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星の下で
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世界そのものには本来名前などない。否、名前など必要ない。そこに存在しているということに意味があるのだ。
無秩序に散らばった星たちに、勝手気ままに名前をつけたのは人類であった。彼らは自分たちの星を無節操に汚染した後、広大な宇宙へと環境破壊の四文字を掲げて本格的に進出しだしたのが半世紀前のことだった。
今では当たり前となった汎用宇宙船は月や火星へと進路を向けてかわり映えのない星空の中を飛び続けている。はじめは煌々と輝き続ける星たちに感嘆の声を上げていた乗務員達も、二年という全行程の二四分の一、つまりは一月も経たないうちに飽きてしまい。今では誰も星達に目を向ける者はいなかった。
故郷の星を出発してから半年、それだけの時間がたてば宇宙は既に何の感慨も呼び起こさなかった。よって時々熱心そうに窓に見入っている者はよほどすることがないか、かなり星が好きなのかのどちらかだった。
そして、今一人の女性が窓の前に立ち星に見入っている。
「田中少尉、いったいどうしたんです?」
少尉と呼ばれた女性はどこか悲しげな表情で、声をかけた主へと振り返る。女性の名は田中美穂、現在二六才。この第三七火星部隊の環境調査隊の指揮官としてこの船に乗り込んでいる。
「……佐藤大佐」
「おっと、私の前では勤務以外の時に敬礼はいらないと言ったはずだよ」
「あっ、申し訳ありません」
佐藤と呼ばれたのは初老の男だった。そろそろ白いものの混じり始めた髪をうっとおしそうに撫でつけながら彼女の横まで歩み寄る。彼女は厳つい顔の大佐を嫌いではなかった。気さくで隊員達の誰からも好かれている。この二年かかる行程を限られた船内で過ごすのだ。人間関係でこじれ、嫌な思いをするのは彼女の望むところではない。だからだろう。佐藤は勤務以外での上下関係制度を廃止したのだ。反対の声も少なからず上がったが、礼とは強制されるものではないという佐藤の意見に推され、この案は採用されることになった。
「だいたい礼ってものはその人が立派だったら自然に行われるものじゃないか、人としての最低限のマナーだよ。それが強制でしかできない奴は俺の船には要らないね」
それが佐藤大佐の言葉である。彼はだから部下達に慕われていた。
美穂はそんな気さくな彼の性格に引かれていた。
「ところで……彼の調子はどうだ?」
まるでいたずらを企む子供のような顔で佐藤大佐はわざと声を落とす。その声に反応してか美穂の顔にさっと朱の色が走った。
「べ、別に……いつもの調子で大丈夫ですわ」
「そうか、毎日見回っているだけのことはあるな……」
「………!」
田中少尉は絶句したままにやにやと笑う上司の顔を睨つけた。
「おっと、図星のようだね。そんな簡単に表情を顔に出すようじゃまだまだ未熟だよ」
美穂はようやく自分が相手の策略にはまったことを悟る。
「いじわるなこと言わないで下さい!」
美穂の言葉に佐藤大佐はおどけ顔のまま彼女の顔を見つめる。
「あと少しの辛抱だ。そうすれば彼と話をすることができる」
佐藤大佐の言葉に美穂は何も言わなかった。
「分かっています」
短く応え、美穂はさっと敬礼をする。
「佐藤大佐、御助力感謝いたします」
「うむ、君もしっかりな」
真面目くさった顔で佐藤が応えた。
そして。
衝撃が二人の体を浮き上がらせたのは次の瞬間であった。
一瞬耳が聞こえなくなってしまったのではないかと思わせるほどの轟音が響く。耳を押さえたくとも激しい揺れるせいで立っているのがやっとという状況であった。ついに美穂が倒れ込む。
肩を強打し少尉は悲鳴を上げた。
「少尉!」
美穂の体を支えながら佐藤が叫ぶ。その時既に彼の顔は軍人としての威厳を備えつけた男のそれにきり変わっている。そんな彼の顔を惚けたように見つめていた美穂だが、事の状況を瞬時に悟り佐藤の手を借りて立ち上がる。それを確認する間もなく佐藤大佐はブリッジに向かって走り出す。
美穂も佐藤大佐の後を追う。
振動が止まない。
