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第二話
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主の話は面白いものだった。
自分は未亡人の身代わりにこの古い離れに幽閉されているという。
理由ははっきりとは聞かされていないが、口が軽く自分を疎ましく思っている下女が食事を運んでくるたびにちくりちくりと嫌味を言い、それらの話を合わせると自分の状況が薄っすらわかってきたらしい。
「あちらの若旦那様はまだご存命なのだそうです」
「盛大な葬儀を挙げたじゃないか」
「棺の中は空だそうでした」
「じゃあ、どこにいるんだい」
「どなたかいい方と行方をくらましたとか…」
主は言い淀んだ。
「未亡人はどこに行ったんだい」
「突然、若旦那様がいなくなり気落ちしていたところを竹田屋の手代さんが慰め、そのまままた…」
「駆け落ちが二つ、か。
竹田屋も山城屋もとんだ災難だったな」
男が意地悪く言うと、答えに困り主は俯いた。
「それで慌てた両家が未亡人そっくりのおまえさんを連れてきて、替え玉に据えたのか」
「はい」
「替え玉になる前はどうしてたんだい?」
「足引山の花街で禿をしておりました」
「へぇ、それはまた」
足引山の花街と言えば、粒ぞろいの陰間ばかりがいて男性しか入れない場所だ。
そこで一夜を楽しもうとすれば相当な資金がかかるので、身分が高いか金があるかの男しか遊べない場所だったが、中には一人の陰間に惚れ込み身上を潰す者も何人かいた。
「禿、というなら水揚げはしなかったのかい?」
「はい、水揚げ直前に花街から去るように突然言われ、迎えにきた、というお使いの方に連れてこられたのが山城屋様でした」
その花街では、陰間になる前に禿となる。
自分の置き屋の掃除をしたり、陰間の世話をしたり介助役でお座敷に上がったりしながら、その合間に芸を磨く。
禿が一人前の陰間になり、初めて客を取ることを「水揚げ」と言い、禿の頃から人気があれば高い金が積まれ、行列も派手なものとなる。
「ということは、誰にも抱かれなかったのか?」
にやにやとしながら男がいやらしく笑うと、主は赤くなって俯いた。
男は足引山の花街に何度か通ったことがあるので、自分が買った陰間と睦事をしている間、次の間で禿たちが介添のため控えているのを知っていた。
そんなところにいたのに、なんておぼこいことなんだろう。
長い乱れた黒髪で顔が見えなくなり、それがまたそそられる姿だった。
「ああ、暑い」
と、男は合わせを開いた。
主は近くにあった唐風の団扇を取り、ゆるりと男を扇いでやった。
「こう暑いと、冷やした西瓜が食べたいな」
男がこぼす。
それを主は笑い顔で聞き「そうですね」と言った。
「きっとおいしいでしょうね」
客の旦那が陰間の機嫌を取ったり、融通をきかせるために禿に珍しい菓子や甘い果物を持ってくることがある。
それで冷えた西瓜を食べたことがあった。
隣の赤い褥が敷かれた部屋で旦那と陰間の会話や艶やかな喘ぎがぼそぼそと漏れ聞こえる中、主は先輩の禿に混じって赤い果肉にかぶりついた。
懐かしさに目を細め、そして今の自分の現実を思い出す。
食事でさえろくに与えられていないのだ。
「もう食べられないかもしれませんが」
少し自虐的に呟いてしまった。
それを誤魔化すように、主は男にさっきより強めに団扇で風を送ってやった。
そんな様子に気づいているのかいないのか、男が口を開いた。
「それで、おまえさんは正体がばれないためにここに閉じ込められているのか」
「……ええ」
連れてこられた当初はそんなでもなかったのだが、その後短期間でぐんぐんと背も伸び、男らしさも増してしまった。
こうなっては葬儀のときのように人前に出させるわけにもいかず、こんな重大な家の秘密を知った者を放り出すわけにもいかず。
「いつか殺されるのではないか、と考えております」
