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エピローグ
トゥルーエンド(6) ※父視点
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「……いや、優しいなんて言えるのはお一人しかいないでしょう」
背後から聞こえた言葉に、公爵の笑みがスッと消える。
無表情に変わる公爵の顔に、どことなくばつの悪そうな色があることに、伯爵は気が付かない。
ただ茫然と、声のした方向に目を向けるだけだ。
「本当に、準備をしておいて正解でしたよ。アネッサ様に知られたら大変ですからね」
視線の先には、茂みをかき分けてこちらへ向かってくる、すまし顔の美男子がいる。
たしか公爵邸で見かけた――シメオンという名のいけ好かないエルフだ。
エルフは伯爵の視線に見向きもせず、公爵の傍で足を止めた。
「別邸の部屋はすでに整っています。使用人も屋敷とは別の者を用意して、周辺には迂闊に人が近づかないよう、結界を張りました。入るのはもちろん、出るのも容易ではないかと」
「相変わらず手際が良いな」
「お褒めにあずかり光栄です。まあ、慣れていますからね。準備も後始末も」
――準備? ……後始末?
呆ける伯爵の頭上で、二人は会話を続けている。
「まあ、さすがに前みたいに肉片を撒き散らされると困りますが。こびりついて取れないと、私が文句を言われるんですよ」
「今回はそうはならないから安心しろ。やりすぎて死なれたら困るからな。せいぜい血を拭き取るくらいだ」
「そうだといいんですけどね。念のため、私が改良した秘薬を用意しておきますよ。欠けた手足も回復する自信作です。……効果が高い分、少々副作用がありますが」
何気ないやりとりは、まるで単なる日常会話だ。
なんてことはない、天気の話でもしているような二人の様子に、伯爵は瞬く。
――なにを……言っている……?
会話に入り混じる物騒な単語の意味がよく理解できない。
聞き間違いだろうか。
それとも伯爵の知らない、なにか別の意味があるのだろうか。
「副作用? 前みたいに痛みで発狂するような薬なら要らん。面白みがなくなる」
「いえいえ、そちらは改良済みです。……痛みの代わりに、気が狂うほどの猛烈なかゆみがありますが」
「要らん! その薬、絶対にアネッサに渡すなよ!」
「もちろん。アネッサ様には改良前の、本来のレシピ通りの秘薬をお渡ししますよ」
はは、と笑うエルフらしからぬエルフに、不審そうな公爵の目。
互いに顔を向かい合わせ、話に興じる二人の姿に、伯爵は言い知れぬおぞましさを感じた。
無意識に距離を取ろうと足を引く――が、離れられない。
公爵の手が、逃さないとでも言うかのように、しっかりと伯爵の体を掴んでいるのだ。
――ひっ……。
じわじわと恐怖が体を満たしていく。
目の前の二人の異常さに、伯爵はようやく気がついた。
慌てて逃げ出そうともがくが――。
もう、手遅れだ。
必死に暴れる伯爵を、公爵が薄笑いを浮かべながら見ている。
「どこへ行くつもりだ、伯爵。部屋を用意してあると言っただろう」
「ひ、ひい……は、離してくれ……! わ、私になにをする気だ……!?」
「なにを?」
面白い言葉でも聞いたように、公爵は笑みを深めた。
ぞくりとするような愉悦の宿る目が、伯爵を映して瞬く。
形の良い唇がゆっくりと開く様子を、伯爵は魅入られたように見ていた。
告げられるのは、低く冷たく、短い言葉だ。
「――本当に、聞きたいのか?」
瞬間、背筋に寒気が走った。
腹の奥から震えが湧き上がり、口からひたすらに悲鳴があふれた。
腕を掴まれていると知っていてもなお、伯爵は無意味に地面を蹴り、逃げるように走り続けた。
「化け物! 化け物! ば、化け物!!! 来るな! 触るな!! わ、私になにかしてみろ!! 私はリヴィエール家の当主だぞ!!!!」
無我夢中の叫び声は、伯爵自身でもなにを言っているのかわからない。
ひたすらに縋れるものを探して、彼は声を張り上げ続ける。
――なにか、なにかないのか!!
誰を犠牲にしてもいい。
なにを失ってもいい。
自分さえ助かるのなら、なんでもいい。
伯爵家当主の身分、妻、息子、アーシャ、アネッサ――。
――アネッサ!!!
「そ、そうだ! 私になにかあったらアネッサが! アネッサが黙っていない!!」
公爵がアネッサを大切にしているらしいことは、話の節々から聞き取れた。
事実、今も伯爵が口にした『アネッサ』という言葉に、公爵はぴくりと眉を動かしている。
――い……いける!! アネッサなら!!
