として見ているような節がある。理不尽な要求も彼の立場なら許される。そしてその状況を楽しんでいるようにも思えた。
 私はそんな彼を好きになろうと努力した。せっかく求婚してくれた彼に気に入られようと努力はしてきたつもりだ。
 けれども足りなかったのだろう。
 いつもどこか不機嫌に見える彼を恐ろしく感じていたし、常に彼のわがままに振り回され従う日々だった。
 最後に会った日、彼の隣にはビビーという女の子がいた。
 つまり、興味が他の子に移ったということだ。
 別に構わない。そう思った。だから、いつも通り「アルジャン様のお心のままに」と答え、立ち去った。動揺はなかった。
 そう思う。
 嫌なことは楽器を弾けば忘れられる。どうせ、それしか出来ないのだから。
 家に帰って気絶するまでヴァイオリンを弾こうと思った。
 今までのこととこれからのことが雑念のように入り込んで音が乱れてしまっているのは自分でも理解していた。けれども、彼の方が上なのだ。私では従う以外できるはずがない。
 それなのに、兄から事情を聞いたらしい父が部屋に怒鳴り込んできた。すぐにアルジャン様に頭を下げ、婚約解消を取り消して貰えと、私の魂を壊した。文字通り。
 アルジャン様が唯一褒めて下さった私の魂、初めての「期待している」を添えて送られた楽器を投げ捨て、粉々に砕いてしまったのだ。
 その瞬間、私の中でなにかが切れてしまった。
 そう、なにもかもどうでもよくなってしまった。つまり、自暴自棄になったのだ。
「心を落ち着けて参ります」
 父にそう告げ、浴室へ向かった。メイドのリリーが手伝うと言ったのを断って、浴室に内側から鍵を掛ける。
 服のまま浴室に入った姿は、たぶん見られなかった。誰かが見ていたらきっと止めたはずだから。もしくは浴室でひっそり泣くのだと思いそっとしてくれたのかもしれない。
 ひとりきりになると涙が溢れる。がくがくと全身が震えていた。
 これは魂を失ったからなのか、アルジャン様に見捨てられたからなのか……。
 たぶんその両方だ。
 つい先程、私の唯一の価値が失われてしまった。アルジャン様も、兄も姉も、ヴァイオリンの腕しか褒めて下さらなかった。つまり、私にはそれ以外一切価値がない。
 それなのに、父は私の唯一の価値を奪ってしまった。
 それは事実上私にはもう価値がないと言うことだ。
 父だって一度解消された婚約を元通りに出来るなどとは考えていないだろう。だからこそ激怒していた。なにせ、婚約を解消されるような娘にはなにか問題がある。婚約を解消されるような問題のある娘は今更他家に嫁ぐことも出来ない。つまり、駒としての価値を失ってしまったのだ。
 浴室のドアノブにタオルを輪にして掛ける。
 もう一度、あの方の穏やかな表情を見てみたかったなと、今更になって未練のようなものを抱いてしまう。優しい笑みだなんて贅沢は言わないから、せめて穏やかな表情を。
 そう、十二年も一緒にいたのに、あの方の穏やかな表情を見たのはほんの片手で数えられる程度だった……。
 輪の中に首を通す。
 もし、生まれ変わることが出来るなら……次はアルジャン様に惹かれない人生がいい。
 そう、願って座り込めば首が強く締め付けられた。



 私はあの日、自死した。つもりだった。
 なのに、なぜか目が覚めてしまった。
 もしかすると赤子に戻ったり、別の誰かに生まれ変わったのかもしれないなんて期待をしたけれど、残念ながら目覚めた先はいつも通りの自分の部屋で、手足の寸法が変わっているなんてこともなかった。
 ただ、眠っている間に泣いてしまっていたらしい。化粧台に映る泣き腫らした姿がみっともない。
「おはようございます。セシリア様。お目覚めのお時間ですよ」
 リリーの可愛らしい声が響く。彼女の声が好きだ。クラリネットのように穏やかで心地いい声。二つ年上の彼女の声は、どこか愛らしさも含んでいる。
「……起きています……」
 無意識、だったと思う。自分の首に触れた。けれども鏡を見ても絞めた痕が見当たらない。
 夢だったのだろうか。
「失礼します」
