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憧れの緑
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甘く官能的な香りで、
幸せな気持ちを
鼻腔を通して感じさせてくれる。
優美な表情に、陽に焼けた
素肌が何とも言わせない。
ここは、陽が沈む前の夕景と
陽が沈んだ後の夜景までを楽しむことが出来る。
風塵が、よく街を襲うが。いや、ここはいい街なんだ。
「俺は、若い娘を連れて来いと言った筈だが…。」
何故、またこんな事になったんだ?
『…若い娘が嫌がったので、代わりに店番を任されていた奴を連れて来ました。』
代わりに、連れて来たのは
男。
「お前は、どう見ても男じゃないか。」
従者は、確かに前々からおかしな奴だとは思っていた。
が、まさかここまでだったとは。
『この青年は、風塵から街を守る為に、緑を育てて植える仕事をしていました。花屋になりたいんだと。しかし、それには金がいる。だから、女の代わりに連れて来ました。』
「こんな街に花屋?」
柔らかな木綿の衣服の一揃いを着た青年は困ったように笑う。
『ここで働き、この方に仕えなさい。』
従者は、勝手に話を進める。
「まだ、名前すら聞いていない。ウェン、お前は下がれ。」
従者のウェンを下がらせて
応接間に静かな時が流れ始めた。
「いや、すまない。少し変わった奴なんだ。気を悪くしたなら謝る。」
青年は、萎縮したように視線を下げて絨毯の上で座り直した。
『平気です。僕は、クローム。軽蔑しますか?お金欲しさに来た僕を。』
「イスタリアだ。…軽蔑などしない。生きるには金は必要だ。しかし、店番はよかったのか?」
クロームの琥珀色の髪は
艶が綺麗だ。生え際の弧を見て
触れたくなる衝動を抑えた。
目尻は少し上がりがちな
一見すると勝ち気そうに見えるが、クロームは話し方が
柔らかだった。
『イスタリア様…。はい、店番は親戚の家の手伝いで。いつ行っても帰ってもいいような店番なんです。』
「そんな商売があるのか?」
『うちは、店こそありますが、大口の取り引きばかりがほとんどだから、毎日忙しくはありません。確かに、帳面はつけますが。』
「帳面が出来るのか、クロームはいくつだ?」
髪によく映える瞳の色は
碧色をしていた。
『確か、19年生きていると。』
「そうか。…一度クロームと正式な契約を交わそう。いや、そちらがゆっくり考えてくれていい。俺に仕えるのだから、人を見てから決めるべきだ。」
あくまで真摯な眼差しで、
クロームと視線を交えた。
彼には、彼の成し得たい事がある。
こちらには、こちらで
確かに使用人が必要だった。
『では、イスタリア様の側に居てみないと分かりませんね。』
クロームは、笑った。
それは、イスタリアの心を少しずつ揺るがす事になる。
風塵に負けない、緑の絨毯を織る
クロームに
イスタリアが、心を奪われた瞬間でもあった。
「貴重な水を、その草に掛けてやるのか?」
『えぇ。緑を育てるとは、そういう事ですよ。』
クロームは、まだ心を決めた訳では無かったが
屋敷に通いで、働きに来るようになっていた。
親戚の家の手伝いは、弟が代わりにしているらしい。
クロームは、気ままだ。
気が向けば緑の世話をしたり、
馬の世話をしたりする。
が、肝心の俺の側で世話は
全くしない。
これでは、何の為に呼んだのか
分からない。
従者のウェンも、嘆いていた。
クロームは、まだまだ若く
よく働く為、食事も量を食べる。
あの、細い体によくもまぁ
その量を収められたものだと
感心していた。
『一杯、種を買って頂いたのですから、大切に育てなければ。』
「そうだな、クロームは本当に緑を愛しむ姿が似合う。」
どうして、なんて無粋な事は訊けないが。
あまりに熱心なクロームの姿勢にはこちらも目を見張った。
『ごめんなさい。本当は、イスタリア様の身のお世話をしなくちゃいけないのに…。僕はまだ貴方に何も出来ていません。』
申し訳なさそうに、頭を下げるクロームに、自然と頭を撫でていた。
「いい、いい。クロームが楽しそうにしていると…俺も悪い気はしない。」
大きな庭園で、庭師が管理していた庭をクロームに案内した時の
嬉しそうな表情は
目に焼き付いている。
『こんな所があったなんて…まるで違う世界にいるみたい。』
この庭園は、確かに自慢の仕上がりだった。緑が目に優しく映る。
「最高の庭師が管理してるからな。自慢の庭園だ。」
静かに歩を進め、低木に咲く花を愛でるクローム。
『綺麗です。花弁が一枚一枚繊細そうで、なのに強い。』
子供みたいに夢中な姿が
近頃では胸を締め付けるようになっていた。
いや、これは庇護欲だ。
この街を統べる者として…
そんな事は
許されるのだろうか?
「花も、緑も在るだけで美しい。それは、クロームも同じだろう。」
何か、言葉を誤っただろうか?
初めてクロームは
言葉を詰まらせて俯いたんだ。
まだまだ、実態が分からないクロームには、戸惑う事もあったが
いまだに住み込みにならないのは
クロームが、俺を判断しかねているからだろうか?
