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第1話 朧月夜(1)
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一枚板の重厚なドアを開けると、昔ながらの喫茶店のようにドアベルがカラコロと鳴った。
それがかわいらしくて、いつもそのギャップにくすりと笑いそうになる。
中はカウンターだけの5席。
「いらっしゃいませ」
甘く茶色に光る立派なカウンターの奥で声をかけてくれたのは、細身のバリスタだった。
黒いスラックスに白いシャツ、深いこげ茶のベスト、品のいい蝶ネクタイ。
腰に丈の長いギャルソンエプロンをきゅっと締めているせいで、細い腰がますます強調され嫌でも目がいってしまう。
柔らかに笑うと目尻にかわいいしわができる。
自分より随分年上のはずなのに、「かわいい」と思ってしまう。
人懐っこい笑顔で迎え入れられると、心底ほっとする。
今夜は先客が誰もおらず、真ん中の席に着くと熱々のおしぼりが手渡される。
動くたびにバリスタのゆるく結んで後ろに流している長い髪が揺れる。
手を拭き終わったタイミングで、小さな手書きのメニュー表が差し出された。
ここ、カフェ ILYAは風変わりなカフェだ。
置いてあるのはコーヒーだけ。
それもブレンド。
「邪道なのはわかっているのですが、コーヒーもお茶のようにいろんなブレンドができないかと思ってやっているんです」
そう悪戯っ子のように笑いながら言ったのはカウンター内にいるバリスタのユーヤさんだった。
左胸に光るネームプレートには「YUYA」とだけあり、他の客がそう呼んでいるので俺も呼んでいる。
ここではユーヤさんが言うように、様々なコーヒーの粉をブレンドし、好きな名前をつけて出している。
仕事帰りに、ふらりとここに寄って適当なものを注文するのが俺は好きだ。
意外性のある味に驚くこともあるし、深く癒されることもある。
「ユーヤさんのお薦めで」
「そちらの方は?」
大概一人でここに来るが、今日は違う。
大学のときから付き合いがある黛《まゆずみ》に金曜日だからどうだと飲みに誘われ、つい面白いカフェがあると話してしまい、是非に連れていけとごねられたのでやってきたのだ。
この時間にILYAに来るのは初めてだ。
随分遅い時間だったが、開いていて驚いた。
「俺もお薦めでもいいですか?」
「かしこまりました」
ユーヤさんは小さくうなずくと、並んでいるコーヒーの缶に手を伸ばした。
左に座る黛が店内を見回している。
「すごいところだな。
アルコールが出てきてもよさそうな雰囲気」
「言っただろ。
安煙草なんて吸えないよ」
こんなに綺麗なバリスタがいるのならさぞかし女の子にモテて騒がれそうな店なのに、女性客がいないのはこの雰囲気にある、と俺は思っている。
重厚なドアもカウンターも高級でしっとりと落ち着いている。
店の壁紙もヨーロッパのものっぽい、深い緑に金の模様が入っている。
座っている椅子もどっしりとしてシートと背もたれの革は滑らかなこげ茶だ。
ユーヤさんの後ろにあるガラスが入った扉のついた棚もアンティーク。
収められているカップとソーサーは基本的に白で、この店のロゴが綺麗に入っている。
上のほうにはコレクションらしい深い色と金で装飾された磁器のカップとソーサーが並んでいるのもちらりと見える。
こんな雰囲気のカフェだから、きゃあきゃあとうるさい若い女の子より、オーダーメイドのスーツ、それも「三つ揃え」と古めかしく言ったほうがぴったりくるような大人の男が座っているのが似合う。
それも葉巻を薫らせ、度数の高い洋酒を飲むようにコーヒーを愛でる男が。
実のところ、三十路は過ぎたとはいえいまだに落ち着かない俺には、この店は似合っていないと思っている。
気にしてそのことを口に出したら、ユーヤさんはにこやかに「男の人はいつまでもやんちゃな男の子のまんまですよ」と言い放った。
俺はほっとはしたが、それでも気後れしてあまり人がいないのを見計らってここに来ていた。
「佐藤はよくここに来るの?」
「いや、たまにだよ。
ここに座ってぼんやりしたり、ユーヤさんとちょっとしゃべってコーヒー1杯飲んで帰る」
「なかなか優雅な時間過ごしているな」
「だから秘密にしたかったのに、黛が連れていけってうるさかったじゃないか」
「なんだよ、佐藤も自慢してたじゃん」
酔いのせいか、親しい友人といるせいかまるで学生の頃に戻ったようにくだけた話し方になる。
