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2巻
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しおりを挟む第一章 嵐の予感
深く暗い森に囲まれたビスハイル公爵邸は、昼でもどこか薄暗い。
人を拒むような森の奥。冷たい屋敷に住まうのは、魔族の血を引く公爵だ。魔族の血のために強大な魔力を持ち、常に仮面で顔を隠した公爵の名を、この国で知らぬ者はいない。
ヴォルフガング・ビスハイル公爵。彼こそは戦時の英雄であり――今では残虐非道な冷血公爵として、恐怖とともに知られる人物である。
彼の屋敷を訪ねた人間で、無事に帰ることができた者はいないという。誰一人として例外なく、そのまま行方知れずになるか、あるいは頭がおかしくなって発見されるかだ。
一度足を踏み入れれば、二度と無事には出られない。そんな噂のある公爵邸で私は――
「だ、駄目です、ヴォルフ様! そこはまだ花を植え直したばっかりで!」
のんびり花の手入れをしていた。正確には、手入れのお手伝いを、である。
場所は公爵邸の中庭の一角。生垣に囲まれた花園の中だ。
屋敷の執事たるシメオンさんが手をかけているこの花園は、今は少し荒れている。原因は一昨晩、私がうっかりこの場所で転んでしまったからだ。
あまりの申し訳なさに、手伝いをさせてもらえないかと頼み込み、朝からシメオンさんと二人でせっせと花の植え替えをしたばかり。せっかくきれいにした場所を、もう一度踏み荒らさせるわけにはいかなかった。
たとえ相手が――残虐非道と噂のある、公爵本人だとしても。
「まだ根付いていないんです! 踏まないでください!」
上天気の空の下。花園の入り口に立ち、今にも私に向かって足を踏み出そうとしているのは、冷たい仮面の男性だ。
仮面を付けていても、彼の美しさは隠せない。端整な輪郭に、形の良い唇。青みがかった銀色の髪が風に揺れ、思わず目を奪われてしまう。
仮面の奥から覗く瞳は、王家の血を示す深い藍色だ。その瞳の底知れなさに、私はぞくりと寒気を覚える。肉食獣に睨まれた獲物の気分だった。
「アネッサ」
彼が口にしたのは私の名前だ。呼ばれた瞬間に、私の体が凍り付く。
指先は震えていた。返事をする声も出ない。理屈ではない、本能的な恐怖に私は怯えていた。
立ち竦んでしまった私を、彼の射殺すような目が貫いている。
「……俺は君に甘すぎると思う」
そして、その目のままに、彼は不愉快そうに足を引いた。
苛立たしげに顔をしかめながらも、花を踏まないように気遣ってくれたのだ。
冷たい雰囲気とは裏腹な彼の優しさに、私は無意識に目を細める。彼に感じる怖さも、今は少し薄れていた。
「ありがとうございます。ヴォルフ様」
ヴォルフ様、と口にすれば、心の中がほっと温かくなる。残虐非道と噂の彼だけど、実際にはまるで違う。魔族の血を引いているのは事実で、たしかに怖いところもあるけれど――本当の彼は、人間らしくて優しい人だ。
この屋敷だってそう。一度入ったら二度と無事には出られない、なんて話が嘘であることを、私自身がなにより知っている。
なにせ私は、実際に一度訪れたこの公爵邸を出て、再び戻ってきた身なのだ。
初めて公爵邸を訪ねたのは二ヶ月ほど前のこと。あのときの私は、ヴォルフ様に求婚された妹――アーシャの身代わりとしてこの場所にいた。
魔力持ちのアーシャばかりを可愛がり、私を蔑ろにする父によって、強引に決められた身代わりだ。それでも、病弱で気の弱いアーシャのため、可愛い妹を守るためと覚悟を決め、半ば生贄のつもりで屋敷に足を踏み入れたのに――
