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1巻
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弟は嬉々とした目を向けてきた。血とか死ぬとか、そういうのが好きな年頃だ。だけど、実の姉に向ける言葉ではない。
「あー、見たいなー! 楽しそー! あ、でもこの屋敷にアネッサがいなくなるのはいいな。やっと、アーシャ姉さまだけが僕の姉さまになる」
弟は夢見るように手を握り合わせ、幸せな未来を見つめている。
その三人から少し離れたところで、アーシャは私を見ていた。三人の話が終わると、おぼつかない足取りで駆け寄ってきて、私の両手をぎゅっと握る。
「お姉さま……わたし……ごめんなさい……わたし……」
「アーシャ」
今にも倒れそうなアーシャに、私は呼びかけた。
ビスハイル公爵から手紙をもらって以来、アーシャはずっと臥せっていた。本当は一度回復しかけたのだけど、私が身代わりをすることに決まったと知って、また倒れてしまったのだ。
今だって、外を歩けるような体調ではない。顔は青白く、歩き方もふらふらだ。それでも別れの挨拶をするために、アーシャは寝間着姿のまま駆け付けてくれた。
そういうアーシャのためだから、私は身代わりを引き受けたのだ。
「大丈夫、ちょっと行ってくるだけだから」
「お姉さま……」
アーシャは一度言葉に詰まると、私の手にそっと小さなブローチを握らせた。
「お守りです。お姉さまが無事でいらっしゃるようにって、たくさん祈ったから……」
言いながら、アーシャはぽろぽろと泣き出してしまう。
アーシャの祈りは、魔法の祈りだ。きっと、本当に身を守ってくれるのだろう。
「ありがとう。大切にするわ」
心からそう言って、私は彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
◆ ◆ ◆
深く暗い森に閉ざされた、ビスハイル公爵邸。
昼でもどこか薄暗いその屋敷で、主人であるビスハイル公爵は窓の外を眺めていた。
近々、この屋敷に新たに人が来る。
――次は、どれだけ『持つ』だろうか。
窓越しに森を見下ろし、彼はかすかに目を細めた。
「今度こそ、壊さないでくださいよ」
公爵の背後で、窘めるような従者の声がする。
「魔族の血のせいなのはわかりますが、いい加減妙な噂も立ってきています。せめて、もう少し大事に扱っていただかないと。あとの処理も楽じゃないんですから」
「噂ではなく、真実だろう?」
ふん、と公爵は笑うように息を吐いた。
世間では『残虐非道な冷血公爵』と言われているらしいが、否定の余地はない。彼は事実そういう人物であり、彼自身も認めている。
戦争をしていた頃は良かった。どれほど非道なことをしても、戦火の中で誤魔化せた。
だが、戦争が終わり平和になった今、世界は公爵にとって不自由になった。
切り刻みたい、血を見たい、凌辱したい、有り余る魔力を放ちたい――それも、できれば残酷に。
この欲求は、魔族の血と公爵自身の魔力の大きさから来るものだ。戦時は戦場で晴らしていた欲求を、彼は現在、定期的に犠牲者を得ることで晴らしている。
そのほとんどは、国から送られてくる罪人ばかりだが――
たまに、別のものが食べたくなる。そんな彼の気まぐれによって、この屋敷にはしばしば人が訪れるのだ。
「……それに」
公爵は眼下の森の緑に目を細めた。リヴィエール伯爵家で見た、緑の瞳が思い出される。
「次の相手は、俺が直接見繕ってきた。悪くない相手だ」
手で隠していたとは言え正面から目が合ったのに、魅了できずに逃げられたのは初めてだ。彼にまつわる散々な噂を知らないはずはないだろうに、怖じずに声をかけてきたのも好ましい。
おまけに、かすかだが質の良い魔力の気配も感じた。おそらくは、魔力に抵抗があるのだろう。それなら、なおさら好都合だ。
多少の魔法では、壊れないということなのだから。
「……大切にしてやるさ」
仮面の下で、公爵は酷薄そうに目を細める。
長く持つのと、持たないのと――どちらが本人にとって幸福なのかは、彼には関係のないことだ。
第二章 化け物屋敷の意外な生活
ビスハイル公爵の屋敷は、深い森の中にあった。
ここまで付いてきてくれた従者とは、屋敷の前で別れている。こんな怖い場所にはいられないと、馬車を引いて早々に帰ってしまったのだ。
だから、私は荷物一つで公爵家を訪ねることになってしまった。
伯爵令嬢の嫁入りとしては、だいぶ惨めな具合だ。もっとも今回は正式な嫁入りではなく、結婚前の顔合わせに過ぎないのだけれど。それにしたって侍女一人いないのは恥ずかしかった。
――いいえ、大丈夫! アーシャのためだもの!