しばらく、そんなことを話していると白いカップとソーサーでコーヒーがサーヴされた。
「お待たせいたしました。どうぞ」
俺はカップを持ち上げ、まず香りを嗅ぐ。
深くて甘い香りだ。
まるでチョコレートみたいな。
「佐藤さんには『花散里』、黛さんには『花宴』をご用意しました」
一緒に砂糖とミルクが出てきたが、まずは何も入れずに口に含む。
苦みの中にこっくりとしたココアのような甘さがそっと忍ばせてある。
今週仕事で忙しくてぼろぼろになった俺には沁みる味だ。
いつもぼろぼろだが、今回はロクに食事もできずに参った。
会うなり黛が驚いて、飲むより食べろと飲み屋でバランスのよい料理を注文するのに、頭をひねっていた。
口の中に甘さの余韻を感じながら、俺はユーヤさんを見た。
ユーヤさんはにこっと笑った。
「佐藤さんより10コ以上は年上ですよ」と言っていたから40より上のはずだけど、そのかわいさは反則だ。
いつもユーヤさんに癒されにきているのに、このコーヒーでも癒されるだなんて。
黛がいなかったら、一対一でもっとユーヤさんと話ができていたかもしれないのに。
と、その黛が静かなのに気がついた。
うるさいほどではないが、少し大きめの声でいつも陽気に話をする黛が黙っている。
ちらりと横を見ると、一口飲んだ黛が眉間にしわを寄せ、ソーサーにカップを置いて中のコーヒーを凝視していた。
「おい、どうした?
そっちのうまい?
飲ませてよ」
いつもと違う、余りに真剣な表情の黛が怖くなって、それを壊すかのように俺は黛が答える前にあいつのカップを取り上げ、一口飲んだ。
熱っ!
驚いた。
思わずカップを落としそうになる。
なんだ、この熱さ!
コーヒー自体が熱すぎるわけではない。
俺が飲んだのと同じくらいの温度だと思う。
しかし、とても刺激的でカッと身体が熱くなる。
コーヒーがかつて媚薬として使われたってこと、あったかな?
どこかで聞きかじったおぼろな記憶を手繰るが、すべてが曖昧だった。
身体の奥の官能が呼び起こされるような、そんな熱さ。
厳しい表情をした黛がキッと顔を上げ、ユーヤさんになにか言おうとしたとき、カラコロとかわいい音がした。
ドアが開いて、一人の男が入ってきた。
まさにこの店に似合う男だった。
細い金縁の眼鏡に深い茶色の三つ揃えのスーツ、よく履き込まれ手入れされた上等な靴。
歳は60を越えているか。
中折れ帽を取ると、店の隅に置いてあるコート掛けの上に手慣れたようにひょいと置いた。
そして、俺の右側の席を一つ空けて座った。
「いらっしゃいませ」
「今日は遅くまでやっているんだね」
「ええ、お陰様で」
ユーヤさんはにこやかにおしぼりを手渡す。
白髪交じりの髪は後ろに流しているが、夜が遅いせいか帽子のせいか、少し乱れて前髪が落ちていた。
小柄なほうだが、只者ではない圧倒的な存在感に俺も黛も飲まれている。
貫禄が全然違う。
この人なら、葉巻も似合うだろう。
それなのにユーヤさんは涼しい顔で接客している。
手渡されたメニュー表を見て、男は呟いた。
「おや、今回は『源氏』?」
「ええ、ちょっとしっとりした気分だったので」
「しっとりねぇ」
男はメニュー表を眺め、意味を含めたような口調で言う。
「でも、『須磨』はあるんだ。
それにするよ」
「かしこまりました」
ユーヤさんは返されたメニュー表を受け取り、コーヒーを淹れ始めた。
男が手を組みカウンターに肘をついて、ユーヤさんを眺めている。
手首のところからシャツの袖口とカフスボタンがちらりと見える。
カフスボタンをするようなシャツ、俺持ってないぞ。
というか、カフスボタン自体持ってたかな。
じっと見過ぎたのかもしれない。
俺と黛に男がニコっと笑いかけた。
「すまなかったね、うるさかったかい?」
俺たちは首を横に振った。
「今回のコーヒーの名前が『源氏物語』の巻名だったものでね。
知っているかい、『源氏物語』?」
「学校で習ったはずですが、あまり覚えていません」
黛が答えると、男は静かにうなずいた。
「五十四帖あって、それぞれに名前がついているんだよ。
私が頼んだ『須磨』というのは、美貌の光源氏がライバル視されていた右大臣の怒りを買ったので、他に害が及ぶ前に自分から須磨に流れていくことにした話だ。
華やかな都にいたのに須磨に行ったらあまりに鄙びていて心乱れるんだけど、一人寝の寂しさを誰も満たしてくれなくてね」
男はちらりとユーヤさんを見る。
しかし、ユーヤさんは素知らぬ顔をしている。
この男、ユーヤさんとどういう関係なんだ?
