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1巻
1-3
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「驚きました? このお屋敷、亜人との混血がすっごく多いんですよ。普通のお屋敷じゃ雇ってもらえないから、みんな集まってくるんです」
へえ、と私は相槌を打つ。
たしかに、人間の多いこの国で、亜人が仕事を見つけるのは難しいだろう。人は、自分と異なる存在を拒みがちだ。亜人はこの国では、差別や嫌悪の対象だった。
「その点、ご主人様は他人の見た目なんて気にしないですからねえ。この国で雇われたかったら、混血はここに来るしかないんですよ」
「そうだったの……。ビスハイル公爵って優しい方なのね」
意外にも、と言ったら失礼なのだろう。でも心底意外だった。
――冷血な方だと聞いていたのに。行く当てのない人を雇い入れたりもするのね……
「んにゃ……誤解が進んでいるにゃ……。ご主人様は全っ然優しくはないですにゃー。ほんと、ほんっとに他人に興味がないだけで」
ロロが渋い顔で首を振る。あまりにも断固とした否定だ。
「ご主人様は誰でもいいから雇っているだけです。だから、使用人の中にもガラの悪いのが混ざっていたりするので、気を付けてくださいにゃ」
「ガラの悪い?」
「はいにゃ。そういうのに絡まれたときは、執事のシメオン様に言うといいですよ。ご主人様は当てになりませんからねえ」
執事、シメオン。まだ会ったことのない人だ。どんな人なのだろう――と思っている間に、ロロは一つの扉の前で足を止めた。
「ここがご主人様のお部屋です。あたしはここまで。外でご無事をお祈りしています」
不吉なことを言って、ロロは一歩下がってしまう。ここから先は、一人で行けということだろう。
背後にロロを残し、私は恐る恐る扉を開けた。
中に入ると、窓際に立つ公爵が目に入る。こちらを見つめる公爵に、内心で怯えながらも一礼した。
「お、おはようございます。ビスハイル公爵」
今の公爵に、昨日の底知れない恐ろしさはない。だけど、人を威圧するような雰囲気は相変わらずだ。形の良い唇が笑みを浮かべていても、妙に緊張してしまう。
「あの、なにか私にご用でしょうか……?」
「ああ、昨日の非礼を詫びようと」
「昨日の……非礼ですか?」
非礼を働いたのは、私の方だったはず。
首を傾げる私に、公爵がゆっくりと歩み寄る。
「そちらに名乗らせておきながら、俺が名乗るのを失念していた。改めて名乗ろう、アーシャ嬢。俺の名前は、ヴォルフガング・ビスハイル。このビスハイル公爵家の当主だ」
言いながら、公爵は私の目の前に立ち、こちらに向けて手を伸ばす。え、と驚く間もない。そのまま彼はさっと私の手を取って、その指先に口付けた。
――って……えっ⁉ く、口付けた⁉
あまりのさりげなさに、私は手を取られたまま凍り付く。
昨日も思ったが、この方、本当に女性に慣れている!
「会いたかった、アーシャ嬢。昨日は喜びの余り、気の利いた言葉も言えずにすまない」
「いえ! いえいえ……!」
公爵の唇が離れても、私の手は彼の手の中だ。ぎゅっと握られて、離してもらえそうにない。
――ど、ど、どうすれば……⁉
怒られるとばかり思っていたから、この状況は想定していなかった。かえって混乱してしまう。
「こうして言葉を交わせて嬉しい。初めてアーシャ嬢と会ったときは、ほとんど言葉も交わせなかったからな」
「え、ええ……と、そうですね」
どうにか頷くと、深呼吸を一つする。どうやら、正体がバレたわけではないらしい。
「顔もしっかりと見ることができなかった。だけど俺は、君の緑の瞳を見た瞬間に恋に落ちていた」
――なるほど……?
公爵の言葉に、安堵半分で納得する。
彼はアーシャときちんと顔を合わせたわけではなかったのだ。だから私とアーシャとの違いがわからず、今も私をアーシャと思ってくれている。
――顔立ちでバレることはないみたい。それは安心、だけど……
「ずっと忘れられなかった。その瞳の色と――その奥にかすかに見える魔力。甘くかぐわしい魔力の気配に、あれからずっと頭を蕩かされてしまった」
魔力、という言葉に、私は内心で苦さを呑む。
かすかな魔力と言うが、きっとそれは膨大な魔力を持つ公爵にとってのこと。魔力を持っているのは私でなくアーシャだ。ならば、彼が心惹かれたのはアーシャで間違いない。
「早くもう一度会いたかった。こんな気持ちは初めてだ。今、君が目の前にいるのが嘘のように思えてくる」
公爵はさらに一歩、私の方へ足を踏み出した。びくりとする私の肩を掴んで、彼はためらわず顔を寄せてくる。
「……ああ、この香りだ。もう一度感じたかった。――俺の心を奪った魔性の力」
私の耳元で公爵は囁いた。
公爵の長い青銀の髪が、首筋をくすぐる。声は低く、かすかに掠れていた。
言葉とともに吐息が漏れて、妙に背筋がぞわぞわする。
蕩かされた、と公爵は言ったけど、私の頭の方が蕩かされそうだった。
だけど一方で、頭の奥はスッと冷えている。魔性の力――魔力の源に、心当たりがあるのだ。
私は無意識に、胸元のブローチに手を当てる。アーシャが祈りを捧げたこのお守りが、きっと公爵を惑わす魔力の原因だ。
「アーシャ嬢――アーシャ。君に俺の思いを教えてやりたい。このまま――」
誘うような手が、私の肩から腰に移動する。そのまま私を抱きすくめようとする、寸前。
「ごめんなさい‼」
私はそう叫んで、公爵の体を押し返した。
「そそそ、そういうのは、け、結婚してからで……!」
公爵の体から離れると、私はどうにか言い訳を口にした。
心臓が、壊れるんじゃないかと思うほどドキドキしている。
このドキドキの原因は、男の人に抱きしめられそうになった驚きが一割。残りの九割は、恐怖だ。
――またやってしまったわ……!