胸元のブローチに触れ、私は息を吸い込む。
それから覚悟を決め、公爵家の鉄の門を開いた。
「――ようこそいらっしゃいました。アーシャ様。お部屋のご用意はできています。まずはお荷物をこちらへ」
そう言ったのは、屋敷のメイドらしき女性――女の子だった。
彼女は私の手から荷物を取って、にこにこ笑いながら先導してくれる。
「ご主人様は、あとでお部屋まで挨拶にまいります。ちょーっと気難しい方ですけど、いきなり噛みついたりはしないと思うので、がんばってくださいにゃ」
――にゃ。
気安い調子のメイドの語尾を心の中で繰り返す。その間も視線はずっと、彼女の頭の上にあった。
――耳、付いてる。
黒くて短い猫っ毛の上に、本当に猫の耳がある。ときどき左右に動いたり、ぴくぴく震えたりしている。おまけに尻尾も付いている。メイド服のお尻のあたりで、黒く長い尾がふらふらとのんびり揺れていた。
――本物? いえいえ、まさか……でもビスハイル公爵のお屋敷ならあり得なくも……
「どうされましたにゃ?」
「にゃっ⁉」
急に声をかけられて、私は悲鳴を上げてしまった。
変な声だったからか、メイドがころころと笑う。その様子が、また妙に猫っぽい。
「ご、ごめんなさい、変な声出して。その、失礼かもしれないけど、あなたの耳が気になって……」
「これですか?」
私のぶしつけな言葉に、メイドは腹を立てるでもなく耳を動かした。横に倒したり、片方だけを動かしたり、本物の猫のような動きだ。
「あたしは獣人の血がちょっと混ざっているんです。この国じゃ珍しいですけど」
「獣人……へえ……」
獣人というと、ずっと北方に住んでいる少数種族だ。普通はもっと毛むくじゃらで、人というよりも獣に近い。知能も獣より少し高いくらいで、人間を襲う凶暴な化け物と言われている。
でも、彼女は凶暴そうにはとても見えなかった。どちらかというと、懐いた猫みたいに見える。
「アーシャ様、全然怖がらにゃいんですね」
「えっ」
「みんな、獣人って言うと不気味がったり嫌がったりするのに」
「不気味って……だってあなた、少しも不気味に見えないわ」
獣人なのは驚いたけど、怖くもないし、愛想もいい。家の近くにいた野良猫を思い出して、懐かしい気持ちにさえなった。
「んにゃ……好感度上がっちゃう……。かわいそうになっちゃうにゃー……」
――かわいそう?
と首を傾げる私の前で、メイドの彼女は足を止める。
立ち止まった場所には、白い扉が一つ。彼女は扉を開けて、私を中に促した。
「ここがアーシャ様のお部屋です。のちほどご主人様がいらっしゃいますので、それまでごゆっくりお過ごしください。なにか用があれば、そこらへんの使用人に声をかけてください」
「ありがとう。ええと、あなたは、お名前は?」
「あたしはロロって言います。これからしばらく、アーシャ様の身の回りのお世話をするので、よろしくお願いしますにゃ」
そう言うと、ロロは私と荷物を残して部屋を出ていった。
かわいそう、の意味を聞きそびれてしまったけれど、それ以上に、ロロの耳の方が頭に残っていた。触ったら……やっぱり怒られるだろうか。
少ない荷物を開けて、慣れない部屋をあれこれと見ていると、不意に部屋の扉が開いた。
「失礼する」
同時に聞こえてきた声に、反射的に身を強張らせる。
きれいなのに、底冷えするような怖さのあるこの声に、覚えがあった。
――ビスハイル公爵!
強張りつつも、私は慌てて振り返る。ちょうど、青銀の髪の男性――ビスハイル公爵が部屋に入ってくるところだった。
仮面で隠された端整な顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。仮面の下、こちらを見つめる細められた藍色の目に、なぜだか寒気がした。
蛇に睨まれたカエルのような気分だ。体が竦んでしまう。
――い、いえ! でも竦んでいる場合じゃないわ!
私はここに、結婚前の挨拶をするために来たのだ。公爵の姿を見ただけで怖がるなんて、あまりに失礼すぎる。
ぐっと両手を握ると、私は公爵に向けて深々と頭を下げた。
「ご、ごきげんよう、ビスハイル公爵。私はリヴィエール伯爵の娘で……アーシャ・リヴィエールです」
アーシャと一緒に家庭教師から習った通りに、ドレスの裾をつまんで礼をする。その姿勢のまま、私はそっと公爵の様子を窺った。
――大丈夫? バレてないかしら……?
正直なところ、騙しおおせる自信はなかった。私とアーシャでは、そもそも髪色が違うのだ。顔も、見ればすぐに別人とわかる。元より無理のある入れ替わりなのだ。
ただ、誕生日のパーティでは、アーシャはビスハイル公爵と言葉を交わしていないと言っていた。ならば顔かたちをはっきりと覚えていないか、そもそも見てもいない可能性はある。
それに期待しつつ、私は震えを隠して言葉を続けた。
「こ、このたびは大変光栄なお話で……あの、これからよろしくお願いします」
「ああ」
――ああ、って!
公爵の返事は短かった。短すぎだ。単に無口な方なのだろうか、とも思うが、それにしても反応が薄すぎる。仮にも、結婚予定の相手だというのに。
――で、でも、疑われている様子はない……のかしら?
怒られる気配がないことに安堵しつつも、一方で罪悪感を覚えてしまう。公爵が見初めたのはアーシャなのに、私は今、彼を騙しているのだ。
思わず視線を落とす私に、公爵はゆっくりと歩み寄ってきた。
私の真正面で立ち止まると、彼は頭を下げたままの私の肩に触れ、顔を上げさせる。
「名前はいい。……実は、少し飢えていて、味見をしに来たんだ」
「……えっ」
おもむろに私の顎に触れた公爵にぎょっとする。
だけど彼は、驚く私など気にも留めず、そのまま私の顎を持ち上げて自分の顔の正面に向けさせた。
「いい匂いがするな」
どういう意味だろう――と考える私の思考が、端から溶けていく。驚きも戸惑いも、頭から抜け落ちてしまったかのようだ。私の思考は、仮面の下で揺れる、彼の藍色の瞳に奪われる。
冷たくて、底知れなくて、怖いのに目が離せない。ずっと見ていたくなる。
「一口、齧っても?」
――きれい。
瞳に心が蕩かされていく。
公爵の言うことはよくわからないけれど、彼がそうしたいなら、好きにしていい。
そう頷きそうになったとき――
胸のブローチが、じんわりと熱を持った。
――って! 熱っ! あっつ‼
じんわりどころではない! 火傷しそうなほどの熱に、私は反射的にのけぞった。
――なに⁉ なになに⁉ ……あ、あれ? 私、今なにをしていたんだっけ……?