俺はむっとした。
「ところで君は何を飲んでいるの?」
「え?俺ですか?
えーっと…なんでしたっけ、ユーヤさん?」
急に話を振られ慌てたのと覚えてなかったのとで、とっさにユーヤさんに聞いてみる。
「佐藤さんには『花散里』をお出ししました」
「ふうん。
花散里は源氏の恋人の一人でね、滅多にやって来ない源氏にも恨み言を一つも言わずにいつも優しく迎えてくれるんだよ。
須磨に流れていく前に、源氏は弱っていたのかな、花散里のところへその優しさに癒されに行くんだ」
ん?
癒しの姫君?
ちょっと、俺がここに来る目的がユーヤさんにバレてるの?
ユーヤさんに癒されに来てるの、バレバレなの?
ヘンな汗が出そうになって、俺は焦った。
「ちょっと疲れているみたいだね。
大丈夫なの?」
男はぐっと上半身をこっちに近づけ、腕を伸ばすと左の人差し指を曲げ、指の背で俺の頬をひとなでした。
びっくりして口をぱくぱくさせていると、「肌の調子もよくないね。食べて寝てる?友達にあまり心配かけてはいけないよ」と優しく言い、身体を戻し椅子に座り直した。
あっという間のことだった。
驚いたけど、嫌な気にはならなかった。
すごくさりげなくて、気がついたら頬をなでられ心配されていただなんて、この人の手練手管は相当なのか。
ユーヤさんがコーヒーを出し、男は涼しい顔をしてそれを飲んだ。
「君のは?」
男は今度は俺の向こうにいる黛に話しかけた。
ずっと押し黙っていた黛だが、「花宴です」と短く答えた。
そっとあいつの顔を見たが、ユーヤさんに物申しそうな思いつめた感じは薄まっていて、俺は安堵した。
「誰か好きな人、いるの?」
それがかわいらしくて、いつもそのギャップにくすりと笑いそうになる。
中はカウンターだけの5席。
「いらっしゃいませ」
甘く茶色に光る立派なカウンターの奥で声をかけてくれたのは、細身のバリスタだった。
黒いスラックスに白いシャツ、深いこげ茶のベスト、品のいい蝶ネクタイ。
腰に丈の長いギャルソンエプロンをきゅっと締めているせいで、細い腰がますます強調され嫌でも目がいってしまう。
柔らかに笑うと目尻にかわいいしわができる。
自分より随分年上のはずなのに、「かわいい」と思ってしまう。
人懐っこい笑顔で迎え入れられると、心底ほっとする。
今夜は先客が誰もおらず、真ん中の席に着くと熱々のおしぼりが手渡される。
動くたびにバリスタのゆるく結んで後ろに流している長い髪が揺れる。
手を拭き終わったタイミングで、小さな手書きのメニュー表が差し出された。
ここ、カフェ ILYAは風変わりなカフェだ。
置いてあるのはコーヒーだけ。
それもブレンド。
「邪道なのはわかっているのですが、コーヒーもお茶のようにいろんなブレンドができないかと思ってやっているんです」
そう悪戯っ子のように笑いながら言ったのはカウンター内にいるバリスタのユーヤさんだった。
左胸に光るネームプレートには「YUYA」とだけあり、他の客がそう呼んでいるので俺も呼んでいる。
ここではユーヤさんが言うように、様々なコーヒーの粉をブレンドし、好きな名前をつけて出している。
仕事帰りに、ふらりとここに寄って適当なものを注文するのが俺は好きだ。
意外性のある味に驚くこともあるし、深く癒されることもある。
「ユーヤさんのお薦めで」
「そちらの方は?」
大概一人でここに来るが、今日は違う。
大学のときから付き合いがある黛《まゆずみ》に金曜日だからどうだと飲みに誘われ、つい面白いカフェがあると話してしまい、是非に連れていけとごねられたのでやってきたのだ。
この時間にILYAに来るのは初めてだ。
随分遅い時間だったが、開いていて驚いた。
「俺もお薦めでもいいですか?」
「かしこまりました」
ユーヤさんは小さくうなずくと、並んでいるコーヒーの缶に手を伸ばした。
左に座る黛が店内を見回している。