怒られる。嫌われる。それだけならいいけれど、昨日に引き続いてこれで二度目だ。私のあまりに失礼な態度に、公爵もいい加減、我慢の限界を迎えてしまうかもしれない。
そうなると、今度こそ伯爵家取り潰しの危機である。
――で、でも! 私はアーシャじゃないもの!
偽者の私が、彼を騙したまま抱きしめられるわけにはいかない。その方がずっと公爵に失礼だ。
――だって、公爵はきっと、本当にアーシャのことが好きなのよ。
先の熱のある態度は、彼がアーシャに恋をした、なによりの証拠だろう。
ロロは公爵のことを、「ほんっとに他人に興味がない」と言っていたが、アーシャを語る彼にそんな様子は見られない。パーティで一度会ったきりのアーシャを忘れられず、言葉を尽くして身代わりの私に語りかけていた。
つまり、それだけ彼は本気ということだ。
――冷血な方だと聞いていたのに。
悪い噂が絶えず、屋敷に入った人間はみんな失踪するか、頭がおかしくなるなんて怪談じみた話もあったくらいなのに。
私自身もそれを信じて、半ば生贄くらいのつもりで屋敷に来たのに……
――身代わりなんて、失礼なことをしてしまったわ。
それが、どれほど公爵の心を踏みにじる行為なのか、私は考えていなかったのだ。
「ごめんなさい……。体調が優れないので、今日はもう下がらせていただきます……」
今さら抱いた罪悪感に、私は力なくそう告げた。
心ばかりの詫びのつもりで深く頭を下げると、そのあとは振り返ることもできず、逃げるように部屋をあとにする。
このとき――
引き留めもせず、別れの言葉さえも口にしない彼が、どんな表情をしていたか。
彼の顔を見ることができず、ずっと目を伏せていた私が気付くことはなかった。
◆ ◆ ◆
公爵は呆けていた。
アーシャと名乗る娘に拒絶されてからしばらく、彼は瞬きと呼吸以外、なにもできずにいた。
――なぜだ。
今回の公爵の行動は、実に周到なもののはずだった。
若い娘に好まれるような声音と態度を使い分け、心くすぐるような言葉を選んだ。恐ろしい風貌も、こうなるとかえって武器になる。恐ろしいはずの男が、自分にだけ優しい――そういうものを喜ぶ娘は多いのだ。
言葉の端々に、魅了の魔法も忍ばせた。公爵の魔力を込めた言葉に、彼女程度の魔力では抵抗できるはずもない。実際、彼女の反応は悪くなかった――途中までは。
――なぜ逃げられた。
彼女が出ていった扉を見やり、公爵は呆然と立ち尽くす。体調が優れないなど、嘘であることはわかりきっていた。
――自身の魔力を過信していたのか?
あるいは、彼女の魔力抵抗を甘く見ていたのだろうか。
ならばなおさら、公爵はこの失敗を認めることはできない。彼女が魅了にかからず、公爵自身を見てのあの態度というのなら、正真正銘、公爵は振られたことになってしまうのだ。
――……いいだろう。
屈辱を噛みしめ、公爵は内心でつぶやいた。
――魅了なんぞには頼らん。魅了で心を奪ったところで、所詮は偽りの感情だ。
ぐ、と公爵は拳を握りしめた。知らず、口元が笑みの形に歪む。
――そんなもの使わなくても、アーシャ自身を俺に夢中にさせてやる……!
そして、後悔させてやる。
本心から惚れさせ、その後にボロ切れのように捨ててやろう。もしくは本来の予定通り、彼の残虐な嗜好のはけ口にしてもいい。邪悪な未来を思い浮かべ、公爵は酷薄そうに目を細めた。
傍に誰かがいたら、悲鳴を上げそうなほど悪魔じみた表情だが――
その表情の中に、これまでにない情熱と関心が浮かんでいることに、公爵自身も気が付いてはいなかった。
――次こそは、絶対に落とす!
自身に惚れ込んだアーシャ――アネッサを想像し、公爵は実に悪い笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆
部屋に戻ってから、私はロロや他の使用人たちにあれこれと気を回してもらってしまった。
具合が悪いと言ったからか、公爵からそれ以上の呼び出しはなく、食事も部屋に運んでもらった。ロロも心配そうに部屋を訪ねては、水やら果物やらを差し入れてくれる。
「ご無事で良かったにゃー……普通なら体調不良なんかじゃ済まないですから」
と、ほっとした様子で部屋を出ていくロロを見送ったあと、日が暮れはじめた部屋の中で、私は一人悶々と考えていた。
――公爵は、やっぱり本気でアーシャが好きだったんだわ……!