屋敷で待っていたのは、思いがけない生活だった。冷血なはずのヴォルフ様は情熱的で、手が早すぎるくらい。メイドたちは明るくて、使用人もみんないい人たちばかりだ。
ここでの生活は楽しかった。だからこそ、身代わりである罪悪感が募っていった。
身代わりをやめる決意をしたのは、屋敷で一月ほど暮らした頃。実家にいるアーシャが病気で倒れ、帰らなければならなくなったときのことだ。
ヴォルフ様に、これ以上嘘をついていられない。父や家族を説得して、身代わりを終わらせよう。そう決意して、私は公爵邸をあとにした。
だけど家族は、私の話をなに一つ聞いてはくれなかった。身代わりをやめることも――弱ったアーシャに必要なのは、静かで落ち着いた環境だということも。
アーシャが倒れた原因は、強すぎる魔力を暴走させたからだ。
魔力は感情に左右されるもの。落ち着いた環境さえあれば良くなるのに、家族は悪気なく、過剰なまでにアーシャを構い、衰弱させてしまっていた。
アーシャをあの家から救うために、私はもう一度公爵邸を訪れた。身代わりであることを明かして、ヴォルフ様に助力を乞うつもりだったのだ。
その結果が――
「アネッサ、どうした?」
花を避け、こちらへ向かってくるヴォルフ様を、私は知らず見つめていた。私の無言の視線を受けて首を傾げる彼に、昨日までの怒りは見られない。そのことに、内心でほっとする。
私の身代わりを知ったときのヴォルフ様の怒りは、今思い出しても寒気がする。ただでさえ冷たい空気をさらに冷たく凍らせ、私を見据えた彼の姿に、私は絶望以外の感情を抱くことができなかった。
だけど当たり前だ。ヴォルフ様はそれだけアーシャのことを想っていて――そんな彼を私は、騙していたのだから。
それでも、彼は怒りを収めてくれた。アーシャを助けると言ってくれた。
私に――もう大丈夫だと言って、抱きしめてくれた。
「アネッサ?」
「あ、い、いえ! なんでもありません!」
昨日のことを思い出すうちに、いつの間にか頬が熱を持ちはじめている。私は誤魔化すように首を振ると、改めて彼に顔を向けた。
「そ、それよりも、私になにかご用でしょうか?」
「君に会うために理由がいるのか?」
当然だろう、と言わんばかりの彼に、もう熱を誤魔化せない。ぼぼぼぼ、と一気に顔が赤く染まるのが、自分でもよくわかった。
――わ、私が赤くなってどうするの‼
ヴォルフ様は、アーシャに恋をして求婚したのだ。彼がどれほどアーシャを想っているのかは、私が誰よりもよく知っている。
だって私は、『偽物のアーシャ』として、ずっと彼に口説かれ続けてきたのだから。
彼がアーシャの魔力に惹かれ、運命だとまで言ったことは、今も忘れられない。そのときの、彼の情熱の宿る目の色も。
――私は魔力もないし、ヴォルフ様にとってただの身代わりなのよ……!
アーシャじゃないんだから、と必死に言い聞かせる私の内心も知らず、ヴォルフ様は何気ない様子で手を伸ばす。そのままさらりと私の手を取って、口元に笑みを浮かべた。
「一月近くも離れていたんだ。君と話したいことはいくらでもある」
――君と。
その言葉にドキリとする。
そんなはずはないと思うのに、どんなに言い聞かせても顏の熱が下がらない。触れられた手も熱く、かすかに汗まで滲んでしまう。
――アーシャじゃなくて、私と。
もしかして、ヴォルフ様は――
「昨日は結局、周りがうるさくてろくに話もできなかったからな。アーシャ嬢について、もっと具体的に話をする必要があるだろう?」
「あああ! アーシャ! アーシャですよね!」
――もしかしない!