静かに主が言った。
二つの豪商の醜聞の証拠とも言える主がいなくなってしまえば、両家とも安心する。
「そりゃ物騒だな」
「ただ花街を出るときの証文で五年間はどこにもやらず怪我一つなく命の保証をするように書いてあるので、すぐにではありません」
「花街に閉じ込められ。
山城屋のこんなぼろ離れに閉じ込められ」
男は言葉を区切り、目の前の主を見た。
屋敷に閉じ込められた自分の幼少期を思い出し、いらつき、そして思わず自分と重ねてしまう。
男は側妻の子だった。
自分が生まれた数日後、正妻の子が生まれた。
丁度その頃、父親である男はひどく気を病んでいて、側妻に潤沢な金を渡してはいて不自由はなかったがそれだけだった。
すぐに父親の家から使いが来て、父が知らぬ間に正妻の子を長男にする、と言った。
母親はそれに素直に従い、男を家の中で育てた。
小さいが狭くはない家で、それに見合う庭もあった。
しかし、男は五つになり父親が慌てて来訪するまでずっと、母親によって庭にも出してはもらえなかった。
ずっと障子の向こうの外の様子をうかがい、大声で泣いたり騒いだりすることも許されなかった。
見知らぬ大きな男が突然現れ、母に「おまえのととさまだよ」と教えられても、男は意味がわからなかった。
走り回ることも日を浴びることもしなかったので、小さく手足も細く、まだ三つにしかならない子どもだと父親が誤解するほどだった。
父という男が狼狽しながらも「すまなかった」と男を抱きしめ泣くのも意味がわからなかった。
それがわかったのは随分大きくなってからだ。
父の来訪後、ほどなくして男は母親と共に大きな屋敷に連れてこられた。
それは父の屋敷であり、正妻と自分の「兄」がいる場所でもあった。
屋敷は増築され、母屋を挟んで西と東に部屋を作り、そこに正妻親子と側妻親子を住まわせた。
そして「兄」と分け隔てなく、食事をとらせ、商人に必要な勉強もさせた。
成人し、父と酒を酌み交わすようになったある春の夜、父は珍しく深酒をした。
毎年春の季節は苦手でよく調子を崩すのが父の常だった。
そして酔うと決まって男に詫びるのだった。
「私がしっかりしておけば、おまえを閉じ込めて育てるなんてさせなかったのに。
すまなかった。
ただし、おまえの母親はおまえの身を案じ、そうしたのだ。
恨むならこの父であり、母ではないよ」
今宵もそんなことを言い始めた。
初めて聞いたときには驚いたが、次第に男は慣れ「ええ、わかっていますよ」と答えるようになった。
「春はなぁ、どうやっても私にはつらすぎるんだよ」
いつも威厳がある父親がすっかり弱った様子を見せるので、男は少し不安に思った。
酒を飲むのを止めるように言ったが、父は止めなかった。
そして、ぽつりぽつりと意味がわからないことを話し始めた。
何度かそういうことがあり、薄々わかったことは、父は家業を継ぐために多大な努力をし、正妻や何人かの豪商の娘を側妻として持ったのも全ては店と家のためであった。
そんな父が一生に一度の出会いを花街でしたらしい。
結局は想い叶わず敗れ、ぼろぼろになったときに男と「兄」が生まれた。
母親は聡い女だったので、父の目が光っていないうちに息子に危害を及ぶかもしれないと踏み、正妻の使いに従い、そして男を家の中に隠した。
恋に狂ったことがある老いた父を男は冷めた目で見ていた。
どんなに謝られても、「この世に存在しない」扱いを受けた不安や恐怖、怒りはすぐには鎮まるはずもなかった。
もしこの未亡人と呼ばれている男が自由になったらどうするのだろう。
この世にある美しいものをもっと見せてやりたい。
もしかしたら一人でどこかに行きたいと言うのかもしれない。
世間知らずできているから、処世術をしっかりと教え込んでそうさせてやるのもいい。
花街の禿をしていたのなら、ある程度の教養と芸はあるはずだ。
それで身を立てたいのなら、それもいいかもしれない。
男は無性に主を自由にさせたくなった。