たしか、公爵から空腹だという話を聞かされていたはずだ。それに、味見がどうとか、いい匂いがするとか――
「あ!」
私は思わず声を上げた。匂いの原因に思い当たる節がある。
「お、お腹減っていらっしゃるんですね? ええと、ちょっと待ってください!」
そう言うと、私は慌てて公爵から離れた。
あまりに近すぎる距離に、今さら心臓が跳ねている。これから結婚の話をするとは言え、肩や頬に触れるのはさすがに気が早い。
――て、手が早い方だわ! 手慣れすぎていらっしゃる……!
できれば、もっとゆっくり距離を詰めていただきたい……と思いながら、私は赤い顔を隠して解きかけの荷物に近付く。
離れていく私を、公爵は引き留めようとはしなかった。ただ、無言でこちらを見ているだけだ。
――お、怒らせてはいないかしら……
表情のわかりにくい公爵にハラハラしつつも、私は荷物の中から包みを一つ取り出す。それを手のひらに載せ、おずおずと公爵に差し出した。
「すみません、そんなに匂いが漏れているとは思わず……。ええと、これ、差し上げます」
包みに入っているのは、ほのかに甘い香りの漂うチョコレート菓子、ガトーショコラだ。さらに言えば、このお菓子は私の手作りでもある。多少不格好だが、味には少し自信があった。
どうしてこんなものを持っているのかと言えば、悪い癖としか言いようがない。
昔から、私には甘いものを持ち歩く悪癖があった。自分で作ったものはもちろん、店で売っている飴やキャラメルを、ついつい袖や鞄に忍ばせてしまうのだ。
もともとは、アーシャのためにこっそりお菓子を運んでいたのがはじまりだ。
父と母が食事にまで口を出すため、アーシャはあまり好きなものを食べられない。特に、『庶民の味』と『手作り』は厳禁で、彼女は一流料理人の作る料理しか口にすることができなかった。
だけど、アーシャは手作りのお菓子も、庶民の店で売っているようなお菓子も大好きなのだ。
アーシャの喜ぶ顔が見たくてお菓子を運ぶうち、いつしかなんでもないときにも持ち歩くのが癖になってしまっていた。
貴族令嬢としては品のない、恥ずかしい癖だ。いきなりお菓子を渡されて、公爵も戸惑っているに違いない。私の手を見つめたまま、ずっと口をつぐんでいる。
――あ、呆れられた……?
長すぎる沈黙にひやりとする。なにを考えているのか、仮面に隠れた顔から窺い知ることはできない。あまりの居心地の悪さに、いっそ怒られた方が気が楽だとさえ思えてくる。
「こ、公爵……? ええと、や、やっぱりいりませんよね! すみません、しまいます!」
ついに耐えきれず、私は早口にそう言って手を引っ込めようとした。
公爵が口を開いたのは、そのときだ。
「……もらう」
短くそうつぶやくと、公爵は私の手から包みを取り上げた。
それ以上、公爵はなにも言わない。
そのまま用は済んだとでも言うように私に背を向け、すたすたと部屋を出ていってしまった。
――き、嫌われた……。絶対に嫌われたわ……!
公爵の出ていった扉を見やり、私は部屋の中で一人、へなへなとへたり込んだ。
◆ ◆ ◆
部屋の扉を閉めると、公爵は呆然とその場に立ち尽くした。
――振られた。
今起こったことが信じられず、公爵はただただ瞬いた。
パーティで会ったときとは違って、今度は至近距離からしっかりと魅了を仕掛けたのだ。意思の全部が溶けて消えてもおかしくないくらい、強い魔力を込めた。
大切にする、と自分で言っておきながら、公爵には獲物を大切にするつもりなどまるでなかった。頑丈さを基準に見繕ったのだから、むしろ多少の無茶など想定内だ。
最近は、魔力の発散も凌辱もしていない。いい加減、我慢も限界だった。
ちょっとした味見とは言ったものの、味見で済むかどうかは彼自身にもわからない。気の赴くままに弄び、それで壊れるならそれまで。いつものように家へ送り返すか、『処理』をさせるかと思っていた。だというのに――振られた。
たとえ魅了がなくとも、自身の容姿と態度が人を惹き付けるものであると、公爵は自覚していた。
人に恐れられる仮面も、使い方によってはいい武器だ。むしろ恐ろしいからこそ、態度次第で相手の心を操れる。
そうやって、彼は散々悪いことをしてきた。人間の価値観では、紛れもなく非道なことも。
「……アーシャ」
公爵は無意識に、娘の名乗った名前を口にした。
所詮は玩具。覚えるどころか興味もなかったのに、あまりの衝撃で頭に残ってしまった。
おまけに、手の中には、かすかに甘い香りの漂う菓子の包みがある。振られた上に、菓子まで渡された。しかもそれを受け取った。その行為が、公爵自身にも理解できない。
――きっと、驚きすぎて理性を失っていたんだ。
そして、その包みを開いている今も、冷静ではないのだろう。普段だったら、こんな粗末な菓子など迷わず捨てていたはずだ。
なのに、公爵はなぜか、包みの中にあった黒い小さな塊を口に放り込んでいた。
口の中に広がるのは、素朴な甘さとほろ苦さ。公爵にとって、食べたことのない味だった。
「アーシャ……!」
この味が、あの赤茶けた髪の娘を思い出させる。聞いたばかりの名を口にし、公爵は甘い苦みを飲み込んだ。
ふつふつと湧いてくるのは悔しさだ。
――いつ壊れてもいいと思っていたが、気が変わった。
呆けていた公爵の目に、強い光が宿る。
こんな屈辱を与えておいて、ただでは済まさない。すぐに壊してなるものか。次は、必ず――
――二度と菓子など渡せないくらい、誘惑してやる……!
