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遠江国掛川城死闘篇
今川家は衰退しました(2)
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1568年(永禄十一年)十二月十一日。
武田軍一万八千が、今川の領地・駿河国庵原郡内房(静岡県富士宮市)にまで進軍して来たという報告を聞いて、氏真は観念する。
氏真のいる駿府城今川館(静岡県静岡市)まで、四十数㎞しか離れていない距離である。
明日には真面目に迎撃しないと、明後日には駿府城今川館に到達してしまう距離である。
「ああああああああああああ」
内心の狼狽を全身からだだ漏れさせながら、氏真は最も頼りになる武将に顔を向ける。
既に戦装束の朝比奈泰朝さんが、活き活きと氏真に報告する。
「我が方は、二万です。薩埵峠で迎撃すれば食い止められますし、援軍に来る北条が武田を背後から襲ってくれます」
朝比奈泰朝は、景気良くバシバシと手を叩いて興奮を隠さない。
この人が大河ドラマに出ないのは、つくづく不思議だ。
「武田は信玄坊主も出向いています。ここで一気に、首を取る事も可能です。武田さえ消えれば、後は恩知らずの三河のみ。今川は安泰…」
急報を告げる乱暴な足音が、今川館に轟く。
礼儀作法の徹底している今川館では、あり得ない現象だ。
それも、一人ではなく、複数の。
氏真は、桶狭間の悲報以来の凶報を想起し、浮き足立つ。
「内通者の謀反か? 武田が進軍速度を速めたのか? それとも…」
朝比奈泰朝は、駆け込んで来た武者たちが平伏し、挨拶を大急ぎで済ませてから緊急速報を語るのを待つ。
「三河の軍勢が、遠江に進軍していまするっ」
武田と連動した徳川の同時進軍に、朝比奈泰朝でさえ凍り付いた。
武田軍相手の戦略は、半年前から十全に練られている。
兵数も、互角以上に揃えた。
地の利のある場所で戦える。
だが。
西の三河勢が、武田と同時に侵攻して来る事態までは、想定していない。
武田を挟み撃ちにする前に、今川は挟み撃ちにされていた。
「遠江の国人領主たちは次々に寝返り、道を開け、城を使わせ始めましたぁ!」
現在判明している、造反者の名前が挙げられる。
名前を聞く度に、朝比奈泰朝は脳内の「次に会ったら皆殺しリスト」へ書き加えておく。
だが、最後の名前を聞いた時、朝比奈泰朝は報告者の襟首を掴み上げて激しく問い質した。
「久能が裏切ったとは、真か!?」
「真ですっ! 既に城には、三つ葉葵紋の旗がっ! 酒井忠次や服部半蔵の軍も確認されていますっ」
朝比奈泰朝は相手を放して小さく侘びを言うと、考えをまとめ直す。
久能の治める領地から今川館までは、五十数㎞。
朝比奈泰朝の所有する掛川城までは、八㎞未満。
(今すぐに戻らないと、掛川城が三河勢に…)
朝比奈泰朝は、自分の城が惜しくて焦っている訳ではない。
(守るだけなら、居留守役でも充分に可能だ。だが…攻め切れないと判れば、三河勢は…素通りして、ここを目指す。城の連中に、三河勢の背後を突く余裕はない。奴等を、止める術がない)
薩埵峠で武田を迎撃しても、駿府城今川館を徳川家康に落とされては意味がない。
西から迫る三河勢を止める算段を、朝比奈泰朝は求められた(氏真は浮き足立ったままだし、他の幕僚は泣き叫ぶだけ)。
やがて。
朝比奈泰朝の顔が、何の表情も浮かべていない事に気付いた氏真は、相当に非情な策だと察して寒気を催す。
朝比奈泰朝は、何も読み取らせないまま、無表情に宣言する。
「某は、今から掛川城に戻り、三河の軍勢を食い止めます。連れて行くのは、某の手勢七百だけです。掛川城の兵と合わせれば、千名。この千名が、今川の西の盾となります」
朝比奈泰朝が抜けても、今川の数の優位は変わらない。
それでも今川館で軍議に参加した面々は、東海道最強が決戦前に抜ける事に、動揺する。
武田の大軍と、戦上手で知られる徳川家康の軍に東西を挟まれているのに、更に事態が悪化している。
桶狭間の悲劇が起きてから八年間抱いてきた、今川は滅びるという危機感が、暴発寸前まで膨れ上がる。
「明日は、この朝比奈泰朝が三河勢を駆逐する事に費やします。明後日には今川館に戻り、三日後には薩埵峠で肩を並べましょう」
急に。
穏やかな顔で、涼しげな声で、朝比奈泰朝は楽観的な戦略を吹き込む。
朝比奈泰朝の戦略を、その場その時、面々は信じようとする。
氏真だけは、長い付き合いで朝比奈泰朝の作り笑いを警戒する。
朝比奈泰朝は、瞬時に氏真との距離を縮めると、
「…掛川城で、待っています」
とだけ耳元に言い残し、掛川城へ出発する。
氏真は、その意味を、真剣に検討する。
検討した結果、苦笑してしまった。
掛川城以外は落ちるから捨てろ
(…まあ、元々、滅びても不思議ではない八年間ではあったし)
最後の緊急避難先が決まると、氏真の心境が落ち着いた。
「さあ、皆の者。我らも薩埵峠へ急ぐぞ。朝比奈が戻ってくるまで、武田を押し留めるだけの簡単な戦だ」
軍議で初めて当主らしく士気を鼓舞し、氏真は面々を東へ出発させる。
一同は、気勢を上げて見せて、おとなしく指示に従った。
寿桂尼が生きていたら、警告しただろう。
