妹ばかり可愛がられた伯爵令嬢、妹の身代わりにされ残虐非道な冷血公爵の嫁となる

村咲

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2巻

2-2

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 シメオンさんは一度言葉を区切ると、苦々しげに首を横に振る。

「どうやら、使用人を脅して強引に突破してきたようです。怪我人が出なかったのは幸いでした」
「脅して! 強引に突破⁉」

 父のあんまりな行動に、頭がくらりとした。いきなり押しかけてきただけではなく、早々に問題まで起こしている。


「報告が遅れて申し訳ありません。昨日までのこともあり、外の状況の把握が漏れておりました」
「い、いえ。シメオンさんが悪いわけではありませんが……!」

 むしろあの忙しい中で、森の外まで気を配ってくれたのは感謝しかない。もしも森を封鎖しなかった場合、父は足止めされずに、もっと早いうちに屋敷に来ていたかもしれないのだ。
 昨日までのヴォルフ様が、父と顔を合わせていたらと思うとぞっとする。どう考えても、父がヴォルフ様の怒りを買って、屋敷が血で染まる未来しか見えない。
 だから、シメオンさんを責める気はまったくない、が。
 ――さすがに急すぎるわ!
 突然のことすぎて頭が混乱する。
 ――お父様からアーシャを引き離そうとしていたのに、お父様ごと来るなんて! あの人がアーシャを置いて帰るなんて、絶対にするはずがないわ!
 アーシャは屋敷で保護したいけど、父を屋敷に入れたら、問題を起こすのは目に見えていた。
 そもそも、父は身代わりの提案者なのだ。下手をすればヴォルフ様の怒りを再燃させ、今度こそ惨劇が起きかねない。
 ――い、いくらお父様でも、さすがに惨劇までは……!

「アネッサ」
「はひぃ⁉」

 恐怖の予感に震えていた私は、突然のヴォルフ様の呼びかけに裏返った声を返してしまった。だけど彼は気にした様子もなく、横目でなんということもないように私を見下ろす。

「君はどうしたい?」
「ど、どうって……」

 アーシャを助けたい。とにかく屋敷で保護したい。それから――
 ――なるべく、穏便に済ませたい。
 あれでも私の身内なのだ。できれば父にも無事に屋敷を出てほしい。
 そう思って、口を開こうとしたときだった。
 花園を囲う生垣の外から、無数の足音が聞こえてくる。その荒々しい響きに、私は言葉を呑み込んだ。
 なにかあったのだろうか。戸惑いながら音の方向へ目を向け――足音の正体に眩暈めまいがした。
 どう考えても穏便には済まないと、視線の先の人物を見て確信する。

「――ビスハイル公爵、そこの女から離れなさい! それは貴殿を騙そうとしている女です!」

 花園を踏み荒らしながらこちらへ近付いてくるのは、私と同じ赤茶けた髪を持つ男の人だ。
 恰幅かっぷくの良い体に、私に似てあまり美形とは言いがたい顔。その顔に浮かぶのは、嫌になるほど見慣れた怒りの形相だ。

「この私が来たからには、もう好きにはさせん! もはや娘と呼ぶのも汚らわしい! アネッサ――男をたぶらかす毒婦め!」

 そう声を張り上げ、父は私を憎々しげに睨み付けた。


     ◆ ◆ ◆


 隣で青ざめる彼女とは裏腹に、ヴォルフはリヴィエール伯爵を無感情に見つめていた。

「ビスハイル公爵、その女は嘘をついています! 父である私が言うのだから間違いありません‼」

 挨拶もなしに声を張り上げる男を、無礼ととがめるつもりはない。彼女の話から、どんな人物かはすでに予想がついていた。彼の態度も想定内で、腹を立てるほどのことでもない。
 それに、彼女の様子からどうしたいのかは察せられた。どうせ『穏便に』とでも思っているのだろう。ならば彼だって、それなりの対応は心得ている。

「その女がアーシャでないことは、すでに公爵もご存じでしょう! その理由を、その女はなんと言いましたかな? どうせ、妹であるアーシャの身代わりに『させられた』とでも言ったのでしょう。――ですが、それは真っ赤な嘘!」

