Yの遺伝子 本編

阿彦

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1章

2話 審判

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 自宅に帰ると、光輝が満面の笑みで出迎えてくれた。最近、ハイハイができることが楽しくてしょうがない息子は、暗闇の廊下からバタバタと足音をたててやってきた。父ちゃんが帰ってくるの待っていたのだろうか。やはり、なんとも言えない幸福感。

「今期に入ってからの部内の業績が悪い。お前らが、会社の足を引っ張っている。給料泥棒め!  つまり、お前が悪い!!」

 日中、雨池専務に呼び出されて、赤点をとった中学生のように、立たされた。普通の会社ならば、公益通報によりパワハラ認定だろう。私には、嫌なことは右の耳からいれて、左の耳からたれ流すことができる特技をもっている。にもかかわらず、専務からの延々と続く嫌味はダメージが残った。だが、帳消しとなるくらいのとびっきりの光輝の笑顔だ。

 当然ながら、台所にいるはずの専業主婦の妻からの出迎えはない。ただ、玄関までカレーの香ばしい匂いが漂っていた。昼もろくに食えなかったので、腹が減ってしょうがない今日は特別に許すことにした。

 大皿てんこ盛りにしたカレーライスを、自分でよそって、力一杯に頬張った。普段は、夫婦の会話はあまりないが、できるだけ私から話をするようにしている。今回のネタは、帰りの電車で起きた「縄張り争い」について、脚色をつけながら話した。

 おっさんとカマキリの闘いを、ここまで面白おかしく話したにも関わらず、妻は相槌を打つだけで、まったく、興味を示さない。

 長年、共に暮らしてると言葉を交わさなくても夫婦とはわかりあえるものだ。今日の彼女は機嫌がすこぶる悪い。妻は、息子が一日中ぐずって大変だった話を延々と続けた。結局は、会社でも家でも同じことを繰り返すだけだ。私の特技を出すときがきた。

「まだ、早いとは思うんだけど、習い事とかどうする? 英会話とかいいんじゃないかなと思うんだけど……」 

  しばらくは、妻の愚痴を修行僧のように耐えた。さすがにこれ以上は限界だと思い、無理やり、違う話題をぶっ込んで見る。

「そうね。いいんじゃない。早いうちから始めた方がいいもんね。いくらぐらいするの? 」と意外にも妻も乗ってきた。

「ピンからキリまであるけど、電車の広告に流れていたのは英会話教材一式で、20万くらいとかな……」

「そんなの、無理に決まってるでしょ!!  これから、光輝を育てるのに、いくらかかるのか分かってる? どれだけ、私も欲しいものがあるのに我慢してるの分かってる? 英語なんて、あなたが、教えればいいじゃない!!」

  先程の愚痴話をグレードアップさせ、とめどない口撃をしてきた。今日、3回目の特技を出すときがきた。特技は、一日、2回しかだせない。

 そもそも、英語なんて教えられるわけないだろ……。
 社会に溢れているカッコつけが考えたカタカナ用語もついていけないのに……。

 先程、私はそれなりに社会的な地位があると豪語してしまったが、どうやら大きな間違いでした。電子広告のなかで楽しそうにダンスしていたキャラクターくん、レッド、とてもじゃないが、君たちの期待に応えれそうもない。すまん、諦めてくれ!!

 会話の途中で、どさくさに紛れて遺伝子検査もやりたいと言おうと思ったのに、なにも言えなくなった。

 仮に、今後の健康管理のためにやるんだ!と言ってみる。そんなものやるくらいなら、カレー山盛りで食べるのやめたらと返って来るだろう。それから、私の腹が出てきたことをジワジワと追撃してくるだろう。いまは、好物であるカレーを堪能しようと決めた。はい終戦!!