厨房には、出入り禁止だとウェンに言われたらしい。
クロームは、理由を聞いたらしく
まだ、住み込みで仕える気がない輩には厨房には
入れさせないとの事だった。
それを聞いたクロームは、
自分は信用されていない事に
気が付き、なんとなく気持ちが
晴れない様子でいた。
そうか、だったら
クロームが、決め兼ねているなら
俺が聞いてみようか。
なんて、日頃は思っても
やらないような事をしてみよう。
「クローム、悪いが返事を聞かせてくれないか?住み込みで働くかどうかを。」
『そうだ…ずっと、伸ばし伸ばしになってました。ごめんなさい、イスタリア様。僕はここで貴方のお世話をしなきゃいけないのに、勝手ばかりして。でも、イスタリア様は何も言わずに見ていて下さった。僕は、そんな優しいイスタリア様に、次こそはきちんとお仕えしたいです。…どうか、置いてやって下さいませ。』
寝室の床に
クロームは、この夜平伏した。
俺は、寝台の上からその姿を
まんざらでもない気持ちで
見下ろしていた。
クロームが、屋敷に住まうようになってから俺はこの街を統治する裏側を支えている事を話した。
一瞬、怯えたような顔をしてみせたが。
『イスタリア様の街なんですね、ここは。知らなかった。僕は、やっぱりこの街を風塵から守らなきゃ。貴方と僕が愛するこの地を。』
書斎に、茶器を持って
やって来たクロームに、
この地方独特の古くから飲まれている果実の果肉の粗越しが入った紅茶を
淹れて貰った。
砂糖が程よく加えられた
飲み易いものだった。
『庭園の果実から作ったんです。庭師のマホガニーさんが、イスタリア様の好きな果実を教えてくれたので、焼き菓子は、良い石窯があったのを借りて…。』
良い香りが、書斎に広がる。
香ばしさと華やかな匂いに満たされながら
午後のひと時を、クロームと過ごした。
クロームは、明るく
屈託の無い笑顔が魅力だ。
真昼の太陽みたいに眩い。
そう、思っていた。
今日もクロームは庭師のマホガニーと手入れをしている。
微風がそよぐ、いい季節だ。
陽射しも穏やかで
外に居ても心地いい。
『イスタリア様、』
庭に出て来た俺に気が付いた
クロームが此方に駆けて来た。
「忘れ物だ。」
そう言って、クロームの頭と首に
綿織物のストールを巻いた。
『あ、また忘れてました。ありがとうございます。』
「外に出る時は必ず、して行くように。」
素直に頷くクロームの
瞳は、今日も相変わらず綺麗だった。
『イスタリア様、先程ウェン様からお願いされていた香油の壺を、浴室に運んでおきました。』
「あぁ、重かっただろうに…ありがとう。あれは壺を替えなければ、いつか割ってしまいそうだ。」
『入れ替えなら、手伝います。』
「いや、まだ代わりが見つからない。また、近々探しておこう。」
商人も何人か出入りするこの屋敷には、調度品の数々
異国の織物、絵画、楽器に至るまで何でも置いてある。
それを整理してまわるのも
ひと苦労。
従者のウェンからは、動物だけは
飼わないように釘を刺された。
でないと、俺の性格では
動物園になりかねない、と
言う事らしい。
的を得た意見だ。
マホガニーにも、同じような事を言われた。集めるのは上手いが
管理、維持できれば言う事は無いと。
まるで、何でも拾って来る子供みたいに言われたのだ。
『夕食まで、外出ですか?』
「あぁ、海岸通りにある店の見廻りだ。」
統べる側としての務めとしては、
取り締まりの一端を担う事にもなる。
あまり、いい気はしないが、
この街を住み良いものにする為には欠かせない。
「帰りが遅かったら、皆で先に夕食を摂るように。」
『…見廻り、行って欲しくありません。』
クロームは、不安げに
此方を見ている。
「ウェンから、聞いたのか。」
『イスタリア様が、また危ない目に遭ったら…』
「あれは、異国の不法労働者に襲われたが。最近はそういった情報も無いから大丈夫だ。しかし、油断はせず…行ってくる。」
『イスタリア様がご無事に帰られますように…』
今にも祈りだしそうなクロームの手を、両手で握る。
緊張が走るように、
冷たい手をしたクロームに
心が揺れた。
彼は、本気で…。
篤い思いに、感情が高まる。
「ありがとう。きっと帰って来るから、そんな辛そうな顔はするな。」
家族、とでも言うのか?