いつ襲われるかわからないようなところで、生きているのか死んでいるのかわからない状態から救ってやりたくなった。
もっと欲を言えば、寂しげな伏し目がちの顔ではなく、美しい顔が明るく輝き笑っているのも見たくなった。
「おまえさん、ここから出たくはないか」
「……そんなこと、考えてもみませんでした」
あまりの言葉に主は驚いた。
そして静かに涙を頬に流した。
口を一文字に結び、ただただ押し黙って涙が流れるに任せていた。
緩んだ主の手からするりと団扇が抜き取られ、男がそよそよと主を扇いでやった。
男にはわかっていた。
考えないはずはない。
ここを出て、自由になり、大声を出したり、働いたり、笑ったりしたい、と思っただろう。
どうにかして、この生活から抜け出したいと考えただろう。
それらをすべて諦め、ひっそりと誰にも知られず主はここにいるしか術がなかったのだ。
「少し、時間をくれ」
男が低い声で言った。
「すぐは、さすがに難しい。
しかし必ずおまえさんに西瓜を食わせてやる。
それまで待っていてくれないか」
「え」
「迎えに来る。
私を待っていてくれないか」
男は団扇を投げ、主を乱暴に抱きしめた。
「なにを」
「俺がここから出してやる」
「そんな」
「少し時間がかかるが、必ずそうしてやる。
だから」
男は少し身を離し、主の目を見た。
男の目は真剣だった。
「私を待っていてくれないか」
主は迷った。
突然、真夜中に忍び込み、脅してきた見ず知らずの男を信用してもいいものかどうか。
しかし。
「はい」
主は静かに答えた。
どうやっても今のままなら、この不思議な男にすがってもいいと思った。
自分を自由にしてくれる、という甘い夢を見させてもらえるだけでも、これから先しばらくは生きていけそうな気がした。
男はぐいっとまた主を抱き込んだ。
「暑いか」
主は首を振った。
男がもっと力を込めた。
蒸し暑い夜だった。
抱き合った二人は汗だくになっていった。
それでも離れようとはしなかった。
暑くて熱くて息苦しいほどなのに、二人はじっとしていた。
互いの体温と汗の匂いを感じていた。
どれくらいそうしていたのだろう。
男が主の耳元で静かに告げた。
「私は両替商の掛川の次男、慶左だ。
この名をしっかり覚えていろ」
両替商の掛川と言えば、花街で有名だったので主でも知っていた。
陰間の中でも秀でた者は花宮となるが、かつて今後現れることはないとまで言われていた花宮を掛川と呉服問屋の飯田橋が争い、愛したということは今でも語り継がれるほどだった。
「あの、掛川様の……?」
「ああ。
勝算のない話は俺はしない。
待っていろ」
「あの、どうしてそこまで……」
「……さぁ、俺にもわからぬ。
が、自由になったおまえさんを見てみたくなったんだよ。
金持ちの坊の気まぐれかもしれない。
だが、真剣だ。
必ず迎えにくる。
それまでどんなところからの求婚があっても断ってくれ」
これではまるで求婚のようではないか。
主は驚きそう思ったが、短い夏の夜の夢として見るのもいいかもしれない。
そう考えると「はい」と返事をした。
男は主に名前を問うたが、主は首を振った。
禿の頃の仮の名は花街を出るときに返上し、山城屋に幽閉されてからは未亡人となった娘の名前でしか呼ばれなかったので、名はない、と答えた。
「次に会うときまでに、よい名を考えておく」
「嬉しく思います」
そう答えた主をぐっと懐に抱き込み、そして男は離れた。
そして再度他の誰かのところには行かず自分を待っておくように念を押すと、去っていった。
しばらくすると短い夜が白々と明けてきた。
主はまだぼんやりと男が消えた庭の方を見ていた。
あれはなんだったのだろう。
不確かで乱暴で夢のようで甘い。
慶左がそこにいた証拠は何一つ残っていなかった。
暑苦しい夜に見た悪夢かもしれないし、狐に化かされたのかもしれない。
しかし、無味乾燥した生活にぽちりとなにかが灯された気がして、頰が緩んだ。