「すごいところだな。
アルコールが出てきてもよさそうな雰囲気」
「言っただろ。
安煙草なんて吸えないよ」
こんなに綺麗なバリスタがいるのならさぞかし女の子にモテて騒がれそうな店なのに、女性客がいないのはこの雰囲気にある、と俺は思っている。
重厚なドアもカウンターも高級でしっとりと落ち着いている。
店の壁紙もヨーロッパのものっぽい、深い緑に金の模様が入っている。
座っている椅子もどっしりとしてシートと背もたれの革は滑らかなこげ茶だ。
ユーヤさんの後ろにあるガラスが入った扉のついた棚もアンティーク。
収められているカップとソーサーは基本的に白で、この店のロゴが綺麗に入っている。
上のほうにはコレクションらしい深い色と金で装飾された磁器のカップとソーサーが並んでいるのもちらりと見える。
こんな雰囲気のカフェだから、きゃあきゃあとうるさい若い女の子より、オーダーメイドのスーツ、それも「三つ揃え」と古めかしく言ったほうがぴったりくるような大人の男が座っているのが似合う。
それも葉巻を薫らせ、度数の高い洋酒を飲むようにコーヒーを愛でる男が。
実のところ、三十路は過ぎたとはいえいまだに落ち着かない俺には、この店は似合っていないと思っている。
気にしてそのことを口に出したら、ユーヤさんはにこやかに「男の人はいつまでもやんちゃな男の子のまんまですよ」と言い放った。
俺はほっとはしたが、それでも気後れしてあまり人がいないのを見計らってここに来ていた。
「佐藤はよくここに来るの?」
「いや、たまにだよ。
ここに座ってぼんやりしたり、ユーヤさんとちょっとしゃべってコーヒー1杯飲んで帰る」
「なかなか優雅な時間過ごしているな」
「だから秘密にしたかったのに、黛が連れていけってうるさかったじゃないか」
「なんだよ、佐藤も自慢してたじゃん」
酔いのせいか、親しい友人といるせいかまるで学生の頃に戻ったようにくだけた話し方になる。
しばらく、そんなことを話していると白いカップとソーサーでコーヒーがサーヴされた。
「お待たせいたしました。どうぞ」
俺はカップを持ち上げ、まず香りを嗅ぐ。
深くて甘い香りだ。
まるでチョコレートみたいな。
「佐藤さんには『花散里』、黛さんには『花宴』をご用意しました」
一緒に砂糖とミルクが出てきたが、まずは何も入れずに口に含む。
苦みの中にこっくりとしたココアのような甘さがそっと忍ばせてある。
今週仕事で忙しくてぼろぼろになった俺には沁みる味だ。
いつもぼろぼろだが、今回はロクに食事もできずに参った。
会うなり黛が驚いて、飲むより食べろと飲み屋でバランスのよい料理を注文するのに、頭をひねっていた。
口の中に甘さの余韻を感じながら、俺はユーヤさんを見た。
ユーヤさんはにこっと笑った。
「佐藤さんより10コ以上は年上ですよ」と言っていたから40より上のはずだけど、そのかわいさは反則だ。
いつもユーヤさんに癒されにきているのに、このコーヒーでも癒されるだなんて。
黛がいなかったら、一対一でもっとユーヤさんと話ができていたかもしれないのに。
と、その黛が静かなのに気がついた。
うるさいほどではないが、少し大きめの声でいつも陽気に話をする黛が黙っている。
ちらりと横を見ると、一口飲んだ黛が眉間にしわを寄せ、ソーサーにカップを置いて中のコーヒーを凝視していた。
「おい、どうした?
そっちのうまい?
飲ませてよ」
いつもと違う、余りに真剣な表情の黛が怖くなって、それを壊すかのように俺は黛が答える前にあいつのカップを取り上げ、一口飲んだ。
熱っ!
驚いた。
思わずカップを落としそうになる。
なんだ、この熱さ!
コーヒー自体が熱すぎるわけではない。
俺が飲んだのと同じくらいの温度だと思う。
しかし、とても刺激的でカッと身体が熱くなる。
コーヒーがかつて媚薬として使われたってこと、あったかな?