よく分からない奇妙な関係。
主従とも言うのかもしれないが
俺は、その例えは好きじゃなかった。
クロームも、最初はお金欲しさに連れてこられたみたいな時期もあったが…今はそんな話もしなくなった。
この狭い屋敷での小さくて深い人間関係が俺には心地良かった。
『はい。いけませんね。近頃いつもイスタリア様をこうして困らせたりして。…あの、本当に気を付けて行ってらっしゃい。』
風になびくクロームの髪を
視線で追っていた。
「行ってくる。」
今日は、砂塵も起こらず
良い日だ。
屋敷を出て、従者のウェンと海岸通りまで歩く。
ウェンは、屋敷では付き合いの長い従者だ。
歳は一回り程離れているが話やすい性格のため、何の相談もしやすかった。
その答えが、いささか
おかしなものだったとしても
こちらが、笑って済ませれるよな
そんな人物だ。
『クロームは、気が付かない奴ですね。』
あくまで、視線は交えずに
ウェンは、街並みを見ながら切り出す。
「クロームが?…どういう意味だ。」
何を言うかと思えば。
『そうですよ。鈍い。見ている私が恥ずかしいです。あんな…生娘みたいな、』
やれやれ…。
「何だ、クロームの趣味を分かっているみたいな口ぶりじゃないか?」
『分かりますよ。私が連れて来ましたから。クロームは、貴方が…』
「くだらない。」
興醒めもいいとこだ。
『過ぎた真似を致しました。申し訳ありません。しかし、若い彼には悩まされますね。』
「若かろうが、歳を取ってようが…思い悩むさ。」
訪れた先の商人の店で、経営状況や、雇用人数の確認などをして
あっと言う間に時間が過ぎて行く。
昔、こんな事をしていたが為に
恨みを買い
切りつけられた事があったのだ。
クロームは、それを聞いて
あんなに心配するのだろう。
確かに、嫌な…まるで粗探しをしているような気持ちになるが
この街において、公正公平で無い事は、正さねばならない。
均衡を保たねばいけない。
この思いだけは
今も昔も抱き続けている。
羊毛を扱う店で、陽が沈むまで
調査を行い
長々と協力してくれた店主に
深く頭を下げてから、ウェンと
帰路につく。
庭師のマホガニーは、帰った後で
ダイニングにはポツンと
クロームだけが頬杖をついて
待っていた。テーブルに並ぶ
料理の数々はまだ、温かな湯気が
上がっていた。
「ただいま。」
『あ、お帰りなさいませ…あれ?ウェンさんは?』
「あぁ、ウェンならそのまま帰った。何だ、話でもあったか?」
ウェンも、マホガニーと同じで
家から通って勤めていた。
だから、夜は2人になってしまう。
女の人を連れてきていたならば
通いにしていたかもしれないな。
どうだろうか、
今となっては、よく分からない。
クロームは、下手したら
女の人より魅惑的で
一緒に居るのが時々辛くなる。
あまりに、無意識なのに色香が…夜のクロームにはあった。
その香りに包まれて、目覚めた朝があった。
決して、やましい話ではなく
街で流行っていた酒を
酒場で飲み明かしていた所に
クロームが、俺を迎えに来た。
『イスタリア様、深酒は体に良くありません。帰りましょう?お支払いはしてあります。貴方は…、こんなにも酔い潰れたりして…みっともないですよ。』
夜風に体を冷やさぬ様にと
クロームは、俺にマントを着せた。
よろけながら椅子から立ち上がり
クロームの肩に手を掛けて、酒場を後にする。
「たまには、いいんだ。あの酒場は昔なじみがやってる。」
『貴方も、普通のその辺の人と変わらないのでしたね。安心しました。でも、大丈夫ですか?気分は悪くなったりしていませんか?』
「平気だ…。」
庭師のマホガニーも、従者のウェンも、帰宅した後だ。
これは、クロームが判断して
迎えに来てくれたんだな。
明日は、祝日だから1日ゆっくりできる。
クロームは、明日
何をしているだろう?
何処に行くだろうか。
聞けば分かるのに、聞けない。
心の中をまだ、見せられない。
最近のクロームは、俺にもよく
世話を焼いてくれるようになった。
『夜は、僕が貴方を守らなきゃ。ウェンさんと、マホガニーさんと約束しましたから。』
任せてください、と
得意げにするクロームに体を支えられながら帰る道は
悪くなかった。
俺にとっては、愛しい時間とも言えよう。
クロームは、陽の下でも輝き
夜は、優しい香りで花開く。
現実を生きている筈なのに
どこか儚げな一面が見え隠れして
それが、心に引っかかる。
気になるなんて
ぬるい言葉じゃ足りない。
「夜は、自分を守った方がいいんじゃないか?…クローム。」
意味ありげに笑う俺を見ても
クロームは、不思議そうに微笑んでいた。
『まさか。イスタリア様は、冗談さえお上手ですから、困ります。さぁ、寝台に横にになって下さい。入浴は明日の朝で構いませんか?沸かしておきますね。』
クロームが寝室から立ち去ろうとした瞬間の香りで
一気に目が覚めた。
ぐっ、と
クロームの腰帯を引く。
バランスを崩しかけたクロームの体をしっかりと抱き留めた。
が、なんで男がこんなにいい匂いがするんだ…。
本気で、恋してしまいそうな
誘惑の香り。
碧い瞳。
『イスタリア様?』
「反則だ、こんな甘い匂いをさせてるなんて。」
『匂い?』
心あたりが無い、とでも言いたげにクロームは首を傾げた。
寝室に体を向け、
するとイスタリアの手が解けて
ゆっくりと膝を床につける。
『イスタリア様、…一人寝はお寂しいですか?』
精いっぱいの気遣いなんだろう。
クロームは、優しい笑みでうかがう。
「まるで、子供扱いだな。酔ってるせいだ。大目に見てくれ。」
『たまには、甘えて下さいね。僕で良かったら…お付き合いします。』
クロームの象牙色の優しい色合いの衣服に、左手の金の腕輪。
差し伸べられた手の
丸い指先が、妙に愛らしくて
手を絡め取る。
「何故、夜はこんなに違う…?」
『おっしゃる意味が…クロームには分かりません。僕の何が違いますか?』
従者のウェンが言っていた言葉を思い出した。
クロームは、鈍い。
「俺には、クロームが、昼と夜とでは別人みたいに見える事がある。」
反応に困った様子で
目が、彷徨っている。
『では、今の僕は…嫌でしょうか?』
ガクッ、と
肩の力が抜けた。
そうじゃないんだが…。
好き嫌いの問題じゃないんだ。
「まさか。嫌いなら、そもそも近くになど居させない。」
どう、伝えたものか…?
