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七、
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「帯を結ぶのは男の仕事だ」と源蔵から聞いたことがある。
非常に力のいるもので、御衣黄から贈られた稲妻の帯は幅も広く、長さもたっぷりあったため、二人がかりで帯を締めている。
いくらでも珍しい結び方ができる。
青い海と白波、狂い咲き散る桜の着物の襟にも蘇芳の色が差し込まれた。
糸括は前に源蔵、後ろに雨宿に挟まれ、正絹の帯が結ばれ擦れ鳴るのを聞いた。
膝立ちになり、帯の前を揃えている源蔵の横顔を盗み見ると、額には薄っすらと汗を浮かべていた。
そしてすぐに雨宿と位置を変え、糸括の後ろに回ると源蔵が帯をどこかにくぐらせ、正絹を鳴かせた。
五本目の最後の艶葉木を番頭の部屋で見た時、「これが旦那様方の木の太さなのか」と糸括は怯えた。
しかし、優しい源蔵の声を聞くと、すぐに芝居の中に入っていった。
これは、源蔵さんのもの。
源蔵さんの木が、私の中に…
すべらかであったが冷たいものが、自分の淵の奥に差し込まれたとき、その太さに目をむきながらも「これで最後だから。今だけ。今だけどうぞお許しください。源蔵さん」と胸の中で呟き、「はぁぁん」と糸括は声を上げた。
そして長いような短いような最後の稽古が終わった。
糸括の淵はどの男の木でも飲み込めるようになっていた。
いつものように、源蔵は糸括の股や尻を拭くと、腰布と肌襦袢を整えてやった。
「旦那様」
四つん這いの体勢から腰を落とし、気だるく寝そべるようにした糸括が呼びかけた。
「なんだい」
「今日のご褒美は旦那様のお膝の上でいただきたい」
糸括は答えを待たずに源蔵ににじり寄り、膝の上にのぼった。
源蔵は少し戸惑ったが、結局は何も言わず懐から油紙を取り出した。
そして中の赤い飴をつまむと糸括の口の中に入れてやった。
糸括は源蔵の指先に舌を巻きつけ、飴と共に舐めた。
膝から落ちまいと源蔵の合わせを掴んで自分の身を寄せ、上を向いて必死に飴と指を口の中いっぱいに転がす。
あまりに夢中になったので、口の端から唾液がこぼれたが構わず口を動かし続けた。
源蔵は空いた手で懐から手ぬぐいを取り出すと、糸括の口元を拭いてやった。
にへらと糸括が幸せそうに笑い、そしてくちゅりくちゅりと音を立てて最後の褒美を頬張った。
思い出すと切なさに胸がきりきりと痛んだ。
「なんて顔をしているんだ。
苦しいのか?」
声をかけられ、やや上向きに前を見ると顔を上気させ薄っすらと紅色に染まった源蔵が着付を終わらせ、糸括の前に立っていた。
「さ、仕上げだ」
源蔵が姿見のそばの箱からはまぐりの貝を取り出した。
「そのまま少し上を向いておいで」
貝の合わせを開くと中は玉虫色に輝いていた。
源蔵が薬指を舐めて湿らせ、その玉虫色の内側をなでると指先は紅に染まった。
そして、そのままそれは糸括の唇の上を滑った。
もう一度指を舐め貝から紅を取ると、今度は両方の目尻に朱を入れた。
そして指に残った紅を頬にぽんぽんと軽く叩くように載せると、両方の手のひらの親指の付け根のふっくらしたところで伸ばす。
一瞬だけ、源蔵が糸括と目を合わせた。
糸括の心臓は細い紅色の糸できゅっと締め付けられそのまま結ばれた。
糸は心臓に食い込んでいたが、ほどかれることはなかった。
「出来上がりました」
源蔵の抑揚のない声がした。
はっと糸括が正気に戻ると、源蔵と雨宿は脇に下がった。
惣吉が支度のできた糸括を見る。
「なんと激しいのに初々しい。
ほら、お前も見てごらん」
惣吉の合図で姿見の布を雨宿が上げると、そこには海の底から春を呼び覚ましたような陰間が鏡の中に立っていた。
春の嵐のような稲光が儚い桜の花びらをまき散らす。
心臓を結んだ糸がきゅっと締まる。
「ありがとうございました」
糸括がそう言うのを惣吉は満足そうに聞き、うなずいた。
そして、円い穴の開いた木の箱を差し出された。
「中の紙を一枚引きなさい」
惣吉に言われ、糸括はそっと穴の中に手を差し入れ、指に触れた紙を一枚引き出し、惣吉に渡した。
それを見て惣吉が厳かに言った。
