唾棄すべき日々(1993年のリアル)

緑旗工房

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第39話 卒業

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Xデーの数日後、今田は剛田課長に辞意を伝えたそうだ。

1日でも早く辞めたかった今田は、就業規則通り3週間後の退職日を伝えたが、業田課長は4月末にしろと言って譲らなかったらしい。
どうやら派遣先との契約の関係期間の関係のようだが、すぐにでも辞めたい今田に向かって業田課長は「お前、依願退職にしたいんだろ?」と脅してきたそうだ。
言うことを聞かなければ懲戒解雇にするぞ、という意味だ。

懲戒解雇はサラリーマンにとっては前科が付くようなもので、再就職の時には確実に不利になる。
恫喝された今田はやむなく4月下旬まで派遣先で針のむしろの日々を送った。
労基署にでも相談すればなんとかなったのかもしれないが、そんな知識も心の余裕もなかったのだろう。

ようやく辞める日が来て会社で手続きを済ませた今田が、私物の整理をしながら俺にこんなことを言った。

「Zさんの気持ちがはじめて分りました。
会社に行こうと思っても、身体が動かないんです。
行かないといけないと分かっていても、身体が動かないんですよ」

Zさんとは数年前に出社拒否症になって辞めた人で、俺も一緒に仕事をしたり飲みに行ったりしていた。
おとなしい性格で小声でボソボソ話す人だったが、酒の席では声も態度も急に大きくなるのが常だった。
今思うとアルコールの力がなければ本当の自分を出せなかったのだろう。

Zさんは仕事で行き詰まり、誰にも相談できず自分で抱え込み、突然会社に来なくなった。
数日間連絡が取れず、その間に周囲が仕事の進捗を確認したら、ちょっと洒落にならないほど遅れていた。
それまでの進捗会議での報告は嘘だったことがバレた。
もう任されらないと判断し、復帰を待たず別の技術者が尻拭いすることになった。

今と違って景気が良くて人手不足の時代だったので、これが初犯なら許されたと思う。
しかし、以前にも行方不明騒ぎを起こしていたためかばう人もおらず、Zさんは辞めていった。

大工さんのように見える物を作る仕事なら、目で見れば大体の進捗はわかる。
しかしソフトウエアは目に見えないので、本当の進捗や品質は簡単にはわからない。
そのためにウオークスルーなど様々なチェック方法があるのだが、そんなことをする時間も人もいないのが現実だ。
結局、進捗会議では自己申告を信じるしかないので、嘘をつかれたらそれまでだ。
嘘ではなくても、本人は完璧だと思ってもテストしたら話にならないほど酷かったなんてこともよくある。

そんなチェック体制の甘さも手伝って、納期近くになって飛んだ、つまり会社に来なくなった人もいた。
俺はそんな人間を見下していた。
弱いから、技術者としての自信がないからそうなるんだと思っていた。
できないことをできないと言うのも技術者の技術力の一つであり、それが技術者の良心だと思っていた。
しかし不況になって今の派遣先に出されてからは、彼らの気持ちが理解できるようになった。

たしかに彼らは弱かったのかもしれない。
しかし誰でも自分の力や能力を超えた嵐に巻き込まれる危険性はあるし、そうなったら俺だってどうなるか分からない。

追い詰められた今田の脳裏には、出社できなくなったZさんが浮かんでいたのだろう。
行こうとしても派遣先に行けない、1人で人質となったら事態はさらに悪化する、今田ができる唯一のことがあのXデーだったのだろう。


今田は私物の整理が終わると、帰り支度をしながら俺に言った。

「小学校は6年間で卒業ですけど、私はここに6年いたんですよ。
だから卒業という言葉を使ってもいいですよね?
今日で、卒業だな」

俺にだけでなく、自分にも言い聞かせていたのかもしれない。


今田は静かに去っていった。
去っていく今田に声をかけたかったが、かける言葉が見つからなかった。

そして、残った俺たちの唾棄すべき日々はまだまだ続いていく。
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