 リリーが朝のお茶を運ぶ。それと朝刊も。
 お父様は私が新聞を読むことにあまりいい顔はしないけれど、情報は大切だ。ただ、女が政治に関わるべきではないというのが彼の意見。特にここ最近の時代の流れを彼は嫌っている。身分格差を廃止しようという動きだ。これは貴族社会で生きる私にとっても他人事ではない。
 最早政略結婚は古い習慣になり、自由恋愛が広まっている。人と人の間には立つ距離の差しかないのだという新たな時代の風が強まりつつある。だからこそ、なにが起きるかわからない。時代の動きには注意しなくてはいけない。
 などというのはただの建前で新聞を読みたいのは音楽家の情報が欲しいだけではあるのだけど、そのついでに政治欄にも目を通している。
 新聞を半分ほど読んだところで、一度読んだことがあることに気がつく。
「リリー、この新聞、今日の?」
「はい」
「……そう」
 おかしい。絶対に読んだことがある。
 この過激派の青年が逮捕されたのは一年近く前の話のはずだ。それに、海外から有名な講師が国立大学の教員になるという話も。絶対に読んだことがある。なにしろ私はこの講義に申し込みたいと父に頼み込んで却下されたのだから。
 慌てて日付を確認する。
「……うそ……」
 この新聞は過去のものだ。そう、私が死ぬ一年近く前。
 私は予言者だったのだろうか。予知夢でも見て……。
 そんな現実逃避をしたくなってしまうほど、あの夢は鮮明だった。いや、本当に夢だったのだろうか。
 新聞を読み返しているとリリーが「遅刻してしまいますよ」と髪を結い始める。演奏の邪魔にならない範囲で彼女の好きなように任せているが、どうも髪型の善し悪しはわからない。
「もうすぐアルジャン様がいらっしゃる時間です。あー、目元の腫れが……お化粧で隠れるといいのですが……」
 リリーは困った様子を見せる。
「……行きたくない……」
 それは、学校にだろうか。それともアルジャン様の前?
 ただ、そうだ。不思議なことに彼は私を「つまらない」といいながら、毎日の送迎は欠かさなかった。
「セシリア様? やはりどこかお加減が?」
「……うん」
 そう言うことにしておいて欲しい。
 なんだかとっても頭が痛いし、現状が飲み込めていない。
「では、心が落ち着くとっておきのお守りも、本日は不要ですね」
 そう言って、リリーは枕元に置いてある楽器ケースを手に取る。
「だめ! 触らないで!」
 その子は私の魂よ。
 慌てて手を伸ばせばあっさりと返される。
 このヴァイオリンは十五の誕生日にアルジャン様から贈られた大切な品だ。私の唯一の長所だからもっと伸ばせと素晴らしい職人の品を贈って下さった。絶対に手放すわけにはいかない。
「ヴァイオリンを弾きたいのであればきちんと学校へ行って下さい」
「……はい……」
 一日練習をしないとそれだけで腕が鈍ってしまう。三日も休んでしまえばアルジャン様になにこそ言われるかわからない。
 やっぱり、あれは夢ではなかったのだろうか。
 制服に着替えながら考える。
 そして、楽器の点検をとケースを開けた瞬間、扉の向こうから声が響く。
「遅い、いつまで待たせる」
 この不機嫌そうな声は間違いなくアルジャン様だ。毎朝決まった時間に迎えに来て、我が家で朝食を済ませ一緒に通学する。帰りも定刻にきっちりと送り届けられるのだから彼はとても規則正しい。だからといって真面目な訳ではない。学校では授業をさぼりがちだし、それに巻き込まれたことも片手では足りないほどにある。とくに彼のお気に入りは中庭での昼寝で、大抵午後の授業はさぼって昼寝をしていることが多い。そのくせに成績がいいなんて、不公平だと思ってしまうほどに彼は完璧なのだ。
「今、参ります」
 ケースの中の楽器はいつも通りに見える。砕けてしまったのはきっと悪い夢だったに違いない。
 そう、自分に言い聞かせ、しっかりとケースを閉める。それからいつも通りケースを抱きしめて部屋を出れば、一瞬驚いた顔を見せられた。
「……遅い」
 けれども不機嫌な声と共に背を向けられてしまう。
「申し訳ございません」
