眠れない夜は檸檬の香り

あきすと

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10数年越しの想いがあるって言えたなら。

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そもそも白島がやって来たのは、いつの事だったのか。
記憶が、曖昧だった。
いつの間にか、組織の中に入り込んでいたという感覚が、
一番しっくりくるのだ。

諜報に長け、他の人間とは距離を取りながら息を潜めるようにして
白島という男はいつでも暗部において動いていた。

見た目は、中年とも言えないような年齢不詳の風体で
私の見えない所を静かに囲い込むような働きには
目を見張るものがあった。

上からの信頼が厚く、よく目を掛けられている事は何となく
知っていた。恐らくは、有能な男なのだろう。
挨拶もまともに返さない、と怒っていた頃が懐かしい。

『アンタ、若いのに…エリートってやつか?』
気に入らないとまでは、言わないが。
白島の性格は、雲よりも掴み処がなくて私も当初は困惑していた。
黒目に宿る光が、全くない。
まるで、ずっと闇の中を覗き込んでいる様な、静かで昏い瞳。

白島安芸の、人間性とはいったいどこにあるのだろう?
わからない。
分からないから、初めて知りたいと思った。

「エリート、あぁ…幹部候補ではあるけれど、もう、その道は外れてると思う。」
興味がなかった。この先の未来の自分には、まだ心が動かない。
ただ、この国を思うことだけは、忘れてはいけないと子供の頃から思っていた。
『多分、またどこかで会うんだろうけど…。』
不穏な言葉だった。次に会う時が恐ろしく思える事なんて今まであまりなかっただけに。



『なんで、来るんだよ…よりによってこんな状況だってのに…。』
次に会ったのは、とある晩餐会での喫煙室の前でだった。
「私も、好きでこんな場に来たんじゃないよ。ただ、周りがうるさくて…そろそろ所帯を
持ったらどうなんだ、とか。」
着なれないスーツに、すぐそこは、喫煙室。
タバコやシガーの匂いが充満していて、かなり肺にとって悪そうな空間でしかなかった。

嫌だな、せっかくのスーツに煙の臭いが染みついてしまう。
『こんなトコで出会うやつらなんて…、正直ロクなモンじゃないけどな。』
白島の言いたい事は、何となく理解できる。
でも、社会勉強にはなりそうだ。
「白島は、…こんな時でも仕事なんだろう?」
問えば、苦笑いが返ってきた。
『仕事でもなきゃ、絶対にこんなトコには来ない。』

一瞬、白島は目を細めて笑った。
あぁ、煙草の匂い…。
男くさい奴だとは、充分に理解していたが。
こんなにも間近に感じると、心が一瞬ざわめいた。

『髪、少し伸びたんだな…もう2か月振りくらいなんだから。当たり前か…。』
急に、現れて急にしばらく姿を消していた白島は、わずかに人らしく見えた。
「寂しかった、とでも言いたそうな顔をする…」

軽い冗談で、言ったつもりだった。
『ぇ…あ…、』
驚きと共に、白島の瞳孔が僅かに開いた。

ドン、と誰かの背中が肩にぶつかってよろめくと
白島が私の体を静かに抱き留めた。
この匂い…、何だっただろう?
いつか、一瞬だけ白島から香って来た。
「すまない…、ぼーっとしていた。」
『ほっせぇ体…。折れるかと思った。でも、ちゃんと中はシッカリしてるんだろうけど。』
「…まぁな、一応剣道は2段ではある。」

『へー、全然そんな…でも、アンタなりの苦労があるんだろうけどさ。』
白島は、チャコールのスーツに身を包み磨かれた革靴、比較的綺麗な身なりなもので
なぜかこちらが緊張してしまう。
今までのいで立ちが、あまりにも酷かったからというのは
さすがに言えないで居た。
「ちゃんとしていれば、それなりに…いや、それ以上に見えるものだな。」

『これも、後々何かしらの役には立つだろうからな。手は抜けない。』
「同業者も多いのだろう?…その、気をつけてな。」
美しい女性も、見飽きるほど会場内には居るのだ。
白島と言う男は、きっと誰にも靡かないのだろうが
ほんのわずかに、気にはなってしまう。