『初めから、嫌いじゃなかったから、僕は置いて貰えたんですか。』
最初から、嫌いかどうかなんて
分かる筈がないのだが。
「いや、理屈で語るのは止めよう。俺は、クロームを信頼している。」
『イスタリア様が…僕を信頼?』
それはそれは嬉しそうに笑う。
「信頼しているのに…、クロームの色香に惑わされる。」
着ていたマントを脱ぎ、クロームに手渡す。
『僕に色香だなんて…そんな、イスタリア様は、からかってます?』
恥ずかしいのか、マントに顔を埋めて
クロームが頬を赤くした。
「一目見た時から、確かに心は射抜かれていた。クローム、俺は最初から…そういう目で見ていたのかもしれないな。」
信じ難いが、本当だろう。
『…イスタリア様。僕は、僕は…どうしたら?』
おずおずと、後退りしそうな
クロームを呼び止めて
手招く。
「怖がらないでくれ、別にとって食おうって訳じゃない。ただ、お前を想っている。それだけだよ、クローム。」
『僕も…イスタリア様だったら好きです。だから、良い匂いだって言われてるみたいで嬉しいです。』
「…なぜ、来た?俺の元に。ウェンか、説明があったはずだろう。連れて来られる前に。」
そっと、クロームの頬に手をのばし、滑らかな頬を撫でる。
重い瞬きに、クロームが
まんざらでもない事に気づく。
『お金が欲しかった、だけです。』
「嘘が下手だな?ならば俺が言おうか。」
『えっ…、』
「冗談だ。そうだったな、確かにここで住み込みで働けば…金は貯まるだろう。」
『イスタリア様、…』
ふと、クロームを見ると
目を伏せている。
まるで純粋だ。
何の疑問もなく
俺とクロームは互いの距離を縮めて、寝台に上がらせる。
小さく軋む音を、聞き流して
ようやく同じ視線の高さにある
クロームを抱き締める。
『…っん。』
「何のつもりだ…いつもいつも」
『え?』
「匂いは…な、記憶だ。それだけじゃない。人に働きかける。」
『僕、本当に何も付けたりはしていません。庭で草花を触ったりしてますが…もしかして、それが原因かな?』
「…うちの庭に、香りが強いものはあまり無かったが。」
『夜香蘭なら、ありました。』
「やこうらん…?」
『はい、華やかな色合いで綺麗なんです。夜になれば甘い香りがするんです。』
クロームの長く編まれた三つ編みを緩く引いて
首筋に、口付ける。
『わぁっ、イスタリア様、何するんですか!』
クロームは、戸惑いながら
目を逸らす。
「何も…ただ、お前が可愛いんだ。さぁ、金が欲しくて俺の元に来たクローム…後は、どうすればいいか、分かるだろう?」
『僕は、僕は…ただイスタリア様にお仕えしながら、お金を貯めて。ゆくゆくは、緑の絨毯を………』
クロームの身体から、力が抜け
だらりとする。
「クローム…?」
『………』
眠っているようだった。
静かに横たわらせて、
しばらく様子を見ていた。
どうにも、おかしい。
イスタリアは、クロームを起こさないように寝台から降りて
書斎に向かった。
マホガニーから、譲り受けた
植物に関する書を棚から探し当てる。
年季の入った図鑑のような書籍を見つけると
ページを何度もめくった。
「夜香蘭……、本当にあるんだな。」
以下のように書いてあった。
夜香蘭は、日中こそ香りは
そこまで強くないが
昼間に、人についた花粉が
夜になると甘く強い香りに変化する事から、この名前が付けられた。
その香りは独特ながらも、調香師にも再現が、難しいと言われており古くから媚薬などの原料に用いられる。
常習的に、この香りに触れていると強い眠気に襲われるという報告がある。
いまだに、謎の多い花で
研究が進んでいるものの
明確な、人に対して夜になると強くなる香りの作用などは分かっていない。
「クローム…しばらく夜香蘭に触れさせてはいけないな。」
困ったものだ。
本を閉じて、棚に戻し
書斎を出る。
ドンッ、
肩がぶつかり、
ふわりと甘い香りが広がる。
『イスタリア様…、僕寝てしまったみたいで』
「驚いた。眠気は?いいのか。」
『もしかして、夜香蘭について調べてらしたんですか?』
「そうだ。」
『眠気は、平気です。ごめんなさい。あの…今度は、胸が騒いでしまって。』
廊下に、裸足で来てしまっている
クロームの脚を見る。
「…お前は、よく分からないな。」
なぜ、人一人にこんなに
心が動くんだ。
『イスタリア様こそ、分からないです。すぐに居なくなってしまう…。あっ、すみません。今のは忘れて下さい。』
「?俺が…え…?」
『僕、寝ます。お休みなさい。』
何かをごまかすように笑って
クロームは、廊下を足早に去って行った。
「眠れそうにないな…あれは。」
寝室に戻ると、クロームの
残り香がシーツにまだあった。
確かに、これは…誘われる。
時間の問題だな。
マホガニーに、クロームは夜香蘭の近くに行かないよう
注意してもらおうか。
そう、思っていたのに。
嫌な予感がしていた。
『はぁ…、夜香蘭を?それは昔からの言い伝えにありますが。夜香蘭が夜になると強く香るのは、想い人に気付かせる為だと言います。とにかく謎が多い花で。クロームが、誰かを慕っていながら想いが募る限り、匂いはするでしょうね。』
庭で剪定をしているマホガニーの手伝いを、しながら
夜香蘭について、聞いた。
「そんなことがあるのか?」
『そういえば、その夜の香りが発せられて、伝わるのはその花粉が付いてしまった本人の想い人だけらしいです。』
何て事だ。
「……俺は、匂いが分かるんだが。」
『さすがは、イスタリア様。色男ですからねぇ…貴方は。』
茶化さないでくれ。
マホガニーは、呑気に笑っている。
そんな穏やかな気持ちになれるものか。
あまりに、重い事実に
目を背けたくなる。
クロームは、
クロームの気持ちは
どうなんだろう?