  子供をお風呂にいれ、ようやく本日の業務は終了し、一息をつくことができた。子供を育てるのは、40歳を超えるとなかなかの重労働だ。先日も、光輝が真夜中に嘔吐したときは、あれは大変だった。子育ては綺麗事だけではないのだ。

 妻は、10時から始まった不倫を題材にしたドラマに釘付けだ。最近、そのドラマにはまっているらしく、一人で自分の世界に入りたいと私はお邪魔虫だ。
 40歳を超えたおばさんでも、女子高生のようにキュンキュンしたいらしい。誰も相手をするお人好しもいないのに……
 
 疲れた体を休めるために、寝室で布団に入ってからも、遺伝子検査が諦めきれず、スマホをいじってみる。不倫ドラマの世界にまだ陶酔している妻は、そのまま無言で部屋の電気を消し、布団の世界に飛び込んだ。

 検索して分かったことは、国内、海外で遺伝子検査会社が複数あった。しかも、値段も検査方法も敷居が高いのかと思っていたが、民間レベルにおいても、簡易で我々の生活に浸透してきているのだと感じた。検査内容、値段によってランキング形式をベースとしたおまとめサイトもあった。

 恥ずかしながら、うちの財布は妻が全て握っているため、バレない金額にしないと後々が怖い……

 その中で、ランキングは下位だが、ある遺伝子検査会社に行き着いた。

《期間限定》
「業界最安値で、最高の遺伝子検査を提供します。 ミトコンドリア遺伝子、Y染色体で祖先のルーツをどこよりも詳しく調査します!!」

 この会社のホームページをみると、遺伝子検査を利用して、祖先探しがメインの作りになっている。アフリカで誕生して、どのように自分の遺伝子が日本に渡ってきたのかを、アニメーションで体験できるというものだった。

 私自身は、遺伝子からの体質、病的リスクを知りたいのであって、その会社のコンセプトは多少ずれているところがあったが、調査対象は200項目もあって、十分だった。

 なによりも、同業他社が大体30,000円くらいする価格体系なのに、この会社は、キャンペーン中の期間限定ということで5,000円という事が魅力的だった。   
 これなら、クレジットをきっても、妻には飲み会だったとかでごまかせると確信した。

 運営会社「株式会社w社」を調べると、去年の夏に設立されたスタートアップ企業であり、資本金は20億と記載されている。役員にはいかにもという外国人の名前が連なっており、外資系なのだろうか。この遺伝子検査サービスは、最近開始したばかりのようだ。

 ユーザー数をとにかく集めて知名度をあげることが目的なのだろうが、他社に比べるとこんなにも安価で採算がとれるのだろうか。ま、遺伝子情報を集めてからのストック商売なんだろうと、会社での肩書きである新規開発部長の本能が出てきた。

 真っ暗闇の中で息子が、突然泣いた。怖い夢でも見たのだろうか。背中をさすりながら様子をみると、深い眠りに落ちていった。少し前まで、妻のお腹を蹴っていた子が、もうこんなに大きくなったと感心する。血を受け継いだ我が子はどんな大人になるのだろうと思った。少なくとも、妻に尻にひかれたり、ネチネチ叱られて欲しくはないなと頭を撫でた。

 再び、布団に入ってから、ホームページ内の個人情報、携帯のアドレスを登録した。慣れてない作業に、なかなか手間がかかったが、最後の注文ボタンまでたどり着き、ほっとした。

「あんた、なに携帯いじってるの?ゲームばっかりやってないで早く寝てよ」

 暗闇のなかで、妻が言い放った言い方は、昼間に嫌味を言ってきた雨池専務にそっくりな言い回しだった。


 数日後、検査会社から無機質な小包箱が送られてきた。箱にはご利用ガイド、唾液を採取する検査キットが入っていた。採取自体は思ったよりも簡単だった。最後に申込書と同意書を記入して返送した。

遺伝子検査申込書 兼 同意書 (以下抜粋)

☆研究に関しての同意書☆
 株式会社 w社は、ヘルスビックデータを用いた医学的技術、考古学、人類史研究を行っています。趣旨に賛同し、飲料および解析結果に同意を頂ける場合は、下記の「同意します」をチェックください。

 w社のホームページにID、パスワードを入れると検査ステージを確認できる。進捗状況は、遺伝子解析度●●%といった形で表記される。解析結果には、1ヶ月くらいを予定しており、解析が完了した場合は、登録したアドレスにメールがくる仕組みになっている。

 返送してから数日後、遺伝子解析を開始しましたとのメールがとどいた。私は審判のときを待った。
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