が、すぐに何事もなかったように布団と単の乱れを整えるとまだしばらく間がある朝の目覚めの時間まで身体を横たえた。
自分は未亡人の身代わりにこの古い離れに幽閉されているという。
理由ははっきりとは聞かされていないが、口が軽く自分を疎ましく思っている下女が食事を運んでくるたびにちくりちくりと嫌味を言い、それらの話を合わせると自分の状況が薄っすらわかってきたらしい。
「あちらの若旦那様はまだご存命なのだそうです」
「盛大な葬儀を挙げたじゃないか」
「棺の中は空だそうでした」
「じゃあ、どこにいるんだい」
「どなたかいい方と行方をくらましたとか…」
主は言い淀んだ。
「未亡人はどこに行ったんだい」
「突然、若旦那様がいなくなり気落ちしていたところを竹田屋の手代さんが慰め、そのまままた…」
「駆け落ちが二つ、か。
竹田屋も山城屋もとんだ災難だったな」
男が意地悪く言うと、答えに困り主は俯いた。
「それで慌てた両家が未亡人そっくりのおまえさんを連れてきて、替え玉に据えたのか」
「はい」
「替え玉になる前はどうしてたんだい?」
「足引山の花街で禿をしておりました」
「へぇ、それはまた」
足引山の花街と言えば、粒ぞろいの陰間ばかりがいて男性しか入れない場所だ。
そこで一夜を楽しもうとすれば相当な資金がかかるので、身分が高いか金があるかの男しか遊べない場所だったが、中には一人の陰間に惚れ込み身上を潰す者も何人かいた。
「禿、というなら水揚げはしなかったのかい?」
「はい、水揚げ直前に花街から去るように突然言われ、迎えにきた、というお使いの方に連れてこられたのが山城屋様でした」
その花街では、陰間になる前に禿となる。
自分の置き屋の掃除をしたり、陰間の世話をしたり介助役でお座敷に上がったりしながら、その合間に芸を磨く。
禿が一人前の陰間になり、初めて客を取ることを「水揚げ」と言い、禿の頃から人気があれば高い金が積まれ、行列も派手なものとなる。
「ということは、誰にも抱かれなかったのか?」
にやにやとしながら男がいやらしく笑うと、主は赤くなって俯いた。
男は足引山の花街に何度か通ったことがあるので、自分が買った陰間と睦事をしている間、次の間で禿たちが介添のため控えているのを知っていた。
そんなところにいたのに、なんておぼこいことなんだろう。
長い乱れた黒髪で顔が見えなくなり、それがまたそそられる姿だった。
「ああ、暑い」
と、男は合わせを開いた。
主は近くにあった唐風の団扇を取り、ゆるりと男を扇いでやった。
「こう暑いと、冷やした西瓜が食べたいな」
男がこぼす。
それを主は笑い顔で聞き「そうですね」と言った。
「きっとおいしいでしょうね」
客の旦那が陰間の機嫌を取ったり、融通をきかせるために禿に珍しい菓子や甘い果物を持ってくることがある。
それで冷えた西瓜を食べたことがあった。
隣の赤い褥が敷かれた部屋で旦那と陰間の会話や艶やかな喘ぎがぼそぼそと漏れ聞こえる中、主は先輩の禿に混じって赤い果肉にかぶりついた。
懐かしさに目を細め、そして今の自分の現実を思い出す。
食事でさえろくに与えられていないのだ。
「もう食べられないかもしれませんが」
少し自虐的に呟いてしまった。
それを誤魔化すように、主は男にさっきより強めに団扇で風を送ってやった。
そんな様子に気づいているのかいないのか、男が口を開いた。
「それで、おまえさんは正体がばれないためにここに閉じ込められているのか」
「……ええ」
連れてこられた当初はそんなでもなかったのだが、その後短期間でぐんぐんと背も伸び、男らしさも増してしまった。
こうなっては葬儀のときのように人前に出させるわけにもいかず、こんな重大な家の秘密を知った者を放り出すわけにもいかず。
「いつか殺されるのではないか、と考えております」
静かに主が言った。
二つの豪商の醜聞の証拠とも言える主がいなくなってしまえば、両家とも安心する。
「そりゃ物騒だな」
