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二十、
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冬の寒い日だった。
火急の用がある、と朝早くから惣吉に呼び出された源蔵は、南の赤門そばの惣吉の屋敷へと急いだ。
すぐに案内されると部屋の中から話し声がする。
屋敷の者が声をかけ、源蔵も名乗りをあげると許可が出たので襖《ふすま》を開けた。
中では下座に惣吉が座っており、上座には藍鼠の着物で手を火鉢であぶっている男がいた。
源蔵は惣吉の斜め後ろに座ると、手をついて挨拶をした。
「お久しぶりです、飯田橋様」
「ああ、源蔵も変わりなさそうだね」
二年ぶりに見た飯田橋は貫禄がつき、花街に通っていた頃の軽さが取れ、男っぷりを上げていた。
しかし、乱れ髪が鬢からこぼれており、目は赤く充血していた。
くたびれやつれた様子に源蔵は驚いた。
飯田橋はだるそうにしながらも、惣吉を退室させた。
こうやって飯田橋と源蔵が向き合うのはいつぶりだろうか。
お互いに花街でちらりちらりと姿を見、軽く言葉を交わしたが、正面切って話をしたことはなさそうだった。
「朝早くからすまないね」
「いいえ」
「面白くはないんだが、おまえさんの力を借りに来た」
源蔵は飯田橋を訝しげに見た。
「もうおまえさんしか思い浮かばないんだよ」
飯田橋は苦しそうに言葉を吐き出した。
「源蔵、白妙を助けてくれないか」
白妙の名前を聞いた途端、源蔵の体がこわばった。
「どうしたのです」
「ふふふ、どうこう言いながら源蔵も白妙のことを好いているんだね。
ああ、面白くない」
「……うちの陰間でしたから」
「そういうことにしておこうか」
飯田橋は一度目を伏せ、今度は真剣な眼差しで源蔵を見た。
「それで、白妙がどうかしたのですか」
「熱が出てね、すぐに医者にも診せたし、いい薬師も呼んだ。
しかしそれからも熱が下がらなくて」
源蔵の体の熱が一気に下がる気がした。
思い出すのは自分の懐で、苦しそうに寒がっていた小さな子ども。
「だんだん意識も失って、高い熱にうなされ、うわ言のように赤い櫛と言うんだ」
源蔵は膝の腕の手をぐっと握り込んだ。
「私が慌てて赤い櫛を買って持たせてやったが、それを握るなり『これではない』と放り投げるんだよ。
そして怒ったようにまた、赤い櫛と言うんだ」
飯田橋は溜息をついた。
「どうしようもなくて、私は白妙を揺さぶって聞き出したよ。
なんと驚くことに、白妙は自分の赤い櫛を持っていたんだ。
在り処を尋ねると鏡台の中だと言う。
しかし見つからない。
小さな引き出し一つの中には私がやった梅の簪だけ。
でも白妙は鏡台だと言い続ける」
源蔵は身動きが取れない。
「私はもう一度鏡台と引き出しをよくよく見てみた。
するとどうだろう。
引き出しの奥に紙の包みが貼りつけてあった。
それをはがして中を見ると丹塗りの櫛が出てきた。
これか、と白妙に渡すと、白妙はへらへらと笑うんだよ。
高熱で意識もあまりないのに、糸括のときに見た子どもの顔をして嬉しそうに笑うんだ」
飯田橋は奥歯を噛みしめる。
「誰からもらったのか問い質してみたが、白妙は決して言おうとはしなかった。
あんなに頑なな子だったかな。
だから私は考えたんだ。
陰間が持つには安物だ。
誰かが糸括にやったものだ。
なぁ、源蔵、心当たりはないかい」
「……いえ」
源蔵の額に脂汗がにじむ。
「私は気づいていたんだよ。
白妙が見遣る先の人物について。
あの子も何も言わなかったから、私も気づかないふりをしていた。
懸命に隠していたからね。
それにもし、これが公になってしまったら大事だ。
花街から置屋が一つ、なくなってしまうかもしれない」
飯田橋の目は源蔵をとらえて離さなかった。
「あの子は…、白妙は私のところに来ると決めたときに言ったんだ。
全てを捨てて、真っ白になって私のところに来たい、と。
秘めた想いも叶わぬ苦しさも全部置いて、まっさらになりたい、と言ったんだ」
飯田橋は顔をゆがめた。
泣きそうな顔だった。
「うまくいっていると思ってた。
白妙はうちに来ていつも笑っていた。
素晴らしい絵を描いて、店や私の手伝いをし、私の手を取り、好いていると言ってくれた。
あの子の思うように、私が真っ白にしたつもりだったのに。
こんなことで呆気なく、それがうまくいっていないと知るだなんて、これっぽっちも思いもしなかった」
飯田橋は手をついて源蔵に頭を下げた。
「源蔵、あの子を、白妙を助けてやってくれ」
「飯田橋様」
「お願いだ、頼む。
あの子はおまえさんを呼んでいるんだ。
このままではこの冬は越せないと言われた。
もう何日も水すら飲んでいない。
玉の緒が切れる前に、白妙に会ってやってくれ」
「お手をお上げください」
「頼む、源蔵」
「私は無力な男ですが、それでもよければ承知いたしました」
源蔵の言葉にやっと飯田橋は顔を上げた。
泣いていた。
苦しそうに泣いていた。
源蔵の心も逸った。
白妙がいなくなることなど、考えられなかった。
それからすぐ、飯田橋は惣吉に駕籠の手配をさせ、二人は飯田橋の屋敷に急いで向かった。
