妹ばかり可愛がられた伯爵令嬢、妹の身代わりにされ残虐非道な冷血公爵の嫁となる

村咲

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1巻

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   第一章 冷血公爵の求婚


「ああ、アーシャ、とても可愛いよ。お前は私たちのなによりも大切な宝だ」
「お父様の言う通りよ、アーシャ。あなたがわたしたちの娘だなんて、こんなに幸せなことはないわ」
「アーシャ姉さま、おきれいです。姉さまは僕の一番の自慢です」

 口々の称賛に、大きな緑の瞳がまたたく。
 燭台しょくだいの光を受け、柔らかくきらめくのは金の髪。白くなめらかな頬に、つんとした小さな鼻。華奢きゃしゃな体に似合いの、ピンクのドレスを着た私の妹――アーシャは本当に可愛かった。
 だというのに、肝心の表情だけが暗い。アーシャは物憂げに目を伏せると、そっと部屋の片隅に目を向けた。

「ありがとう。でも……」

 そう言ってアーシャは口元に手を当てる。彼女の視線の先にいるのは、壁際に立つ私だった。
 ここは、リヴィエール伯爵家本邸、大広間に隣接した控え室。
 これから、大広間でアーシャの十六歳の誕生日を祝うパーティがはじまる。晴れの舞台を前に、しかしアーシャの顔に喜びは見られない。

「お姉さまの準備はまだですの? お召し物を替えていらっしゃらないみたいですけれど……」

 彼女やその傍に立つ父と母、それに弟は、みんなパーティの主催者に相応しい、華麗なドレスとタキシードに着替えている。今日、この日のために新調したとりわけ豪華な衣装だ。
 一方、私はと言えば、いつも通りの普段着だ。
 さらに言うなら、すっかり着古してほつれも出はじめたワンピースで、質も、屋敷のメイドが着るものとさほど変わりない。
 仮にも伯爵家令嬢の普段着としては、とうてい相応しくない古着である。

「ああ、アネッサのことなら気にしなくていい。今日のパーティは欠席だ」

 父は私に見向きもせず、アーシャに大きく笑ってみせた。
 納得いかなそうに「でも……」と言うアーシャの手を取り、控え室から連れ出そうと彼は強引に促す。

「今日はお前の十六歳――結婚できる年齢になったことを祝うパーティだ。お前のために、国中から立派な貴族やその子息が集まっているんだぞ。そんな場で、わざわざみっともない姿をさらす必要はあるまい」

 ははは、と豪快に声を上げると、父はアーシャのためらいも聞かずに控え室を出ていった。

「アネッサ、わたしたちも行きます。あとをよろしく頼みますよ」

 父が出るのを見送ってから、母が私に声をかける。

「パーティに出られなくて不服かもしれませんが、あなたは長女なのですから、当然我慢できますね? わたしたちが大広間にいる間、お客様の対応と使用人たちの差配をお願いしますよ」

