坊ちゃんと私

あきすと

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噂しか、残っていなかった。俺が物心つく年齢になっても
母は居ないはずの誰かに囚われていて。

自分が生んだわけでもない、養子である義兄には底知れぬ
深く暗いものが心の奥にある事を母も感じていたのだろう。

『1つだけ、言っておきましょうか。後学の為にもよくお聞きなさい青路。』
急に改まった口調で、義兄は口元にだけ笑みを浮かべながら俺を見る。

「はぁ…、なんですか?」
気の無い返事をしたと思う。
『仮にも、いや…例えば僕が女の人であったなら』

一瞬、意味が分からずに反応に困りつつも頷く。
「ハイ…」
『異性親のお話ばかりしては、相手が引いてしまいます。』

え…?と、瞬きを忘れながら義兄を見た。

「そんなに、母の話をしましたか?俺…」
『数回していますよ。アレですね、青路はマザーコンプレックスのきらいがあるのかもしれません。』

マザーコンプレックス。
あまり聞きなれない横文字に、俺は戸惑う。
義兄は独り言ちると
『さ、そろそろ車を出してください。青路が僕をどこに連れて行きたいのか、知りたいのですよ。』

時に高圧的で、少し我がままで。
だけれど繊細な感受性と細やかな神経質さが、いかにも
父が好きそうな対象だと感じる。

誰の者にもきっとなってはくれないだろうし、なのに
必死で追いたくなる魅力。

「分かりました。もし、眠かったら少し座席をリクライニングさせても良いですから。」
『…助手席で寝てしまうなんて、僕がそんな無防備だと思いますか?』

義兄は、車を走らせてから30分もしない内に
『青路、ごめんなさい…。僕、車に酔ってしまったみたいで…』
と言うので、俺は一旦休憩をとるべく走っていた山道を一刻も早く登り切って
下りる様にした。

「こんな所ですから、車を停めるトコすら無いんで」
『~え…正気ですか?どこか、安静に出来る所か…ベッドが一番有難いのですけど。』

丁度、登りを運転する際に何個かのモーテルの看板を見かけては来たけど。
「ベッドに…は、難しいです。ちょっと、一旦脇に車を停めるので」
『はい』
「後部座席に、もう寝ててください。」

怒られそうな提案ではある。けれど、背に腹は代えられない。

『…そうですね。まだその方が幾分マシになりそうです。』
「何か、飲みたいですか?」
『いいえ、あの…ただ少しだけ外の空気が吸いたいので』
「窓を開けて、走りますよ。」

義兄は、俺の返答に少し安心した様に頷いた。

『ごめんなさい、普段からあまり自動車には乗り慣れていなくて。』
「いえいえ、俺も運転する側だから今は平気ですけど。昔は酔い易かったものです。」

口元にポケットから出したハンカチを当てて、眉間に皺を寄せている義兄を見ていると
罪悪感がわいて来る。

『せっかくの、貴方とのデートなのに…台無しではありません?』
「そんな事は、思いもしませんよ。ただ、単純に霞が…心配なだけです。」

車を脇道で停めて、後部座席に屈んで乗り込む義兄の姿を確認してから
ゆっくりと発進する。

『横になると、まだ良いですね。』
「無理しないで、寝ていいですからね。」
『うん、ありがとう青路。』

ルームミラー越しに義兄を見た。
顔色はまだそれほど、悪くない。
このまま山を下って、市街に出て。
海岸線を走るのも悪くない。

どう見ても、長く持て余した脚のやり場に困っていそうな義兄は
胎児の様に膝を自分の腹側に入れて、ようやく目を閉じて
安静を感じているのだろう。

思ったよりも、可愛げがある人だと思うのは酷いかもしれない。
でも、もっと弱さも見せて欲しいと思ってしまうのは
自分のエゴだろうか。

西日が顔に段々と掛かる様な時間になって来て
まだ知らされていない、義兄の住む家を先に聞いておくべきだったと
少し後悔した。


『なんて、綺麗な夕陽なんでしょう…ね、青路さん。』
さっき目を覚ましたばかりの義兄の声は、思ったよりも明るくてホッとする。
「もう、気分は良くなった?」
『えぇ、あ……うん。』

潮風は、今の義兄には少し強く当たるだろうかとも慮ったけれども
杞憂だったようだ。

夕刻の陽射しが、義兄の髪を美しく照らす。
穏やかな海風、波打ち際の白波。
「初夏に来ればもっと清々しいでしょうね。」
『本当に。…そうですよ、青路。また僕を連れて来て下さい。』

赤の他人の筈が、兄弟と言われても
昔の俺には理屈では分からなかった。

「俺は、デートがしたかったのか。それとも、霞に会いたかったのか…。」
よく分からなくなる。
分からないだらけだから、とにかくもがいてみる。

浜辺に突っ立って、風に吹かれて。
義兄の背中を見つめると、急に胸が騒ぐだけ。
この先には何があるのかも知らない。

ただ、月に1度はこんな風に会える生活を俺が望み続ければ
まだ見た事ない世界が、見られる。
相手は、蝶の様に自由で束縛とは縁遠い義兄。

『僕には、結婚願望ってヤツが子供の頃から皆無だったんですよ。』
「へぇ、そりゃまた…どうして?」

無神経な問いかも知れない。
『結婚で、幸せにして貰おうだなんて…おかしな話だからです。結びつかない。』
「結婚かぁ、俺の周りにも同じような事を言う友人は増えていますよ。」
『僕は、1人でもきっと自分の心の赴くままに…自由に。きっと幸せを意識しないで暮らせます。』

さすが、海外で多くの事を体験して来たであろう義兄は
じぶんよりもはるかに意識が、進んでいる。と思わせた。

「まぁ、選ぶのは自分です…かね。」
『青路は、流体の様ですよ。自分が有るのか無いのか。見ていて不安になる。』
「俺は、その辺のエノコログサと変わりませんよ。」
『…随分と、懐かしいものを。』

そよぐ風に乱れる髪を指先で押さえながら、義兄は俺の隣に立つ。
密やかに手を繋いで。
合図は、視線だけでは無い事を教えられた気がした。

「やらかい手だ…。」
『イヤですね、少し今の生活で太ってしまったんですよ。』
「良いじゃないですか。俺は、霞の…この手がきっと好きなんです。」

波音で、かき消されそうな声。

『青路の手は、ごつごつしてますよ。男ってそう』
「指先まで、細やかなのは見ていて何だか…妙に色を感じます。」

無言の圧と、視線の圧が同時に自分の隣からかけられる。

『青路も、きっと…アレですね。先生に似て…です。』
今日はよく笑ってくれる口元に、心がグラグラする。

「助平ですよ。俺もこんなのですが、男ですし。」
『せっかく、安心していたのに?だって貴方の車ったら…ちっとも煙草くさくなくて。』
「どう言う、事ですか?」
『匂いで酔った訳では無いので、と言いたかったんです。』
「…なるほど。」
『後で、僕に青路の匂いを嗅がせてください。それからですよ、先を考えるのは。』

この義兄の趣味趣向は、本当に理解しがたい。
でも、不思議と最後には丸め込まれて、納得させられてしまう。

無防備に笑う、あまりにあどけない。
誰かに見られるのは、嫌だなと思う。

いつの間にか義兄と繋いでいた筈の手は、腕にまで絡んでいたのに
何の違和感も無かった。

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