小規模で小刻みな振動、船内のどこかが損傷し爆発しているのだ。警報と警告ランプが点滅している。隊員達の動揺を抑えるため、どちらも控えめに設定されているがそれでも、安穏としていた隊員達にいつもの厳しさを取り戻させるには十分な効果を持っていた。
二人がブリッジに到着すると、それを待っていたかのような隊員達の安堵の表情が見て取れた。それを目線だけで確認しながら佐藤大佐が声を張り上げる。
「現在の状況は?」
いったい何が起こったかということを聞きたいという衝動もあったが、今切実に必要なことは原因ではなく結果だった。そして、彼は結果をもとにしてこれから先の更なる予測と対策を講じなければならない。
「ロケットの破片です、第七エンジンに激突。エンジンは大破、その衝撃で第三、六、八エネルギー部が損傷。今分かっているのは以上です」
「よし、お前たちは情報収集を続けろ。望月中尉、動ける者達を使って破損部を点検、報告しろ」
「了解」
佐藤大佐のてきぱきとした声に隊員達が一斉に動き出す。今動きだした二十名、それが現在彼が指揮できる人間達だった。この船には四百名近い人間達が乗り込んでいる。火星に行き、環境調査と開拓事業を行う技術者達だ。だが、彼らは決してこの状況かでも動くことはない。動きたくとも動くことすら、否、逃げることさえできないのだ。
ここにいる二十名を除いた全員は今、冷凍保存された状態にあった。
冷凍といっても完全に凍らせているのではない。いわば冬眠に近い状態で保存しているのだ。
「それと田中少尉……君は医務室に行きたまえ、それが今の君の仕事だ」
少尉は何も言わず頷く。彼がそう言うからには今自分の仕事はそうなんだろうと思った。
しばらくしてから結果報告が佐藤大佐の元に届いた。
これからの対策を練るために隔離された部屋に幹部達が集まっている。
だが、実際この部屋の中にいるのは望月中尉と佐藤大佐、そして田中少尉の三人だけだ。
沈痛な面持ちのまま佐藤大佐はさっさと自分達の直面している用件に入った。そんなときの大佐はほとんど前置きなしに語り出すのだが、今回だけは少し違った。
「田中少尉……君は、悪い結果と最悪の予想。どっちを先に聞きたいかね?」
田中少尉は何となく視線を望月中尉へと向けた。三十代前半の女性は少尉の視線をさっと受け流す。どうやら自分で考えろということらしい。できることならどちらも御免被りたいが、そうも言っていられない。美穂は決心したように「大佐の好きなように」と言った。
「まず、悪い結果からだ」
大佐は手元に置かれている紙に目を通す。既に暗記されている事柄にわざわざ目を通して読むのは、彼が慎重に事に当たっているという証拠だった。
「今から一時間前、おそらくは先に火星に向かった調査団のものと思われるロケットの破片が、本船の第七エンジンを直撃した」
今にも頭を抱えそうな沈痛な声だった。宇宙での物体との接触は即死を意味する。それがたとえ小さな破片であっても秒速数百キロメートルの速度でぶつかれば、そのエネルギーはぶつけた物質とぶつかった物質とに平等に分配されることになる。たとえそれが数センチの金属片だったとしても、当たりどころが悪ければそれだけで船が沈むのだ。宇宙で船が沈むということはすなわち死を意味していた。
「幸運だったのはエンジンが稼働していなかったこと。安全装置が働いて第七エンジンが速やかに分離され、船が爆発に巻き込まれなかったこと……そして」
大佐は言葉を止め美穂の瞳をのぞき込んだ。
「不幸だったのは三つのエネルギー部を破壊したことだ。おかげで修理が完了するまでの七二時間、この船は何もすることができない。生命維持に全てのエネルギーを使うからな。そして、爆発の衝撃で補助ブースターが故障してしまった。全ての点検・修復が終わるまでおそらく十二時間……その間船は軌道修正することはできない」
「冬眠している人たちは?」
「大丈夫だ……今のところは……」
佐藤大佐の意味ありげな言葉に美穂はひやりとしたものを背筋に感じた。
「さて、最悪の予想を話す前に、一つだけ確認しておきたいことがある」
「何でしょう?」
佐藤大佐が美穂の瞳を、正確にはその奥を鋭く見据えた。
美穂に緊張が走る。
「君は、人を殺すことができるか?」
突然の衝撃的な発言に美穂は言葉を失った。
それにはどう答えていいのか分からない。大佐がこんなときに自分を試しているとは到底思えなかった。