 念を押すようにそう言うと、母は私の返事を聞きもせず父のあとを追いかけた。母が部屋を出ると、今度は弟の番だ。

「みっともないってさ。みすぼらしいブスのアネッサ」

 まだ十歳の弟は、言葉を飾ることもしない。私を馬鹿にしたように眺めると、彼はわざとらしくため息を吐いた。

「アーシャ姉さまの晴れの日に、アネッサみたいなブスがいたら恥ずかしいもんな。あーあ、なんでこんなのまで、僕の姉なんだろう。アーシャ姉さま一人で十分なのに」

 言いたいことだけ言うと、弟もまた、両親とアーシャのあとを追って駆けていく。
 控え室に取り残されたのは、私一人だ。
 ――本当に。
 私は無言のまま両手をぐっと握りしめ、家族たちの出ていった扉を睨み付ける。頭に浮かぶのは、弟が言い残した言葉だ。なんで私が姉なのかと言ったけれど、私だって言いたい。
 ――なんであんなのが、私とアーシャの家族なのよ!
 もう誰もいない部屋の中、私は心の中でそう叫んだ。
 思えば昔からこうだった。
 長女の私と、二つ下の次女アーシャ。同じ父と母から生まれたのに、可愛がられるのはいつもアーシャの方。
 病弱でせがちなアーシャに両親も使用人たちもかかりきりで、頑丈さだけが取り柄の私は、かえりみられることもなかった。
 両親に構ってほしくて、小さな頃はなにかと悪いことをしたものだ。父や母にわがままを言ったり、駄々をこねたり、アーシャをうらやみ、熱がある振りをして倒れてみたこともある。
 だけどそれは、かえって両親にうとまれる結果を招いた。アーシャが成長し、愛らしさが増すにつれて、ますます私は煙たがられていった。
 両親の愛情の差が決定的になったのは、アーシャに魔法の才能があるとわかってからだろう。
 病弱なのは、扱いきれない魔力のせい。体に不調をきたすほどに豊富な魔力を持っていることが、アーシャが五歳のときに判明したのだ。
 この国で、魔力を持つ人間は多くない。それも体調に影響が出るほどの大きな魔力となればなおさらだ。
 アーシャほどの力があれば、国の要職にといくらでも声がかかる。あるいは、魔力は低確率ながら遺伝することが知られているので、結婚相手として求める者も山ほどいる。
 父と母はこれを知って、ますますアーシャに愛情を傾けるようになった。アーシャに万が一のないよう身辺を整え、医者や使用人を大量に付けた。
 結婚相手を高望みして、家庭教師も山ほど雇った。教養、礼儀作法、踊りに音楽、歌、その他数限りない。どんな身分の相手に嫁いでも恥ずかしくないくらいに磨き上げようと躍起やっきになった。
 アーシャは多くの貴族の家に呼ばれ、父も母もそれに付いていった。そのたびに毎回新しいドレスを作り、宝石を買い、靴を新調した。
 それを、横目で見るのが私だった。
 アーシャにお金をかけるから、私にかけるお金はない。ドレスはずっと同じものを着回して、靴はサイズの合わないものを履き続け、宝石なんて触ることも許されなかった。
 アーシャが出かけるときは、私はいつも留守番だ。礼儀作法を習っていないから、恥ずかしくて連れていけないのだという。本当はアーシャの勉強に混ぜてもらい、一緒に習っていることなんて、父も母も知らないし、知ろうともしない。
 両親とともに着飾って出かけるアーシャを見送ったあと、私はいつも弟のお守りをしていた。
「長女だから」という言葉を守り、ほとんど家にいない母に代わって付きっきりで育てたのに、弟はすっかり私を馬鹿にするようになった。父の真似をして私を「みっともない」と言い、母の真似をして「長女だから我慢しろよ」と言い、アーシャが私をかばうと「姉さまをわずらわせるな」と不満を言う。そんな弟にも、いつしか慣れてしまった。
 この家に、私の居場所はなかった。父も母も弟も、アーシャばかりを気にかけた。
 同じ姉妹なのに、たった二つしか歳も違わないのに。アーシャさえいなければ――そう思っても、無理はなかっただろう。
 だけど、そうはならなかった。
 なぜならば、アーシャは本当に――本当に、可愛くて良い子なのだ。

『お姉さま、嬉しい! わたし、本物のカエルなんて見たことなかったのよ』

 そう言われたのは、私が七歳のとき。体調を崩してせっているアーシャに両親も使用人たちもみんな付きっきりで、私の誕生日さえも忘れられていた日のことだ。
 あの日、一人きりの誕生日があまりにも悲しくて悔しくてたまらず、私はアーシャの部屋に忍び込み、驚かせてやろうとカエルを放り込んだのだ。だけど彼女は驚くどころか目を輝かせ、小さなカエルを手のひらに載せてこう言った。

『カエルってこんなに可愛らしいのね。ありがとう、お姉さま。本当に嬉しいわ!』

 病弱な白い頬が赤く染まり、手の中のカエルが跳ねるたびに声を上げる。言葉以上に嬉しそうなアーシャの笑顔が、幼い私は忘れられなかった。
 それ以来、私はたびたび両親の目を盗んで、アーシャの部屋に忍び込むようになった。体に毒だからとアーシャには触れることさえ許されないお土産を持っていけば、その一つ一つに彼女は喜んでくれた。