「ただ花街を出るときの証文で五年間はどこにもやらず怪我一つなく命の保証をするように書いてあるので、すぐにではありません」
「花街に閉じ込められ。
山城屋のこんなぼろ離れに閉じ込められ」
男は言葉を区切り、目の前の主を見た。
屋敷に閉じ込められた自分の幼少期を思い出し、いらつき、そして思わず自分と重ねてしまう。
男は側妻の子だった。
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丁度その頃、父親である男はひどく気を病んでいて、側妻に潤沢な金を渡してはいて不自由はなかったがそれだけだった。
すぐに父親の家から使いが来て、父が知らぬ間に正妻の子を長男にする、と言った。
母親はそれに素直に従い、男を家の中で育てた。
小さいが狭くはない家で、それに見合う庭もあった。
しかし、男は五つになり父親が慌てて来訪するまでずっと、母親によって庭にも出してはもらえなかった。
ずっと障子の向こうの外の様子をうかがい、大声で泣いたり騒いだりすることも許されなかった。
見知らぬ大きな男が突然現れ、母に「おまえのととさまだよ」と教えられても、男は意味がわからなかった。
走り回ることも日を浴びることもしなかったので、小さく手足も細く、まだ三つにしかならない子どもだと父親が誤解するほどだった。
父という男が狼狽しながらも「すまなかった」と男を抱きしめ泣くのも意味がわからなかった。
それがわかったのは随分大きくなってからだ。
父の来訪後、ほどなくして男は母親と共に大きな屋敷に連れてこられた。
それは父の屋敷であり、正妻と自分の「兄」がいる場所でもあった。
屋敷は増築され、母屋を挟んで西と東に部屋を作り、そこに正妻親子と側妻親子を住まわせた。
そして「兄」と分け隔てなく、食事をとらせ、商人に必要な勉強もさせた。
成人し、父と酒を酌み交わすようになったある春の夜、父は珍しく深酒をした。
毎年春の季節は苦手でよく調子を崩すのが父の常だった。
そして酔うと決まって男に詫びるのだった。
「私がしっかりしておけば、おまえを閉じ込めて育てるなんてさせなかったのに。
すまなかった。
ただし、おまえの母親はおまえの身を案じ、そうしたのだ。
恨むならこの父であり、母ではないよ」
今宵もそんなことを言い始めた。
初めて聞いたときには驚いたが、次第に男は慣れ「ええ、わかっていますよ」と答えるようになった。
「春はなぁ、どうやっても私にはつらすぎるんだよ」
いつも威厳がある父親がすっかり弱った様子を見せるので、男は少し不安に思った。
酒を飲むのを止めるように言ったが、父は止めなかった。
そして、ぽつりぽつりと意味がわからないことを話し始めた。
何度かそういうことがあり、薄々わかったことは、父は家業を継ぐために多大な努力をし、正妻や何人かの豪商の娘を側妻として持ったのも全ては店と家のためであった。
そんな父が一生に一度の出会いを花街でしたらしい。
結局は想い叶わず敗れ、ぼろぼろになったときに男と「兄」が生まれた。
母親は聡い女だったので、父の目が光っていないうちに息子に危害を及ぶかもしれないと踏み、正妻の使いに従い、そして男を家の中に隠した。
恋に狂ったことがある老いた父を男は冷めた目で見ていた。
どんなに謝られても、「この世に存在しない」扱いを受けた不安や恐怖、怒りはすぐには鎮まるはずもなかった。
もしこの未亡人と呼ばれている男が自由になったらどうするのだろう。
この世にある美しいものをもっと見せてやりたい。
もしかしたら一人でどこかに行きたいと言うのかもしれない。
世間知らずできているから、処世術をしっかりと教え込んでそうさせてやるのもいい。
花街の禿をしていたのなら、ある程度の教養と芸はあるはずだ。
それで身を立てたいのなら、それもいいかもしれない。
男は無性に主を自由にさせたくなった。
いつ襲われるかわからないようなところで、生きているのか死んでいるのかわからない状態から救ってやりたくなった。
