キヨノさん

Kyrie

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第39話

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「むかしむかし えとーこりあ というくにに こがねいろの めの おうさまと むらさきいろの めの おとこの お…おき……おききき?」

俺はいま、懸命に本を読み上げている。

「もしかして、『おきさきさま』ですか」

「あ。はい、なりあきさま。ありがとうございます」

似たような字が並ぶとつらいな。

「おきさきさまが いらっしゃいま した。おふたりは きいろいひよこと しまもようのねこを それはそれは かわいがって いました」




なりあきさまのお世話を買って出たものの、実のところなりあきさまにきすをされ、そのまま布団に引きずり込まれて眠ってしまったことは藤代さんから中川さんへ報告されたらしい。
昼食後、なりあきさまと俺は和室にやってきた中川さんに叱られてしまった。

「もっとお元気になってから、仲良くしてください、旦那様」

「はい」

「キヨノさんもキヨノさんです。旦那様を休ませる必要があるのはご存知ですよね」

「はい、すみません」

「まさかとは思いましたが、旦那様と一緒になって」

「本当に申し訳ございません」

「いいですか、今日は旦那様におとなしくしていただきたいのです。できないのならこのお部屋から出ていっていただきます。いくらキヨノさんが旦那様の奥様とはいえ、許すわけにはいきません」

「……はい」

「私も悪かったのだよ、中川」

「もちろんです。キヨノさんおひとりではなさらないと思います」

「うむ、藪蛇か」

「不埒なこともおやめください」

「わかったわかった。これから気をつけるから」

なりあきさまが中川さんをなだめ、「くれぐれもお気をつけください」と最後まできっちりと注意すると中川さんは和室から出ていった。

真面目に横になっていたなりあきさまが俺を見上げた。

「キヨノさんにあんなに当たらなくても。すみません」

「いえ、俺も調子に乗ってしまったんです」

「このたびは中川たちにも大変心配をかけてしまいましたからね、少し神経質になっているんです。ごめんなさい」

俺は首を横に振る。


「ところで、先ほど中川が面白いことを言っていましたね」

「?」

「キヨノさんが『旦那様の奥様』とかなんとか。これまで中川がそんなことを言った覚えはないのですが、なにかありましたか」

「あ、いえ。なにも……」


多分、あれだ。部屋に閉じ込められて、なりあきさまのことを一切知らされなくて、俺が中川さんに言ったせいだ。

俺がなりあきさまの……っま……だって………

なんであんなこと言ってしまったのだろう。
思い出すと恥ずかしくなって、顔が熱くなった。

「キヨノさんは私の妻ですが、それでなにか言われましたか」

「いいえ。言ったのは俺のほうで……。あ」

布団の中でなりあきさまがくふふと笑った。

「キヨノさんがご自分で私の妻だとおっしゃったんですね。嬉しいです」

「いえ、そんな、あの」

「詳しいことはまたあとでお聞きしましょう。キヨノさん、ひと眠りしたいのでなにか本を読んでくれませんか」

「ほ、本?」

「だいぶ字も読めるようになったと中川も藤代も言っていましたよ。持ってきた本の題名はなんですか」

言われた通り、題名を読み上げるとなりあきさまは「懐かしいなぁ」と言いながら「えとーこりあものがたり」を俺に読むように言った。

今度こそ、なりあきさまのお世話を失敗するわけにはいかない。俺は気を落ち着かせて本を読み上げ始めた。





つっかえるとなりあきさまが落ち着いて眠れない、と思って気を入れて読んでいたが、たくさん読まないうちになりあきさまはすうすうと寝始めた。よかった。もっと本を読む練習をしなくては。
そっとなりあきさまのお顔を見つめる。
少し頬がこけてしまったけど、なりあきさまは綺麗なお顔をしていらっしゃる。おだやかでかっこいい。黒須様と白洲様がなりあきさまが婦女子の方に人気がある、というのは当然だ。
左目の下のほくろも今は泣いていない。よかった。

俺はあのとき見たなりあきさまは夢幻なのではないか、と思ってしまいそうだった。
あの洞窟の湯船に横になり、俺の手首を恐ろしい力で掴み、聞いたこともないような濁った声で叫ぶなりあきさま。
そっと袖を上げ自分の手首を見る。
やはり夢幻ではない。本当のことだ。
つかまれてついた跡がまだ手首に残っている。痛みはない。
怖ろしさは覚えていて、夢に見て夜に飛び起きることもある。けれどもなりあきさまが怖いとか、嫌いになってしまうことは不思議となかった。



「アイシテルトイウアラワレ」

囁くように呪文と唱えてみる。

なりあきさま。なりあきさま。
早く元気におなりください。





なりあきさまの息遣いは落ち着いている。
こんなになりあきさまのお顔を見るのは初めてだ。背が高いなりあきさまを俺はいつも見上げているので、しっかり見ることはない。布団の中では近くにいるがすでに明かりが消されているか、近すぎてお顔全部を見ることはない。
よく考えると、俺はなりあきさまのことを何ひとつ知らない。どんなお仕事をしていらっしゃるのか、ご家族はどこにいらっしゃるのか。
使用人としては旦那様方のことは深く知ってはいけない。探ってもいけない。と教わってきた。だから気にならなかったのだろうか。
いや、もしかしたら俺が冷たい人間なのかもしれない。
俺はうすぼんやりしか覚えていない自分の家族のことを思った。


