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17マーキュリー男爵令嬢

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 マーキュリー男爵領で酵母を手に入れたエミリアが帰ろうとしていると、後ろから声がかけられる。

「エミリア様?」

「あら、お久しぶりですわ、セリーナさん」

「お久しぶりです。どうしてエミリア様が我が領に?」

「少し欲しいものがありまして。セリーナさんこそどうしてこちらにいらっしゃるのかしら」

「お父様にクレイス殿下と婚約することになった経緯を説明しに来たのです」

 なぜいまさら? と思ったエミリアだったが、すぐに、数日前から学院が長期休暇に入っていることを思い出した。

「なるほど、それで。では、これからマーキュリー男爵のところに行かれるのかしら?」

「ええ」

「それはちょうどよかったですわ。私もご一緒してよろしいかしら」
 
「えっ……」

 セリーナが言葉に詰まるのも無理はない。クレイスの元々の婚約相手はエミリアなのだから。婚約破棄されたエミリアと一緒に、婚約破棄したクレイスと婚約することとなった経緯を説明しに行く。普通に考えればありえない。

「安心してもらっていいですわ。何も一緒にマーキュリー男爵にお会いしようというのではないのです」

「では、どうして私と一緒に?」

「あなたとお話したいからですわ」

 セリーナはしばし考え込んだ後、小さく首を縦に振った。

「…………私も、エミリア様と話ししたいと思っておりました」

「では決まりね。馬車は……この領内ではそちらの馬車の方が良いかしら」

 エミリアの提案に頷いたセリーナに案内されて、エミリアとイリスはセリーナの馬車に乗り込んだ。

「そちらのメイドの方も乗るのですか?」

「ええ。ここだけの話しですわよ?」

 そう前置きして、エミリアはイリスに事情を簡単に説明する。

「つまり、イリス様はエミリア様のお姉様なのですね」

「様は不要でございます、セリーナ様。私は一介のメイドですので」

「一応護衛として同じ馬車に乗ってることになっているのですわ。ですから、セリーナさんも呼び捨てで呼んであげてくださいまし」

「わかりました。もしもの時は願いね、イリス」

「ええ。お任せ下さい」

「そういえば、セリーナさんはどうして私と話したかったのです?」

「実は、最近クレイス殿下の様子がおかしいのです」

「クレイス様の? 具体的にどのようにおかしいのです?」

「そうですね……言葉にするのが難しいのですが、時折なにかに焦っているような、なにかに苦しんでいるような、そんな気がして……」

「あの殿下が……? 私の記憶では、殿下はいつでも過剰に見えるほどの自信を持ったお方でしたので、焦りや苦しみからは無縁だと思っておりましたわ」

「私もつい最近まで、殿下のことをそういう方だと思っていました。私が婚約者となってから、殿下のそういう姿をお見かけするようになりましたので、殿下といえど、婚約者には弱みを見せるものなのだな、と最初は軽く考えていたのですが……」

(クレイス様が悩む要素がなにかあるかしら? 私を始末できなかったことに焦っている? でも、もしそうだとして、どうしてクレイス様が私を消そうとしたがるのかがわからない。確かに愛しのセリーナに酷いことはしてたけど、私はクレイス様の実の弟の命の恩人なわけだし)

「セリーナさん、少なくとも殿下は婚約者だからといって、おいそれと弱みを見せる方ではありませんでしたわ。もちろん、私がセリーナ様ほど殿下に愛されていなかっただけかもしれませんけれど」

「も、申し訳ございません! エミリア様を悪く言うつもりは全く……」

 顔を青ざめさせるセリーナ。おそらく、昔のエミリアに様々な嫌がらせをされていた時についてしまった癖なのだろう。

 エミリアは、セリーナの頭に軽く手を置いた。

「セリーナさん、私、別に怒っていませんわ。安心なさい」

「エミリア様……」

「そうですわ、そのエミリア様というのも辞めにしませんこと?」

「どういうこと、ですか?」

「セリーナさんは今や未来の王妃候補筆頭ですわ。いくらセリーナさんの家が男爵で、私の家が公爵でも、王妃となればセリーナさんの方が上になります。ですから、今のうちから私のことをエミリアさんと呼ぶ練習をしておきましょう」

「ええ……っ! そんな……エミリア様をさん付けなんて……」

「私がいいと言ってますわ。誰に遠慮することもないでしょう?」

「……………………」

「さあさあ」

「……………………………………エミリア……さん」

「はい、よく言えましたわ」

 エミリアはセリーナの頭を撫でる。

「………………ふふふっ」

「どうしたんですの、セリーナさん」

「あ、いえ……つい。まさかエミリアさんに頭を撫でられる日が来るとは思っていませんでしたから」

「嫌だったかしら?」

「いいえ。少しくすぐったかったですが」

 微笑むセリーナに、エミリアは少し気恥ずかしくなって、わざとらしく咳払いして話題をもとに戻す。

「こほん。それで、クレイス殿下の様子がおかしくなるのはどんな時なのかしら」

「私の勘違いかもしれませんが、エミリアさんに関わる何かがあった時、でしょうか。この前、学院で医学の講義を受けた後も様子がおかしかったですし」

「どんな感じだったの?」

「私がエミリアさんと婚約破棄したのはどうしてですか、とお聞きしたら、その……甘い言葉で煙に巻かれてしまって……その後、殿下は気がついていなかったかもしれませんが、苦しそうに顔をしかめていたのを私、見たんです」

(ははは……甘い言葉、ね。まあグクレイス様は天然キザ男なところがあるからなあ……ゲームでやってる時、クレイス様のセリフで何度悶えたことか…………でも、クレイス様は、そういう言葉を何かをごまかすために使う人じゃない、と思うんだよね……)

「エミリアさん、どうかしましたか?」

「いえ、なんでもないですわ。セリーナさんがクレイス様とうまくやっているようで安心しましたわ」

「そ、そうでしょうか? …………私としてはやはりクレイス殿下のようなお方の隣には、エミリアさんのような方はが居るべきだったと思います」

「あら、婚約者に近づく女に肥溜めの水をかけるような女ですわよ、私?」

「それは……確かに昔のエミリアさんはそうでした。でも、今のエミリアさんは違うでしょう? ねえ、エミリアさん、クレイス殿下に言って、もう一度婚約してもらいませんか?」

「セリーナさん、あなた……」

「私は本気です。私との婚約を破棄して、もう一度エミリアさんと婚約してもらいましょう!」

「ふふふっ。ありがとう。嬉しいわ」

「じゃあ……っ!」

「でも、ごめんなさい。私もう、クレイス殿下と婚約するつもりはないの」

 エミリアの脳裏には、黒い髪で背の高い、一人の青年の姿が浮かんでいた。

「どうして……」

「さて、どうしてかしら」

 幸せそうに微笑んだエミリアに、セリーナは何も言えなくなってしまった。
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