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三、
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正面から糸括を見た源蔵は静かに口を開いた。
「稽古の具合はどうだ?」
「はい、お師匠様や兄さんからしっかり教えていただいております」
「熱心に稽古していることは聞いているよ。
よいことだ」
糸括はぼおうと体の温度が上がるのを感じた。
褒められた!
滅多に褒めない源蔵さんから褒められた!
天にも昇る気分になった。
嬉しい!
源蔵には糸括の思いがすべて手に取るようにわかった。
まだ、自分を抑える術を知らない。
しかし糸括は手をついて頭を下げ、「ありがとうございます、精進いたします」と言った。
「ところで糸括」
「はい」
名前まで呼ばれ有頂天になった糸括は声が華やいでしまうのを止められなかった。
「陰間の役目とは何か知っているか?」
「はい。
お客様に踊りやお歌を見てもらい楽しんでいただくことです」
「美しいお前を見てもらい、話をし、お酌もして差し上げ、そして床《とこ》でも楽しませるんだ」
「床」という言葉を源蔵から聞いたとき、糸括は冷や水を浴びせられたような気になった。
浮かれている場合ではなかったではないか。
自分が浅はかなことを悔やんだ。
見習いは陰間の付き人として茶屋へ同行するのも役目の一つである。
そうやって陰間の仕事を見、茶屋での作法を肌で知り、秀でた者は客の目に留まる。
笹部でも人気の陰間・御車返と同行することが決まると、糸括は普段よりも上等の着物を着せられ、帯も結んでもらった。
いつもなら慣れない見習いを一人で連れていくことはないのだが、その夜だけはどうやっても人が足りず、少し慣れてきたというので糸括一人を伴い、御車返は茶屋へ上がった。
客は海鮮問屋で羽振りがいい旦那様で、上品な羽織と着物を着て優しい言葉で御車返にも話しかけていた。
婆娑羅に傾倒した毒々しい着物を着た荒っぽい所作と言葉の客は、糸括の苦手とするところだった。
穏やかな旦那様でほっとし、三味線の準備をしたり、酒が切れないように気を配ったり、七《しち》の子にしては気がつく働きをしていた。
旦那様は踊りも歌も会話も料理も酒も味わい尽くすと、酔って赤い顔をして御車返の肩を抱いた。
御車返は糸括に「下がっていいよ」と言ったので、指を揃えて礼をすると「控えの間」と呼ばれる小さな隣の部屋に下がった。
いつもならそこに軽食が用意してあり、見習いの兄さんと一緒にそれを静かにいただきながらお互いをいたわり、交代で仮眠を取りながら陰間の声掛けを待つのである。
糸括は手早く食事をし、簡易の褥に横になった。
御車返は一人しかいない糸括に「寝てもいいよ」と言っていたが、いざというときのために糸括は暗闇の中で目を大きく開けていた。
静かな夜だった。
自分が動きを止めてしまうと、辺りの音が大きく響く。
隣の部屋から正絹の衣擦れがする。
次第に「うっ」「あっ」と短い抑えきれない声が聞こえ始めた。
いつもは一緒にいる兄さんがまだ幼い糸括をしっかり眠らせてくれていたので、気がつかなかった。
よく聞き取れないが、旦那様の低い声もする。
糸括は隣で何が起こっているのかわからなかった。
しかし、この淫靡な声に何か感じるものがあった。
耳を塞いでしまいたかったが、そうすれば御車返の呼びかけにすぐに応えられない。
聞いてはいけないもののような気がする。
しかし、逃げる術はない。
糸括が知る御車返のものとは思えない淫らな声の余韻が漂う。
そしてぼんやりと陰間になる意味を考えずにはいられなかった。
いつかはあそこで行われていることを自分もやらなければならない。
記憶も居場所も家族も過去もすべて失った自分たちを生かしてくれた置屋と花街に、ご恩返しをしなければならない。
それが花街にやってきた少年の定であった。
知らず知らずのうちに糸括は体を火照らせ、一晩を過ごした。
有明の月がかかる頃、御車返の声がした。
はっとして体を起こし、糸括は着物の乱れを整えると声をかけ、隣の部屋に入った。
中は獣くさい匂いが立ち込めていた。
厚みのある緋色の褥が禍々しい。
「私はいいから、御車返の世話をしてやってくれ」
旦那様はそう言うと、一人でさっさと褌《ふんどし》を締め、肌襦袢から順に着物を着ていった。
糸括は御車返に近づいた。
肌襦袢をだらしなく羽織っただけの御車返の体には赤い痕が無数に散っていた。
額にかかる乱れ髪が夜の出来事を語った。