と内心で叫ぶと、私は反射的にヴォルフ様から手を引っ込めた。変に期待していた自分が恥ずかしい。
「は、話さないといけませんもんね! あの子をどうやって連れてくるかとか!」
ヴォルフ様の言う通り、昨日は落ち着いて話し合う時間がなかった。
昨日――食堂で怒るヴォルフ様と向き合っていたとき。周囲に屋敷中の使用人が集まっていたのが原因だ。
なにせ、この明るく楽しい屋敷の使用人たちである。どうにかヴォルフ様の許しを得たあとは、ずっとお祭りのような騒ぎで、とても話なんてできる状況ではなくなってしまったのだ。
どうにか話せたのは、アーシャを迎える準備をしてくれるということと、父のことだけだった。
あの父が、素直にアーシャを手離すはずがない。必ず文句を言ってくるに決まっている。
ヴォルフ様は、脅してでも強引にアーシャを連れ出してくれると言ってくれて――話はそこで止まっていた。
「お父様のこともありますし、い、一度しっかり考えないとですね!」
わざとらしいくらい大きな声で言うと、私はヴォルフ様から目を逸らした。
訝しげな彼の表情が視界の端に映るけれど、今の私はまっすぐ彼を見ていられない。
――余計なことを考えない! ヴォルフ様の気持ちはわかっているでしょう!
期待なんてしたところで、叶うはずはないのだ。わかっている。頭ではわかっている――けど。
それでも心の奥底で、やっぱりどこか期待している。
もしかして――と。
◆ ◆ ◆
もしかしてもなにもない。最初から、ヴォルフが大切に想うのは彼女だけだ。
彼女が助けてほしいと言うから助けるが、彼自身としては、妹なんぞ生きていようと死んでいようと興味がない。そもそも求婚したことだって、『獲物』を得るためだ。
残虐非道な冷血公爵――という噂は、嘘でも誇張でもない。魔族の血を色濃く受け継ぐ彼は、魔族らしい残酷な欲望を持っている。
血を見たい。悲鳴を聞きたい。苦痛に呻き、絶望する姿が見たい。
そんな彼の欲望を満たすために、屋敷に遣わされる人間が『獲物』だ。
かつて、この屋敷に足を踏み入れた『獲物』が無事に逃げた試しはない。壊れるまで弄び、使い物にならなくなれば、忠実な執事に『処理』させるだけだった。――ただ、一人を除いては。
――アネッサ。
目の前の少女を見下ろし、ヴォルフは自分でも知らず目を細めた。
赤茶けた髪に、木漏れ日にも似た緑の瞳。痩せた体の、美人でもない平凡な小娘のはずなのに、恥ずかしそうに顔を背けた彼女の真っ赤な横顔を、彼は誰より可愛いと思ってしまう。
昨日、彼女のついた大きな嘘を受け止めてからはなおさらだ。
彼女はもともと、ヴォルフの求婚を受けた妹の身代わりとして屋敷に来ていた。そうして、妹の名前――『アーシャ』を名乗り、ヴォルフを偽っていたのだ。
そうとも知らず、ヴォルフは彼女を『アーシャ』として口説き続けた。
どれほど言葉を尽くしても、態度で示しても、彼女の反応は芳しくない。魅了の魔法を使ってさえ口説き落とせない彼女に振り回され、いつしかムキになって追いかけ、追いかけ、追いかけるうちに――いつの間にか、『獲物』だったはずの彼女にヴォルフの方が囚われていた。
人間らしい心を知らなかったヴォルフに、彼女は焼けるような恋心を植え付けてしまった。
だからこそ、ヴォルフは彼女の嘘を許せなかったのだ。
もちろん、ヴォルフにとっては求婚なんぞ、『獲物』を呼び寄せるためのただの方便だ。いたぶれるのなら、姉でも妹でもどちらでも良かった。
家族に冷遇されていた彼女が、好んで身代わりを引き受けたわけでないとわかっている。ヴォルフを騙していることに、思い悩む姿も見てきた。もとより『獲物』扱いをして、姉か妹か確認しなかったのはヴォルフ自身なのだ。
それでも、彼女にだけは嘘をついてほしくなかった。すべてを打ち明けて、頼ってほしかった。