どこかで聞きかじったおぼろな記憶を手繰るが、すべてが曖昧だった。
身体の奥の官能が呼び起こされるような、そんな熱さ。
厳しい表情をした黛がキッと顔を上げ、ユーヤさんになにか言おうとしたとき、カラコロとかわいい音がした。
ドアが開いて、一人の男が入ってきた。
まさにこの店に似合う男だった。
細い金縁の眼鏡に深い茶色の三つ揃えのスーツ、よく履き込まれ手入れされた上等な靴。
歳は60を越えているか。
中折れ帽を取ると、店の隅に置いてあるコート掛けの上に手慣れたようにひょいと置いた。
そして、俺の右側の席を一つ空けて座った。
「いらっしゃいませ」
「今日は遅くまでやっているんだね」
「ええ、お陰様で」
ユーヤさんはにこやかにおしぼりを手渡す。
白髪交じりの髪は後ろに流しているが、夜が遅いせいか帽子のせいか、少し乱れて前髪が落ちていた。
小柄なほうだが、只者ではない圧倒的な存在感に俺も黛も飲まれている。
貫禄が全然違う。
この人なら、葉巻も似合うだろう。
それなのにユーヤさんは涼しい顔で接客している。
手渡されたメニュー表を見て、男は呟いた。
「おや、今回は『源氏』?」
「ええ、ちょっとしっとりした気分だったので」
「しっとりねぇ」
男はメニュー表を眺め、意味を含めたような口調で言う。
「でも、『須磨』はあるんだ。
それにするよ」
「かしこまりました」
ユーヤさんは返されたメニュー表を受け取り、コーヒーを淹れ始めた。
男が手を組みカウンターに肘をついて、ユーヤさんを眺めている。
手首のところからシャツの袖口とカフスボタンがちらりと見える。
カフスボタンをするようなシャツ、俺持ってないぞ。
というか、カフスボタン自体持ってたかな。
じっと見過ぎたのかもしれない。
俺と黛に男がニコっと笑いかけた。
「すまなかったね、うるさかったかい?」
俺たちは首を横に振った。
「今回のコーヒーの名前が『源氏物語』の巻名だったものでね。
知っているかい、『源氏物語』?」
「学校で習ったはずですが、あまり覚えていません」
黛が答えると、男は静かにうなずいた。
「五十四帖あって、それぞれに名前がついているんだよ。
私が頼んだ『須磨』というのは、美貌の光源氏がライバル視されていた右大臣の怒りを買ったので、他に害が及ぶ前に自分から須磨に流れていくことにした話だ。
華やかな都にいたのに須磨に行ったらあまりに鄙びていて心乱れるんだけど、一人寝の寂しさを誰も満たしてくれなくてね」
男はちらりとユーヤさんを見る。
しかし、ユーヤさんは素知らぬ顔をしている。
この男、ユーヤさんとどういう関係なんだ?
俺はむっとした。
「ところで君は何を飲んでいるの?」
「え?俺ですか?
えーっと…なんでしたっけ、ユーヤさん?」
急に話を振られ慌てたのと覚えてなかったのとで、とっさにユーヤさんに聞いてみる。
「佐藤さんには『花散里』をお出ししました」
「ふうん。
花散里は源氏の恋人の一人でね、滅多にやって来ない源氏にも恨み言を一つも言わずにいつも優しく迎えてくれるんだよ。
須磨に流れていく前に、源氏は弱っていたのかな、花散里のところへその優しさに癒されに行くんだ」
ん?
癒しの姫君?
ちょっと、俺がここに来る目的がユーヤさんにバレてるの?
ユーヤさんに癒されに来てるの、バレバレなの?
ヘンな汗が出そうになって、俺は焦った。
「ちょっと疲れているみたいだね。
大丈夫なの?」
男はぐっと上半身をこっちに近づけ、腕を伸ばすと左の人差し指を曲げ、指の背で俺の頬をひとなでした。
びっくりして口をぱくぱくさせていると、「肌の調子もよくないね。食べて寝てる?友達にあまり心配かけてはいけないよ」と優しく言い、身体を戻し椅子に座り直した。
あっという間のことだった。
驚いたけど、嫌な気にはならなかった。
すごくさりげなくて、気がついたら頬をなでられ心配されていただなんて、この人の手練手管は相当なのか。
ユーヤさんがコーヒーを出し、男は涼しい顔をしてそれを飲んだ。
「君のは?」
男は今度は俺の向こうにいる黛に話しかけた。
ずっと押し黙っていた黛だが、「花宴です」と短く答えた。
そっとあいつの顔を見たが、ユーヤさんに物申しそうな思いつめた感じは薄まっていて、俺は安堵した。
「誰か好きな人、いるの?」
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