ふと、薬草を摘む姿を前方に
見つけて
思わず目が綻ぶ。
金糸のような髪が、細かに揺れて
それだけでも視線を持っていかれる。
~後書き~
新しく書き始めました緑の絨毯。
まだまだ設定なども細かくは作っていませんが、かなり好きな分野を詰め合わせが出来ているので
書いてて楽しいです。
では、ここで、改めて名前の由来や色のテーマを。
クローム=イメージカラー黄色。クロムイエローから由来。クロムだと、金属の、一種になるので、クロームに。
イメージする香りは、イランイラン。お花屋さんの香りみたいな匂いがする。イスタリアを無意識に誘惑する香り。
イスタリア=イメージカラー紫色。
ウィスタリアという紫系統の色名から由来。
イメージする香りは、まだ未定。
マホガニー=温かみのある茶色がイメージカラー。茶色系統のマホガニーから由来。
イメージする香りはまだ未定。
世界観としては、微量なファンタジー間に現実で出来ています。
新旧が混じり合う、治安が少し悪い
世界です。
ちなみに、夜香蘭と言う花は私の創作です。
あれば、面白いのになぁとも思います。
閲覧ありがとうございます。
幸せな気持ちを
鼻腔を通して感じさせてくれる。
優美な表情に、陽に焼けた
素肌が何とも言わせない。
ここは、陽が沈む前の夕景と
陽が沈んだ後の夜景までを楽しむことが出来る。
風塵が、よく街を襲うが。いや、ここはいい街なんだ。
「俺は、若い娘を連れて来いと言った筈だが…。」
何故、またこんな事になったんだ?
『…若い娘が嫌がったので、代わりに店番を任されていた奴を連れて来ました。』
代わりに、連れて来たのは
男。
「お前は、どう見ても男じゃないか。」
従者は、確かに前々からおかしな奴だとは思っていた。
が、まさかここまでだったとは。
『この青年は、風塵から街を守る為に、緑を育てて植える仕事をしていました。花屋になりたいんだと。しかし、それには金がいる。だから、女の代わりに連れて来ました。』
「こんな街に花屋?」
柔らかな木綿の衣服の一揃いを着た青年は困ったように笑う。
『ここで働き、この方に仕えなさい。』
従者は、勝手に話を進める。
「まだ、名前すら聞いていない。ウェン、お前は下がれ。」
従者のウェンを下がらせて
応接間に静かな時が流れ始めた。
「いや、すまない。少し変わった奴なんだ。気を悪くしたなら謝る。」
青年は、萎縮したように視線を下げて絨毯の上で座り直した。
『平気です。僕は、クローム。軽蔑しますか?お金欲しさに来た僕を。』
「イスタリアだ。…軽蔑などしない。生きるには金は必要だ。しかし、店番はよかったのか?」
クロームの琥珀色の髪は
艶が綺麗だ。生え際の弧を見て
触れたくなる衝動を抑えた。
目尻は少し上がりがちな
一見すると勝ち気そうに見えるが、クロームは話し方が
柔らかだった。
『イスタリア様…。はい、店番は親戚の家の手伝いで。いつ行っても帰ってもいいような店番なんです。』
「そんな商売があるのか?」
『うちは、店こそありますが、大口の取り引きばかりがほとんどだから、毎日忙しくはありません。確かに、帳面はつけますが。』
「帳面が出来るのか、クロームはいくつだ?」
髪によく映える瞳の色は
碧色をしていた。
『確か、19年生きていると。』
「そうか。…一度クロームと正式な契約を交わそう。いや、そちらがゆっくり考えてくれていい。俺に仕えるのだから、人を見てから決めるべきだ。」
あくまで真摯な眼差しで、
クロームと視線を交えた。
彼には、彼の成し得たい事がある。
こちらには、こちらで
確かに使用人が必要だった。
『では、イスタリア様の側に居てみないと分かりませんね。』
クロームは、笑った。
それは、イスタリアの心を少しずつ揺るがす事になる。
風塵に負けない、緑の絨毯を織る
クロームに
イスタリアが、心を奪われた瞬間でもあった。
「貴重な水を、その草に掛けてやるのか?」
『えぇ。緑を育てるとは、そういう事ですよ。』
クロームは、まだ心を決めた訳では無かったが
屋敷に通いで、働きに来るようになっていた。
親戚の家の手伝いは、弟が代わりにしているらしい。
クロームは、気ままだ。
気が向けば緑の世話をしたり、
馬の世話をしたりする。
が、肝心の俺の側で世話は
全くしない。
これでは、何の為に呼んだのか
分からない。
従者のウェンも、嘆いていた。
クロームは、まだまだ若く
よく働く為、食事も量を食べる。
あの、細い体によくもまぁ
その量を収められたものだと
感心していた。
『一杯、種を買って頂いたのですから、大切に育てなければ。』
「そうだな、クロームは本当に緑を愛しむ姿が似合う。」
どうして、なんて無粋な事は訊けないが。
あまりに熱心なクロームの姿勢にはこちらも目を見張った。
『ごめんなさい。本当は、イスタリア様の身のお世話をしなくちゃいけないのに…。僕はまだ貴方に何も出来ていません。』
申し訳なさそうに、頭を下げるクロームに、自然と頭を撫でていた。
「いい、いい。クロームが楽しそうにしていると…俺も悪い気はしない。」
大きな庭園で、庭師が管理していた庭をクロームに案内した時の
嬉しそうな表情は
目に焼き付いている。
『こんな所があったなんて…まるで違う世界にいるみたい。』
この庭園は、確かに自慢の仕上がりだった。緑が目に優しく映る。
「最高の庭師が管理してるからな。自慢の庭園だ。」
静かに歩を進め、低木に咲く花を愛でるクローム。
『綺麗です。花弁が一枚一枚繊細そうで、なのに強い。』
子供みたいに夢中な姿が
近頃では胸を締め付けるようになっていた。
いや、これは庇護欲だ。
この街を統べる者として…
そんな事は
許されるのだろうか?