夢中にさせて、骨抜きにして、それからじっくりと絶望を与えてやろう。あの場で菓子なんか渡したことを、あの小娘に後悔させてやる。そうでもなければ、公爵の気が済まない。
これは、アネッサが公爵にとって、単なる『獲物』ではなくなった瞬間だった。
◆ ◆ ◆
「にゃにゃ! 五体満足! 欠損なし! お元気そうですね!」
翌朝。ロロは私の部屋に訪ねてくるなり、明るい声でそう言った。
「安心しました。一日で帰られちゃう方も多いんですよ」
にこにこ笑うロロは、本当に嬉しそうだ。表情もだけれど、耳と尻尾がピンと立っている。
屋敷にいた野良猫も、よく尻尾を立ててすり寄ってきたのを思い出し、ついつい笑みを浮かべてしまう。
「ご主人様の態度から、良くにゃいことが起きたのかと思いましたが、良かった良かった。なにかお部屋で過ごすときに、不都合なこととかありませんでしたか?」
「大丈夫。過ごしやすかったわ……けど」
良くないことというと、思い当たる節は一つしかなかった。
――やっぱり! ビスハイル公爵は昨日のことで怒っていらっしゃるんだわ……!
もしくは呆れているだろうか。なにせ伯爵家の令嬢のくせに、お菓子なんて持ち歩いているのだ。こんな品のないことをするなんて、本当にアーシャなのかと思われたかもしれない。
――う、疑われたらどうしよう……
公爵が私に疑問を抱き、本当のことを知ったらどうなるだろうか。
間違いなく伯爵家は公爵の怒りを買うはずだ。
王家の血を引く公爵を騙したとあっては、処罰は免れない。伯爵家は取り潰され、家族は行き場を失い、使用人たちも路頭に迷うだろう。
そこまで想像し、顔から血の気が引いていく。
父と母……はともかく、アーシャと伯爵家の使用人たちを放り出すわけにはいかない。
「び、ビスハイル公爵は、どんなご様子だったの……?」
びくびくしながらロロに聞けば、彼女は猫のような仕草で首を傾げる。
「……妙に不機嫌な感じ? 逆に、ある意味楽しそうな感じ? 見たことない雰囲気でしたにゃ」
――不機嫌って、見たことない雰囲気って……それだけ怒っているってこと⁉
ある意味楽しそう、というのも怖い。なにか恐ろしい罰でも考えているのだろうか。
「ああ、あとですねえ。なんだか悪そうな顔で、アーシャ様の朝の支度が済んだら、すぐに連れてくるようにっておっしゃっていましたよ」
――あっ、終わったわ。
悪そうな顔。すぐに連れてくるように。その言葉に、私のわずかな期待は完全に消え失せる。
せいぜい言い訳でも考えておこう……とため息を吐く私を、ロロが不思議そうに見つめていた。
とにかくお着替えを、とロロに身支度を整えられたあと、私はそのまま部屋の外に連れ出された。
これから、公爵のいる部屋を訪ねるのだ。公爵家の長い廊下を歩きながらも、頭の中を言い訳がぐるぐるとめぐる。
――わ、私一人で考えたことにすれば、アーシャのことは見逃してもらえないかしら? アーシャ宛の手紙を勝手に読んで、アーシャに秘密でここに来たことにすれば……
いや、一人でというのは無理があるだろうか。何度も公爵と手紙のやり取りをしたのに、伯爵家が関わっていないはずがない。少なくとも、父には連帯責任がある。
良い言い訳が思い浮かばず、私は小さく首を振った。
気分を切り替えるように顔を上げ、周囲を見回すと、長い公爵邸の廊下が目に入る。もうずいぶんと歩いた気がするが、公爵の部屋にはまだ着かない。
公爵邸は広く、森の奥にあるとは思えないほど優美な石造りの屋敷だった。ただ、少し日当たりが悪いのか、朝でも邸内は薄暗い。空気は冷たく、春なのに肌寒かった。
そんな暗く冷たい屋敷の中を、様々な使用人が行き来していた。この『様々』というのはまさしく言葉通りで、使用人たちは見た目からして多種多様であった。
――普通の人間の方が少ないのね。
すれ違う使用人の背中の羽を、つい目で追いかける。尻尾や獣の耳は、この屋敷では珍しくもないらしい。人の形をしていない者や、明らかに魔物の特徴を持っている者、亜人なのか混血なのかわからない人々を、公爵の部屋に行くまでの間に何人も見かけた。
「……いろんな人がいるのね」
思わず一人つぶやくと、前を行くロロが耳をピンと立てて振り返った。