 伯爵の言葉を聞き流しながら、ヴォルフは彼を観察した。
 容姿は好ましいとは言えないが、髪の色は彼女とよく似ている。目の色や形、上気してすぐに赤くなる頬も、彼女との血縁を感じさせた。
 なにより、伯爵のまとう甘い香りが彼女を思わせる。香水とは違う、内側から香る甘さだ。
 ――かすかに、魔力の気配がするな。
 魔族の血を引くヴォルフだからこそ気付く、ほんのわずかな魔力の気配。容姿以上に彼女そっくりなその香りに、ヴォルフは目を細めた。
 ――悪くない。
 無意識に唇を舐めるヴォルフに、伯爵は気付かない。妙に甲高い声で喚き続けている。

「その女は自ら身代わりを申し出て、アーシャに成り代わろうとしたのです! 貴殿の求める本物のアーシャを差し置いて、公爵夫人の座を得ようと画策していたのですよ! だというのに、身代わりを続けられないと悟ると、今度は自分を被害者として同情を引こうとしているのです‼」

 一息にそう言うと、彼はヴォルフに目を向けた。顔に浮かぶのは、明確なびだ。

「この私は! 貴殿に真実を告げにまいりました! すべては不肖の娘の後始末のため、そして親愛なる公爵閣下のため! ええ、ええ、もちろん私は貴殿の婚約の申し出を偽りなく受けるつもりでした! その証拠をお見せしましょう!」

 彼は胸を叩くと、生け垣の入り口に立つ自らの護衛に目配せをする。護衛は心得たようにすぐに出ていき――少しして、一人の娘を抱きかかえて戻ってきた。
 その瞬間、周囲を甘い魔力の香りが満たす。あまりに濃く――あまりにいびつなその魔力に、ヴォルフは息を呑んだ。
 思わず視線が奪われる。見つめる先は、護衛の男の腕の中、目を閉じたまま動かない娘だ。
 顔立ちは、やはり彼女に少し似ている。しかしひどくせ細っていて生気がない。かすかに胸が上下していなければ、生きているとさえ思えなかっただろう。
 それなのに魔力だけが、抑えることもできぬ様子で噴き出し続けていた。

「アーシャ……!」

 ヴォルフの隣で、彼女があえぐように名前を呼ぶ。顔は青ざめ、どこかおびえた様子だった。
 対照的に、伯爵は笑顔だ。彼は疑いもなく、胸を張ってヴォルフに娘を差し出す。

「我が自慢の娘、アーシャです。――諸事情で今は魔法で眠っておりますが、私もアーシャも貴殿に会いたい一心でここまで来たのです!」

 ヴォルフはアーシャから目を離せない。甘い香りに、酔わされるようだ。
 そんなヴォルフの様子を見上げ、伯爵は確信に満ちた顔で頷いた。

「どうぞ、そこの女には惑わされず、真実の花嫁を愛してやってください。それが、私とアーシャの望みなのですから――!」


     ◆ ◆ ◆


 勝利を確信したような父の顔を、私は見ていられなかった。
 アーシャの様子は明らかに異常だ。顔色は、私が伯爵家を出たときよりもなお悪い。眠っているようにも見えるけれど、この騒ぎの中で起きる気配すら見せず、ただぐったりと父の側近に体を預けている。

「アーシャ、ど、どうして……! 魔法で眠らせているって、どういうこと!」

 父の言葉を、一つも理解することができない。とにかくアーシャを父から離さないと――と私は震える足を踏み出した。
 だけど、その行く手をヴォルフ様が阻む。
 片手を上げて私を制し、代わりに彼自身が一歩前に出るのを見て、父はますます笑みを深めた。

「ふははは! 今さら心配をするふりなど無意味だ! お前が妹の幸福を奪おうとした外道だということを、賢明な公爵殿はきちんとわかっておられるようだな!」
「お父様……!」
「お前に父と呼ばれる筋合いはない! 自分勝手なことばかりして、伯爵家をめちゃくちゃにしおって! だが、その企みももう終わりだ、アネッサ‼」

 父はそう吐き捨てると、ヴォルフ様に歩み寄る。
 その顔に浮かぶのは、あからさまな作り笑いだ。両手をみ合わせ、父は猫撫で声を出す。

「ビスハイル公爵、さあ、今後のことをお話しいたしましょう! ええ、ええ、きっと互いにとって素晴らしい未来になるに違いありません! なに、私に任せておけばすべて安泰ですよ!」
「……興味深い話だが」