おかあは妹を産むと産後の肥立ちが悪く、俺は離れのじいじのところで寝泊まりをしていた。最初からそうだったのでそれが当然だと思っていた。母屋におとうとおかあと妹がいてもなんとも思わなかった。
それに俺が奉公に行くことも最初から決まっていた。
おかあは弟も生んだ。俺が奉公に出るすぐ前だった。
おとうもおかあもじいじも働いていた。次に働くのは自分だと思っていた。

田村様のお屋敷に行って、俺は里には帰っていない。そういう約束で雇われたからだ。盆正月に帰らないぶん、金がたくさんもらえると聞いた。俺はそうすると言い、家に金を残してきた。

なりあきさまはどうだろう。
殿さまのようなおとうと姫さまのようなおかあなのだろうか。
俺となりあきさまが結婚したことをお怒りではないだろうか。






「キヨノさん」

小さく名前を呼ばれた。振り向くと襖が細く開いて藤代さんがのぞいていた。

「おとなしくお世話をしていらっしゃいましたね」

「はぁ」

「少しお休みしましょう。ハナがしばらく旦那様を見てくれます」

藤代さんの後ろにはハナさんがにっこりと笑っていた。
あれこれ考えすぎたせいか、頭がぼぅっとしていたので、そうさせていただくことにした。
藤代さんは俺を厨房に連れていった。
そこには川崎さんが作った冷たい菓子があった。白くて柔らかい。アンニンドウフという大陸の菓子だそうだ。匙ですくって食べてみると甘い透明なたれがかかっているトウフは遠い国の味がした。今度は赤いクコの実も一緒に食べてみた。うまい。

「おいしいです」

俺が言うと川崎さんも藤代さんもにっこりと笑った。俺も笑い返してみた。

「これなら旦那様にも召し上がっていただけますから、あとでお持ちください、キヨノさん」

「ありがとうございます、川崎さん」

川崎さんはぱちんと片目をつぶってみせた。驚いて瞬きしていると藤代さんが笑い「私もいただきましょう」と俺の隣に椅子を持ってきてアンニンドウフを食べ始めた。

もうすっかり屋敷中が元気になっている。
川崎さんは櫻子様の料理人には感謝をしつつもやはり悔しいようで、いつもよりもりもりと食事や菓子を作ってくれる。それは洋風の料理ではないので、ほっとしている。
「旦那様にはフレンチはまだ早いですから」と俺が好きなものをたくさん作ってくれる。この間の焼きむすびに葱味噌がついているのはとてもうまかった。

「ああ、キヨノさん」

「はい」

藤代さんに名前を呼ばれ、そちらを見る。

「旦那様がこのまま安定していらしたら、明日からご自分のお部屋にお戻りになってもいいと中川さんが言っていましたよ」

「そうなんですか!」

よかった。なりあきさまはご自分のお部屋が恋しいとおっしゃっていたから。

「杏仁豆腐を持っていかれるとき、お伝えください」

「はい。ありがとうございます」

「ねぇ、キヨノさん」

「はい?」

「旦那様のこと、お好きなんですね」

「ふぇ?」

藤代さんの問いかけに変な声が出てしまった。

「甲斐甲斐しくお世話されているし、仲睦まじくて、見ていてこちらも嬉しくなりますよ」

川崎さんもうんうんとうなずかないでください。恥ずかしいです。

「そう……ですか。
俺、よくわからないけどなりあきさまには早く良くなっていただきたいし、おそばにいたいと思うし」

うひゃ。川崎さんと藤代さんがにやにや笑っている。

「でも夫婦って仲がいいものなんでしょう?」

「……そう、ですねぇ」

「そうなんですか、川崎さん。そのあたり詳しく教えてくださいよ」

「藤代が結婚したら教えてやるよ」

「なら俺には教えてもらえますね。結婚してるから」

「なんですか、キヨノさんまで!私のはあまり参考になりませんよ、何度か離婚しているので」

え。

「料理にのめり込みすぎたんですよ。大体それで失敗してる。仲良くしようとは努力したんですがね、私の場合は料理に魂を奪われてしまってるようで」

川崎さんはふざけたように笑うと、俺の前に立った。

「自分のことはおいておいて、私は旦那様とキヨノさんが仲良くしているのを見るのも好きだし、キヨノさんが私の料理をおいしいと言ってくれるのも好きです。それが幸せで、それで満足しています」

「はぁ」

「さ、召し上がったら旦那様の杏仁豆腐、お願いしますね、キヨノさん」

「はい」

なんだかすごいことを聞いてしまったが、だからといって俺はなにかできることもなく、目の前のアンニンドウフを真剣に味わって食べることにした。




***
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