「あー、見たいなー! 楽しそー! あ、でもこの屋敷にアネッサがいなくなるのはいいな。やっと、アーシャ姉さまだけが僕の姉さまになる」
弟は夢見るように手を握り合わせ、幸せな未来を見つめている。
その三人から少し離れたところで、アーシャは私を見ていた。三人の話が終わると、おぼつかない足取りで駆け寄ってきて、私の両手をぎゅっと握る。
「お姉さま……わたし……ごめんなさい……わたし……」
「アーシャ」
今にも倒れそうなアーシャに、私は呼びかけた。
ビスハイル公爵から手紙をもらって以来、アーシャはずっと臥せっていた。本当は一度回復しかけたのだけど、私が身代わりをすることに決まったと知って、また倒れてしまったのだ。
今だって、外を歩けるような体調ではない。顔は青白く、歩き方もふらふらだ。それでも別れの挨拶をするために、アーシャは寝間着姿のまま駆け付けてくれた。
そういうアーシャのためだから、私は身代わりを引き受けたのだ。
「大丈夫、ちょっと行ってくるだけだから」
「お姉さま……」
アーシャは一度言葉に詰まると、私の手にそっと小さなブローチを握らせた。
「お守りです。お姉さまが無事でいらっしゃるようにって、たくさん祈ったから……」
言いながら、アーシャはぽろぽろと泣き出してしまう。
アーシャの祈りは、魔法の祈りだ。きっと、本当に身を守ってくれるのだろう。
「ありがとう。大切にするわ」
心からそう言って、私は彼女の体をぎゅっと抱きしめた。
◆ ◆ ◆
深く暗い森に閉ざされた、ビスハイル公爵邸。
昼でもどこか薄暗いその屋敷で、主人であるビスハイル公爵は窓の外を眺めていた。
近々、この屋敷に新たに人が来る。
――次は、どれだけ『持つ』だろうか。
窓越しに森を見下ろし、彼はかすかに目を細めた。
「今度こそ、壊さないでくださいよ」
公爵の背後で、窘めるような従者の声がする。
「魔族の血のせいなのはわかりますが、いい加減妙な噂も立ってきています。せめて、もう少し大事に扱っていただかないと。あとの処理も楽じゃないんですから」
「噂ではなく、真実だろう?」
ふん、と公爵は笑うように息を吐いた。
世間では『残虐非道な冷血公爵』と言われているらしいが、否定の余地はない。彼は事実そういう人物であり、彼自身も認めている。
戦争をしていた頃は良かった。どれほど非道なことをしても、戦火の中で誤魔化せた。
だが、戦争が終わり平和になった今、世界は公爵にとって不自由になった。
切り刻みたい、血を見たい、凌辱したい、有り余る魔力を放ちたい――それも、できれば残酷に。
この欲求は、魔族の血と公爵自身の魔力の大きさから来るものだ。戦時は戦場で晴らしていた欲求を、彼は現在、定期的に犠牲者を得ることで晴らしている。
そのほとんどは、国から送られてくる罪人ばかりだが――
たまに、別のものが食べたくなる。そんな彼の気まぐれによって、この屋敷にはしばしば人が訪れるのだ。
「……それに」
公爵は眼下の森の緑に目を細めた。リヴィエール伯爵家で見た、緑の瞳が思い出される。
「次の相手は、俺が直接見繕ってきた。悪くない相手だ」
手で隠していたとは言え正面から目が合ったのに、魅了できずに逃げられたのは初めてだ。彼にまつわる散々な噂を知らないはずはないだろうに、怖じずに声をかけてきたのも好ましい。
おまけに、かすかだが質の良い魔力の気配も感じた。おそらくは、魔力に抵抗があるのだろう。それなら、なおさら好都合だ。
多少の魔法では、壊れないということなのだから。
「……大切にしてやるさ」
仮面の下で、公爵は酷薄そうに目を細める。
長く持つのと、持たないのと――どちらが本人にとって幸福なのかは、彼には関係のないことだ。
第二章 化け物屋敷の意外な生活
ビスハイル公爵の屋敷は、深い森の中にあった。
ここまで付いてきてくれた従者とは、屋敷の前で別れている。こんな怖い場所にはいられないと、馬車を引いて早々に帰ってしまったのだ。
だから、私は荷物一つで公爵家を訪ねることになってしまった。
伯爵令嬢の嫁入りとしては、だいぶ惨めな具合だ。もっとも今回は正式な嫁入りではなく、結婚前の顔合わせに過ぎないのだけれど。それにしたって侍女一人いないのは恥ずかしかった。
――いいえ、大丈夫! アーシャのためだもの!