源蔵が赤い門の外に出たのは幾年ぶりであっただろうか。
火急の用がある、と朝早くから惣吉に呼び出された源蔵は、南の赤門そばの惣吉の屋敷へと急いだ。
すぐに案内されると部屋の中から話し声がする。
屋敷の者が声をかけ、源蔵も名乗りをあげると許可が出たので襖《ふすま》を開けた。
中では下座に惣吉が座っており、上座には藍鼠の着物で手を火鉢であぶっている男がいた。
源蔵は惣吉の斜め後ろに座ると、手をついて挨拶をした。
「お久しぶりです、飯田橋様」
「ああ、源蔵も変わりなさそうだね」
二年ぶりに見た飯田橋は貫禄がつき、花街に通っていた頃の軽さが取れ、男っぷりを上げていた。
しかし、乱れ髪が鬢からこぼれており、目は赤く充血していた。
くたびれやつれた様子に源蔵は驚いた。
飯田橋はだるそうにしながらも、惣吉を退室させた。
こうやって飯田橋と源蔵が向き合うのはいつぶりだろうか。
お互いに花街でちらりちらりと姿を見、軽く言葉を交わしたが、正面切って話をしたことはなさそうだった。
「朝早くからすまないね」
「いいえ」
「面白くはないんだが、おまえさんの力を借りに来た」
源蔵は飯田橋を訝しげに見た。
「もうおまえさんしか思い浮かばないんだよ」
飯田橋は苦しそうに言葉を吐き出した。
「源蔵、白妙を助けてくれないか」
白妙の名前を聞いた途端、源蔵の体がこわばった。
「どうしたのです」
「ふふふ、どうこう言いながら源蔵も白妙のことを好いているんだね。
ああ、面白くない」
「……うちの陰間でしたから」
「そういうことにしておこうか」
飯田橋は一度目を伏せ、今度は真剣な眼差しで源蔵を見た。
「それで、白妙がどうかしたのですか」
「熱が出てね、すぐに医者にも診せたし、いい薬師も呼んだ。
しかしそれからも熱が下がらなくて」
源蔵の体の熱が一気に下がる気がした。
思い出すのは自分の懐で、苦しそうに寒がっていた小さな子ども。
「だんだん意識も失って、高い熱にうなされ、うわ言のように赤い櫛と言うんだ」
源蔵は膝の腕の手をぐっと握り込んだ。
「私が慌てて赤い櫛を買って持たせてやったが、それを握るなり『これではない』と放り投げるんだよ。
そして怒ったようにまた、赤い櫛と言うんだ」
飯田橋は溜息をついた。
「どうしようもなくて、私は白妙を揺さぶって聞き出したよ。
なんと驚くことに、白妙は自分の赤い櫛を持っていたんだ。
在り処を尋ねると鏡台の中だと言う。
しかし見つからない。
小さな引き出し一つの中には私がやった梅の簪だけ。
でも白妙は鏡台だと言い続ける」
源蔵は身動きが取れない。
「私はもう一度鏡台と引き出しをよくよく見てみた。
するとどうだろう。
引き出しの奥に紙の包みが貼りつけてあった。
それをはがして中を見ると丹塗りの櫛が出てきた。
これか、と白妙に渡すと、白妙はへらへらと笑うんだよ。
高熱で意識もあまりないのに、糸括のときに見た子どもの顔をして嬉しそうに笑うんだ」
飯田橋は奥歯を噛みしめる。
「誰からもらったのか問い質してみたが、白妙は決して言おうとはしなかった。
あんなに頑なな子だったかな。
だから私は考えたんだ。
陰間が持つには安物だ。
誰かが糸括にやったものだ。
なぁ、源蔵、心当たりはないかい」
「……いえ」
源蔵の額に脂汗がにじむ。
「私は気づいていたんだよ。
白妙が見遣る先の人物について。
あの子も何も言わなかったから、私も気づかないふりをしていた。
懸命に隠していたからね。
それにもし、これが公になってしまったら大事だ。
花街から置屋が一つ、なくなってしまうかもしれない」
飯田橋の目は源蔵をとらえて離さなかった。
「あの子は…、白妙は私のところに来ると決めたときに言ったんだ。
全てを捨てて、真っ白になって私のところに来たい、と。
秘めた想いも叶わぬ苦しさも全部置いて、まっさらになりたい、と言ったんだ」
飯田橋は顔をゆがめた。
泣きそうな顔だった。
「うまくいっていると思ってた。
白妙はうちに来ていつも笑っていた。
素晴らしい絵を描いて、店や私の手伝いをし、私の手を取り、好いていると言ってくれた。
あの子の思うように、私が真っ白にしたつもりだったのに。
こんなことで呆気なく、それがうまくいっていないと知るだなんて、これっぽっちも思いもしなかった」
飯田橋は手をついて源蔵に頭を下げた。
「源蔵、あの子を、白妙を助けてやってくれ」
「飯田橋様」
「お願いだ、頼む。
あの子はおまえさんを呼んでいるんだ。
このままではこの冬は越せないと言われた。
もう何日も水すら飲んでいない。
玉の緒が切れる前に、白妙に会ってやってくれ」
「お手をお上げください」
「頼む、源蔵」
「私は無力な男ですが、それでもよければ承知いたしました」
源蔵の言葉にやっと飯田橋は顔を上げた。
泣いていた。
苦しそうに泣いていた。
源蔵の心も逸った。
白妙がいなくなることなど、考えられなかった。
それからすぐ、飯田橋は惣吉に駕籠の手配をさせ、二人は飯田橋の屋敷に急いで向かった。
源蔵が赤い門の外に出たのは幾年ぶりであっただろうか。
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