戦国大名の落第生・今川氏真の鼓舞で士気を上げて見せるような奴を、信用するなと。
武田軍一万八千が、今川の領地・駿河国庵原郡内房(静岡県富士宮市)にまで進軍して来たという報告を聞いて、氏真は観念する。
氏真のいる駿府城今川館(静岡県静岡市)まで、四十数㎞しか離れていない距離である。
明日には真面目に迎撃しないと、明後日には駿府城今川館に到達してしまう距離である。
「ああああああああああああ」
内心の狼狽を全身からだだ漏れさせながら、氏真は最も頼りになる武将に顔を向ける。
既に戦装束の朝比奈泰朝さんが、活き活きと氏真に報告する。
「我が方は、二万です。薩埵峠で迎撃すれば食い止められますし、援軍に来る北条が武田を背後から襲ってくれます」
朝比奈泰朝は、景気良くバシバシと手を叩いて興奮を隠さない。
この人が大河ドラマに出ないのは、つくづく不思議だ。
「武田は信玄坊主も出向いています。ここで一気に、首を取る事も可能です。武田さえ消えれば、後は恩知らずの三河のみ。今川は安泰…」
急報を告げる乱暴な足音が、今川館に轟く。
礼儀作法の徹底している今川館では、あり得ない現象だ。
それも、一人ではなく、複数の。
氏真は、桶狭間の悲報以来の凶報を想起し、浮き足立つ。
「内通者の謀反か? 武田が進軍速度を速めたのか? それとも…」
朝比奈泰朝は、駆け込んで来た武者たちが平伏し、挨拶を大急ぎで済ませてから緊急速報を語るのを待つ。
「三河の軍勢が、遠江に進軍していまするっ」
武田と連動した徳川の同時進軍に、朝比奈泰朝でさえ凍り付いた。
武田軍相手の戦略は、半年前から十全に練られている。
兵数も、互角以上に揃えた。
地の利のある場所で戦える。
だが。
西の三河勢が、武田と同時に侵攻して来る事態までは、想定していない。
武田を挟み撃ちにする前に、今川は挟み撃ちにされていた。
「遠江の国人領主たちは次々に寝返り、道を開け、城を使わせ始めましたぁ!」
現在判明している、造反者の名前が挙げられる。
名前を聞く度に、朝比奈泰朝は脳内の「次に会ったら皆殺しリスト」へ書き加えておく。
だが、最後の名前を聞いた時、朝比奈泰朝は報告者の襟首を掴み上げて激しく問い質した。
「久能が裏切ったとは、真か!?」
「真ですっ! 既に城には、三つ葉葵紋の旗がっ! 酒井忠次や服部半蔵の軍も確認されていますっ」
朝比奈泰朝は相手を放して小さく侘びを言うと、考えをまとめ直す。
久能の治める領地から今川館までは、五十数㎞。
朝比奈泰朝の所有する掛川城までは、八㎞未満。
(今すぐに戻らないと、掛川城が三河勢に…)
朝比奈泰朝は、自分の城が惜しくて焦っている訳ではない。
(守るだけなら、居留守役でも充分に可能だ。だが…攻め切れないと判れば、三河勢は…素通りして、ここを目指す。城の連中に、三河勢の背後を突く余裕はない。奴等を、止める術がない)
薩埵峠で武田を迎撃しても、駿府城今川館を徳川家康に落とされては意味がない。
西から迫る三河勢を止める算段を、朝比奈泰朝は求められた(氏真は浮き足立ったままだし、他の幕僚は泣き叫ぶだけ)。
やがて。
朝比奈泰朝の顔が、何の表情も浮かべていない事に気付いた氏真は、相当に非情な策だと察して寒気を催す。
朝比奈泰朝は、何も読み取らせないまま、無表情に宣言する。
「某は、今から掛川城に戻り、三河の軍勢を食い止めます。連れて行くのは、某の手勢七百だけです。掛川城の兵と合わせれば、千名。この千名が、今川の西の盾となります」
朝比奈泰朝が抜けても、今川の数の優位は変わらない。
それでも今川館で軍議に参加した面々は、東海道最強が決戦前に抜ける事に、動揺する。
武田の大軍と、戦上手で知られる徳川家康の軍に東西を挟まれているのに、更に事態が悪化している。
桶狭間の悲劇が起きてから八年間抱いてきた、今川は滅びるという危機感が、暴発寸前まで膨れ上がる。
「明日は、この朝比奈泰朝が三河勢を駆逐する事に費やします。明後日には今川館に戻り、三日後には薩埵峠で肩を並べましょう」
急に。
穏やかな顔で、涼しげな声で、朝比奈泰朝は楽観的な戦略を吹き込む。
朝比奈泰朝の戦略を、その場その時、面々は信じようとする。
氏真だけは、長い付き合いで朝比奈泰朝の作り笑いを警戒する。
朝比奈泰朝は、瞬時に氏真との距離を縮めると、
「…掛川城で、待っています」
とだけ耳元に言い残し、掛川城へ出発する。
氏真は、その意味を、真剣に検討する。
検討した結果、苦笑してしまった。
掛川城以外は落ちるから捨てろ
(…まあ、元々、滅びても不思議ではない八年間ではあったし)
最後の緊急避難先が決まると、氏真の心境が落ち着いた。
「さあ、皆の者。我らも薩埵峠へ急ぐぞ。朝比奈が戻ってくるまで、武田を押し留めるだけの簡単な戦だ」
軍議で初めて当主らしく士気を鼓舞し、氏真は面々を東へ出発させる。
一同は、気勢を上げて見せて、おとなしく指示に従った。
寿桂尼が生きていたら、警告しただろう。
戦国大名の落第生・今川氏真の鼓舞で士気を上げて見せるような奴を、信用するなと。
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