彼女の嘘を知ったときのことは、今も忘れることはできない。ヴォルフは怒りに我を失い、魔族らしい残虐さでもって彼女に思い知らせてやろうとした。自分がどれほどのことをしたのか――魔族の心を奪うということがどういうことか、わからせてやるつもりだった。
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そう思えたからこそ、ヴォルフは怒りを呑み込み、今ここで――
「とりあえず、一度部屋に戻ろうか。俺の部屋がいいだろう。君とはいろいろ話をして――いろいろやっておきたいこともある」
下心全開で部屋に連れ込もうとしているのである。
想いを伝え合ってから、もう一月以上。ヴォルフの忍耐もいい加減に限界だった。これほど好きで、欲しくて欲しくてたまらない相手を前に、どれほど我慢をさせられてきたことか。
一度彼女が屋敷を離れたとき、『戻ってきたらどんな目に遭っても後悔するな』とは告げている。スルスルと逃げていく彼女をつなぎとめるためにも、一度本気で、やることをやってしまおうという魂胆なのだ。
もちろんヴォルフは、彼女が未だに勘違いしていることを知らない。
「外よりはゆっくりできる場所の方が、君にはいいだろう。どうせ一晩では足りないからな」
「は、はい。お話しすること、たくさんありますもんね……!」
こちらのよこしまな思惑などつゆ知らず、素直に頷く恋人に、ヴォルフは獲物を狙う獣のように目を細めた。
肩でも抱こうと一歩近づいたとき、花園を風が流れていく。彼女の髪が風にさらわれ、ちらりと覗く首筋に、彼は内心で嘆息した。
――甘い。
首筋から、ほのかに魔力の香りがする。魔力に敏感な魔族だからこそ気付ける、ほんのかすかな彼女の力は、彼を容易く誘惑した。
ゆっくりできる場所の方がいい――と言いつつも、本心では今すぐにでも襲ってしまいたい。半分は人間であり、半分は魔族である彼の、魔族としての心が囁く。
このまま手を伸ばせば、簡単に組み敷けるのに――と。
嫌がっても、拒んでも、彼女の力ではヴォルフには敵わない。驚き、戸惑う姿もいいだろう。泣き声も、痛みに呻く声も悪くない。首筋に少し傷を付ければ、もう少し濃く魔力が香るはずだ。
その香りの中で彼女を愛せるなら――さぞ心地が良いだろう。
――それも悪くない。
知らず口元に笑みが浮かぶ。期待するように、ヴォルフは彼女の無防備な体を掴みかけ――
――いや。
違う、と心のどこかが否定する。
――彼女の前でだけは、人間らしくありたいんだ。
「――ヴォルフ様、お取り込み中に申し訳ありません」
生垣越しに聞こえた声に、ヴォルフははっと手を引いた。
低く抑揚のない声には、嫌というほど覚えがある。彼の忠実な執事のものだ。
「急ぎ、お耳に入れたいことがありまして。よろしいでしょうか?」
「……シメオン」
ヴォルフは眉をひそめ、生垣の外にいる執事の名を呼ぶ。
シメオンはもともと、彼女とともに花園の手入れをしていたが、ヴォルフが来ると同時にここを離れていたはずだ。ヴォルフをよく知る彼のこと。ここでヴォルフがなにをするつもりか、想像がついていただろう。
それでもなお、戻ってくるということは、よほどの用件に違いない。無視することはできず、彼は苦々しく息を吐いた。
「中へ入ってきて問題ない。なにがあった?」
「ええ、それが――」
◆ ◆ ◆
公爵邸に向かう馬車の中で、リヴィエール伯爵は上機嫌だった。
すでに馬車は、公爵邸を囲う森に入っている。森の入り口には人間未満の汚らわしい獣人がいて、『入るのには許可が必要だ』とか『今は事情があって人を通せない』などと生意気なことを言っていたが、なんてことはない。けだものなど、連れてきた護衛に軽く追い払わせた。