「でき……ないと思います。でも、大事な人を守るためでしたらやるかもしれません」
「そうか……」
大佐は背もたれに体を預けるようにして深々と座りなおす。
「さっき、レーダー係の菊池君から連絡が入った」
大佐の目がひたと美穂を見つめる。美穂は目をそらしたかったがそれはかなわなかった。まるで魔力に取りつかれたようにして彼女の目は大佐から離れない。
「現在、全長三メートルほどの物体が接近中だ。それがいったい何なのか我々には分からない。ロケットの破片であるかも知れないし隕石であるかもしれない……ただ分かっていることは、確実に二時間後、我々の船とその物体とが接触しなければならないということだ」
宇宙船は全長二百メートル、レーダーで確認できたということはかなり接触の危険性があるということだ。
「確率は87パーセント、何とも言い難い数字だ」
もしかしたら外れるかもしれないという楽観的な予想だけで四百名の命を危険にさらすことなどできない。
大佐の言葉に美穂は絶壁から突き飛ばされたような衝撃を受けた。足元がぐらつきそのまま気絶してしまいたい衝動にかられる。
「我々は今最大の危機に直面している……」
「回避する方法はないのですか?」
佐藤大佐に美穂は問う。あらかじめそれを予想していたのだろう。美穂の隣に座っていた望月中尉が悲しげに目を伏せ口を開く。
「一つだけ……その方法があるわ」
「どんな方法です?」
真摯な美穂の瞳を見つめ、望月中尉は哀憐の目で見つめ返す。そっと美穂の肩に手をおいてゆっくりとした口調で一言呟くように、それでも望月中尉の声はっきりと美穂の耳に届いた。
「第三十二凍零区画を閉鎖するのです」
美穂の目が驚愕と恐怖に大きく見開かれる。
それは美穂が毎日のように通っている場所。彼女の恋人がいる場所だった。
「そ、そんな……」
美穂は立ち上がり言葉を飲み込んだ。
「他に方法はない……第三十二凍零区画は保存されている人間が少ない。その区画を閉鎖してしまえば、余分なエネルギーをレーザー砲に回すことができる。責任は全て私が取る。だから君たち二人で判断を下して欲しい」
美穂は何も言えないまま立ちつくす。
「一時でも冷凍保存されている人たちの生命維持装置を止めたらどうなるんですか?」
無駄と分かりつつも美穂は聞いてみる。答えは既に分かっていた。それでも一片の希望を捨て去ることができない。
「一時とはいえエネルギーを切るんだ。君は十分間息を止めていられる事ができるかね? それと同じことだ。エネルギーをレーザー砲に回し起動するまでに最低三十分はかかる。つまり君たちに与えられた時間は一時間半だ……その間に結論を出したまえ。私は強制はしない」
その声はまさに死刑宣告だった。
宇宙を漂う宇宙船。側面の一部が破壊され、見ためにもその機能が欠損していることが伺われた。
どこか他人事のように美穂はその言葉を聞いていた。
ふらりふらりと二人の前を退出したのは覚えている。それから後はほとんど覚えていない。気がついたときにはどこをどう通ってきたのか、美穂は第三十二凍零区画で座り込んでいた。
頭は何も考えていない。
ただ彼女の瞳だけが、目の前に並ぶ二十三本の銀の無気質な筒を眺めていた。
(……いや、これはただの金属の筒じゃない)
ぼんやりとそう思う。ここには人間が入っている。生きた人間が。二十三という数字はただの数じゃない。一つ一つに自分と同じような想いがあって、家族がいて、恋人がいる……一人一人の人間の数なのだ。
「私は、いったいどうすればいいのよ」
うなだれたまま床に手をつく。ひんやりとした床の冷たさが手に伝わってくる。凍零区画内に空調はない。そのためか美穂の吐く息は白く、美穂は微かに震えていた。それが寒さのためだけではないことは美穂が一番よく知っていた。
人の命の重さ。四百の命を救うために二十三の命を犠牲にする。
自分が今何をすべきなのか、美穂はよく分かっていた。
「やっぱりここにいたのね」
ぴくりと肩を震わせ、美穂は顔を上げる。
彼女の目の前には腕を組んだ望月中尉が、どこか寂しそうな表情で立っていた。
「中尉……」
それ以上は言葉が出てこない。美穂の口から嗚咽が漏れる。
望月中尉は美穂の肩にそっと手をおいて、その横に腰を下ろした。