あの熱っぽい言葉。熱っぽい視線。アーシャを語るときの声の調子に、ひやりとした手のひらの感触。ドキドキしたけど、あれらはすべて私ではなく、アーシャに向けられたものだった。
――冷血なんかじゃないわ。
世間の噂よりもずっと、公爵は情熱的な人だ。少しばかり手が早すぎるけれど、無理強いをすることはない。断ればきちんと離してくれる。
屋敷に勤める使用人も、見た目が変わっているだけで、親切な人ばかりだ。ロロが言っていた『ガラの悪い使用人』も見かけない。
食事も美味しいし、ベッドも柔らかで、部屋もきれいだ。どんなに恐ろしい場所かと散々聞かされてきただけに、拍子抜けしてしまうくらいだった。
――これなら、私が身代わりにならなくても良かったんじゃないかしら。
噂を鵜呑みにして身代わりになったのは、軽率だったかもしれない。公爵は悪い噂こそあるけど、結婚相手としては申し分ないのだ。
年齢は二十二と若く、仮面越しでもわかるくらいに顔立ちも整っている。家柄も素晴らしく、公爵の身分はもちろんのこと、彼は現国王陛下の甥にあたる。紛れもない王家の一員なのだ。
その上、戦争の英雄として武勲も山ほど立てている。報奨金もあるからお金の心配もない。
高い魔力を持っているのも、アーシャの結婚相手として魅力的だ。きっと彼ならばアーシャの魔力をよく理解し、気遣ってくれるだろう。
それになにより、公爵が情熱的にアーシャを求めているのだ。
政略結婚の多い貴族だからこそ、相手に好きだと思ってもらえるならこれほど幸せなことはない。もちろん、アーシャ自身の気持ちもあるので無理強いはできないが、実際の公爵を知ると、上手くいったのではないかと思えてくる。
――伯爵家よりも、ここにいる方がアーシャにとっては幸せかもしれないわ。
伯爵家でのアーシャは、両親に溺愛されるあまり、かえって自由がなかった。
体が弱くていつ倒れるかわからないからと、なにをするにも両親が付きっ切り。一人の時間はほとんどなく、部屋にいるときでさえ、日中は家族の誰かが必ず傍にいる。
疲れていても無理をして笑うアーシャに、見ている私の方が息苦しさを感じるくらいだ。
できれば早く良い人を見つけて、家を出ていくべきだと常々思っていた。その相手として、公爵は最適だと改めて思う。
――と、なると……
今さら公爵に、『偽物でした』とは言えない。確実に公爵の怒りを買い、今度こそ伯爵家は取り潰しになるだろう。特に、身代わり実行犯の私は、首と体がつながっている自信がない。
ならば穏便にアーシャと公爵が結婚する方法は――
――もう一度入れ替わって、アーシャに『アネッサ』としてきてもらうしかないわ!
私とアーシャなら、どちらを好きになるかは明らかだ。可愛くて性格も良いアーシャと、私とでは比べるべくもない。『アネッサ』としてのアーシャを公爵に好きになってもらって、そのまま結婚相手を変えれば、すべては円満に解決できるはず。
もっとも、さすがに二人そろってしまえば、私が偽者であるとバレる可能性はある。
――でも、そのときはそのとき!
今から心配しても仕方がないと、両手を握りしめる。もともと、邪魔者の私がここにいることこそが間違っていて、本当は公爵とアーシャが結婚するべきだったのだ。それを本来の形に正すことに、なんの問題があるだろう。いや、問題だらけだけど。
――アーシャの幸せのためにも、できる限りのことはやらなくっちゃ。
覚悟を決め、私は顔を上げた。そうと決まれば、この先やることは一つだ。
――アーシャに興味を持ってもらうために、公爵にアーシャを売り込むのよ!
そしてアーシャを公爵邸に呼んでさえもらえれば、あとは魅力的な二人のこと。きっと互いに恋に落ち、幸せな未来に向かうはずだ!
翌日のお昼前、私の体調を気遣って、公爵が見舞いに来てくれた。
慌ててベッドから起き上がり椅子を勧めようとするが、公爵は私を押し留めてベッドサイドの適当な椅子に腰かける。
「アーシャ嬢、もう大丈夫なのか」
「ええ、まあ……」
言い淀んでしまうのは、内心の罪悪感のせいだ。
本当は仮病なのに、わざわざ部屋まで来てくれた彼に申し訳ない。
「……ご心配をおかけしました、ビスハイル公爵。もうすっかり元気になりました」
ごめんなさい! と心の中で謝罪しつつ、私は彼に笑みを向けた。
そんな私に、彼は不快そうに眉をひそめる。一瞬、仮病がバレたかとぎくりとしたが、どうやら違うらしい。
「公爵」
彼は短く、私の呼び方を咎めた。
「これから結婚するのに、その呼び名は他人行儀ではないか?」
――言われてみれば……たしかに。
嫁入りするなら、自分も『ビスハイル』になるのだ。名前で呼んだ方が自然だろう。
――でも、公爵の名前って言うと……
「ヴォルフガング様……?」
いささか厳つい名前である。彼の雰囲気にはよく似合っているのだけど、ビスハイルの方がまだ柔らかみがあるだろう。
同じことを思ったのか、公爵も少し渋い顔をした。
「それでは長いだろう? アーシャ嬢には、できれば愛称で呼んでもらいたい」
「愛称、ですか」
「そう。ヴォルフでもいいし――」
そう言って、彼は椅子から腰を浮かし、ベッドの上の私に身を乗り出す。今度はなにかと身を強張らせる私に、彼は手を伸ばし――
「ヴィー、なんてどうだろう。誰にも呼ばせたことのない、特別な呼び名だ」
私の肩に手を触れて、耳元で低く囁いた。
先ほどの淡白さが嘘みたいに、艶っぽく色気に満ちた声音だ。背筋がぞくりとする。
「君だけの名前で呼んでほしいんだ、アーシャ」
溶けるような言葉に、頭がくらりとする。どうにか踏みとどまったのは、彼が呼んだ『アーシャ』という名前のおかげだろう。
――こ、公爵が好きなのは私じゃないわ!
内心で自分に言い聞かせると、私は酔ったように熱い頭を振る。
特別な呼び名なら、私が呼ぶわけにいかないのだ。だけど、この流れで公爵と呼び続けるのは不自然だから……
「で、では……ヴォルフ様とお呼びします……!」
私の言葉に、公爵――ではなく、ヴォルフ様は少しばかり不機嫌そうな顔をした。
この屋敷に来てから、どうにも私は、彼を苛立たせてばかりいる気がする。
――い、いえ! 逆に考えれば、偽物の私が嫌われることで本物のアーシャを好きになってもらうチャンスにつながるわ……!