 そう口にしても謝罪に耳を傾けるつもりはないらしい。
 食卓には既に朝食が並べられている。アルジャン様が毎朝訪れるようになってからは朝食専門の料理人を雇うほどには父は彼をしっかりと捕まえておきたいらしい。実際、気まぐれな彼も我が家の朝食は気に入ってくれているようだ。
「セシリア、食事の時くらい楽器は手放しなさい」
 挨拶もせずに父が言う。
「申し訳ございません。手元にないと落ち着かないものでして……」
 隣の席にケースを置く。この席は楽器専用になっている。姉が使っていた席とはまた別にアルジャン様が用意させた物だ。曰く、唯一の長所を失われては困る。と。
 朝食は基本の卵料理だった。この料理人は純粋に腕がいいのだと思う。いつ見ても完璧な焼き加減の卵を用意してくれる。正直、この卵は大好物だ。けれどもアルジャン様はそれよりもデザートがお気に入りのようで、いつも真っ先にデザートから口にする。
「……よろしければこちらもどうぞ」
 今日は苺のムースだった。先程から視線が父のデザートの方へ向いていたので、自分の分を差し出せば、睨むように見られてしまう。そして、無言で持っていく。お礼なんて言われたことがない。貢がれるのが当然のお方だもの。
 正直、彼の視線が少し怖い。なにを考えているかわからないし、穏やかなところなんて殆ど見ることができない。
 思わず姿勢を正すと、兄が少し慌てた様子で席に着いた。
「セシリア、新聞を読み終わったら戻してくれ」
 視線は皿に向け、少し神経質そうな表情で言う。
「申し訳ございません、お兄様。今朝の新聞は汚してしまいまして。新しい物を届けさせます」
「汚した? お茶でも零したのか? お前は本当に、楽器のこと以外はどんくさいな」
 呆れた様子を見せる兄、ヴィンセントをアルジャン様が睨む。
「ヴィニー、朝から騒がしいぞ。お前が遅いのが悪い。デザートの苺ムースは貰った」
 いつの間にか兄の席からも苺ムースを取っていたらしいアルジャン様の前には空になった容器が三つ重なっている。おまけに卵まで食べ終わっている辺り、本当に好きな物しか食べないのだろう。ほうれん草は器用に避けられている。
「アル、またほうれん草を残して……」
「お前が食え。そうすれば無駄にはならん」
 アルジャン様は兄に命じるときだけ、悪戯を楽しむ子供の様な表情を見せる。兄は一瞬歯を食いしばり、それから乱暴にフォークでほうれん草を刺して一気に口に詰め込んだ。
「俺は残飯処理係じゃないというのに毎朝毎朝……」
 この光景もすっかり見慣れた物だ。
 そう言えば、婚約解消されたあの日は……アルジャン様は朝食を断っていた。いつも通り迎えに来てくれたのに……。
 思い出すと胸が痛む。
「セシリア、どこか悪いのか?」
 眼鏡を上げた兄に顔を覗き込まれる。
「あ、いえ……少し夢見が悪くて……」
 そう答えれば、両頬をぱちんと両手で叩かれる。
「オプスキュール家に恥じない振る舞いをしろ。その情けない顔で学校へ行くつもりか」
 一瞬兄が心配してくれたのだろうかなんて期待してしまった自分を恥じる。兄が心配なんてするはずがない。彼は人の感情なんてどうでもいいのだから。単に損得だけで動いている。そして妹の存在を恥じている。
「申し訳ございません……」
 朝から何度目かわからない謝罪を口にすれば、アルジャン様が人参を手に掴んで強引に兄の口に押し込んだ。
「行くぞ」
 不機嫌そうな声。まだ私は食事中だというのに、強引に手を掴まれてしまった。
「あ、お待ちください」
 慌てて楽器ケースを掴む。
 口になにか付いていないかと不安になりながらも彼の広い歩幅に置いて行かれないように必死に足を動かした。
 アルジャン様はいつだってそうだ。自分が中心。ご自分の背丈が平均よりもかなり高いことを失念しているのか、私の歩幅のことなど全く考えていないのかすたすたと彼が進む度にこちらは駆け足になってしまう。
 馬車に辿り着く頃にはすっかりと息切れを起こしていた。


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