過負荷

硯羽未

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第6話 変わらない音

6-3

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 傷口は、もう痛くない。
 傷を負った経緯を忘れ、痛みも忘れ、その他のすべての事象も忘れてしまった。

 真田に言葉で教えられても、それが自分のことであるとは認識出来ない。ただ、そういうことがあって今の俺があるのだという事実だけが残る。いや……事実かどうかも、本当にはわからない。

 真田の言うことすべてが、真実とは限らない。

「あのさあ……俺、昨日なんかあったのか?」
「セックス2.5回くらい」
「なんだよその『.5』ってのは。……じゃあなくて! そのことはとりあえず置いとこう。な!? それ以外にさ」

 誰にも聞かれなかっただろうか、と周囲をきょろきょろ見回すが、大丈夫だったようだ。あっさりそんなこと教えてくれなくても良い。
 そのことは置くなんて言われてまた不機嫌になるかと思ったが、真田はくすりと笑った。

「こういう竜司も、かわいー。ウブな感じ」
「うっせえぞてめえ。人が忘れてると思って、いい気になりやがって。昨日なんか変わったこととか、なかったのか? なんのきっかけもなく記憶がロストするなんて、これまでもあったのか?」
「……あー、そういう疑問」

 真田は考えるように宙を見上げて、少し黙り込んだ。
 テーブルに置かれたコーヒーを俺の手元に寄せて、「まあどうぞ」と勧められる。言われるままにそれに口をつける。
「人に物を尋ねる態度じゃないなあそれは。まずは『壱流くん、教えてください』とか言おうよ」
 ──あ。
 催促してくれた。良かった。名前を呼ぶきっかけがやっと出来た。しかしやはり口は微妙に引きつり、しばし逡巡する。じっと見つめる真田の視線に、吸い込まれそうになる。
 今朝起きた時も、この真っ黒な瞳にそんな感覚を覚えた。あの時は、こいつが誰なのかもわからなかった。

「……い……いち、壱流くん、教えてください」
 口元を引きつらせたままなんとか言った俺に、真田……壱流は、にいっと楽しそうに笑った。
「言えんじゃん」
 意味不明にも顔に血が昇る感覚が襲ってくる。何を赤面しているのだ俺は。名前を呼んだだけではないか。
 やり慣れないことをするのは、疲れる。

「昨日ねえ……なんかあったかな?」
「なんか思い出せよ。なんの意味もなくさくっと忘れるなんて、俺自身こえーし。なんかあったんだったら、それに気をつけてれば忘れないのかもしんねえしよ」
 少しの間考えていたが、やがて壱流はあっさりと、
「今は特に何も。でもなんか思い出したら言う」
 コーヒーを飲み干して立ち上がった。
 モニタの映像は既に一周していた。
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