胸元のブローチに触れ、私は息を吸い込む。
それから覚悟を決め、公爵家の鉄の門を開いた。
「――ようこそいらっしゃいました。アーシャ様。お部屋のご用意はできています。まずはお荷物をこちらへ」
そう言ったのは、屋敷のメイドらしき女性――女の子だった。
彼女は私の手から荷物を取って、にこにこ笑いながら先導してくれる。
「ご主人様は、あとでお部屋まで挨拶にまいります。ちょーっと気難しい方ですけど、いきなり噛みついたりはしないと思うので、がんばってくださいにゃ」
――にゃ。
気安い調子のメイドの語尾を心の中で繰り返す。その間も視線はずっと、彼女の頭の上にあった。
――耳、付いてる。
黒くて短い猫っ毛の上に、本当に猫の耳がある。ときどき左右に動いたり、ぴくぴく震えたりしている。おまけに尻尾も付いている。メイド服のお尻のあたりで、黒く長い尾がふらふらとのんびり揺れていた。
――本物? いえいえ、まさか……でもビスハイル公爵のお屋敷ならあり得なくも……
「どうされましたにゃ?」
「にゃっ⁉」
急に声をかけられて、私は悲鳴を上げてしまった。
変な声だったからか、メイドがころころと笑う。その様子が、また妙に猫っぽい。
「ご、ごめんなさい、変な声出して。その、失礼かもしれないけど、あなたの耳が気になって……」
「これですか?」
私のぶしつけな言葉に、メイドは腹を立てるでもなく耳を動かした。横に倒したり、片方だけを動かしたり、本物の猫のような動きだ。
「あたしは獣人の血がちょっと混ざっているんです。この国じゃ珍しいですけど」
「獣人……へえ……」
獣人というと、ずっと北方に住んでいる少数種族だ。普通はもっと毛むくじゃらで、人というよりも獣に近い。知能も獣より少し高いくらいで、人間を襲う凶暴な化け物と言われている。
でも、彼女は凶暴そうにはとても見えなかった。どちらかというと、懐いた猫みたいに見える。
「アーシャ様、全然怖がらにゃいんですね」
「えっ」
「みんな、獣人って言うと不気味がったり嫌がったりするのに」
「不気味って……だってあなた、少しも不気味に見えないわ」
獣人なのは驚いたけど、怖くもないし、愛想もいい。家の近くにいた野良猫を思い出して、懐かしい気持ちにさえなった。
「んにゃ……好感度上がっちゃう……。かわいそうになっちゃうにゃー……」
――かわいそう?
と首を傾げる私の前で、メイドの彼女は足を止める。
立ち止まった場所には、白い扉が一つ。彼女は扉を開けて、私を中に促した。
「ここがアーシャ様のお部屋です。のちほどご主人様がいらっしゃいますので、それまでごゆっくりお過ごしください。なにか用があれば、そこらへんの使用人に声をかけてください」
「ありがとう。ええと、あなたは、お名前は?」
「あたしはロロって言います。これからしばらく、アーシャ様の身の回りのお世話をするので、よろしくお願いしますにゃ」
そう言うと、ロロは私と荷物を残して部屋を出ていった。
かわいそう、の意味を聞きそびれてしまったけれど、それ以上に、ロロの耳の方が頭に残っていた。触ったら……やっぱり怒られるだろうか。
少ない荷物を開けて、慣れない部屋をあれこれと見ていると、不意に部屋の扉が開いた。
「失礼する」
同時に聞こえてきた声に、反射的に身を強張らせる。
きれいなのに、底冷えするような怖さのあるこの声に、覚えがあった。
――ビスハイル公爵!
強張りつつも、私は慌てて振り返る。ちょうど、青銀の髪の男性――ビスハイル公爵が部屋に入ってくるところだった。
仮面で隠された端整な顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。仮面の下、こちらを見つめる細められた藍色の目に、なぜだか寒気がした。
蛇に睨まれたカエルのような気分だ。体が竦んでしまう。
――い、いえ! でも竦んでいる場合じゃないわ!
私はここに、結婚前の挨拶をするために来たのだ。公爵の姿を見ただけで怖がるなんて、あまりに失礼すぎる。
ぐっと両手を握ると、私は公爵に向けて深々と頭を下げた。
「ご、ごきげんよう、ビスハイル公爵。私はリヴィエール伯爵の娘で……アーシャ・リヴィエールです」
アーシャと一緒に家庭教師から習った通りに、ドレスの裾をつまんで礼をする。その姿勢のまま、私はそっと公爵の様子を窺った。
――大丈夫? バレてないかしら……?
正直なところ、騙しおおせる自信はなかった。私とアーシャでは、そもそも髪色が違うのだ。顔も、見ればすぐに別人とわかる。元より無理のある入れ替わりなのだ。
ただ、誕生日のパーティでは、アーシャはビスハイル公爵と言葉を交わしていないと言っていた。ならば顔かたちをはっきりと覚えていないか、そもそも見てもいない可能性はある。
それに期待しつつ、私は震えを隠して言葉を続けた。
「こ、このたびは大変光栄なお話で……あの、これからよろしくお願いします」
「ああ」
――ああ、って!
公爵の返事は短かった。短すぎだ。単に無口な方なのだろうか、とも思うが、それにしても反応が薄すぎる。仮にも、結婚予定の相手だというのに。
――で、でも、疑われている様子はない……のかしら?
怒られる気配がないことに安堵しつつも、一方で罪悪感を覚えてしまう。公爵が見初めたのはアーシャなのに、私は今、彼を騙しているのだ。
思わず視線を落とす私に、公爵はゆっくりと歩み寄ってきた。
私の真正面で立ち止まると、彼は頭を下げたままの私の肩に触れ、顔を上げさせる。
「名前はいい。……実は、少し飢えていて、味見をしに来たんだ」
「……えっ」
おもむろに私の顎に触れた公爵にぎょっとする。
だけど彼は、驚く私など気にも留めず、そのまま私の顎を持ち上げて自分の顔の正面に向けさせた。
「いい匂いがするな」
どういう意味だろう――と考える私の思考が、端から溶けていく。驚きも戸惑いも、頭から抜け落ちてしまったかのようだ。私の思考は、仮面の下で揺れる、彼の藍色の瞳に奪われる。
冷たくて、底知れなくて、怖いのに目が離せない。ずっと見ていたくなる。
「一口、齧っても?」
――きれい。
瞳に心が蕩かされていく。
公爵の言うことはよくわからないけれど、彼がそうしたいなら、好きにしていい。
そう頷きそうになったとき――
胸のブローチが、じんわりと熱を持った。
――って! 熱っ! あっつ‼
じんわりどころではない! 火傷しそうなほどの熱に、私は反射的にのけぞった。
――なに⁉ なになに⁉ ……あ、あれ? 私、今なにをしていたんだっけ……?