「美しいものには、棘があるのだからな。」
『言わずもがな…。俺は、きっと誰にも心奪われないだろうし…安心していいぜ?呉さん。』

急に、名を呼ばれてしまうと体が固まりかける。
この目の前の男に、苦手意識でもあるのだろうか?
「…びっくりした。聞きなれないから、まだ」
白島の腕をすり抜けて、視線を避けながらぎこちなく笑う。
『意識されてるなぁ…』

当たり前だ。こんな非日常の中で久しぶりに会えば、少なからず
心が揺れてしまうものだろう。

「上司だと思ってもないだろう…。白島、その…香水でもつけてるのか?」
真っ白になっている喫煙室を逃げるように、私はロビーの奥の中庭へと続く廊下を
目でたどる。
『香水…?まさか、俺にとって一番どうでもいいものだ。ぁ、外出ますか?』
煙い空間を離れて、そそくさとドアまでを小走りに駆けて
「はぁ……っ、」
やっと外の空気を肺に取り込んだ。
視線を左に移せば、既に白島が大きくドアを開けて私よりも先に
陽のさす方に歩き出していた。
『そんじゃ、俺このまま帰りますんで。』
軽く手を上げて、ひらりと掌が返る。

「これから、夜にかけてがメインだぞ?!」
『夜は、夜で…まぁ俺も忙しんでね。さよなら、呉さん。』

さよなら?
不穏な去り方をする男だ。
今までに、こんな事を言ったことは無かったのに。

なぜまた…白島は私の心をかき乱すのだろう。

中庭を出て、迎賓館の裏から帰れることは知っていた。
興味がないことには、動かない男だからきっと今日のこの集まりにも
得るべきものが無いと、感じ取ったのだろう。
動物に近い、感性を持っているのか。
「だとすれば、白い狼の様じゃないか。」
所々、黒髪に混じる白髪。次は、どんな言葉があの白島から紡がれるのだろうかと
どこか、期待しながら接してきた。

白島は、まさに神出鬼没で思いがけない所で出くわす。
気を惹かれていたことは、間違いないだろう。

白島が、大けがをして入院することになったと上司に聞かされた時には
生きた心地がしなかった。
本当は、すぐにでも駆けつけたかったが。
面会が難しいとも聞いていた。
このまま、もう会えなくなる…なんてことは無いだろうか?
不安がよぎって、怖かった。
なのに、しばらくしてから病院に見舞いに行ってみれば
ピンピンした白島の姿を見て、私は拍子抜けしたのだ。
嬉しかった、嬉しかったのだが…とてもつい最近まで生死をさ迷っていた感じが
しないものだから。

どうやって、こんなにも早くに回復したのか。
見舞いの盛篭を携えた私は、病室で白島の顔を見るなり
感情が溢れて、どうしようもなかった。
何とか、上体を起こしてやっと動いているであろう腕が痛々しい。
顔も、ガーゼや細かな傷がいくつもあって。
喉が詰まった様に、息が辛い。
困ったことに、何を話したら良いのか分からずに。
ただ、零れ落ちる涙が私の頬を静かに伝っていった。

「生きていた…」
やっとの思いで、出た言葉が余りにも愛想の無いもので
私は自分でも、どうしたものかと思った。
近くに行けない、触れることはおろか…白島をなぜか遠くに感じている。

『まぁ、俺…死なないからな。』
言いたいことは、何となく理解できた気がして私は病室の隅で
頷いていた。
「馬鹿が…、こんなになるまで、どうして」
『…折角、久しぶりに顔が見れたかと思ったら、ご挨拶だな。仕事だから、それなりに命も掛けたくなるって
コトだよ。』
白島は、顔の皮膚が引きつるらしく、静かに言葉を置いていく。
「こんなのは、行き過ぎている。仕事で命を落とすなんてことは…考えられない。」
感情が心の奥底から、湧き上がって言語化が追い付かない。
苦しい、言いたくない。
白島を責めに来た分けではないのに…
『泣かれると、俺のせいみたいで…結構心が痛むんだ。』