「私たちがどうすればいいのか、あなたには分かっているはずよ。他に選択肢はないわ」
望月中尉の冷淡な口調に美穂は頷いた。
「今ここでスイッチを切らなければ、私たちを含めて四百もの命が失われる。全員が助からないのよ」
美穂は頷く。否、頷くことしかできなかった。
何が正しくて、何が間違っているのか、美穂には十分に分かっているつもりであった。しかし、理屈では理解できても感情がついていかない。
室内に警報が鳴り響いた。
美穂は自然と時計に目をやる。
タイムリミットは後二十分……その間に全てを決断しなければならなかった。
「望月中尉、あなたがスイッチを押して下さい。私にはできません」
「それでいいの? あなたは後悔しない?」
望月中尉が美穂の瞳を覗き込む。真っ黒な瞳。
美穂は何も言うことができず。また頷くこともできなかった。
「あのね……これは佐藤大佐から口どめされていたことなんだけど……」
小さく息を吐いてから、言葉を継ぐ。
「この第三十二凍零区画には佐藤大佐の娘さんも収納されているわ」
美穂は驚いたように目を見開いた。
「辛いのはあなただけじゃない。大切な人を失う気持ちは誰だって同じなのよ」
全身を震わせる美穂。望月中尉は美穂を立たせ冷凍保存のコントロールパネルを開いた。
パスワードを入力すると主電源のコントロール場面が現れる。
「時間はあと五分しかない。五分後には私がこのスイッチを押します……もし、あなたがその気になったら、あなたの手でこのスイッチを押して」
美穂は頷いた。
もう心は決まっていた。ゆっくりとした足取りでコントロールパネルの前に立つ。
ピッ。
無機質な音が響いた。それはあまりにも短く、そして冷たい響きだった。
暗黒の宇宙を漂う宇宙船。その宇宙船から一筋の光が放たれた。 それは宇宙船に接近していた物体を粉砕。宇宙の塵に変えていく。
美穂はそれを宇宙船のコントロールルームから茫然と眺めていた。
「君の決断は正しかったんだよ」
コンピューターグラフィックで表示される粉砕された物体の映像を何とも言えない表情で眺めながら佐藤大佐は美穂の肩に手を置いて呟いた。
美穂は唇をかみ締めたまま頷く。
自分は正しいことをした。それは分かっていても、流れ落ちる涙だけはどうすることもできなかった。
無秩序に散らばった星たちに、勝手気ままに名前をつけたのは人類であった。彼らは自分たちの星を無節操に汚染した後、広大な宇宙へと環境破壊の四文字を掲げて本格的に進出しだしたのが半世紀前のことだった。
今では当たり前となった汎用宇宙船は月や火星へと進路を向けてかわり映えのない星空の中を飛び続けている。はじめは煌々と輝き続ける星たちに感嘆の声を上げていた乗務員達も、二年という全行程の二四分の一、つまりは一月も経たないうちに飽きてしまい。今では誰も星達に目を向ける者はいなかった。
故郷の星を出発してから半年、それだけの時間がたてば宇宙は既に何の感慨も呼び起こさなかった。よって時々熱心そうに窓に見入っている者はよほどすることがないか、かなり星が好きなのかのどちらかだった。
そして、今一人の女性が窓の前に立ち星に見入っている。
「田中少尉、いったいどうしたんです?」
少尉と呼ばれた女性はどこか悲しげな表情で、声をかけた主へと振り返る。女性の名は田中美穂、現在二六才。この第三七火星部隊の環境調査隊の指揮官としてこの船に乗り込んでいる。
「……佐藤大佐」
「おっと、私の前では勤務以外の時に敬礼はいらないと言ったはずだよ」
「あっ、申し訳ありません」
佐藤と呼ばれたのは初老の男だった。そろそろ白いものの混じり始めた髪をうっとおしそうに撫でつけながら彼女の横まで歩み寄る。彼女は厳つい顔の大佐を嫌いではなかった。気さくで隊員達の誰からも好かれている。この二年かかる行程を限られた船内で過ごすのだ。人間関係でこじれ、嫌な思いをするのは彼女の望むところではない。だからだろう。佐藤は勤務以外での上下関係制度を廃止したのだ。反対の声も少なからず上がったが、礼とは強制されるものではないという佐藤の意見に推され、この案は採用されることになった。
「だいたい礼ってものはその人が立派だったら自然に行われるものじゃないか、人としての最低限のマナーだよ。それが強制でしかできない奴は俺の船には要らないね」