たしか、公爵から空腹だという話を聞かされていたはずだ。それに、味見がどうとか、いい匂いがするとか――
「あ!」
私は思わず声を上げた。匂いの原因に思い当たる節がある。
「お、お腹減っていらっしゃるんですね? ええと、ちょっと待ってください!」
そう言うと、私は慌てて公爵から離れた。
あまりに近すぎる距離に、今さら心臓が跳ねている。これから結婚の話をするとは言え、肩や頬に触れるのはさすがに気が早い。
――て、手が早い方だわ! 手慣れすぎていらっしゃる……!
できれば、もっとゆっくり距離を詰めていただきたい……と思いながら、私は赤い顔を隠して解きかけの荷物に近付く。
離れていく私を、公爵は引き留めようとはしなかった。ただ、無言でこちらを見ているだけだ。
――お、怒らせてはいないかしら……
表情のわかりにくい公爵にハラハラしつつも、私は荷物の中から包みを一つ取り出す。それを手のひらに載せ、おずおずと公爵に差し出した。
「すみません、そんなに匂いが漏れているとは思わず……。ええと、これ、差し上げます」
包みに入っているのは、ほのかに甘い香りの漂うチョコレート菓子、ガトーショコラだ。さらに言えば、このお菓子は私の手作りでもある。多少不格好だが、味には少し自信があった。
どうしてこんなものを持っているのかと言えば、悪い癖としか言いようがない。
昔から、私には甘いものを持ち歩く悪癖があった。自分で作ったものはもちろん、店で売っている飴やキャラメルを、ついつい袖や鞄に忍ばせてしまうのだ。
もともとは、アーシャのためにこっそりお菓子を運んでいたのがはじまりだ。
父と母が食事にまで口を出すため、アーシャはあまり好きなものを食べられない。特に、『庶民の味』と『手作り』は厳禁で、彼女は一流料理人の作る料理しか口にすることができなかった。
だけど、アーシャは手作りのお菓子も、庶民の店で売っているようなお菓子も大好きなのだ。
アーシャの喜ぶ顔が見たくてお菓子を運ぶうち、いつしかなんでもないときにも持ち歩くのが癖になってしまっていた。
貴族令嬢としては品のない、恥ずかしい癖だ。いきなりお菓子を渡されて、公爵も戸惑っているに違いない。私の手を見つめたまま、ずっと口をつぐんでいる。
――あ、呆れられた……?
長すぎる沈黙にひやりとする。なにを考えているのか、仮面に隠れた顔から窺い知ることはできない。あまりの居心地の悪さに、いっそ怒られた方が気が楽だとさえ思えてくる。
「こ、公爵……? ええと、や、やっぱりいりませんよね! すみません、しまいます!」
ついに耐えきれず、私は早口にそう言って手を引っ込めようとした。
公爵が口を開いたのは、そのときだ。
「……もらう」
短くそうつぶやくと、公爵は私の手から包みを取り上げた。
それ以上、公爵はなにも言わない。
そのまま用は済んだとでも言うように私に背を向け、すたすたと部屋を出ていってしまった。
――き、嫌われた……。絶対に嫌われたわ……!
公爵の出ていった扉を見やり、私は部屋の中で一人、へなへなとへたり込んだ。
◆ ◆ ◆
部屋の扉を閉めると、公爵は呆然とその場に立ち尽くした。
――振られた。
今起こったことが信じられず、公爵はただただ瞬いた。
パーティで会ったときとは違って、今度は至近距離からしっかりと魅了を仕掛けたのだ。意思の全部が溶けて消えてもおかしくないくらい、強い魔力を込めた。
大切にする、と自分で言っておきながら、公爵には獲物を大切にするつもりなどまるでなかった。頑丈さを基準に見繕ったのだから、むしろ多少の無茶など想定内だ。
最近は、魔力の発散も凌辱もしていない。いい加減、我慢も限界だった。
ちょっとした味見とは言ったものの、味見で済むかどうかは彼自身にもわからない。気の赴くままに弄び、それで壊れるならそれまで。いつものように家へ送り返すか、『処理』をさせるかと思っていた。だというのに――振られた。
たとえ魅了がなくとも、自身の容姿と態度が人を惹き付けるものであると、公爵は自覚していた。
人に恐れられる仮面も、使い方によってはいい武器だ。むしろ恐ろしいからこそ、態度次第で相手の心を操れる。
そうやって、彼は散々悪いことをしてきた。人間の価値観では、紛れもなく非道なことも。
「……アーシャ」
公爵は無意識に、娘の名乗った名前を口にした。
所詮は玩具。覚えるどころか興味もなかったのに、あまりの衝撃で頭に残ってしまった。
おまけに、手の中には、かすかに甘い香りの漂う菓子の包みがある。振られた上に、菓子まで渡された。しかもそれを受け取った。その行為が、公爵自身にも理解できない。
――きっと、驚きすぎて理性を失っていたんだ。
そして、その包みを開いている今も、冷静ではないのだろう。普段だったら、こんな粗末な菓子など迷わず捨てていたはずだ。
なのに、公爵はなぜか、包みの中にあった黒い小さな塊を口に放り込んでいた。
口の中に広がるのは、素朴な甘さとほろ苦さ。公爵にとって、食べたことのない味だった。
「アーシャ……!」
この味が、あの赤茶けた髪の娘を思い出させる。聞いたばかりの名を口にし、公爵は甘い苦みを飲み込んだ。
ふつふつと湧いてくるのは悔しさだ。
――いつ壊れてもいいと思っていたが、気が変わった。
呆けていた公爵の目に、強い光が宿る。
こんな屈辱を与えておいて、ただでは済まさない。すぐに壊してなるものか。次は、必ず――
――二度と菓子など渡せないくらい、誘惑してやる……!