「お前は今から陰間の白妙と名乗りなさい」
「はい」
白妙は静かに目を伏せて答えた。
「では、参ろうか」
惣吉の掛け声に源蔵と雨宿が答えた。
足引山の影が濃く黒くなり、空は赤く焼けたかと思うと次第に紺色に濡れていった。
惣吉の屋敷のそばから花街の大きな通りを北に向かって、人々が集まって今か今かと待っていた。
水揚げの宵には、いつもは火を灯すとすぐに足引山に帰る楓葉も、通りの両脇の灯籠の上に太い赤い尻尾を振りながらちょこんと座って待っていた。
「来たぞ!」
誰かの叫び声と共に歓声が上がる。
まず見習いの少年二人が先払いとして現れた。
そして、ずっしりと重い鼈甲づくしの簪と櫛で飾った結い髪の後ろから細いうなじを見せた、春の嵐のような白妙が現れた。
そのすぐ後ろには紋付き袴の源蔵と雨宿、笹部の兄陰間と続く。
白妙以外は皆、白い狐の面をかぶっている。
狐に囲まれ、ただ一人、人の形をした白妙が顔を上げ凛と前を向いていた。
「あれが糸括かい?」
「白妙という名前になったそうだよ」
見物に来ていた客の男たちや他の置屋の陰間たちが口々に新しい名前を口にする。
さぞかし目立たない陰間になるだろうと思っていたのに、ぽっちりと紅を落とした小さな唇はぞくぞくするほどなまめかしい。
それを裏切るような細い首と体がまだ十《とお》の子だと思わせる。
あの予想外の大胆な柄の着物と帯にも、皆、驚かされた。
あれだけの激しさを身に着けても飲み込まれることなく、春の海から現れた花の精のように清らかだった。
行列は静かに進んでいった。
列の後ろでは惣吉の屋敷からの振る舞い酒が配られていた。
ほんの一口であったが、男たちはほろりと酔いながら狐に囲まれた白妙を見送った。
水揚げはいつも、花街の一番北の一番大きな茶屋で行われることになっている。
ゆっくりゆっくり花街を練り歩く白妙の行列は、北へ北へと向かっていく。
自分の前を白妙の行列が通り過ぎると、得心したように灯籠の上の赤い子狐たちは空を舞い、赤い尾を宙に引いて足引山に帰っていった。
その滅多に見ることのない赤い線も客は見上げ、そして自分の今宵の相手を探すため赤い格子窓の中の陰間を覗きに向かった。
非常に力のいるもので、御衣黄から贈られた稲妻の帯は幅も広く、長さもたっぷりあったため、二人がかりで帯を締めている。
いくらでも珍しい結び方ができる。
青い海と白波、狂い咲き散る桜の着物の襟にも蘇芳の色が差し込まれた。
糸括は前に源蔵、後ろに雨宿に挟まれ、正絹の帯が結ばれ擦れ鳴るのを聞いた。
膝立ちになり、帯の前を揃えている源蔵の横顔を盗み見ると、額には薄っすらと汗を浮かべていた。
そしてすぐに雨宿と位置を変え、糸括の後ろに回ると源蔵が帯をどこかにくぐらせ、正絹を鳴かせた。
五本目の最後の艶葉木を番頭の部屋で見た時、「これが旦那様方の木の太さなのか」と糸括は怯えた。
しかし、優しい源蔵の声を聞くと、すぐに芝居の中に入っていった。
これは、源蔵さんのもの。
源蔵さんの木が、私の中に…
すべらかであったが冷たいものが、自分の淵の奥に差し込まれたとき、その太さに目をむきながらも「これで最後だから。今だけ。今だけどうぞお許しください。源蔵さん」と胸の中で呟き、「はぁぁん」と糸括は声を上げた。
そして長いような短いような最後の稽古が終わった。
糸括の淵はどの男の木でも飲み込めるようになっていた。
いつものように、源蔵は糸括の股や尻を拭くと、腰布と肌襦袢を整えてやった。
「旦那様」
四つん這いの体勢から腰を落とし、気だるく寝そべるようにした糸括が呼びかけた。
「なんだい」
「今日のご褒美は旦那様のお膝の上でいただきたい」
糸括は答えを待たずに源蔵ににじり寄り、膝の上にのぼった。
源蔵は少し戸惑ったが、結局は何も言わず懐から油紙を取り出した。
そして中の赤い飴をつまむと糸括の口の中に入れてやった。
糸括は源蔵の指先に舌を巻きつけ、飴と共に舐めた。
膝から落ちまいと源蔵の合わせを掴んで自分の身を寄せ、上を向いて必死に飴と指を口の中いっぱいに転がす。
あまりに夢中になったので、口の端から唾液がこぼれたが構わず口を動かし続けた。
源蔵は空いた手で懐から手ぬぐいを取り出すと、糸括の口元を拭いてやった。
