唾棄すべき日々(1993年のリアル)

緑旗工房

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第35話 消えたF君

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明るい話題がないまま2月になった。

ある日、会社に交通費の精算をしに行ったら弘美さんが声をひそめながら電話をしていた。

「いえ、違うんです。
朝一番でOO銀行さんの方から振り込まれるはずだったのですが、先方の手違いで振り込みが午後になったみたいで」

なにか手違いがあったようだ。
ウチの会社のミスではなさそうだし心配することではなさそうではあるが、ギリギリの資金繰りで凌いでいるような様子がうかがえた。

そういえば下請けへの支払いも遅れに遅れているそうで、顔見知りの下請けの社長さんが苦い顔をしていた。

社内開発の仕事がほぼなくなって下請けに出すこともなくなってはいたが、たまにプログラム製造の仕事が入ることがあった。
この時期に取れる仕事などろくなものではなく、仕様変更が多くて他の会社が投げ出したとか、超短納期で火を吹くのが明らかとか、とにかくいい仕事などなかった。
単価も安く昔なら鼻も引っかけないような仕事ばかりだったが何もしないよりはましなので、そんな仕事でも会社は飛びついていた。

飛びつくのはいいが仕事を取ってから人を確保するような綱渡り、手が足りず下請けに投げるのだが、それでも足りないときは派遣先で忙しくなさそうな人に手伝わしたりしていた。
派遣先とどんな契約になっているのか知らないが、派遣先からすればいい気持ちにはならないだろう。
もうめちゃくちゃだったが、なりふり構っていられないのだろう。

ウチは安月給ではあったけど、社員に対しても社会に対しても比較的真っ当な会社だった。
それはひとえに社長の人柄だと思うが、もうそんな綺麗事は言えないほど追い詰められているんだろう。

下請けに投げた仕事の支払いが滞りがちとなると、向こうも大変だろう。
ウチの下請けは多くが零細で、当然ウチ以上に厳しい状態だ。
条件が悪い上に支払いまで遅いとなると、踏んだり蹴ったりだ。
それでも仕事がなければ社員のクビを切るしかない。
零細が社員の首を切ったら、それこそ会社自体が消滅する。

零細以外でもクビを切れば生き残れる訳ではない。
ソフト屋の売り上げは技術者の数に比例するので、人が減れば景気が戻っても売り上げは減ったままになる。
また人が少なければ小さな規模の仕事しか取れず、ビジネスチャンスを失う。
どこまで人減らしをするかは悩みどころなのだろう。


「ねえねえ、聞きました?」

メガネをズリ上げながら、ポンちゃんが俺のそばに来た。

「スッポン君が辞めたそうですよ」

スッポン君とは先日の送別会で全裸になったF君のことだ。
あの晩、カラオケボックスでスッポンポンになった話があっというまに広がって、スッポン君なるあだ名がついていた。

送別会の席で仕事の愚痴は言ってはいたが、この時期は誰しも愚痴しか出ないような状況だ。
俺は単なる愚痴だとしか思わなかった。
しかし、何があったんだろう。
少なくともあの晩の様子では、こんなに急に辞めるまで追い詰められているようには見えなかったのだが。
あまりにも急な話なので驚いたし、ポンちゃんもビックリしていた。

あの晩からまだ2週間も経っていない。
もし送別会の前に退職届を出していたのならそう話していただろうし、あの直後に退職届を出したとしても辞めるのが早すぎる。
たしか就業規則では退職の3週間前に退職届を出すことになっていたはずだし、仕事の引き継ぎとか有休消化とかを考えたら1ヶ月前に言うのが普通だ。
ところがポンちゃん情報によると、送別会の数日後に退職届を出して、なんとその日に辞めたらしい。

最近、F君と上司は何回か話をしていたそうだ。
内容はわからないが、この時期だから話し合ったとていい結果は出ない気がする。
なにがあったのかは謎だが最後の話し合いの場でヒートアップして言い争いになり、2人は人目もはばからず怒鳴りあったそうだ。
そして上司は冷たく言い放った。

「気に食わないなら辞めればいい、別に今日で辞めたってかまわない。
どうせ次の仕事も決まっていないんだ、好きにしろよ」

F君と上司は以前から折り合いが悪いことで有名だった。
でもお互い子供ではないから、ギスギスすることもあったが普段は普通に仕事をしていた。
それに、いくら相手が嫌いな部下だとしてもそこまでヒートアップするものだろうか。
学生バイトならいざ知らず生活がかかっている正社員相手に辞めればいいなんて、よほどのことがあったのだろう。
それにしても、ではあるが。

F君はその言葉にキレて売り言葉に買い言葉となり、その場で退職届を書き殴って叩き付け、そのまま会社に来なくなったそうだ。

想像だが、F君は辞めるつもりはなかった気がする。
もしその気なら退職届を持って行くだろう。
心の底に最悪辞めてもいいという覚悟はあったかもしれないが、あくまでもそれは最悪のケースだと思っていたのではないか。
仲の悪い上司と何回か話をしたその内容はわからないが、F君は話すことで不安や不満を解消したかったのではないか。
少なくとも2人ともこんな結果になるとは想定していなかったはずだ。

なにが原因だったのかは謎のままだが、その日に辞めるという異常な出来事がウチの会社で起きたのは事実だ。
もうなんでもあり、不況は社内の雰囲気も荒んだものにしていた。


その後F君からの連絡は一切なく、当然だが送別会も挨拶もなく、私物すら置きっぱなしで消えていった。
同期の仕事仲間がF君の家に電話をしたが、出なかったそうだ。
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