唾棄すべき日々(1993年のリアル)

緑旗工房

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第52話 葉桜

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次の派遣先のことが頭から離れないまま忙しい日が続き、いつの間にか桜は散っていた。
残業を終えて家に向かう途中に通る歩道橋から見下す小さな公園には桜の木が数本ある。
街灯に照らされた公園の桜は、すっかり葉桜になっていた。

景気が良かった頃は、花が咲こうが散ろうが気になんかしなかった。
ましてや葉桜なんて全く興味がなかった。
しかしこんな日々が続いていたせいなのか、街灯に照らされた葉桜の鮮やかな緑がガラにもなく心に染みた。

俺は歩道橋の上で立ち止まって、タバコを吸いながら思った。

来年、葉桜を見るときどうなっているんだろう。
この日々がまだ続いているんだろうか。
それとも…


ポンちゃんも忙しい時期になってきたらしく、俺が土曜日に会社に行くとたいがい先に来ていた。

ポンちゃんは俺の顔を見るなり笑顔で話しかけてきた。

「例の通勤5時間のことで朗報です、別の人がやることになったそうですよ」

そうか、命拾いしたのか。
これで辞めずに済んだようだ。
いや、辞めどきを逸したのかもしれないが。


こんな辺鄙な場所の仕事でも飛びつくしかないことが、厳しい状況が続いていることを表していた。
俺の代わりに行くことになった人も往復でたっぷり5時間かかるそうだ。
その人は妻子持ちで家のローンがあって、辞めるに辞められない立場だ。
ひょっとしたら独身で身軽な俺にその仕事を振ったら辞めそうで、それで辞めないであろうその人に振ったのかもしれない。

会社が俺を評価しているかどうかは別として、こんな時期だから平時以上に人が減るのは痛いはずだ。
社員が減れば売り上げも減る、手空きで仕事がなければともかく、なんらかの仕事がある人なら誰であっても辞めてほしくないのだろう。

たぶん今回の場合は仕事の切れ目の関係でその人に割り当てられただけで、深い意味はないのかもしれない。
ただ、ウチの会社は昔から社員の弱みを握るのが得意だ。

不況になる前もそんな噂がいくつもあって、家を買った途端に条件の悪い派遣先に飛ばされた人もいた。
たまたま運が悪かっただけなのかもしれないが、辞められない立場を見透かされて割り当てられたとしか見えなかった。

逆に家が金持ちだと少しでも不満があれば辞めてしまうことを恐れて条件の悪い仕事が回ってこないという噂もあった。

景気がいい時でも条件の悪い仕事はゼロではなく、得意先との関係で条件は悪いけど断れない仕事もある。
人手不足が常態化していたので、いかに社員を集めるかも大切だが社員を辞めさせないことも重要だ。

条件の悪い仕事を取らないのが一番ではあるが、そうそう理想的にはいかない。
となると、誰かが貧乏くじを引く。
その時に会社が考えるのは実に冷酷で、辞められないやつに押し付けるだけだ。

通勤5時間の仕事が俺でなくなってホッとした反面、辞めないで済んだということは辞めるふんぎりがつかなくなったということでもある。
ホッとする気持ちの中に、僅かながらがっかりする気持ちがあるような気がした。

だれかが背中を押してくれたら、この唾棄すべき日々から脱出できるのだが。
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