大切なのは、本物のアーシャが彼に気に入られることだ。アーシャに興味を持ってもらい、屋敷に呼び寄せてもらおうと、昨日決意したばかりである。
ならば、あとは実行に移すだけだ。私は勇気を振り絞って口を開く。
「ヴォルフ様! と、ところで私、いもう――いえ、姉妹がいるんです!」
名前の話題から離れたいこともあり、私は強引に話を切り替えた。
ヴォルフ様は表情を一切変えない。なのに、先ほどよりも機嫌が悪くなったとわかるのが不思議だ。内心で「ひええ……」と青ざめる私に、彼は冷たく告げた。
「姉妹がどうした」
淡々とした声が、いつもよりもさらに冷やかに響く。私は内心で、恐怖に震え上がった。
冷血ではないとわかった今でも、ヴォルフ様の纏う空気は恐ろしい。
威圧感とでも言うのだろうか。捕食者を前にした獲物のような気分になる。きっと彼の手にかかれば、私なんて蟻を潰すようなもの。絶対に怒らせてはいけない相手だと、本能が感じていた。
それでも、アーシャのために引くわけにはいかないと、私は震える口を開く。
「ええと……ヴォルフ様に知っていただきたくて……」
「なんのために」
売り込みのために! ――とは言えない。
「……な、仲良くなれるのではないかと思いまして! お話が合うのでは、と!」
「興味ない」
一刀両断。
――と、取り付く島もないわ……!
「俺は姉妹よりも、君のことが知りたいんだ」
恐ろしい雰囲気のまま、ヴォルフ様は私の腕を掴んだ。腕に込められた力は強くない。でも、優しいとも言えない。妙に強引で、心まで掴まれてしまいそうな気がした。
「俺に君を教えてくれ、アーシャ」
そのアーシャの話をしようとしていたんです! ――とも言えない。
なにも言えずに口をつぐむ私を少しの間見据えてから、ヴォルフ様は腕を引いた。
思わず体勢を崩した私に、ヴォルフ様が顔を近付けてくる。ぎょっとするほど近い距離だ。
「君の持つ甘さを教えてくれ。舌で味わいたいんだ」
「あ、甘さ……?」
「そう。チョコレートよりももっと甘い味」
とろりとした瞳が、私を捕らえる。思わず惚けてしまいそう、だけど。
「俺を満たしてくれ、アーシャ――」
――この態度は、アーシャに向けられたものだから!
「あ、あ、甘い味! あります!」
雰囲気に流されまいと、私は慌てて声を張り上げた。例の癖で、今日も袖に忍ばせていた包みを慌てて取り出し、ヴォルフ様に押し付ける。
「キャラメルです! ま、前のチョコよりも甘いはずですよ……!」
もちろん、さすがの私でも、ヴォルフ様の言う『甘い味』がこれでないことはわかっている。
だけどあのままだと、変な流れになりかねない。どうにかこうにか誤魔化さなければ、と思い付いたのが、このキャラメルなのだ。
私が押し付けたキャラメルを、ヴォルフ様は面食らった様子で受け取った。
瞬きを繰り返し、しばらく無言でそれを見つめてから、彼は一つ息を吐く。
「……興が削がれた」
そう一言だけ言うと、彼はそれ以上なにも言わずに部屋を出ていった。
ぱたん、と閉まる扉に、安堵と恐怖の混ざった息が漏れる。姿が見えなくなっても、心臓はドキドキしたままだ。
――もしかして明日、森に私の死体が転がっているんじゃないかしら……
あり得なくもない想像をして、私は一人震えた。
◆ ◆ ◆
――なんでだ‼
キャラメルを片手に、公爵――ヴォルフの内心は荒れていた。生まれてこの方、これほど心が荒れたことがあるだろうか、というほどに荒れ果てていた。
――あの雰囲気から、どうしてキャラメルなんて寄越せるんだ‼
現在のヴォルフに、日頃の冷静さは影も形も見えない。足早に自室に戻ろうとするヴォルフの姿を見て、すれ違う使用人たちがぎょっと振り返る。
だが、ヴォルフの目には、使用人たちの姿は映らない。頭の中を、ずっとあの赤茶けた髪の娘が埋め尽くしているからだ。
――そんなに俺に触れられるのは嫌なのか⁉
まさか自分に魅力がないのだろうか? と自問して、すぐに首を振る。これまで、彼が狙って落とせない女性はいなかった。
それに、彼女の反応も悪くはないのだ。見つめれば初心に照れるし、囁きかければ声に酔い、触れれば胸を高鳴らせている。嫌がっている様子もなく、手応えのようなものも感じると言うのに!
――俺のなにが悪かった? 俺が悪かったのか⁉
キャラメルを握る手がわなわなと震える。受け取ってしまった自分自身にも怒りが湧いた。どうして、『こんなものはいらない』とその場で叩き落とさなかったのかわからない。
叩き落としたら怖がるだろうな、などと躊躇した自分が、なおさら理解できなかった。
――い、いや、口説き落とすためだ! 怖がらせたらやりにくくなる! それはいい!
それよりも問題は彼女の方だ。
ヴォルフは余計な考えを追い払い、赤毛の娘に怒りを向ける。
あんないかにも平凡な、男慣れしていない小娘一人に、どうしてこうも手こずってしまうのか。
――しかも、姉妹の話だと? 俺と話をしているのはお前だろうが、アーシャ!