 ふう、と短く息を吐くと、ヴォルフ様は目を細めた。
 いきなり踏み込んできてめちゃくちゃなことを言う父に、ヴォルフ様は怒りもしない。口の端を持ち上げ、悠然と微笑むだけだ。
 そのいかにも貴族らしい表情に、私の方が驚いた。もともと表情の変化の少ない方だけど――これほど感情の見えないヴォルフ様は、初めてだ。

「はるばる来ていただいた貴殿に、こんな場所で長話をさせるわけにはいかない。まずは部屋へ案内しよう。――シメオン、リヴィエール伯爵を客室へ」
「承知いたしました」

 ヴォルフ様の一歩後ろで、シメオンさんもまた無感情に頷いた。
 周囲を見回せば、他の使用人たちが生け垣の外に集まってきている。
 ずらりと整列する使用人たちを見もせずに、ヴォルフ様は笑みを浮かべたまま淡々と指示を出す。

「そちらの娘は――アーシャ嬢は、どうやら体調が優れない様子。別室へ案内して看病させよう。構わないだろうか?」
「ええ、ええ、構いませんとも。父が見ている前では恥ずかしいこともありましょう。ぜひアーシャをじっくり念入りに見舞ってやってくだされ! なにせいずれ、夫婦になるのですからな‼」
「…………貴殿の従者たちは隣室へ。他に部屋が必要なら、言ってくれれば用意する」

 ねっとりと笑む父に、ヴォルフ様は答えなかった。我が父ながら相当に品のないことを言ったのに、腹を立てるどころか、不愉快そうな素振りさえも見せない。
 そのまま一通りの指示を出し終えると、ヴォルフ様は改めて父に向き直った。

「リヴィエール伯爵」

 顔に浮かぶ表情は変わらない。
 ヴォルフ様が浮かべるのは――仮面よりも仮面らしい、貴族の微笑だった。

「急なことでたいしたもてなしはできないが、貴殿の訪問を歓迎しよう。――ようこそ我が屋敷へ」

 両手を広げてヴォルフ様がそう言えば、周囲の使用人たちが一斉に頭を下げる。一糸乱れぬその様子は、怖いくらいに完璧な公爵邸の姿だった。
 ヴォルフ様の態度に、父は満足したらしい。大きく一つ頷くと、素直に部屋に案内されていった。
 アーシャは医者に見せる必要があるということで、逆方向の客室へ。父の連れてきた護衛も、それぞれの部屋に案内され――
 静かになった花園で、私はようやく息を吐いた。息の詰まるような緊張が解け、体から力が抜けていく。
 ――穏便に……済んだわ。
 父の姿を見たときは、絶対にめると思った。父の態度があまりにも無礼すぎて、ヴォルフ様の怒りを買うと思ったのだ。
 あるいは、ヴォルフ様の対応次第では、父が癇癪かんしゃくを起こしたかもしれない。自分の思い通りにならないと、どんなことをするかわからない人だ。アーシャを盾にしてごねるか、気分を悪くして屋敷を出ていってしまうかもしれなかった。
 なのに、終わってみれば呆気ない。せっかくの花が荒らされてしまったけれど、それだけだ。すべては、ヴォルフ様が父を前に少しも機嫌を損ねず、怒らずにいてくれたおかげである。
 だけど――

「あ、あの、ヴォルフ様……!」
「どうした?」

 駆け寄って声をかけると、ヴォルフ様はなんということもない顔で振り返る。
 その顔から微笑が消えていることに少し安心しながらも、私はぎゅっと身を縮めて頭を下げた。

「す、すみません、うちの父がご迷惑をおかけして!」

 だけど――あれだけの無礼を働いて、ヴォルフ様が怒らないはずがない。
 縁を切る覚悟で家を飛び出したとは言え、あれでも私の父なのだ。身内の不始末を黙って見ているわけにはいかない。それに、やはり命乞いくらいはしておきたかった。

「いきなり押しかけてきた上、挨拶もしないまま騒いで、失礼なことばかり言って、申し訳ありません! ご、ご不快でしたよね⁉ お怒りはごもっともですが、父に代わって謝りますので、どうかご容赦ようしゃいただけないでしょうか……!」