『お姉さま、知らなかったわ。お花ってこんなにきれいなのね』
『お姉さま、葉っぱって本当に緑の香りがするのね』
『お姉さま! 虫は! 気持ち悪いです‼』

 ベッドの上で、アーシャは様々な表情を見せてくれた。私が訪ねるといつも顔をパッと明るくさせ、私の話を楽しそうに聞き、部屋を出るときはいつも寂しそうだった。

『お姉さまだけだわ。わたしに外の世界を教えてくれるのは』

 そんな言葉を聞いたとき、私の中のアーシャへの恨みやねたみは消えていった。
 代わりに抱くようになったのは――両親への疑問だ。
 父はいつも、私のことを「みっともない」と言った。
 たしかに、私は美人とは言えない。緑の瞳はアーシャと同じだけれど、髪は父によく似た赤茶けた癖っ毛だ。背は高くないのに、貧相な細い体は妙にのっぽな印象を与えてしまう。
 服は新しいものを買ってもらえず、古着ばかり。礼儀作法もアーシャが学ぶ横で一緒に学ばせてもらっただけなので、正式に身に付けたわけではない。
 きっと父にとって、私は外に出すのも恥ずかしい、みっともない娘なのだ。
 母はいつも、私に「長女なのだから」と言った。
 長女だから、母の代わりに弟の子守をするのは当然。母に代わって女主人として客をもてなし、使用人の差配をし、屋敷を取りまとめるのも当然。なぜなら長女とは、母を手伝うものなのだから――と、母はそう信じて疑わない。
 それらが手伝いの範囲を超えているなんて、母は考えたこともないのだろう。
 迂闊うかつに不満を口にすれば、こんなに大切に育てたのに、親不孝者だと泣き出す始末だ。

『アーシャは病弱だから気にかけているだけで、あなたをないがしろにしているわけではありませんよ』

 いつか聞いた母の言葉を思い出し、私は一人、控え室で首を振った。
 昔は両親の愛情が欲しかったけれど、今はもうすっかり諦め気味だ。
 今日だって「私もアーシャを祝いたい」と訴えたのに、結局ドレスもなく裏方として働かされている。
 招待客に手紙を出し、パーティの手配をし、とどこおりのないように人を配置したのも私。なのに、アーシャの晴れの姿を見ることはできない。裏でお客様の到着やお帰りの知らせを聞いて、出迎えと見送りに立つよう使用人たちに指示するばっかりだ。
 ――だけど、一目くらいはアーシャの姿を見たいわ。せっかくのあの子の誕生日なのだもの。
 表に出るのではなく、陰から様子をうかがうだけ。それくらいは、きっと許されるはずだ。
 控え室を抜け出したのは、少しだけ忙しさの波が引き、時間に余裕ができた頃のことだ。
 ――遠くから様子を見るだけだから。
 そう自分に言い聞かせ、廊下に飛び出した私はすっかり油断していた。
 パーティも半ば。新たな参加者もほとんどない。客人はみんな大広間にいるはずだと、前も確認せずに廊下に踏み出した瞬間――私は大広間に向かって歩く誰かと、思いっきりぶつかってしまった。
 驚く私の目に、かすかに青みがかった銀の髪が映る。
 同時に、カランとなにかが落ちる音がした。反射的に目で追いかけ――思わず眉をひそめる。
 ――仮面?
 目元を隠す銀色の仮面だ。今日のパーティは仮面舞踏会でもないのに、どうしてこんなものを、といぶかしみつつ顔を上げた先。慌てて目元を隠す誰かの姿が目に入る。

「見るな……!」

 低く、冷たい声が廊下に響き渡る。声質自体は美しいのに、なぜだか寒気がするような、奇妙な凄みがあった。
 私の正面に立つのは、青銀の長い髪を一つにまとめ、真っ黒い礼服を着た若い男性だ。背は高く、細身だけれど軟弱には感じない。目元は手で隠されて見えないものの、その輪郭や鼻筋から、相当な美形だろうと予想できた。
 この男性を、私は知っている。招待状を出したから、というだけではない。
 彼はこの国で、おそらく一番有名な貴族の男性だ。