あれから数時間。ますます濃くなっていく森の色を、伯爵は期待を込めて見つめる。
彼はこれから公爵邸に行き、ビスハイル公爵と対面するのだ。事前に訪問の連絡などしていないが、彼には公爵に断られない自信があった。
――あのバカ娘が家を出たときはどうなるかと思ったが。
馬車の座席に座り直して腕を組み、彼は深く息を吐く。
思い返すのは、不出来な娘のアネッサが、伯爵家を出ていった日のことだ。
あの日。もぬけの殻の部屋を前に、伯爵は血管がはちきれそうなほどに怒っていた。
アネッサの不在に気付いたのは、すでに正午を大きく通り過ぎた頃。使用人たちがアネッサに朝食を出し忘れ、昼食も出し忘れていたことを思い出し、慌てて食事の用意をしたときのことだ。
すぐに屋敷中を捜させたが、アネッサはどこにもいなかった。書き置き一つなく、アネッサの行方を知る者も誰もいない。
だが、伯爵にはアネッサがなにを考えているかすぐに見当が付いた。
伯爵邸に戻ってきてからずっと、彼女は身代わりをやめたがっていたのだ。伯爵は何度も『それはならぬ』と諭してやっていたが、愚かな娘には伝わらなかったらしい。まず間違いなく、彼女は公爵邸に向かい、身代わりのことを告げるつもりなのだろう。
身代わりのことが知られれば、伯爵家は終わりだ。あの化け物公爵が、自分を騙した人間を放っておくはずがない。
それもこれも、すべてはアネッサが悪いのだ。少しくらい仕事ができて、少しくらい周りから褒められたからと図に乗っていたようだが、あんな化け物公爵に引っかかるあたり、所詮は女。伯爵からすると、考えが浅いとしか言いようがない。
どうせ洗脳か魅了でもされたに決まっている。簡単に魔法にかかって家族を危機に晒すなど、家族を蔑ろにしている証だろう。本当に家族を愛しているなら、魔法など意志の力でどうにでもできるはずだ。
そう思って、伯爵は怒りに我を忘れ、使用人に怒鳴り散らしていたのだが――
――まさか、魔法にすらかかっていなかったとはな。
伯爵を落ち着かせたのは、伯爵家を出る前にアネッサを診た魔術医の診断結果だった。
アネッサに魔法の痕跡は一切ない。洗脳も魅了もされていないと、断言したのだ。
ならば、アネッサの態度はなんだと言うのだろうか。
――公爵は本気でアーシャを想っている。噂とは違って、本当は優しい人……だったか。
伯爵邸でアネッサが言っていた言葉を思い出し、伯爵は口の端を曲げた。
戦争中に公爵がした非道は知れ渡っている。魔族に相応しい残虐さで女子どもも構わずすり潰し、敵どころか味方からも恐れられていたのだ。それに戦争が終わってからも有名で、公爵邸を訪ねた人間は、男女問わず失踪しているという。
優しいなどとは、到底思うことはできない。
――だが、実際にアネッサは生きて帰ってきた。指の一本も欠けず、それどころか、魔法さえもかけられずに。
思慮深い伯爵は、アネッサの言葉をそのまま鵜呑みにする気はない。それでも一つだけ、彼女の言葉の中には、真実と思えることがあった。
――公爵がアーシャのことを本気で想っている。これが本当なら、すべてに説明がつく。
アーシャは自慢の娘だ。妻に似て美しく、アネッサと違って控えめで大人しい。自分より出来の悪いアネッサを決して悪く言わず、姉として立ててやろうという優しい心も持ち合わせていた。
その上、凡庸だったリヴィエール伯爵家の名を、国中に知らしめたほど上質な魔力を持っている。そんな優秀で可愛い彼女なら――化け物の心を奪うのも、無理からぬこと。
半魔の化け物公爵は、アーシャのために残虐さを捨て、人間らしい優しさを身に付けたのだ。もはやそれ以外に、アネッサが無事に帰ってきた理由など考えられなかった。
そして、公爵が人間らしいと言うのであれば――
――説得の余地がある。身代わりのことも、私が直接説明すれば言いくるめられるはずだ……!