それが佐藤大佐の言葉である。彼はだから部下達に慕われていた。
美穂はそんな気さくな彼の性格に引かれていた。
「ところで……彼の調子はどうだ?」
まるでいたずらを企む子供のような顔で佐藤大佐はわざと声を落とす。その声に反応してか美穂の顔にさっと朱の色が走った。
「べ、別に……いつもの調子で大丈夫ですわ」
「そうか、毎日見回っているだけのことはあるな……」
「………!」
田中少尉は絶句したままにやにやと笑う上司の顔を睨つけた。
「おっと、図星のようだね。そんな簡単に表情を顔に出すようじゃまだまだ未熟だよ」
美穂はようやく自分が相手の策略にはまったことを悟る。
「いじわるなこと言わないで下さい!」
美穂の言葉に佐藤大佐はおどけ顔のまま彼女の顔を見つめる。
「あと少しの辛抱だ。そうすれば彼と話をすることができる」
佐藤大佐の言葉に美穂は何も言わなかった。
「分かっています」
短く応え、美穂はさっと敬礼をする。
「佐藤大佐、御助力感謝いたします」
「うむ、君もしっかりな」
真面目くさった顔で佐藤が応えた。
そして。
衝撃が二人の体を浮き上がらせたのは次の瞬間であった。
一瞬耳が聞こえなくなってしまったのではないかと思わせるほどの轟音が響く。耳を押さえたくとも激しい揺れるせいで立っているのがやっとという状況であった。ついに美穂が倒れ込む。
肩を強打し少尉は悲鳴を上げた。
「少尉!」
美穂の体を支えながら佐藤が叫ぶ。その時既に彼の顔は軍人としての威厳を備えつけた男のそれにきり変わっている。そんな彼の顔を惚けたように見つめていた美穂だが、事の状況を瞬時に悟り佐藤の手を借りて立ち上がる。それを確認する間もなく佐藤大佐はブリッジに向かって走り出す。
美穂も佐藤大佐の後を追う。
振動が止まない。
小規模で小刻みな振動、船内のどこかが損傷し爆発しているのだ。警報と警告ランプが点滅している。隊員達の動揺を抑えるため、どちらも控えめに設定されているがそれでも、安穏としていた隊員達にいつもの厳しさを取り戻させるには十分な効果を持っていた。
二人がブリッジに到着すると、それを待っていたかのような隊員達の安堵の表情が見て取れた。それを目線だけで確認しながら佐藤大佐が声を張り上げる。
「現在の状況は?」
いったい何が起こったかということを聞きたいという衝動もあったが、今切実に必要なことは原因ではなく結果だった。そして、彼は結果をもとにしてこれから先の更なる予測と対策を講じなければならない。
「ロケットの破片です、第七エンジンに激突。エンジンは大破、その衝撃で第三、六、八エネルギー部が損傷。今分かっているのは以上です」
「よし、お前たちは情報収集を続けろ。望月中尉、動ける者達を使って破損部を点検、報告しろ」
「了解」
佐藤大佐のてきぱきとした声に隊員達が一斉に動き出す。今動きだした二十名、それが現在彼が指揮できる人間達だった。この船には四百名近い人間達が乗り込んでいる。火星に行き、環境調査と開拓事業を行う技術者達だ。だが、彼らは決してこの状況かでも動くことはない。動きたくとも動くことすら、否、逃げることさえできないのだ。
ここにいる二十名を除いた全員は今、冷凍保存された状態にあった。
冷凍といっても完全に凍らせているのではない。いわば冬眠に近い状態で保存しているのだ。
「それと田中少尉……君は医務室に行きたまえ、それが今の君の仕事だ」
少尉は何も言わず頷く。彼がそう言うからには今自分の仕事はそうなんだろうと思った。
しばらくしてから結果報告が佐藤大佐の元に届いた。
これからの対策を練るために隔離された部屋に幹部達が集まっている。
だが、実際この部屋の中にいるのは望月中尉と佐藤大佐、そして田中少尉の三人だけだ。
沈痛な面持ちのまま佐藤大佐はさっさと自分達の直面している用件に入った。そんなときの大佐はほとんど前置きなしに語り出すのだが、今回だけは少し違った。
「田中少尉……君は、悪い結果と最悪の予想。どっちを先に聞きたいかね?」
田中少尉は何となく視線を望月中尉へと向けた。三十代前半の女性は少尉の視線をさっと受け流す。どうやら自分で考えろということらしい。できることならどちらも御免被りたいが、そうも言っていられない。美穂は決心したように「大佐の好きなように」と言った。