もっと欲を言えば、寂しげな伏し目がちの顔ではなく、美しい顔が明るく輝き笑っているのも見たくなった。
「おまえさん、ここから出たくはないか」
「……そんなこと、考えてもみませんでした」
あまりの言葉に主は驚いた。
そして静かに涙を頬に流した。
口を一文字に結び、ただただ押し黙って涙が流れるに任せていた。
緩んだ主の手からするりと団扇が抜き取られ、男がそよそよと主を扇いでやった。
男にはわかっていた。
考えないはずはない。
ここを出て、自由になり、大声を出したり、働いたり、笑ったりしたい、と思っただろう。
どうにかして、この生活から抜け出したいと考えただろう。
それらをすべて諦め、ひっそりと誰にも知られず主はここにいるしか術がなかったのだ。
「少し、時間をくれ」
男が低い声で言った。
「すぐは、さすがに難しい。
しかし必ずおまえさんに西瓜を食わせてやる。
それまで待っていてくれないか」
「え」
「迎えに来る。
私を待っていてくれないか」
男は団扇を投げ、主を乱暴に抱きしめた。
「なにを」
「俺がここから出してやる」
「そんな」
「少し時間がかかるが、必ずそうしてやる。
だから」
男は少し身を離し、主の目を見た。
男の目は真剣だった。
「私を待っていてくれないか」
主は迷った。
突然、真夜中に忍び込み、脅してきた見ず知らずの男を信用してもいいものかどうか。
しかし。
「はい」
主は静かに答えた。
どうやっても今のままなら、この不思議な男にすがってもいいと思った。
自分を自由にしてくれる、という甘い夢を見させてもらえるだけでも、これから先しばらくは生きていけそうな気がした。
男はぐいっとまた主を抱き込んだ。
「暑いか」
主は首を振った。
男がもっと力を込めた。
蒸し暑い夜だった。
抱き合った二人は汗だくになっていった。
それでも離れようとはしなかった。
暑くて熱くて息苦しいほどなのに、二人はじっとしていた。
互いの体温と汗の匂いを感じていた。
どれくらいそうしていたのだろう。
男が主の耳元で静かに告げた。
「私は両替商の掛川の次男、慶左だ。
この名をしっかり覚えていろ」
両替商の掛川と言えば、花街で有名だったので主でも知っていた。
陰間の中でも秀でた者は花宮となるが、かつて今後現れることはないとまで言われていた花宮を掛川と呉服問屋の飯田橋が争い、愛したということは今でも語り継がれるほどだった。
「あの、掛川様の……?」
「ああ。
勝算のない話は俺はしない。
待っていろ」
「あの、どうしてそこまで……」
「……さぁ、俺にもわからぬ。
が、自由になったおまえさんを見てみたくなったんだよ。
金持ちの坊の気まぐれかもしれない。
だが、真剣だ。
必ず迎えにくる。
それまでどんなところからの求婚があっても断ってくれ」
これではまるで求婚のようではないか。
主は驚きそう思ったが、短い夏の夜の夢として見るのもいいかもしれない。
そう考えると「はい」と返事をした。
男は主に名前を問うたが、主は首を振った。
禿の頃の仮の名は花街を出るときに返上し、山城屋に幽閉されてからは未亡人となった娘の名前でしか呼ばれなかったので、名はない、と答えた。
「次に会うときまでに、よい名を考えておく」
「嬉しく思います」
そう答えた主をぐっと懐に抱き込み、そして男は離れた。
そして再度他の誰かのところには行かず自分を待っておくように念を押すと、去っていった。
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あれはなんだったのだろう。
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しかし、無味乾燥した生活にぽちりとなにかが灯された気がして、頰が緩んだ。
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