彼女自身の話ならヴォルフも素直に聞いただろう。他人に一切興味のない彼だが、口説き落とすと決めた今、相手を知ることは重要だ。好きなことでも嫌いなことでも、聞くつもりがあったのに。
――話すなら、アーシャの話をしろよ‼
という思いが誤解を生んでいることに、彼は気が付かない。
怒りに奥歯を噛みしめて、彼は荒々しく息を吐いた。
――つ、次だ! 次こそ菓子なんぞで誤魔化すことは許さん‼
次こそ甘い雰囲気に――いや、この『甘い』という単語が悪いのか。
ならば、次ははっきりと言ってやろう――甘いものはいらない、と!
へえ、と私は相槌を打つ。
たしかに、人間の多いこの国で、亜人が仕事を見つけるのは難しいだろう。人は、自分と異なる存在を拒みがちだ。亜人はこの国では、差別や嫌悪の対象だった。
「その点、ご主人様は他人の見た目なんて気にしないですからねえ。この国で雇われたかったら、混血はここに来るしかないんですよ」
「そうだったの……。ビスハイル公爵って優しい方なのね」
意外にも、と言ったら失礼なのだろう。でも心底意外だった。
――冷血な方だと聞いていたのに。行く当てのない人を雇い入れたりもするのね……
「んにゃ……誤解が進んでいるにゃ……。ご主人様は全っ然優しくはないですにゃー。ほんと、ほんっとに他人に興味がないだけで」
ロロが渋い顔で首を振る。あまりにも断固とした否定だ。
「ご主人様は誰でもいいから雇っているだけです。だから、使用人の中にもガラの悪いのが混ざっていたりするので、気を付けてくださいにゃ」
「ガラの悪い?」
「はいにゃ。そういうのに絡まれたときは、執事のシメオン様に言うといいですよ。ご主人様は当てになりませんからねえ」
執事、シメオン。まだ会ったことのない人だ。どんな人なのだろう――と思っている間に、ロロは一つの扉の前で足を止めた。
「ここがご主人様のお部屋です。あたしはここまで。外でご無事をお祈りしています」
不吉なことを言って、ロロは一歩下がってしまう。ここから先は、一人で行けということだろう。
背後にロロを残し、私は恐る恐る扉を開けた。
中に入ると、窓際に立つ公爵が目に入る。こちらを見つめる公爵に、内心で怯えながらも一礼した。
「お、おはようございます。ビスハイル公爵」
今の公爵に、昨日の底知れない恐ろしさはない。だけど、人を威圧するような雰囲気は相変わらずだ。形の良い唇が笑みを浮かべていても、妙に緊張してしまう。
「あの、なにか私にご用でしょうか……?」
「ああ、昨日の非礼を詫びようと」
「昨日の……非礼ですか?」
非礼を働いたのは、私の方だったはず。
首を傾げる私に、公爵がゆっくりと歩み寄る。
「そちらに名乗らせておきながら、俺が名乗るのを失念していた。改めて名乗ろう、アーシャ嬢。俺の名前は、ヴォルフガング・ビスハイル。このビスハイル公爵家の当主だ」
言いながら、公爵は私の目の前に立ち、こちらに向けて手を伸ばす。え、と驚く間もない。そのまま彼はさっと私の手を取って、その指先に口付けた。
――って……えっ⁉ く、口付けた⁉
あまりのさりげなさに、私は手を取られたまま凍り付く。
昨日も思ったが、この方、本当に女性に慣れている!
「会いたかった、アーシャ嬢。昨日は喜びの余り、気の利いた言葉も言えずにすまない」
「いえ! いえいえ……!」
公爵の唇が離れても、私の手は彼の手の中だ。ぎゅっと握られて、離してもらえそうにない。
――ど、ど、どうすれば……⁉
怒られるとばかり思っていたから、この状況は想定していなかった。かえって混乱してしまう。
「こうして言葉を交わせて嬉しい。初めてアーシャ嬢と会ったときは、ほとんど言葉も交わせなかったからな」
「え、ええ……と、そうですね」
どうにか頷くと、深呼吸を一つする。どうやら、正体がバレたわけではないらしい。
「顔もしっかりと見ることができなかった。だけど俺は、君の緑の瞳を見た瞬間に恋に落ちていた」
――なるほど……?
公爵の言葉に、安堵半分で納得する。
彼はアーシャときちんと顔を合わせたわけではなかったのだ。だから私とアーシャとの違いがわからず、今も私をアーシャと思ってくれている。
――顔立ちでバレることはないみたい。それは安心、だけど……
「ずっと忘れられなかった。その瞳の色と――その奥にかすかに見える魔力。甘くかぐわしい魔力の気配に、あれからずっと頭を蕩かされてしまった」
魔力、という言葉に、私は内心で苦さを呑む。
かすかな魔力と言うが、きっとそれは膨大な魔力を持つ公爵にとってのこと。魔力を持っているのは私でなくアーシャだ。ならば、彼が心惹かれたのはアーシャで間違いない。
「早くもう一度会いたかった。こんな気持ちは初めてだ。今、君が目の前にいるのが嘘のように思えてくる」
公爵はさらに一歩、私の方へ足を踏み出した。びくりとする私の肩を掴んで、彼はためらわず顔を寄せてくる。
「……ああ、この香りだ。もう一度感じたかった。――俺の心を奪った魔性の力」
私の耳元で公爵は囁いた。
公爵の長い青銀の髪が、首筋をくすぐる。声は低く、かすかに掠れていた。
言葉とともに吐息が漏れて、妙に背筋がぞわぞわする。
蕩かされた、と公爵は言ったけど、私の頭の方が蕩かされそうだった。
だけど一方で、頭の奥はスッと冷えている。魔性の力――魔力の源に、心当たりがあるのだ。
私は無意識に、胸元のブローチに手を当てる。アーシャが祈りを捧げたこのお守りが、きっと公爵を惑わす魔力の原因だ。
「アーシャ嬢――アーシャ。君に俺の思いを教えてやりたい。このまま――」
誘うような手が、私の肩から腰に移動する。そのまま私を抱きすくめようとする、寸前。
「ごめんなさい‼」
私はそう叫んで、公爵の体を押し返した。
「そそそ、そういうのは、け、結婚してからで……!」
公爵の体から離れると、私はどうにか言い訳を口にした。
心臓が、壊れるんじゃないかと思うほどドキドキしている。
このドキドキの原因は、男の人に抱きしめられそうになった驚きが一割。残りの九割は、恐怖だ。
――またやってしまったわ……!