「まず、悪い結果からだ」
大佐は手元に置かれている紙に目を通す。既に暗記されている事柄にわざわざ目を通して読むのは、彼が慎重に事に当たっているという証拠だった。
「今から一時間前、おそらくは先に火星に向かった調査団のものと思われるロケットの破片が、本船の第七エンジンを直撃した」
今にも頭を抱えそうな沈痛な声だった。宇宙での物体との接触は即死を意味する。それがたとえ小さな破片であっても秒速数百キロメートルの速度でぶつかれば、そのエネルギーはぶつけた物質とぶつかった物質とに平等に分配されることになる。たとえそれが数センチの金属片だったとしても、当たりどころが悪ければそれだけで船が沈むのだ。宇宙で船が沈むということはすなわち死を意味していた。
「幸運だったのはエンジンが稼働していなかったこと。安全装置が働いて第七エンジンが速やかに分離され、船が爆発に巻き込まれなかったこと……そして」
大佐は言葉を止め美穂の瞳をのぞき込んだ。
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「冬眠している人たちは?」
「大丈夫だ……今のところは……」
佐藤大佐の意味ありげな言葉に美穂はひやりとしたものを背筋に感じた。
「さて、最悪の予想を話す前に、一つだけ確認しておきたいことがある」
「何でしょう?」
佐藤大佐が美穂の瞳を、正確にはその奥を鋭く見据えた。
美穂に緊張が走る。
「君は、人を殺すことができるか?」
突然の衝撃的な発言に美穂は言葉を失った。
それにはどう答えていいのか分からない。大佐がこんなときに自分を試しているとは到底思えなかった。
「でき……ないと思います。でも、大事な人を守るためでしたらやるかもしれません」
「そうか……」
大佐は背もたれに体を預けるようにして深々と座りなおす。
「さっき、レーダー係の菊池君から連絡が入った」
大佐の目がひたと美穂を見つめる。美穂は目をそらしたかったがそれはかなわなかった。まるで魔力に取りつかれたようにして彼女の目は大佐から離れない。
「現在、全長三メートルほどの物体が接近中だ。それがいったい何なのか我々には分からない。ロケットの破片であるかも知れないし隕石であるかもしれない……ただ分かっていることは、確実に二時間後、我々の船とその物体とが接触しなければならないということだ」
宇宙船は全長二百メートル、レーダーで確認できたということはかなり接触の危険性があるということだ。
「確率は87パーセント、何とも言い難い数字だ」
もしかしたら外れるかもしれないという楽観的な予想だけで四百名の命を危険にさらすことなどできない。
大佐の言葉に美穂は絶壁から突き飛ばされたような衝撃を受けた。足元がぐらつきそのまま気絶してしまいたい衝動にかられる。
「我々は今最大の危機に直面している……」
「回避する方法はないのですか?」
佐藤大佐に美穂は問う。あらかじめそれを予想していたのだろう。美穂の隣に座っていた望月中尉が悲しげに目を伏せ口を開く。
「一つだけ……その方法があるわ」
「どんな方法です?」
真摯な美穂の瞳を見つめ、望月中尉は哀憐の目で見つめ返す。そっと美穂の肩に手をおいてゆっくりとした口調で一言呟くように、それでも望月中尉の声はっきりと美穂の耳に届いた。
「第三十二凍零区画を閉鎖するのです」
美穂の目が驚愕と恐怖に大きく見開かれる。
それは美穂が毎日のように通っている場所。彼女の恋人がいる場所だった。
「そ、そんな……」
美穂は立ち上がり言葉を飲み込んだ。
「他に方法はない……第三十二凍零区画は保存されている人間が少ない。その区画を閉鎖してしまえば、余分なエネルギーをレーザー砲に回すことができる。責任は全て私が取る。だから君たち二人で判断を下して欲しい」
美穂は何も言えないまま立ちつくす。
「一時でも冷凍保存されている人たちの生命維持装置を止めたらどうなるんですか?」
無駄と分かりつつも美穂は聞いてみる。答えは既に分かっていた。それでも一片の希望を捨て去ることができない。
「一時とはいえエネルギーを切るんだ。君は十分間息を止めていられる事ができるかね? それと同じことだ。エネルギーをレーザー砲に回し起動するまでに最低三十分はかかる。つまり君たちに与えられた時間は一時間半だ……その間に結論を出したまえ。私は強制はしない」