「ヴォルフガング・ビスハイル公爵……」

 私が口にしたのは、王家の血をむビスハイル家の当主にして、魔族の血を引く公爵の名前だ。
 魔族とは、高い魔力を持つ、人ならざる生き物のことである。魔力によって人の姿に変じ、人のようにふるまうが、その本質は異形いぎょう。一見魅惑的な容姿である彼らの真の姿は、見るもおぞましい化け物なのだという。
 ビスハイル公爵もまた、魔族の名に相応しい比類なき魔力の持ち主だった。
 強すぎる魔力を抑制するため常に仮面を身に付けているが、仮面を外したときの彼は恐怖の存在として知られている。
 町一つを焼き尽くせるだけの魔法を軽々と操り、数多あまたの戦争を勝利に導いた英雄にして、平和な今では悪魔と恐れられる男。残虐非道な、冷血公爵の異名を持つ彼を前に、私は息を呑む。
 ――来ていたんだ……
 魔族の血のせいか人との関わりを好まず、めったに領地から出ないという公爵が、アーシャの誕生日にやってきたのだ。驚きと彼への恐怖で、私はしばらく声も出なった。
 それから、少しの間を置いて、はっと我に返る。
 ――お、お客様!
 怖がっている場合ではない。相手が誰であろうと、お客様ならばきちんともてなすのが、ホストの役目だ。
 私は慌てて仮面を拾うと、目元を隠したままの公爵に差し出した。

「すみません、いきなり飛び出して失礼しました。これを……」

 おずおずと呼びかけると、公爵は驚いたようにこちらに顔を向ける。目元を手で隠していても、私の手のあたりを見ているのがわかった。そのまましばらく、公爵は固まったように動かない。

「……礼を言う」

 そう短く口にしたのは、ずいぶんと経ってからだ。

「君は」

 彼は私の手から仮面を取ると、身に付けるよりも先にそう言った。
 同時に、彼の視線が持ち上がる。まるで射貫くような目に、私はぎくりとした。
 公爵の瞳は深い藍色をしていた。はっとするほど美しいけれど、長く見ていると吸い込まれそうな怖さがある。それでいて、目を離せない。
 瞳に誘われるように、私はおずおずと口を開いていた。

「え、ええと、私はリヴィエール伯爵家の……」

 娘、と言いかけて、しかし私は口をつぐんだ。
 無意識にうつむいてしまったのは、父の「みっともない」という言葉が頭に残っていたからだ。伯爵家として、外に出すのも恥ずかしい娘。名乗ればきっと、アーシャに恥をかかせてしまう。

「……いえ」

 私は目を伏せ、首を横に振った。

「な、名乗るほどの者ではありません」

 それだけ言うと、私は公爵に一礼して、走るように逃げ去った。
 ――だから、私は気が付かなかった。
 公爵が仮面を付け直し、しっかり私の顔を確認しようと振り向いていたことも、そのときにはすでに私の姿がなく、公爵が悔やむような息を吐いたことも――
 そのあとで、彼が獲物でも見つけたかのように、舌なめずりをしていたことも。


 事件は数日後に起きた。

「ビスハイル公爵から、アーシャに結婚の申し込みですって⁉」

 リヴィエール伯爵家の居間に、母の甲高い悲鳴が響き渡った。
 父は居間に揃った家族の顔を見回し、青ざめた顔で今朝送られてきたばかりの手紙を握りしめる。

「リヴィエール伯爵家の『美しい緑の瞳をした令嬢』に宛てた結婚の申し込みだ! アーシャに間違いない! ああ……なんてことだ! あの化け物がアーシャに目を付けるなんて!」

 父はそう言って、絶望したように首を振った。いつも自信に満ちている恰幅かっぷくの良い体も、今は小さくしぼんで見える。

「あの男、戦争中に気に食わない相手を敵味方関係なくひねり潰したそうではないか! 笑いながら女子どもまで皆殺しにする男に、どうして私たちの可愛いアーシャをやらねばならん!」
「あなた、あなた、お断りすることはできないのですか……⁉」

 怒りに震える父に、母がすすり泣きながら呼びかけた。しかし、父は悔しそうに首を振る。

「相手は公爵だ。断ったらどんな目にうかわからん。公爵の手にかかれば、伯爵家を取り潰すことなどわけないのだぞ!」
「で、ですが、まさかアーシャをお嫁に出したりはしませんわよね? だ、だってビスハイル公爵の屋敷に行った人間は……!」