馬車の中、伯爵は興奮に体が震えるのを感じていた。
もう終わりだと暗くなりかけた目の前に、かすかな希望の光が見えたのだ。これで落ち着けと言う方が無理であろう。
いや、かすかどころではない。今回のことは、かえって伯爵家に良い結果をもたらすだろう。
なにせ、こちらには――アーシャがいるのだ。
――公爵はアーシャに惚れ込んでいる。ならば父である私の言葉は絶対だ。アネッサがなにを言おうと、聞く耳なんぞ持たんだろう。
どうせ跳ね返り娘のアネッサのことだ。洗脳されていないのだとすれば、自分から身代わりになったくせに『無理やり身代わりをさせられた』だのと、公爵にあることないこと告げるだろう。
それを止めるには、手紙では駄目だ。アネッサに言いくるめられて捨てられてしまう可能性がある。伯爵が直接出向いて、確実に公爵に真実を伝えなければならない。
他人の説得は得意だと、伯爵は自負している。彼がなにか言えば、周囲の人間はみんな諸手を挙げて賛同するのだ。
――それに。
そう思いながら、伯爵は馬車の窓から後方に目を向ける。
森を走る馬車は一つではない。いくつも連なる馬車の一つに目を向け、彼は一人目を細めた。
あの中では、今頃アーシャが昏々と眠っているはずである。
――実際のアーシャを見せれば話は早い。化け物公爵になど、アーシャをやれるかと思っていたが……こうなればいっそ、このまま嫁がせるのも悪くないかもしれん。
公爵は悪い噂こそあれ、今までアーシャに求婚してきた中で一番上等な相手だ。もしも彼が伯爵の言葉を聞くようであれば、悪くないどころか、信じられないくらいの良縁である。
――公爵家が、王家の血筋が、私の家に……!
期待感に、伯爵は自分の体を抱く。これほどの危機をチャンスに変えられる優秀さが、我がことながら恐ろしい。興奮で体も震えようというものだ。
おまけに、伯爵が用意したのはアーシャだけではない。
アーシャの乗る馬車のさらに後ろに続く馬車を見て、彼はますます目を細めた。
――念には念を入れるのが、真に有能な人間というものだ。なにせ、あの冷血公爵だからな。
伯爵はアネッサの言葉を完全に信用したわけではない。化け物公爵が化け物のままだったことを考え、彼は一つの手を打っていた。
――あの女、魔族を屈服させる力があると言っていたからな。かつて魔王を倒した魔術師の子孫だったか? ふん、いないよりはマシだろう。
あとに続く馬車に乗るのは、伯爵家から連れてきた精鋭と、一人の魔術師だ。メルヒランという女魔術師がどれほどのものかは知らないが、魔族に対する知識があるのは間違いない。
万が一を考え、魔術師を乗せた馬車は森の半ばで置いていく。何事もなければそれでよし。もしも公爵と争うことがあれば――
そこまで考えたとき、馬車が木の根を踏み付けて大きく揺れた。
思考を中断し、前方に顔を向けた伯爵は、もう公爵邸が目の前に迫っていることに気が付いた。
「なかなか良い屋敷ではないか」
病人のアーシャを連れた旅は楽ではなかった。何度も暴走しては足止めをくらい、想定よりもずいぶんと時間がかかってしまった。
だが、それももうすぐ報われる。
伯爵はなんの憂いもなく、満ち足りた気持ちで影の落ちた公爵邸を見つめた。
第二章 嵐の到来
「――お父様が! 来る⁉」
シメオンさんの報告に、私は愕然とした。
「しかもアーシャを連れて⁉ もう森まで来ている⁉」
「はい。今朝がた森に入ったと報告がありました。到着までそう時間はかからないでしょう」
そう言って、シメオンさんは時刻を確かめるように空を見上げた。
花園から見える太陽は、すでに頂点を過ぎている。森から公爵邸まで、馬車で急いで半日ほど。こうなると、いつ父が到着してもおかしくなかった。
「実際のところ、公爵領にはもう少し前から来ていたようです。アネッサ様がいらしてからは、外の人間を近付けるのは危険だということで、森の入り口を封鎖していました。お父君も、しばらくそこで足止めされていたようですが……」
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