その声はまさに死刑宣告だった。
宇宙を漂う宇宙船。側面の一部が破壊され、見ためにもその機能が欠損していることが伺われた。
どこか他人事のように美穂はその言葉を聞いていた。
ふらりふらりと二人の前を退出したのは覚えている。それから後はほとんど覚えていない。気がついたときにはどこをどう通ってきたのか、美穂は第三十二凍零区画で座り込んでいた。
頭は何も考えていない。
ただ彼女の瞳だけが、目の前に並ぶ二十三本の銀の無気質な筒を眺めていた。
(……いや、これはただの金属の筒じゃない)
ぼんやりとそう思う。ここには人間が入っている。生きた人間が。二十三という数字はただの数じゃない。一つ一つに自分と同じような想いがあって、家族がいて、恋人がいる……一人一人の人間の数なのだ。
「私は、いったいどうすればいいのよ」
うなだれたまま床に手をつく。ひんやりとした床の冷たさが手に伝わってくる。凍零区画内に空調はない。そのためか美穂の吐く息は白く、美穂は微かに震えていた。それが寒さのためだけではないことは美穂が一番よく知っていた。
人の命の重さ。四百の命を救うために二十三の命を犠牲にする。
自分が今何をすべきなのか、美穂はよく分かっていた。
「やっぱりここにいたのね」
ぴくりと肩を震わせ、美穂は顔を上げる。
彼女の目の前には腕を組んだ望月中尉が、どこか寂しそうな表情で立っていた。
「中尉……」
それ以上は言葉が出てこない。美穂の口から嗚咽が漏れる。
望月中尉は美穂の肩にそっと手をおいて、その横に腰を下ろした。
「私たちがどうすればいいのか、あなたには分かっているはずよ。他に選択肢はないわ」
望月中尉の冷淡な口調に美穂は頷いた。
「今ここでスイッチを切らなければ、私たちを含めて四百もの命が失われる。全員が助からないのよ」
美穂は頷く。否、頷くことしかできなかった。
何が正しくて、何が間違っているのか、美穂には十分に分かっているつもりであった。しかし、理屈では理解できても感情がついていかない。
室内に警報が鳴り響いた。
美穂は自然と時計に目をやる。
タイムリミットは後二十分……その間に全てを決断しなければならなかった。
「望月中尉、あなたがスイッチを押して下さい。私にはできません」
「それでいいの? あなたは後悔しない?」
望月中尉が美穂の瞳を覗き込む。真っ黒な瞳。
美穂は何も言うことができず。また頷くこともできなかった。
「あのね……これは佐藤大佐から口どめされていたことなんだけど……」
小さく息を吐いてから、言葉を継ぐ。
「この第三十二凍零区画には佐藤大佐の娘さんも収納されているわ」
美穂は驚いたように目を見開いた。
「辛いのはあなただけじゃない。大切な人を失う気持ちは誰だって同じなのよ」
全身を震わせる美穂。望月中尉は美穂を立たせ冷凍保存のコントロールパネルを開いた。
パスワードを入力すると主電源のコントロール場面が現れる。
「時間はあと五分しかない。五分後には私がこのスイッチを押します……もし、あなたがその気になったら、あなたの手でこのスイッチを押して」
美穂は頷いた。
もう心は決まっていた。ゆっくりとした足取りでコントロールパネルの前に立つ。
ピッ。
無機質な音が響いた。それはあまりにも短く、そして冷たい響きだった。
暗黒の宇宙を漂う宇宙船。その宇宙船から一筋の光が放たれた。 それは宇宙船に接近していた物体を粉砕。宇宙の塵に変えていく。
美穂はそれを宇宙船のコントロールルームから茫然と眺めていた。
「君の決断は正しかったんだよ」
コンピューターグラフィックで表示される粉砕された物体の映像を何とも言えない表情で眺めながら佐藤大佐は美穂の肩に手を置いて呟いた。
美穂は唇をかみ締めたまま頷く。
自分は正しいことをした。それは分かっていても、流れ落ちる涙だけはどうすることもできなかった。
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大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?


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