 続く言葉を口に出せず、母はおびえたようにうつむいた。だが、なにを言おうとしたのかは、この場にいる誰もがわかっていた。
 それくらい、ビスハイル公爵家の『怪談』は有名な話だ。
 一度公爵家に足を踏み入れたら二度と無事に出ることはできない、という噂が流れ出したのは、ここ数年のことだ。
 公爵は今年で二十二歳。ちょうど結婚を考える年頃ということもあり、彼から結婚や婚約の話をもらった令嬢は少なくない。
 魔族の血を引くとは言え、身分が高く、戦時の英雄でもある彼の申し込みを、最初は多くの者たちが喜んだ。親は喜び勇んで娘を公爵家の屋敷に送り込み、結婚の話が成就するのを期待したものだ。
 だが、彼との結婚を成立させた者は一人もいなかった。
 結婚前の顔合わせで屋敷に行った令嬢は、みんな行方不明になるか、少し頭がおかしくなって家に帰されるからだ。
 もちろん、単なる噂に過ぎない。真相を確かめた人間は一人もいないが――いつしか、公爵から届く結婚の申し込みは、喜びではなく恐怖に変わっていた。

「アーシャを化け物のもとにやるわけにはいかん」

 父の声は毅然きぜんとしていた。母は安堵に崩れ落ち、横に座るアーシャを強く抱きしめる。不安で涙目になっていた弟も、反対側からアーシャにしがみついた。
 母と弟に囲まれ、アーシャもほっと息を吐く。そんな三人の様子を、父は愛おしげに見つめた。
 それから、愛おしさのすべてを消し去り、一人で座る私に目を向ける。

「とは言え、公爵の話を断ることもできん。ならば代わりをやる必要があるだろう。……美しくはないが、緑の瞳はもう一人いる。心苦しいが、わかってくれるな、アネッサ」

 父のとんでもない発言に、私はぎょっと腰を浮かせた。わかるはずがない。
 拒もうとする私を制するように、父は言葉を続けた。

「そもそもは、お前がビスハイル公爵に手紙を出したのが悪いのだ。その責任を負わず、アーシャだけに辛い思いをさせようとは思うまいな?」
「た、たしかに手紙を出したのは私ですが!」

 非難がましい父の視線に、私は首を横に振る。
 手紙を出したのは事実。だけど、父にそれを責められるいわれはない。

「ですが、『国中の貴族に出すように』とおっしゃったのはお父様ではないですか! ビスハイル公爵への招待状も、出す前に確認していただいたはずです!」

 そのとき、『本当に公爵に出していいのか』と、私はしっかり父に尋ねていた。公爵の悪い噂は多く、アーシャが結婚できる年齢になったこともあり、さすがに不安だったのだ。

「なのに、お父様が『国中の貴族全員だ。例外はない』とおっしゃったのでしょう!」
「言い訳をするな! 例外がないと言っても、ビスハイル公爵は別に決まっているだろう!」

 そんなこと、言われずともわかれと言う方が無茶だろう。
 あまりに理不尽な話に言い返そうと口を開くが、それよりも早く父がたたみかけてくる。

「ビスハイル公爵がアーシャを見初みそめたのは、お前の責任だ、アネッサ! 自分の責任を妹に押し付け、自分だけのうのうと生き残ろうなど、父として許せん!」

 生き残る――という発言はつまり、公爵家に行けば死ぬと、父はそう思っているのだ。その上で、私を代わりに差し出すつもりなのだ。

「私とて、娘のお前を辛い目にわせたいわけではない。お前もまた、私たちの愛する娘なのだ」

 だが、と父は悲しむように首を振る。
 態度だけは身を切るように辛そうだが、言っていることは悪魔となんら変わりない。

「お前は自分の失敗の責任を取らねばならない。アネッサ、いいな? これは父としての命令だ。お前はアーシャとして、ビスハイル公爵のもとに行きなさい」
「ま……!」

 待って、と言おうとして、私は一人用の椅子から立ち上がった。
 だけど私が何か言うよりも先に、別の声が割って入る。

「だ、駄目です! お姉さまがそんな怖い人のところにお嫁に行くなんて!」

 アーシャだ。彼女は母と弟を振り払ってソファから立ち上がり、か細い声を上げた。

「嫌です、駄目です! 見初みそめられたのがわたしなら、わたしがお嫁に行きますから!」
「アーシャ、下がっていなさい。アネッサは納得していることだ」

 納得なんてしていない!