「花も、緑も在るだけで美しい。それは、クロームも同じだろう。」
何か、言葉を誤っただろうか?
初めてクロームは
言葉を詰まらせて俯いたんだ。
まだまだ、実態が分からないクロームには、戸惑う事もあったが
いまだに住み込みにならないのは
クロームが、俺を判断しかねているからだろうか?
厨房には、出入り禁止だとウェンに言われたらしい。
クロームは、理由を聞いたらしく
まだ、住み込みで仕える気がない輩には厨房には
入れさせないとの事だった。
それを聞いたクロームは、
自分は信用されていない事に
気が付き、なんとなく気持ちが
晴れない様子でいた。
そうか、だったら
クロームが、決め兼ねているなら
俺が聞いてみようか。
なんて、日頃は思っても
やらないような事をしてみよう。
「クローム、悪いが返事を聞かせてくれないか?住み込みで働くかどうかを。」
『そうだ…ずっと、伸ばし伸ばしになってました。ごめんなさい、イスタリア様。僕はここで貴方のお世話をしなきゃいけないのに、勝手ばかりして。でも、イスタリア様は何も言わずに見ていて下さった。僕は、そんな優しいイスタリア様に、次こそはきちんとお仕えしたいです。…どうか、置いてやって下さいませ。』
寝室の床に
クロームは、この夜平伏した。
俺は、寝台の上からその姿を
まんざらでもない気持ちで
見下ろしていた。
クロームが、屋敷に住まうようになってから俺はこの街を統治する裏側を支えている事を話した。
一瞬、怯えたような顔をしてみせたが。
『イスタリア様の街なんですね、ここは。知らなかった。僕は、やっぱりこの街を風塵から守らなきゃ。貴方と僕が愛するこの地を。』
書斎に、茶器を持って
やって来たクロームに、
この地方独特の古くから飲まれている果実の果肉の粗越しが入った紅茶を
淹れて貰った。
砂糖が程よく加えられた
飲み易いものだった。
『庭園の果実から作ったんです。庭師のマホガニーさんが、イスタリア様の好きな果実を教えてくれたので、焼き菓子は、良い石窯があったのを借りて…。』
良い香りが、書斎に広がる。
香ばしさと華やかな匂いに満たされながら
午後のひと時を、クロームと過ごした。
クロームは、明るく
屈託の無い笑顔が魅力だ。
真昼の太陽みたいに眩い。
そう、思っていた。
今日もクロームは庭師のマホガニーと手入れをしている。
微風がそよぐ、いい季節だ。
陽射しも穏やかで
外に居ても心地いい。
『イスタリア様、』
庭に出て来た俺に気が付いた
クロームが此方に駆けて来た。
「忘れ物だ。」
そう言って、クロームの頭と首に
綿織物のストールを巻いた。
『あ、また忘れてました。ありがとうございます。』
「外に出る時は必ず、して行くように。」
素直に頷くクロームの
瞳は、今日も相変わらず綺麗だった。
『イスタリア様、先程ウェン様からお願いされていた香油の壺を、浴室に運んでおきました。』
「あぁ、重かっただろうに…ありがとう。あれは壺を替えなければ、いつか割ってしまいそうだ。」
『入れ替えなら、手伝います。』
「いや、まだ代わりが見つからない。また、近々探しておこう。」
商人も何人か出入りするこの屋敷には、調度品の数々
異国の織物、絵画、楽器に至るまで何でも置いてある。
それを整理してまわるのも
ひと苦労。
従者のウェンからは、動物だけは
飼わないように釘を刺された。
でないと、俺の性格では
動物園になりかねない、と
言う事らしい。
的を得た意見だ。
マホガニーにも、同じような事を言われた。集めるのは上手いが
管理、維持できれば言う事は無いと。
まるで、何でも拾って来る子供みたいに言われたのだ。
『夕食まで、外出ですか?』
「あぁ、海岸通りにある店の見廻りだ。」
統べる側としての務めとしては、
取り締まりの一端を担う事にもなる。
あまり、いい気はしないが、
この街を住み良いものにする為には欠かせない。
「帰りが遅かったら、皆で先に夕食を摂るように。」
『…見廻り、行って欲しくありません。』
クロームは、不安げに
此方を見ている。
「ウェンから、聞いたのか。」
『イスタリア様が、また危ない目に遭ったら…』
「あれは、異国の不法労働者に襲われたが。最近はそういった情報も無いから大丈夫だ。しかし、油断はせず…行ってくる。」
『イスタリア様がご無事に帰られますように…』
今にも祈りだしそうなクロームの手を、両手で握る。
緊張が走るように、
冷たい手をしたクロームに
心が揺れた。
彼は、本気で…。
篤い思いに、感情が高まる。
「ありがとう。きっと帰って来るから、そんな辛そうな顔はするな。」
家族、とでも言うのか?