気だるげにする御車返の目をなるべく見ないようにして、糸括は昨日茶屋に上がったときより楽な着物を着せた。
そして乱れた髪を櫛で整えた。
「ありがとう、もういいよ。
あとは私がやるから」
御車返はやっと正気を取り戻し身支度を整えた。
それが終わる頃、旦那様は糸括など目に入らないように御車返を抱き寄せ、耳に口を押し当てた。
「なんて短い夜なんだ。
このままずっとお前を抱いていたいよ」
「また次も私を呼んでくださいまし」
「次はいつになることやら。
お前は人気があるから、私は毎晩、お前を抱いている男どもに妬けてしまって、ろくろく眠れやしないよ」
「まあ、そんなことを。
私はいつでも旦那様の御車返です」
「ああ、離したくない」
「朝告鳥が鳴いてしまいますよ。
お名残り惜しいですが、お早く」
「必ずまた来るよ」
「お待ち申し上げております」
旦那様は派手に御車返の口を吸い、後ろ髪を引かれる思いで振り返り振り返りしながら、茶屋を出て行った。
それを二階の窓から見送りながら、旦那様の姿が見えなくなると御車返がぼそりと言った。
「お前に言ってもわからないかもしれなけれど、こういうことは好き合った者同士がするもんだよ」
十四の御車返のはずが、老け込みくたびれ果てた男のような横顔をしていた。
糸括は黙って頭を下げると、脱ぎ散らかしている着物を畳み始めた。
思い出すのは禍々しい緋色の褥と乱れ髪、そして老け込んだ横顔と濃い獣の匂い。
糸括の体は冷え切ってしまった。
今度は自分の番なんだ。
恐怖で体がきゅうっと縮こまる。
「お前の水揚げをどなたがするのかは惣吉さんがいいようにしてくれるよ。
糸括は黙って客に身を任せておけばいい。
悪いようにはされない」
源蔵はなだめるように糸括に言った。
「ただ、そのままでは客を楽しませることができないからね。
これからは私と稽古をしよう。
糸括、着物を脱いで肌襦袢なりなさい」
自分がほのかに思いを寄せる男であり、恩人であり、雇い主でもある源蔵に逆らうわけにはいかない。
しかし、体は動かなかった。
「糸括、聞こえているのか」
「はい」
糸括は奥歯を噛みしめ、か細く返事をした。
「早くしなさい」
「はい」
仕方なくふらつきながら糸括は立ち上がると、半幅帯に手をかけ、源蔵の目の前でほどき始めた。
「稽古の具合はどうだ?」
「はい、お師匠様や兄さんからしっかり教えていただいております」
「熱心に稽古していることは聞いているよ。
よいことだ」
糸括はぼおうと体の温度が上がるのを感じた。
褒められた!
滅多に褒めない源蔵さんから褒められた!
天にも昇る気分になった。
嬉しい!
源蔵には糸括の思いがすべて手に取るようにわかった。
まだ、自分を抑える術を知らない。
しかし糸括は手をついて頭を下げ、「ありがとうございます、精進いたします」と言った。
「ところで糸括」
「はい」
名前まで呼ばれ有頂天になった糸括は声が華やいでしまうのを止められなかった。
「陰間の役目とは何か知っているか?」
「はい。
お客様に踊りやお歌を見てもらい楽しんでいただくことです」
「美しいお前を見てもらい、話をし、お酌もして差し上げ、そして床《とこ》でも楽しませるんだ」
「床」という言葉を源蔵から聞いたとき、糸括は冷や水を浴びせられたような気になった。
浮かれている場合ではなかったではないか。
自分が浅はかなことを悔やんだ。
見習いは陰間の付き人として茶屋へ同行するのも役目の一つである。
そうやって陰間の仕事を見、茶屋での作法を肌で知り、秀でた者は客の目に留まる。
笹部でも人気の陰間・御車返と同行することが決まると、糸括は普段よりも上等の着物を着せられ、帯も結んでもらった。
いつもなら慣れない見習いを一人で連れていくことはないのだが、その夜だけはどうやっても人が足りず、少し慣れてきたというので糸括一人を伴い、御車返は茶屋へ上がった。
客は海鮮問屋で羽振りがいい旦那様で、上品な羽織と着物を着て優しい言葉で御車返にも話しかけていた。
婆娑羅に傾倒した毒々しい着物を着た荒っぽい所作と言葉の客は、糸括の苦手とするところだった。
穏やかな旦那様でほっとし、三味線の準備をしたり、酒が切れないように気を配ったり、七《しち》の子にしては気がつく働きをしていた。
旦那様は踊りも歌も会話も料理も酒も味わい尽くすと、酔って赤い顔をして御車返の肩を抱いた。
御車返は糸括に「下がっていいよ」と言ったので、指を揃えて礼をすると「控えの間」と呼ばれる小さな隣の部屋に下がった。