怒られる。嫌われる。それだけならいいけれど、昨日に引き続いてこれで二度目だ。私のあまりに失礼な態度に、公爵もいい加減、我慢の限界を迎えてしまうかもしれない。
そうなると、今度こそ伯爵家取り潰しの危機である。
――で、でも! 私はアーシャじゃないもの!
偽者の私が、彼を騙したまま抱きしめられるわけにはいかない。その方がずっと公爵に失礼だ。
――だって、公爵はきっと、本当にアーシャのことが好きなのよ。
先の熱のある態度は、彼がアーシャに恋をした、なによりの証拠だろう。
ロロは公爵のことを、「ほんっとに他人に興味がない」と言っていたが、アーシャを語る彼にそんな様子は見られない。パーティで一度会ったきりのアーシャを忘れられず、言葉を尽くして身代わりの私に語りかけていた。
つまり、それだけ彼は本気ということだ。
――冷血な方だと聞いていたのに。
悪い噂が絶えず、屋敷に入った人間はみんな失踪するか、頭がおかしくなるなんて怪談じみた話もあったくらいなのに。
私自身もそれを信じて、半ば生贄くらいのつもりで屋敷に来たのに……
――身代わりなんて、失礼なことをしてしまったわ。
それが、どれほど公爵の心を踏みにじる行為なのか、私は考えていなかったのだ。
「ごめんなさい……。体調が優れないので、今日はもう下がらせていただきます……」
今さら抱いた罪悪感に、私は力なくそう告げた。
心ばかりの詫びのつもりで深く頭を下げると、そのあとは振り返ることもできず、逃げるように部屋をあとにする。
このとき――
引き留めもせず、別れの言葉さえも口にしない彼が、どんな表情をしていたか。
彼の顔を見ることができず、ずっと目を伏せていた私が気付くことはなかった。
◆ ◆ ◆
公爵は呆けていた。
アーシャと名乗る娘に拒絶されてからしばらく、彼は瞬きと呼吸以外、なにもできずにいた。
――なぜだ。
今回の公爵の行動は、実に周到なもののはずだった。
若い娘に好まれるような声音と態度を使い分け、心くすぐるような言葉を選んだ。恐ろしい風貌も、こうなるとかえって武器になる。恐ろしいはずの男が、自分にだけ優しい――そういうものを喜ぶ娘は多いのだ。
言葉の端々に、魅了の魔法も忍ばせた。公爵の魔力を込めた言葉に、彼女程度の魔力では抵抗できるはずもない。実際、彼女の反応は悪くなかった――途中までは。
――なぜ逃げられた。
彼女が出ていった扉を見やり、公爵は呆然と立ち尽くす。体調が優れないなど、嘘であることはわかりきっていた。
――自身の魔力を過信していたのか?
あるいは、彼女の魔力抵抗を甘く見ていたのだろうか。
ならばなおさら、公爵はこの失敗を認めることはできない。彼女が魅了にかからず、公爵自身を見てのあの態度というのなら、正真正銘、公爵は振られたことになってしまうのだ。
――……いいだろう。
屈辱を噛みしめ、公爵は内心でつぶやいた。
――魅了なんぞには頼らん。魅了で心を奪ったところで、所詮は偽りの感情だ。
ぐ、と公爵は拳を握りしめた。知らず、口元が笑みの形に歪む。
――そんなもの使わなくても、アーシャ自身を俺に夢中にさせてやる……!
そして、後悔させてやる。
本心から惚れさせ、その後にボロ切れのように捨ててやろう。もしくは本来の予定通り、彼の残虐な嗜好のはけ口にしてもいい。邪悪な未来を思い浮かべ、公爵は酷薄そうに目を細めた。
傍に誰かがいたら、悲鳴を上げそうなほど悪魔じみた表情だが――
その表情の中に、これまでにない情熱と関心が浮かんでいることに、公爵自身も気が付いてはいなかった。
――次こそは、絶対に落とす!
自身に惚れ込んだアーシャ――アネッサを想像し、公爵は実に悪い笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆
部屋に戻ってから、私はロロや他の使用人たちにあれこれと気を回してもらってしまった。
具合が悪いと言ったからか、公爵からそれ以上の呼び出しはなく、食事も部屋に運んでもらった。ロロも心配そうに部屋を訪ねては、水やら果物やらを差し入れてくれる。
「ご無事で良かったにゃー……普通なら体調不良なんかじゃ済まないですから」
と、ほっとした様子で部屋を出ていくロロを見送ったあと、日が暮れはじめた部屋の中で、私は一人悶々と考えていた。
――公爵は、やっぱり本気でアーシャが好きだったんだわ……!