よく分からない奇妙な関係。
主従とも言うのかもしれないが
俺は、その例えは好きじゃなかった。
クロームも、最初はお金欲しさに連れてこられたみたいな時期もあったが…今はそんな話もしなくなった。
この狭い屋敷での小さくて深い人間関係が俺には心地良かった。
『はい。いけませんね。近頃いつもイスタリア様をこうして困らせたりして。…あの、本当に気を付けて行ってらっしゃい。』
風になびくクロームの髪を
視線で追っていた。
「行ってくる。」
今日は、砂塵も起こらず
良い日だ。
屋敷を出て、従者のウェンと海岸通りまで歩く。
ウェンは、屋敷では付き合いの長い従者だ。
歳は一回り程離れているが話やすい性格のため、何の相談もしやすかった。
その答えが、いささか
おかしなものだったとしても
こちらが、笑って済ませれるよな
そんな人物だ。
『クロームは、気が付かない奴ですね。』
あくまで、視線は交えずに
ウェンは、街並みを見ながら切り出す。
「クロームが?…どういう意味だ。」
何を言うかと思えば。
『そうですよ。鈍い。見ている私が恥ずかしいです。あんな…生娘みたいな、』
やれやれ…。
「何だ、クロームの趣味を分かっているみたいな口ぶりじゃないか?」
『分かりますよ。私が連れて来ましたから。クロームは、貴方が…』
「くだらない。」
興醒めもいいとこだ。
『過ぎた真似を致しました。申し訳ありません。しかし、若い彼には悩まされますね。』
「若かろうが、歳を取ってようが…思い悩むさ。」
訪れた先の商人の店で、経営状況や、雇用人数の確認などをして
あっと言う間に時間が過ぎて行く。
昔、こんな事をしていたが為に
恨みを買い
切りつけられた事があったのだ。
クロームは、それを聞いて
あんなに心配するのだろう。
確かに、嫌な…まるで粗探しをしているような気持ちになるが
この街において、公正公平で無い事は、正さねばならない。
均衡を保たねばいけない。
この思いだけは
今も昔も抱き続けている。
羊毛を扱う店で、陽が沈むまで
調査を行い
長々と協力してくれた店主に
深く頭を下げてから、ウェンと
帰路につく。
庭師のマホガニーは、帰った後で
ダイニングにはポツンと
クロームだけが頬杖をついて
待っていた。テーブルに並ぶ
料理の数々はまだ、温かな湯気が
上がっていた。
「ただいま。」
『あ、お帰りなさいませ…あれ?ウェンさんは?』
「あぁ、ウェンならそのまま帰った。何だ、話でもあったか?」
ウェンも、マホガニーと同じで
家から通って勤めていた。
だから、夜は2人になってしまう。
女の人を連れてきていたならば
通いにしていたかもしれないな。
どうだろうか、
今となっては、よく分からない。
クロームは、下手したら
女の人より魅惑的で
一緒に居るのが時々辛くなる。
あまりに、無意識なのに色香が…夜のクロームにはあった。
その香りに包まれて、目覚めた朝があった。
決して、やましい話ではなく
街で流行っていた酒を
酒場で飲み明かしていた所に
クロームが、俺を迎えに来た。
『イスタリア様、深酒は体に良くありません。帰りましょう?お支払いはしてあります。貴方は…、こんなにも酔い潰れたりして…みっともないですよ。』
夜風に体を冷やさぬ様にと
クロームは、俺にマントを着せた。
よろけながら椅子から立ち上がり
クロームの肩に手を掛けて、酒場を後にする。
「たまには、いいんだ。あの酒場は昔なじみがやってる。」
『貴方も、普通のその辺の人と変わらないのでしたね。安心しました。でも、大丈夫ですか?気分は悪くなったりしていませんか?』
「平気だ…。」
庭師のマホガニーも、従者のウェンも、帰宅した後だ。
これは、クロームが判断して
迎えに来てくれたんだな。
明日は、祝日だから1日ゆっくりできる。
クロームは、明日
何をしているだろう?
何処に行くだろうか。
聞けば分かるのに、聞けない。
心の中をまだ、見せられない。
最近のクロームは、俺にもよく
世話を焼いてくれるようになった。
『夜は、僕が貴方を守らなきゃ。ウェンさんと、マホガニーさんと約束しましたから。』
任せてください、と
得意げにするクロームに体を支えられながら帰る道は
悪くなかった。
俺にとっては、愛しい時間とも言えよう。
クロームは、陽の下でも輝き
夜は、優しい香りで花開く。
現実を生きている筈なのに
どこか儚げな一面が見え隠れして
それが、心に引っかかる。
気になるなんて
ぬるい言葉じゃ足りない。
「夜は、自分を守った方がいいんじゃないか?…クローム。」
意味ありげに笑う俺を見ても
クロームは、不思議そうに微笑んでいた。
『まさか。イスタリア様は、冗談さえお上手ですから、困ります。さぁ、寝台に横にになって下さい。入浴は明日の朝で構いませんか?沸かしておきますね。』
クロームが寝室から立ち去ろうとした瞬間の香りで
一気に目が覚めた。
ぐっ、と
クロームの腰帯を引く。
バランスを崩しかけたクロームの体をしっかりと抱き留めた。
が、なんで男がこんなにいい匂いがするんだ…。
本気で、恋してしまいそうな
誘惑の香り。
碧い瞳。
『イスタリア様?』
「反則だ、こんな甘い匂いをさせてるなんて。」
『匂い?』
心あたりが無い、とでも言いたげにクロームは首を傾げた。
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精いっぱいの気遣いなんだろう。
クロームは、優しい笑みでうかがう。
「まるで、子供扱いだな。酔ってるせいだ。大目に見てくれ。」
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おずおずと、後退りしそうな
クロームを呼び止めて
手招く。
「怖がらないでくれ、別にとって食おうって訳じゃない。ただ、お前を想っている。それだけだよ、クローム。」
『僕も…イスタリア様だったら好きです。だから、良い匂いだって言われてるみたいで嬉しいです。』
「…なぜ、来た?俺の元に。ウェンか、説明があったはずだろう。連れて来られる前に。」
そっと、クロームの頬に手をのばし、滑らかな頬を撫でる。
重い瞬きに、クロームが
まんざらでもない事に気づく。
『お金が欲しかった、だけです。』