この、白い狼にもそれなりに人としての心があるというのか?
「顔が見たい…」
『ドウゾ…、』
「もっと、声を聞かせろ。」
『あんまり、大きな声は出せないですよ?…呉さん。』
あぁ、わかってる。これは、私のわがままで…独りよがりだってことも。

おそるおそる、白島のベッドに近寄りそっと
視線を合わせる。
白島の視線はとても穏やかで、瞳は細かな光が見える。
素直に、綺麗だと思った。右目は無事らしいが左目はガーゼで手当てされている。
「左目は…、治るのか?」
『多分、一番最後らへんに治りますね。地味に目の造りってのは難しいんで。』
手を伸ばせば、触れられる距離ではある。
でも、まさか…私からそんな事が出来る訳もない。

「良かった…本当に。生きてる。」
『みんな、大げさなんすよ。俺はそうそうくたばらない…。だから、あんまり泣かないでください。』
白島は、目にかかる前髪を鬱陶しそうに指でよけて私を注視している。
「…ハンカチ、悪かった。病室で涙だなんて…。」
気にもしてないのか、
『うれし涙なら、良いと思いますけどねー。』
あっさりとした返答があった。

「少し、落ち着いた。…はぁ、駄目だな私。どうにも感情的に生り過ぎてしまった。」
『来てくれて、嬉しいですよ。まさか、泣かれるとは思わなかったけど。』
怪我をしてない方の手で、白島は私の肩に触れた。
「ん…?何か欲しいのか、」
『いや、ただ…こんな状態でもなきゃ、抱き締めれるのになーって。』
また、笑えない冗談を言う。
「ちゃんと養生できてはいるんだろうが…。なぁ、病室って眠れなくないか?」
『あー。最近、夜が眠れなくって。多分昼間に寝てばっかりだからか。薬出して貰ったんですけど、
飲む気にならないし。』

よく、顔を見てみれば瞼の下のクマがひどい。
大変な目に遭ったのだから、今しばらくは心が落ち着くまで
時間がかかるのだろう。
「夜、寝ないで何をしてるんだ?」
私は、白島の手をそっと両手で抱き締めて問いかける。
『想ってます…色んな事を』
「随分と、感傷的なことを言うのだな。」
『実は結構、心が落ちてるんで…多分そのせいでしょうね。』

いまだかつて、こんなにも殊勝な白島を見ることがあっただろうか?
無い。
「白島のような、孤高の狼みたいな人物でも…そんな心境になるものなのか。」
言い過ぎている気もしたが、言葉をやめなかった。
『狼ですか…、そこまで強くないからこうしてアンタに情けないトコ晒してんですよ。』

白島の手は、いたずらに私の頬に触れて涙の跡をなぞっていく。
『俺、いつかアンタが海に還ってしまう気がして…焦ってた。』
私は、船乗りだ。次いつ大海に出ることになるのかは分からない。
でも、まだしばらくはこの地上に居たい。
厳密に言えば、今の白島を置いて海に出る様な気にはなれないだけだ。
私情かもしれないが、これが本心だった。

「とにかく、ゆっくり休んでほしい。そうだ、もし入院で必要なものがあれば言ってくれ。
着替えなどはどうしている?誰か持ってきてくれる人は?」
白島は、ピタリと手を止めて
『俺は、天涯孤独なんで誰も居ませんよ。衣類も病院が用意してくれてる物を買いました。』
背中に冷や汗が伝った。
まさか、知らなかったとは言え…
「だったら尚更、何でも言ってくれ。一通り揃える。こういった場合は…助け合うものだ。」
無神経なことを、聞いてしまった。
だが、様々な事情を抱えて暮らしている者は確かに多い。

『助かります。一応、下宿先はあるので…えーっと、住所教えますね。何か書くものあります?』
椅子の上に置いていた鞄から、万年筆とメモ帳を取り出して、
私は白島の言う住所をメモした。
「では、相手方にもまだ伝わっていないのでは?白島の入院…」
『いえ、伝わってます。奥さん身重なので…こんな事のために動いて貰うのは、申し訳なくて。』
「…白島がそう言うのなら。言伝はないか?」
『特には…。いやー、上司にこんな事お願いするだなんてしのびないですが、どうぞ
よろしくお願いいたします。』