にへらと糸括が幸せそうに笑い、そしてくちゅりくちゅりと音を立てて最後の褒美を頬張った。
思い出すと切なさに胸がきりきりと痛んだ。
「なんて顔をしているんだ。
苦しいのか?」
声をかけられ、やや上向きに前を見ると顔を上気させ薄っすらと紅色に染まった源蔵が着付を終わらせ、糸括の前に立っていた。
「さ、仕上げだ」
源蔵が姿見のそばの箱からはまぐりの貝を取り出した。
「そのまま少し上を向いておいで」
貝の合わせを開くと中は玉虫色に輝いていた。
源蔵が薬指を舐めて湿らせ、その玉虫色の内側をなでると指先は紅に染まった。
そして、そのままそれは糸括の唇の上を滑った。
もう一度指を舐め貝から紅を取ると、今度は両方の目尻に朱を入れた。
そして指に残った紅を頬にぽんぽんと軽く叩くように載せると、両方の手のひらの親指の付け根のふっくらしたところで伸ばす。
一瞬だけ、源蔵が糸括と目を合わせた。
糸括の心臓は細い紅色の糸できゅっと締め付けられそのまま結ばれた。
糸は心臓に食い込んでいたが、ほどかれることはなかった。
「出来上がりました」
源蔵の抑揚のない声がした。
はっと糸括が正気に戻ると、源蔵と雨宿は脇に下がった。
惣吉が支度のできた糸括を見る。
「なんと激しいのに初々しい。
ほら、お前も見てごらん」
惣吉の合図で姿見の布を雨宿が上げると、そこには海の底から春を呼び覚ましたような陰間が鏡の中に立っていた。
春の嵐のような稲光が儚い桜の花びらをまき散らす。
心臓を結んだ糸がきゅっと締まる。
「ありがとうございました」
糸括がそう言うのを惣吉は満足そうに聞き、うなずいた。
そして、円い穴の開いた木の箱を差し出された。
「中の紙を一枚引きなさい」
惣吉に言われ、糸括はそっと穴の中に手を差し入れ、指に触れた紙を一枚引き出し、惣吉に渡した。
それを見て惣吉が厳かに言った。
「お前は今から陰間の白妙と名乗りなさい」
「はい」
白妙は静かに目を伏せて答えた。
「では、参ろうか」
惣吉の掛け声に源蔵と雨宿が答えた。
足引山の影が濃く黒くなり、空は赤く焼けたかと思うと次第に紺色に濡れていった。
惣吉の屋敷のそばから花街の大きな通りを北に向かって、人々が集まって今か今かと待っていた。
水揚げの宵には、いつもは火を灯すとすぐに足引山に帰る楓葉も、通りの両脇の灯籠の上に太い赤い尻尾を振りながらちょこんと座って待っていた。
「来たぞ!」
誰かの叫び声と共に歓声が上がる。
まず見習いの少年二人が先払いとして現れた。
そして、ずっしりと重い鼈甲づくしの簪と櫛で飾った結い髪の後ろから細いうなじを見せた、春の嵐のような白妙が現れた。
そのすぐ後ろには紋付き袴の源蔵と雨宿、笹部の兄陰間と続く。
白妙以外は皆、白い狐の面をかぶっている。
狐に囲まれ、ただ一人、人の形をした白妙が顔を上げ凛と前を向いていた。
「あれが糸括かい?」
「白妙という名前になったそうだよ」
見物に来ていた客の男たちや他の置屋の陰間たちが口々に新しい名前を口にする。
さぞかし目立たない陰間になるだろうと思っていたのに、ぽっちりと紅を落とした小さな唇はぞくぞくするほどなまめかしい。
それを裏切るような細い首と体がまだ十《とお》の子だと思わせる。
あの予想外の大胆な柄の着物と帯にも、皆、驚かされた。
あれだけの激しさを身に着けても飲み込まれることなく、春の海から現れた花の精のように清らかだった。
行列は静かに進んでいった。
列の後ろでは惣吉の屋敷からの振る舞い酒が配られていた。
ほんの一口であったが、男たちはほろりと酔いながら狐に囲まれた白妙を見送った。
水揚げはいつも、花街の一番北の一番大きな茶屋で行われることになっている。
ゆっくりゆっくり花街を練り歩く白妙の行列は、北へ北へと向かっていく。
自分の前を白妙の行列が通り過ぎると、得心したように灯籠の上の赤い子狐たちは空を舞い、赤い尾を宙に引いて足引山に帰っていった。
その滅多に見ることのない赤い線も客は見上げ、そして自分の今宵の相手を探すため赤い格子窓の中の陰間を覗きに向かった。
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