あの熱っぽい言葉。熱っぽい視線。アーシャを語るときの声の調子に、ひやりとした手のひらの感触。ドキドキしたけど、あれらはすべて私ではなく、アーシャに向けられたものだった。
――冷血なんかじゃないわ。
世間の噂よりもずっと、公爵は情熱的な人だ。少しばかり手が早すぎるけれど、無理強いをすることはない。断ればきちんと離してくれる。
屋敷に勤める使用人も、見た目が変わっているだけで、親切な人ばかりだ。ロロが言っていた『ガラの悪い使用人』も見かけない。
食事も美味しいし、ベッドも柔らかで、部屋もきれいだ。どんなに恐ろしい場所かと散々聞かされてきただけに、拍子抜けしてしまうくらいだった。
――これなら、私が身代わりにならなくても良かったんじゃないかしら。
噂を鵜呑みにして身代わりになったのは、軽率だったかもしれない。公爵は悪い噂こそあるけど、結婚相手としては申し分ないのだ。
年齢は二十二と若く、仮面越しでもわかるくらいに顔立ちも整っている。家柄も素晴らしく、公爵の身分はもちろんのこと、彼は現国王陛下の甥にあたる。紛れもない王家の一員なのだ。
その上、戦争の英雄として武勲も山ほど立てている。報奨金もあるからお金の心配もない。
高い魔力を持っているのも、アーシャの結婚相手として魅力的だ。きっと彼ならばアーシャの魔力をよく理解し、気遣ってくれるだろう。
それになにより、公爵が情熱的にアーシャを求めているのだ。
政略結婚の多い貴族だからこそ、相手に好きだと思ってもらえるならこれほど幸せなことはない。もちろん、アーシャ自身の気持ちもあるので無理強いはできないが、実際の公爵を知ると、上手くいったのではないかと思えてくる。
――伯爵家よりも、ここにいる方がアーシャにとっては幸せかもしれないわ。
伯爵家でのアーシャは、両親に溺愛されるあまり、かえって自由がなかった。
体が弱くていつ倒れるかわからないからと、なにをするにも両親が付きっ切り。一人の時間はほとんどなく、部屋にいるときでさえ、日中は家族の誰かが必ず傍にいる。
疲れていても無理をして笑うアーシャに、見ている私の方が息苦しさを感じるくらいだ。
できれば早く良い人を見つけて、家を出ていくべきだと常々思っていた。その相手として、公爵は最適だと改めて思う。
――と、なると……
今さら公爵に、『偽物でした』とは言えない。確実に公爵の怒りを買い、今度こそ伯爵家は取り潰しになるだろう。特に、身代わり実行犯の私は、首と体がつながっている自信がない。
ならば穏便にアーシャと公爵が結婚する方法は――
――もう一度入れ替わって、アーシャに『アネッサ』としてきてもらうしかないわ!
私とアーシャなら、どちらを好きになるかは明らかだ。可愛くて性格も良いアーシャと、私とでは比べるべくもない。『アネッサ』としてのアーシャを公爵に好きになってもらって、そのまま結婚相手を変えれば、すべては円満に解決できるはず。
もっとも、さすがに二人そろってしまえば、私が偽者であるとバレる可能性はある。
――でも、そのときはそのとき!
今から心配しても仕方がないと、両手を握りしめる。もともと、邪魔者の私がここにいることこそが間違っていて、本当は公爵とアーシャが結婚するべきだったのだ。それを本来の形に正すことに、なんの問題があるだろう。いや、問題だらけだけど。
――アーシャの幸せのためにも、できる限りのことはやらなくっちゃ。
覚悟を決め、私は顔を上げた。そうと決まれば、この先やることは一つだ。
――アーシャに興味を持ってもらうために、公爵にアーシャを売り込むのよ!
そしてアーシャを公爵邸に呼んでさえもらえれば、あとは魅力的な二人のこと。きっと互いに恋に落ち、幸せな未来に向かうはずだ!
翌日のお昼前、私の体調を気遣って、公爵が見舞いに来てくれた。
慌ててベッドから起き上がり椅子を勧めようとするが、公爵は私を押し留めてベッドサイドの適当な椅子に腰かける。
「アーシャ嬢、もう大丈夫なのか」
「ええ、まあ……」
言い淀んでしまうのは、内心の罪悪感のせいだ。
本当は仮病なのに、わざわざ部屋まで来てくれた彼に申し訳ない。
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ごめんなさい! と心の中で謝罪しつつ、私は彼に笑みを向けた。
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いささか厳つい名前である。彼の雰囲気にはよく似合っているのだけど、ビスハイルの方がまだ柔らかみがあるだろう。
同じことを思ったのか、公爵も少し渋い顔をした。
「それでは長いだろう? アーシャ嬢には、できれば愛称で呼んでもらいたい」
「愛称、ですか」
「そう。ヴォルフでもいいし――」
そう言って、彼は椅子から腰を浮かし、ベッドの上の私に身を乗り出す。今度はなにかと身を強張らせる私に、彼は手を伸ばし――
「ヴィー、なんてどうだろう。誰にも呼ばせたことのない、特別な呼び名だ」
私の肩に手を触れて、耳元で低く囁いた。
先ほどの淡白さが嘘みたいに、艶っぽく色気に満ちた声音だ。背筋がぞくりとする。
「君だけの名前で呼んでほしいんだ、アーシャ」
溶けるような言葉に、頭がくらりとする。どうにか踏みとどまったのは、彼が呼んだ『アーシャ』という名前のおかげだろう。
――こ、公爵が好きなのは私じゃないわ!
内心で自分に言い聞かせると、私は酔ったように熱い頭を振る。
特別な呼び名なら、私が呼ぶわけにいかないのだ。だけど、この流れで公爵と呼び続けるのは不自然だから……
「で、では……ヴォルフ様とお呼びします……!」
私の言葉に、公爵――ではなく、ヴォルフ様は少しばかり不機嫌そうな顔をした。
この屋敷に来てから、どうにも私は、彼を苛立たせてばかりいる気がする。
――い、いえ! 逆に考えれば、偽物の私が嫌われることで本物のアーシャを好きになってもらうチャンスにつながるわ……!