「嘘が下手だな?ならば俺が言おうか。」
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「冗談だ。そうだったな、確かにここで住み込みで働けば…金は貯まるだろう。」
『イスタリア様、…』
ふと、クロームを見ると
目を伏せている。
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何の疑問もなく
俺とクロームは互いの距離を縮めて、寝台に上がらせる。
小さく軋む音を、聞き流して
ようやく同じ視線の高さにある
クロームを抱き締める。
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『え?』
「匂いは…な、記憶だ。それだけじゃない。人に働きかける。」
『僕、本当に何も付けたりはしていません。庭で草花を触ったりしてますが…もしかして、それが原因かな?』
「…うちの庭に、香りが強いものはあまり無かったが。」
『夜香蘭なら、ありました。』
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クロームの長く編まれた三つ編みを緩く引いて
首筋に、口付ける。
『わぁっ、イスタリア様、何するんですか!』
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目を逸らす。
「何も…ただ、お前が可愛いんだ。さぁ、金が欲しくて俺の元に来たクローム…後は、どうすればいいか、分かるだろう?」
『僕は、僕は…ただイスタリア様にお仕えしながら、お金を貯めて。ゆくゆくは、緑の絨毯を………』
クロームの身体から、力が抜け
だらりとする。
「クローム…?」
『………』
眠っているようだった。
静かに横たわらせて、
しばらく様子を見ていた。
どうにも、おかしい。
イスタリアは、クロームを起こさないように寝台から降りて
書斎に向かった。
マホガニーから、譲り受けた
植物に関する書を棚から探し当てる。
年季の入った図鑑のような書籍を見つけると
ページを何度もめくった。
「夜香蘭……、本当にあるんだな。」
以下のように書いてあった。
夜香蘭は、日中こそ香りは
そこまで強くないが
昼間に、人についた花粉が
夜になると甘く強い香りに変化する事から、この名前が付けられた。
その香りは独特ながらも、調香師にも再現が、難しいと言われており古くから媚薬などの原料に用いられる。
常習的に、この香りに触れていると強い眠気に襲われるという報告がある。
いまだに、謎の多い花で
研究が進んでいるものの
明確な、人に対して夜になると強くなる香りの作用などは分かっていない。
「クローム…しばらく夜香蘭に触れさせてはいけないな。」
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肩がぶつかり、
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クロームの脚を見る。
「…お前は、よく分からないな。」
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心が動くんだ。
『イスタリア様こそ、分からないです。すぐに居なくなってしまう…。あっ、すみません。今のは忘れて下さい。』
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『僕、寝ます。お休みなさい。』
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クロームは、廊下を足早に去って行った。
「眠れそうにないな…あれは。」
寝室に戻ると、クロームの
残り香がシーツにまだあった。
確かに、これは…誘われる。
時間の問題だな。
マホガニーに、クロームは夜香蘭の近くに行かないよう
注意してもらおうか。
そう、思っていたのに。
嫌な予感がしていた。
『はぁ…、夜香蘭を?それは昔からの言い伝えにありますが。夜香蘭が夜になると強く香るのは、想い人に気付かせる為だと言います。とにかく謎が多い花で。クロームが、誰かを慕っていながら想いが募る限り、匂いはするでしょうね。』
庭で剪定をしているマホガニーの手伝いを、しながら
夜香蘭について、聞いた。
「そんなことがあるのか?」
『そういえば、その夜の香りが発せられて、伝わるのはその花粉が付いてしまった本人の想い人だけらしいです。』
何て事だ。
「……俺は、匂いが分かるんだが。」
『さすがは、イスタリア様。色男ですからねぇ…貴方は。』
茶化さないでくれ。
マホガニーは、呑気に笑っている。
そんな穏やかな気持ちになれるものか。
あまりに、重い事実に
目を背けたくなる。
クロームは、
クロームの気持ちは
どうなんだろう?
ふと、薬草を摘む姿を前方に
見つけて
思わず目が綻ぶ。
金糸のような髪が、細かに揺れて
それだけでも視線を持っていかれる。
~後書き~
新しく書き始めました緑の絨毯。
まだまだ設定なども細かくは作っていませんが、かなり好きな分野を詰め合わせが出来ているので
書いてて楽しいです。
では、ここで、改めて名前の由来や色のテーマを。
クローム=イメージカラー黄色。クロムイエローから由来。クロムだと、金属の、一種になるので、クロームに。
イメージする香りは、イランイラン。お花屋さんの香りみたいな匂いがする。イスタリアを無意識に誘惑する香り。
イスタリア=イメージカラー紫色。
ウィスタリアという紫系統の色名から由来。
イメージする香りは、まだ未定。
マホガニー=温かみのある茶色がイメージカラー。茶色系統のマホガニーから由来。
イメージする香りはまだ未定。
世界観としては、微量なファンタジー間に現実で出来ています。
新旧が混じり合う、治安が少し悪い
世界です。
ちなみに、夜香蘭と言う花は私の創作です。
あれば、面白いのになぁとも思います。
閲覧ありがとうございます。
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