いつもならそこに軽食が用意してあり、見習いの兄さんと一緒にそれを静かにいただきながらお互いをいたわり、交代で仮眠を取りながら陰間の声掛けを待つのである。
糸括は手早く食事をし、簡易の褥に横になった。
御車返は一人しかいない糸括に「寝てもいいよ」と言っていたが、いざというときのために糸括は暗闇の中で目を大きく開けていた。
静かな夜だった。
自分が動きを止めてしまうと、辺りの音が大きく響く。
隣の部屋から正絹の衣擦れがする。
次第に「うっ」「あっ」と短い抑えきれない声が聞こえ始めた。
いつもは一緒にいる兄さんがまだ幼い糸括をしっかり眠らせてくれていたので、気がつかなかった。
よく聞き取れないが、旦那様の低い声もする。
糸括は隣で何が起こっているのかわからなかった。
しかし、この淫靡な声に何か感じるものがあった。
耳を塞いでしまいたかったが、そうすれば御車返の呼びかけにすぐに応えられない。
聞いてはいけないもののような気がする。
しかし、逃げる術はない。
糸括が知る御車返のものとは思えない淫らな声の余韻が漂う。
そしてぼんやりと陰間になる意味を考えずにはいられなかった。
いつかはあそこで行われていることを自分もやらなければならない。
記憶も居場所も家族も過去もすべて失った自分たちを生かしてくれた置屋と花街に、ご恩返しをしなければならない。
それが花街にやってきた少年の定であった。
知らず知らずのうちに糸括は体を火照らせ、一晩を過ごした。
有明の月がかかる頃、御車返の声がした。
はっとして体を起こし、糸括は着物の乱れを整えると声をかけ、隣の部屋に入った。
中は獣くさい匂いが立ち込めていた。
厚みのある緋色の褥が禍々しい。
「私はいいから、御車返の世話をしてやってくれ」
旦那様はそう言うと、一人でさっさと褌《ふんどし》を締め、肌襦袢から順に着物を着ていった。
糸括は御車返に近づいた。
肌襦袢をだらしなく羽織っただけの御車返の体には赤い痕が無数に散っていた。
額にかかる乱れ髪が夜の出来事を語った。
気だるげにする御車返の目をなるべく見ないようにして、糸括は昨日茶屋に上がったときより楽な着物を着せた。
そして乱れた髪を櫛で整えた。
「ありがとう、もういいよ。
あとは私がやるから」
御車返はやっと正気を取り戻し身支度を整えた。
それが終わる頃、旦那様は糸括など目に入らないように御車返を抱き寄せ、耳に口を押し当てた。
「なんて短い夜なんだ。
このままずっとお前を抱いていたいよ」
「また次も私を呼んでくださいまし」
「次はいつになることやら。
お前は人気があるから、私は毎晩、お前を抱いている男どもに妬けてしまって、ろくろく眠れやしないよ」
「まあ、そんなことを。
私はいつでも旦那様の御車返です」
「ああ、離したくない」
「朝告鳥が鳴いてしまいますよ。
お名残り惜しいですが、お早く」
「必ずまた来るよ」
「お待ち申し上げております」
旦那様は派手に御車返の口を吸い、後ろ髪を引かれる思いで振り返り振り返りしながら、茶屋を出て行った。
それを二階の窓から見送りながら、旦那様の姿が見えなくなると御車返がぼそりと言った。
「お前に言ってもわからないかもしれなけれど、こういうことは好き合った者同士がするもんだよ」
十四の御車返のはずが、老け込みくたびれ果てた男のような横顔をしていた。
糸括は黙って頭を下げると、脱ぎ散らかしている着物を畳み始めた。
思い出すのは禍々しい緋色の褥と乱れ髪、そして老け込んだ横顔と濃い獣の匂い。
糸括の体は冷え切ってしまった。
今度は自分の番なんだ。
恐怖で体がきゅうっと縮こまる。
「お前の水揚げをどなたがするのかは惣吉さんがいいようにしてくれるよ。
糸括は黙って客に身を任せておけばいい。
悪いようにはされない」
源蔵はなだめるように糸括に言った。
「ただ、そのままでは客を楽しませることができないからね。
これからは私と稽古をしよう。
糸括、着物を脱いで肌襦袢なりなさい」
自分がほのかに思いを寄せる男であり、恩人であり、雇い主でもある源蔵に逆らうわけにはいかない。
しかし、体は動かなかった。
「糸括、聞こえているのか」
「はい」
糸括は奥歯を噛みしめ、か細く返事をした。
「早くしなさい」
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仕方なくふらつきながら糸括は立ち上がると、半幅帯に手をかけ、源蔵の目の前でほどき始めた。
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