大切なのは、本物のアーシャが彼に気に入られることだ。アーシャに興味を持ってもらい、屋敷に呼び寄せてもらおうと、昨日決意したばかりである。
ならば、あとは実行に移すだけだ。私は勇気を振り絞って口を開く。
「ヴォルフ様! と、ところで私、いもう――いえ、姉妹がいるんです!」
名前の話題から離れたいこともあり、私は強引に話を切り替えた。
ヴォルフ様は表情を一切変えない。なのに、先ほどよりも機嫌が悪くなったとわかるのが不思議だ。内心で「ひええ……」と青ざめる私に、彼は冷たく告げた。
「姉妹がどうした」
淡々とした声が、いつもよりもさらに冷やかに響く。私は内心で、恐怖に震え上がった。
冷血ではないとわかった今でも、ヴォルフ様の纏う空気は恐ろしい。
威圧感とでも言うのだろうか。捕食者を前にした獲物のような気分になる。きっと彼の手にかかれば、私なんて蟻を潰すようなもの。絶対に怒らせてはいけない相手だと、本能が感じていた。
それでも、アーシャのために引くわけにはいかないと、私は震える口を開く。
「ええと……ヴォルフ様に知っていただきたくて……」
「なんのために」
売り込みのために! ――とは言えない。
「……な、仲良くなれるのではないかと思いまして! お話が合うのでは、と!」
「興味ない」
一刀両断。
――と、取り付く島もないわ……!
「俺は姉妹よりも、君のことが知りたいんだ」
恐ろしい雰囲気のまま、ヴォルフ様は私の腕を掴んだ。腕に込められた力は強くない。でも、優しいとも言えない。妙に強引で、心まで掴まれてしまいそうな気がした。
「俺に君を教えてくれ、アーシャ」
そのアーシャの話をしようとしていたんです! ――とも言えない。
なにも言えずに口をつぐむ私を少しの間見据えてから、ヴォルフ様は腕を引いた。
思わず体勢を崩した私に、ヴォルフ様が顔を近付けてくる。ぎょっとするほど近い距離だ。
「君の持つ甘さを教えてくれ。舌で味わいたいんだ」
「あ、甘さ……?」
「そう。チョコレートよりももっと甘い味」
とろりとした瞳が、私を捕らえる。思わず惚けてしまいそう、だけど。
「俺を満たしてくれ、アーシャ――」
――この態度は、アーシャに向けられたものだから!
「あ、あ、甘い味! あります!」
雰囲気に流されまいと、私は慌てて声を張り上げた。例の癖で、今日も袖に忍ばせていた包みを慌てて取り出し、ヴォルフ様に押し付ける。
「キャラメルです! ま、前のチョコよりも甘いはずですよ……!」
もちろん、さすがの私でも、ヴォルフ様の言う『甘い味』がこれでないことはわかっている。
だけどあのままだと、変な流れになりかねない。どうにかこうにか誤魔化さなければ、と思い付いたのが、このキャラメルなのだ。
私が押し付けたキャラメルを、ヴォルフ様は面食らった様子で受け取った。
瞬きを繰り返し、しばらく無言でそれを見つめてから、彼は一つ息を吐く。
「……興が削がれた」
そう一言だけ言うと、彼はそれ以上なにも言わずに部屋を出ていった。
ぱたん、と閉まる扉に、安堵と恐怖の混ざった息が漏れる。姿が見えなくなっても、心臓はドキドキしたままだ。
――もしかして明日、森に私の死体が転がっているんじゃないかしら……
あり得なくもない想像をして、私は一人震えた。
◆ ◆ ◆
――なんでだ‼
キャラメルを片手に、公爵――ヴォルフの内心は荒れていた。生まれてこの方、これほど心が荒れたことがあるだろうか、というほどに荒れ果てていた。
――あの雰囲気から、どうしてキャラメルなんて寄越せるんだ‼
現在のヴォルフに、日頃の冷静さは影も形も見えない。足早に自室に戻ろうとするヴォルフの姿を見て、すれ違う使用人たちがぎょっと振り返る。
だが、ヴォルフの目には、使用人たちの姿は映らない。頭の中を、ずっとあの赤茶けた髪の娘が埋め尽くしているからだ。
――そんなに俺に触れられるのは嫌なのか⁉
まさか自分に魅力がないのだろうか? と自問して、すぐに首を振る。これまで、彼が狙って落とせない女性はいなかった。
それに、彼女の反応も悪くはないのだ。見つめれば初心に照れるし、囁きかければ声に酔い、触れれば胸を高鳴らせている。嫌がっている様子もなく、手応えのようなものも感じると言うのに!
――俺のなにが悪かった? 俺が悪かったのか⁉
キャラメルを握る手がわなわなと震える。受け取ってしまった自分自身にも怒りが湧いた。どうして、『こんなものはいらない』とその場で叩き落とさなかったのかわからない。
叩き落としたら怖がるだろうな、などと躊躇した自分が、なおさら理解できなかった。
――い、いや、口説き落とすためだ! 怖がらせたらやりにくくなる! それはいい!
それよりも問題は彼女の方だ。
ヴォルフは余計な考えを追い払い、赤毛の娘に怒りを向ける。
あんないかにも平凡な、男慣れしていない小娘一人に、どうしてこうも手こずってしまうのか。
――しかも、姉妹の話だと? 俺と話をしているのはお前だろうが、アーシャ!
彼女自身の話ならヴォルフも素直に聞いただろう。他人に一切興味のない彼だが、口説き落とすと決めた今、相手を知ることは重要だ。好きなことでも嫌いなことでも、聞くつもりがあったのに。
――話すなら、アーシャの話をしろよ‼
という思いが誤解を生んでいることに、彼は気が付かない。
怒りに奥歯を噛みしめて、彼は荒々しく息を吐いた。
――つ、次だ! 次こそ菓子なんぞで誤魔化すことは許さん‼
次こそ甘い雰囲気に――いや、この『甘い』という単語が悪いのか。
ならば、次ははっきりと言ってやろう――甘いものはいらない、と!
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