 私はヴォルフ様がどれほど身代わりにお怒りだったかを知っている。今でこそ落ち着いているけれど、いつあの怒りが再燃するかわからない。
 ――しかも、父のあの言葉!
 家の事情はすでにヴォルフ様の知るところだし、そうでなくとも、一ヶ月以上も身代わりをさせておいて『自分は知らなかった』は無理があった。
 ――なのにあんな言い訳なんてして! 余計に怒らせるに決まっているのに!
 余計に、と考えたところで公爵邸に戻った初日のヴォルフ様を思い出し、私は戦慄せんりつした。
 あれ以上の怒りとなると――屋敷に血の雨が降るのでは?
 ――さ、惨劇だけは……! どうか命だけは……‼

「……君は俺をなんだと思っているんだ」

 血まみれの未来を想像し、青くなって震える私に、ヴォルフ様は苦々しく言った。

「こんなことで腹は立てない。仮にも俺は公爵だぞ、適当にあしらうことくらいはできる」
「で、ですが……それにしても父のあの態度は……」
「いいから頭を上げてくれ。君が謝ることではない」

 低い声に、私は「うっ」と小さくうめく。今のヴォルフ様は、たぶん少し不機嫌だ。
 ――お、お父様相手にはあんなに落ち着いていたのに……!
 父よりも私の方が、ヴォルフ様を怒らせてしまっているのだ。その事実にショックを受けつつも、私はそろそろと顔を上げる。

「……そこまでおびえないでくれ」

 顔を上げた先にいるのは、やはり少しむっとした様子のヴォルフ様だ。私を見て、かすかに眉をひそめている。

「君の父親をどうこうする気はない。たしかに、多少わずらわしいとは思うが――」

 一つ息を吐くと、ヴォルフ様は頭を振った。強張る私を安心させてくれようとしたのだろう。再び私に向けられた表情は柔らかい――が。

「君だって、豚が喚いたところで、本気で怒りはしないだろう?」

 言葉は全然柔らかくない。ひえ、と私は身を震わせた。
 ――ぶ、豚。人ではなく豚……って。
 ヴォルフ様のそういうところ、たまにすごく魔族っぽいと思います……!

「それよりいいのか? 妹の状況を確かめなくても」

 内心でおびえる私に、ヴォルフ様はなんということもないように尋ねた。その言葉で、私はようやく震えている場合ではないことを思い出す。
 ヴォルフ様の言う通りだ。まずはなにより、アーシャの様子を見に行かないと!


 ヴォルフ様に案内してもらい、私はアーシャの運ばれた部屋へ駆け込んだ。
 足を踏み入れたのは、西日の当たる公爵邸の客室の一つ。広く清潔な部屋の中央で、アーシャは医者に見守られながら、ベッドの上に静かに横たわっていた。

「アーシャ……」

 私はベッドの横に立ち、蒼白な彼女の顔を見つめた。
 アーシャは目を閉じたまま、かすかなうめき声を上げている。眠りながらも口を動かし、なにか言っているらしい。近付いて耳を寄せると、かすれた声で、同じ言葉を繰り返していた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、傷付けたくないのに、抑えられないの、ごめんなさい……」

 絶え間ない謝罪に愕然がくぜんとする。ここまで追い詰められているアーシャを、父は連れ出したのだ。そして、私は――
 ――……こんなアーシャを、置いてきてしまったんだわ。
 ヴォルフ様の怒りが落ち着いていなければ、父がこのタイミングでアーシャを連れてきていなければ、アーシャはどうなっていただろう。
 ――もしかしたら、私の知らないところで、アーシャは……
 考えかけ、慌てて思考を振り払う。その先は想像したくなかった。

「……ずいぶんとひどいな」

 うつむく私のすぐ後ろから、ヴォルフ様の声が聞こえた。振り返れば、先ほどまで医者と話していた彼が立っている。アーシャを見下ろすその表情は、なんだか妙に腑に落ちたと言いたげだ。

「どうりで。眠らせていなければ運べもしないはずだ」
「……運ぶ?」
「起きている間は常に暴走していたんだろう。人間にしてはたいした魔力だ。抑えるにしたって、並みの魔術師では難しい」