夢中にさせて、骨抜きにして、それからじっくりと絶望を与えてやろう。あの場で菓子なんか渡したことを、あの小娘に後悔させてやる。そうでもなければ、公爵の気が済まない。
これは、アネッサが公爵にとって、単なる『獲物』ではなくなった瞬間だった。
◆ ◆ ◆
「にゃにゃ! 五体満足! 欠損なし! お元気そうですね!」
翌朝。ロロは私の部屋に訪ねてくるなり、明るい声でそう言った。
「安心しました。一日で帰られちゃう方も多いんですよ」
にこにこ笑うロロは、本当に嬉しそうだ。表情もだけれど、耳と尻尾がピンと立っている。
屋敷にいた野良猫も、よく尻尾を立ててすり寄ってきたのを思い出し、ついつい笑みを浮かべてしまう。
「ご主人様の態度から、良くにゃいことが起きたのかと思いましたが、良かった良かった。なにかお部屋で過ごすときに、不都合なこととかありませんでしたか?」
「大丈夫。過ごしやすかったわ……けど」
良くないことというと、思い当たる節は一つしかなかった。
――やっぱり! ビスハイル公爵は昨日のことで怒っていらっしゃるんだわ……!
もしくは呆れているだろうか。なにせ伯爵家の令嬢のくせに、お菓子なんて持ち歩いているのだ。こんな品のないことをするなんて、本当にアーシャなのかと思われたかもしれない。
――う、疑われたらどうしよう……
公爵が私に疑問を抱き、本当のことを知ったらどうなるだろうか。
間違いなく伯爵家は公爵の怒りを買うはずだ。
王家の血を引く公爵を騙したとあっては、処罰は免れない。伯爵家は取り潰され、家族は行き場を失い、使用人たちも路頭に迷うだろう。
そこまで想像し、顔から血の気が引いていく。
父と母……はともかく、アーシャと伯爵家の使用人たちを放り出すわけにはいかない。
「び、ビスハイル公爵は、どんなご様子だったの……?」
びくびくしながらロロに聞けば、彼女は猫のような仕草で首を傾げる。
「……妙に不機嫌な感じ? 逆に、ある意味楽しそうな感じ? 見たことない雰囲気でしたにゃ」
――不機嫌って、見たことない雰囲気って……それだけ怒っているってこと⁉
ある意味楽しそう、というのも怖い。なにか恐ろしい罰でも考えているのだろうか。
「ああ、あとですねえ。なんだか悪そうな顔で、アーシャ様の朝の支度が済んだら、すぐに連れてくるようにっておっしゃっていましたよ」
――あっ、終わったわ。
悪そうな顔。すぐに連れてくるように。その言葉に、私のわずかな期待は完全に消え失せる。
せいぜい言い訳でも考えておこう……とため息を吐く私を、ロロが不思議そうに見つめていた。
とにかくお着替えを、とロロに身支度を整えられたあと、私はそのまま部屋の外に連れ出された。
これから、公爵のいる部屋を訪ねるのだ。公爵家の長い廊下を歩きながらも、頭の中を言い訳がぐるぐるとめぐる。
――わ、私一人で考えたことにすれば、アーシャのことは見逃してもらえないかしら? アーシャ宛の手紙を勝手に読んで、アーシャに秘密でここに来たことにすれば……
いや、一人でというのは無理があるだろうか。何度も公爵と手紙のやり取りをしたのに、伯爵家が関わっていないはずがない。少なくとも、父には連帯責任がある。
良い言い訳が思い浮かばず、私は小さく首を振った。
気分を切り替えるように顔を上げ、周囲を見回すと、長い公爵邸の廊下が目に入る。もうずいぶんと歩いた気がするが、公爵の部屋にはまだ着かない。
公爵邸は広く、森の奥にあるとは思えないほど優美な石造りの屋敷だった。ただ、少し日当たりが悪いのか、朝でも邸内は薄暗い。空気は冷たく、春なのに肌寒かった。
そんな暗く冷たい屋敷の中を、様々な使用人が行き来していた。この『様々』というのはまさしく言葉通りで、使用人たちは見た目からして多種多様であった。
――普通の人間の方が少ないのね。
すれ違う使用人の背中の羽を、つい目で追いかける。尻尾や獣の耳は、この屋敷では珍しくもないらしい。人の形をしていない者や、明らかに魔物の特徴を持っている者、亜人なのか混血なのかわからない人々を、公爵の部屋に行くまでの間に何人も見かけた。
「……いろんな人がいるのね」
思わず一人つぶやくと、前を行くロロが耳をピンと立てて振り返った。
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