「お前が化け物と結婚する必要なんてないんだ。そういうことは、アネッサのすることだ」
「ひどいことをおっしゃらないで! お姉さまがいなくなったら、わたし……!」

 声を上げるアーシャの白い顔が、熱をびてみるみる赤くなる。手紙にも『美しい』とあった緑の瞳は潤み、大粒の涙がこぼれ落ちた。両手は強く握りすぎて白くなっている。

「わたし……! わ、わたし……は…………」

 赤くなったアーシャの顔が、今度はすぐに青くなっていく。言葉を続けることもできず、彼女はその場にふらふらと倒れた。
 体の弱い彼女は、頭に血が上るだけでもすぐに気を失ってしまうのだ。

「アーシャ!」

 私は倒れたアーシャに駆け寄り、細い体を抱き上げた。が、少し遅れて立ち上がった母と弟によって、すぐに腕の中のアーシャを奪われてしまう。

「アーシャ、わたしの可愛いアーシャ、ああ……かわいそうに……」
「アーシャ姉さま、あんなやつかばう必要なんかないのに!」

 母と弟が口々にアーシャに呼びかける中、父だけは苦々しい表情で私を睨み付けた。

「アネッサ、お前がわがままを言うから、アーシャが苦しむことになるんだ。お前がビスハイル公爵のもとにさえ行けば、すべてが解決するんだぞ!」

 父の言葉に、ぐっと唇を噛む。
 決して納得したわけではないが、目の前で倒れたアーシャを前に、反論の言葉は出なかった。
 ――この状態のアーシャを、ビスハイル公爵と結婚させるわけにはいかないわ。
 相手は悪魔と恐れられる公爵だ。彼との結婚生活は、毎日が怖くて仕方がないはず。
 アーシャはきっと心細さに震え、おびえ、何度もこうして倒れてしまうだろう。
 ――でも、私なら。
 体は健康そのもので、心も弱い方ではない。この家族に囲まれて、辛い思いにも慣れている。アーシャよりはずっと、公爵家で上手くやっていけるだろう。

「わかったな、アネッサ。お前がアーシャの代わりに、ビスハイル公爵と結婚するんだ」

 念を押す父の言葉に、私はぎゅっと手のひらを握りしめる。
 納得はいかないけれど、不満はあるけれど――本当は、すごく怖いけれど。
 ――だけど、アーシャのためなら!

「わかりました。私が行きます……!」

 私は恐怖を呑み込んで、父の言葉に頷いた。
 ……それからは忙しかった。
 ビスハイル公爵へ返事を書き、最低限の身なりを整えるために久しぶりに新しい服を作って、公爵領までの馬車の手配をして――
 十日後、私は少しの従者とともに、ビスハイル公爵の屋敷へ向かうことになった。


 出立の日。
 春の暖かな気候の中、私は数年ぶりに伯爵令嬢らしい格好をして、屋敷の前に立っていた。
 ここで交わすのは、家族との最後の別れの挨拶だ。

「いいな、アネッサ。お前はこれから、アーシャとして公爵に会うんだ。お前とアーシャでは比較にならんが、どうせ化け物にはわからん。文句を言うようだったら、手紙に『緑の瞳をした令嬢』としか書かなかった方が悪いと言ってやれ」

 父が険しい顔をして私に言った。

「仮にもアーシャを名乗るのだ。みっともない真似はするな。もし公爵が怒って伯爵家になにかしようとしたときには、『すべて自分だけの意思でやった』とちゃんと答えるんだぞ。お前がやると言い出したんだからな」

 言い出してない。が、それを指摘すると面倒なので黙っている。

「ああ、アネッサ、かわいそうに。娘をこういう形で送り出すなんて、母としてこんなに悲しいことはありません。……でも、仕方のないことです。あなたは長女なのだから」

 母がハンカチで目元を押さえながら言う。

「アーシャはまだ十六歳ですもの。姉のあなたが助けるのは当然ですよね。弟妹の面倒を見てこその姉です。特に長女のあなたには、年下の者を守ってあげる義務があります」

 母は嗚咽おえつを交えつつ話し、しばらくして耐え切れなくなったように両手で顔を覆った。
 しくしく泣く母の横には、弟が腕を組んで立っている。

「みすぼらしいブスのアネッサ。お前死ぬってほんと? あの仮面の公爵に細切れに切られたり、魔法で吹っ飛ばされたり、腕とか足とかもがれるってほんと?」


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