 ――それって……
 ヴォルフ様の言葉に、ぞっと背筋が寒くなる。その状態のアーシャを眠らせて、父は無理矢理『運んだ』のだ。アーシャの意思を無視し、抵抗できないようにし――まるで物のように。

「眠らせれば暴走はしないが、魔力は漏れ続ける。根本的な解決にはならない。……今はまったく抑制のない状況だ。このままだと、すぐに魔力が尽きて死ぬだろうな」

 凍り付く私を横目に、ヴォルフ様は淡々と話し続ける。

「さもなければ衰弱死だ。眠らされているせいで、ろくに食事も摂っていないんじゃないか?」

 ――死……
 ヴォルフ様の声は静かで、だからこそ告げる言葉は鮮明だ。
 頭では理解しても、認めたくなかった現実を突き付けられてしまう。

「アネッサ、少し離れていろ」

 強張る私を一瞥いちべつすると、ヴォルフ様はそう言ってアーシャの眠るベッドに近付いた。それから、少しの間アーシャを見下ろし、おもむろに膝をつく。

「ヴォルフ様? な、なにを……?」

 膝をついてアーシャの手を取るヴォルフ様に、私は戸惑った。なにをするのかといぶかしむ私に、彼は振り向かない。まっすぐアーシャを見つめたまま、握る手に力を込めた。

「目覚めさせないと死ぬだけだ。一度起こすが、構わないな?」
「え、ええ、はい?」

 ――起こす? ヴォルフ様が?

「魔法を解いて目を覚まさせ、暴走する魔力をねじ伏せる。これだけの魔力量だと、この屋敷でも俺かシメオンくらいしか対処できない――と医者がさじを投げた。シメオンには伯爵の相手をさせているから、俺がやる」

 つまり、魔力の暴走にヴォルフ様が対応してくれる――と考えていいのだろうか。
 そうであれば、迷うことはない。今のアーシャはろくに食事もできていない状況で、とにかくまずは、目を覚ましてもらわないといけないのだ。

「起こしてもらえるなら、ぜひ! お願いします!」
「ああ。少し荒れるから気を付けてくれ」

 ――荒れる?
 どういう意味だろうかと首を傾げる私に、ヴォルフ様は気が付かない。彼はアーシャを見つめたまま、握った手にさらに力を込める。
 その瞬間、強い風が部屋の中を吹き抜けた。ヴォルフ様とアーシャを中心に、体が吹き飛びそうなほどの風が渦を巻く。
 ――あ、荒れるってこういうことですか‼
 ねじ伏せるというなら、抵抗があるのも当然のこと。この風は、アーシャの魔力が反発しているからなのか――と納得している場合ではない。医者が心得ていたように近くの柱にしがみついている一方で、まったく心の準備のできていない私は一人よろめいた。
 ――き、気を付けろって言われていたのに……!
 なにも気を付けられないままに、吹き荒れる風に倒れて尻もちをつく。嵐のような風の中、私は痛む尻を撫でながら、どうにか頭だけを持ち上げた。
 ――ヴォルフ様とアーシャは⁉
 暴風の中心にいるはずの二人は無事だろうか。慌てて二人を捜した私は、ベッドの前に膝をつくヴォルフ様を見つけた。
 ヴォルフ様は風に動じず、アーシャの手を握り続けていた。強く、固く握り合わされた二人の手に、私は視線を奪われる。
 次第に周囲の風が弱くなっていく。突風から強風に、そよ風に、そして最後には、しんと静まり返った部屋の中。
 私の目に映るのは、こちらに背を向けるヴォルフ様と、目を覚ましたアーシャの姿だ。
 アーシャは呆けた様子で、まばたきをしながらベッドから体を起こす。その間も、ずっと彼女の視線はヴォルフ様に向いていた。
 ヴォルフ様もまた、アーシャだけを見ていた。風が止んでもアーシャの手を離さず、握りしめたまま。二人は互いに、時間も忘れたように、言葉もなく見つめ合っていた。
 ――もしかして、なんて。
 馬鹿な夢を見たものだ。あり得ない期待だった。それを思い知らされる。
 私は見つめ合う二人を、離れた場所で眺めることしかできなかった。