白島は、私に向かって深々と頭を下げた。
「もっと、早くに気づいていれば…」
『洗濯も、お金を出せば…しては貰えるんですけどね。』
「白島って、いくつだ?」
キョトンとしつつも答える
『今年で34歳ですね。』
「私と10歳近く年齢が離れている…。私は直属ではないものの、上司だ。」
『そうですね、すんません。』
「でも、年長者には付き従うものだと…長年言われ育った。」
何が言いたいかと言えば、
『…お世話、してくれる気に…なったんですかね?』

さっきの涙を返せとは言わない。
ただ、ほんの少し悔しいと思ったのは、気のせいではないだろう。

「遠慮なんていらないから。…今度からは風呂敷でも持ってこないといけないな。」
『呉さんって、洗濯できるんですか?』
「…当たり前だ。共同生活は、船の中ではごく自然だったからな。料理も一通り、出来るぞ。」
白島は、なぜか私を眩しそうに見つめて一笑した。
『いや、何か…気にかけて貰えるって良いですね。嬉しい…。』
柔和な笑みが、空間の雰囲気を和やかに変えていく。
私も、やっと心から安心したと言ってもいいだろう。

「では、そろそろ日も傾きそうだし。今日の所は帰るよ。明日また白島の部屋から
着替えなどを持ってくる。恐らくは、もう少し早い時間に来られると思うから。」
『もう帰っちゃうんですか?』
「あぁ、見舞いに長居するのもな。白島を疲れさせてはいけないし。」
子供のようなことを言い出す白島が、どこか愛おしく思えて私も静かに微笑んだ。
きっと、不便なことも多くて大変だろう。
『呉さん、少しだけ…目瞑って。』

戸惑いはしたものの、私は白島の言うとおりに目を閉じた。
ふわっと、一瞬の熱が頬に触れた。
『感謝してる…ありがとう。』
あまりにも、白島が綺麗に笑顔を見せるものだから
私は、頭の芯がぽーっとなって顔が熱くて仕方なかった。

「ぁ…、その…」
直視するのが照れくさい。
『俺、呉さんの下の名前…好きなんだ。』
ぞわっと鳥肌が立った。
私は、自分の名前がそれ程までには好きじゃない。
「なぜ、知っている?何かの名簿でも見たのか?」
『いや?そんなまどろっこしい事、俺がする必要は無い。情報には長けてるから。』
じゃぁ、何をきっかけに知ったというのだろう?

『もう、何年も昔だけど…アンタ誘拐された事があっただろう?』
嫌な記憶を、引っ張り出してくる白島を思わず睨みそうになる。
「あったな、そんな事件…確か、新聞にも大きく取り上げられた。」
『その時、アンタを助けたのって…俺だから。』
うん…?
首を傾げつつ、白島を見る。
この男は、何を言っているんだろうという思いを込めて。
白島も、笑いながら私を見ている。
本当なのだろうか?
『嘘じゃないよ?呉 郁海クン。随分と出世したんだねぇ…。』

待て、待ってくれ。記憶がごちゃごちゃしていて頭の中で上手く整理ができていない。
まさか、そんな偶然あるのだろうか?
確かに、大人に助けられたことは覚えている。
感謝状を進呈する際に、私も演出として参加したことも覚えている。
家には、写真さえ残っているのだから。

「私は、あの青年に…憧れて」
『顔は、ずっと変わっていない。けど、髪型ってのは大きく印象を左右するものだから。』
「だって、前は眼鏡してて…髪も今より」
白島の掌が私を呼ぶ。
駄目だ、今更になって思い出すなんて。
『俺が、守った…なんて偉そうにしないから。もっと早くに、気づいて欲しかった。なんてな。』

夕刻の空に鳴り渡る音楽は、夕焼け小焼け。
さよならを告げる、一日の終わりの唄。
私は、この日初めて自分の中にある淡い炎に気が付いた。

片腕で抱き締める白島の腕の強さに、胸が高鳴った。
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