     ◆ ◆ ◆


「――ふん、化け物どもめ」

 リヴィエール伯爵がビスハイル公爵の屋敷に来て、数日。
 要望した紅茶と茶菓子の用意を終え、立ち去ろうとするメイドの背中に向けて、彼は不快感を込めて吐き捨てた。

「この屋敷には、まっとうな人間一人いないのか。汚らわしい」

 聞こえよがしな声は、メイドにも届いているだろう。だけど彼は気にしていなかった。
 どうせ人間の出来損ないどもだ。半魔の怪物であるここの主人には相応しいが、優秀な人間である伯爵にとっては、目の前に現れるだけでもおこがましい。

「化け物公爵に、亜人の使用人に、おまけにエルフか」

 いつもすまし顔の、いけ好かないエルフの執事を思い出し、伯爵は顔をゆがめる。あんなもの、顔がいいだけで他になんの取り柄もない。そのくせ妙に偉そうで、不愉快でたまらなかった。

「やはりろくな屋敷ではないな。公爵を説得したあかつきには、全員クビにしてやらねば気が済まん」

 ふん、と鼻を鳴らすと、伯爵は手近な椅子に腰を下ろした。用意された紅茶のカップを手に取れば、いかにも上質な香りが漂ってくる。
 化け物屋敷だが、紅茶の香りは悪くない。椅子の座り心地もまあまあで、名目だけはさすが公爵とでも言うべきか。身の丈に合わない上等なものが揃っていた。

「化け物に物の価値なんぞわからんだろうに、生意気な」

 言いながら、伯爵は紅茶のカップに口を付ける。深みのある茶を飲み込むと、苛立たしさも少しは落ち着いてきた。

「……まあ、良い。アーシャがここへ嫁いだら、すべて私のものとなるのだからな」

 部屋をゆっくりと見回しながら、彼は深く息を吐く。化け物の持ち物としては生意気でも、自分のものになると思えば悪い気はしなかった。

「公爵はすぐに懐柔かいじゅうできるだろう。なんだあの男、冷血公爵なんて噂だけではないか」

 化け物と恐れていた公爵だが、実際はずいぶんと大人しい。残虐非道なそぶりも見せず、伯爵の言葉もよく聞いていた。それだけでも容易に説得ができそうなのに、現実はさらに簡単だ。
 ――あの化け物、本当にアーシャに夢中だったとはな。アネッサの言う通りだ。
 伯爵が屋敷に来て以降、公爵は毎日のようにアーシャを見舞っていた。今では、『偽のアーシャ』であるアネッサなど目にも入らない様子で、いそいそと本物のアーシャの部屋に通っているそうだ。
 その事実に、伯爵は胸がすく思いがした。
 ――アネッサ。馬鹿な娘が。
 どうせあの愚か者のことだから、公爵に取り入って伯爵家を取り潰そうとでもしたのだろう。
 あれは昔から、自分が孤立していることを他人のせいにして、勝手に伯爵や家族をねたんでいた。
 これほど手間と愛情をかけて育ててやったのに、逆恨みもいいところだが、ああいう娘には理屈なんぞ通じないのだろう。
 今回も自分の欲望のために――おぞましいことだが、血のつながった実の肉親をおとしいれるために、化け物に魂を売ったのだ。
 アネッサが屋敷から逃げ出したときは、まさかここまで考えの足りない真似をするとは、と震えたが、結果はこの通りだ。公爵はアーシャに夢中で、アネッサを切り捨てた。
 ――まあ、私の説得の功績も大きいだろうがな。半魔の化け物にしては物わかりが良い。ぎょしやすくてなによりだ。
 そこまで考え、伯爵はふふんと鼻を鳴らす。いつの間にか、すっかり機嫌は直っていた。考えれば考えるほどに、すべてが上手くいく予感しかしない。
 ――アーシャの公爵夫人の座は間違いない。旅のせいでアーシャの魔力の状況は悪化したが、これもかえって都合がいい。あとのことは、全部公爵家に押し付けられるのだからな。
 医者や魔術師を呼ぶ費用も馬鹿にはならない。現在は、それをすべて公爵家が受け持ってくれている。もしまたアーシャの魔力が暴走しても、荒れるのは伯爵家ではなく公爵家と思えば、気楽なものだ。


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