絶望の中に、かすかな期待が芽生える。
役立たずと罵り続けた娘が、今の伯爵にはなによりも頼もしく思えた。
「私がいないと知れば、アネッサは確実に探しに来るぞ!! い、いいのか! アネッサにこのことが知られてもいいのか!!」
妹のアーシャばかりを可愛がり、これまで見向きもしなかった姉が。
ずっと蔑み、否定し、石ころのように捨て置いたアネッサだけが、伯爵にとっての最後の希望だった。
「私はアネッサの父親だ!! アネッサなら、絶対に――――」
「……アネッサが探すなら、な」
伯爵の悲鳴じみた叫びを、公爵の声がさえぎった。
静かなのに、奇妙なほどに力のある声だ。
伯爵は続く言葉を呑みこんだ。
嫌な予感に肌がざわつき、喉の奥がひりついている。
「アネッサが気にかけるなら、俺も貴殿を無事に森の外まで送り届けた」
だが、と言って公爵は首を振る。
その顔に浮かぶのは、あまりにも――あまりにも化け物じみた、嘲笑だ。
「――『もう二度と、関わらないで』」
どこかで聞いたその言葉に、伯爵は目を見開く。
アネッサは唯一公爵が反応する言葉で、伯爵にとっての最後の希望で――。
「『私からも、今後関わらない』――――だったか」
……ずっと、伯爵が見向きもしなかった相手。
縁を切られても、ずっと。
「あ…………」
か細い声が伯爵の口から洩れる。
頭の中を後悔が駆け巡る。
アネッサをもっと可愛がればよかった。
アネッサをもっと大事に扱っておけばよかった。
アネッサに縁を切らせないように、もっと、もっと――――。
「あ、ああ…………」
そうすれば――――。
「そういうことだ」
言葉を失くした伯爵に、公爵は微笑みかける。
伯爵を掴む手まで一度離し、わざとらしく慇懃に、公爵は彼の手を握りしめた。
「末永くよろしく頼む。――――お義父さん」
アネッサに目を向けていれば、そうすれば――。
こんなことには、ならなかった。
「ああ……ああああ……」
おぞましいほどに美しく、魅惑的な化け物を前に、伯爵はようやくその事実に気付いた。
気付いてしまった。
「うぁああああああああああああああああああ!!!!!!」
背後から聞こえた言葉に、公爵の笑みがスッと消える。
無表情に変わる公爵の顔に、どことなくばつの悪そうな色があることに、伯爵は気が付かない。
ただ茫然と、声のした方向に目を向けるだけだ。
「本当に、準備をしておいて正解でしたよ。アネッサ様に知られたら大変ですからね」
視線の先には、茂みをかき分けてこちらへ向かってくる、すまし顔の美男子がいる。
たしか公爵邸で見かけた――シメオンという名のいけ好かないエルフだ。
エルフは伯爵の視線に見向きもせず、公爵の傍で足を止めた。
「別邸の部屋はすでに整っています。使用人も屋敷とは別の者を用意して、周辺には迂闊に人が近づかないよう、結界を張りました。入るのはもちろん、出るのも容易ではないかと」
「相変わらず手際が良いな」
「お褒めにあずかり光栄です。まあ、慣れていますからね。準備も後始末も」
――準備? ……後始末?
呆ける伯爵の頭上で、二人は会話を続けている。
「まあ、さすがに前みたいに肉片を撒き散らされると困りますが。こびりついて取れないと、私が文句を言われるんですよ」
「今回はそうはならないから安心しろ。やりすぎて死なれたら困るからな。せいぜい血を拭き取るくらいだ」
「そうだといいんですけどね。念のため、私が改良した秘薬を用意しておきますよ。欠けた手足も回復する自信作です。……効果が高い分、少々副作用がありますが」
何気ないやりとりは、まるで単なる日常会話だ。
なんてことはない、天気の話でもしているような二人の様子に、伯爵は瞬く。
――なにを……言っている……?
会話に入り混じる物騒な単語の意味がよく理解できない。
聞き間違いだろうか。
それとも伯爵の知らない、なにか別の意味があるのだろうか。
「副作用? 前みたいに痛みで発狂するような薬なら要らん。面白みがなくなる」
「いえいえ、そちらは改良済みです。……痛みの代わりに、気が狂うほどの猛烈なかゆみがありますが」
「要らん! その薬、絶対にアネッサに渡すなよ!」
「もちろん。アネッサ様には改良前の、本来のレシピ通りの秘薬をお渡ししますよ」
はは、と笑うエルフらしからぬエルフに、不審そうな公爵の目。
互いに顔を向かい合わせ、話に興じる二人の姿に、伯爵は言い知れぬおぞましさを感じた。
無意識に距離を取ろうと足を引く――が、離れられない。
公爵の手が、逃さないとでも言うかのように、しっかりと伯爵の体を掴んでいるのだ。
――ひっ……。
じわじわと恐怖が体を満たしていく。
目の前の二人の異常さに、伯爵はようやく気がついた。
慌てて逃げ出そうともがくが――。
もう、手遅れだ。
必死に暴れる伯爵を、公爵が薄笑いを浮かべながら見ている。
「どこへ行くつもりだ、伯爵。部屋を用意してあると言っただろう」
「ひ、ひい……は、離してくれ……! わ、私になにをする気だ……!?」
「なにを?」
面白い言葉でも聞いたように、公爵は笑みを深めた。
ぞくりとするような愉悦の宿る目が、伯爵を映して瞬く。
形の良い唇がゆっくりと開く様子を、伯爵は魅入られたように見ていた。
告げられるのは、低く冷たく、短い言葉だ。
「――本当に、聞きたいのか?」
瞬間、背筋に寒気が走った。
腹の奥から震えが湧き上がり、口からひたすらに悲鳴があふれた。
腕を掴まれていると知っていてもなお、伯爵は無意味に地面を蹴り、逃げるように走り続けた。
「化け物! 化け物! ば、化け物!!! 来るな! 触るな!! わ、私になにかしてみろ!! 私はリヴィエール家の当主だぞ!!!!」
無我夢中の叫び声は、伯爵自身でもなにを言っているのかわからない。
ひたすらに縋れるものを探して、彼は声を張り上げ続ける。
――なにか、なにかないのか!!
誰を犠牲にしてもいい。
なにを失ってもいい。
自分さえ助かるのなら、なんでもいい。
伯爵家当主の身分、妻、息子、アーシャ、アネッサ――。
――アネッサ!!!
「そ、そうだ! 私になにかあったらアネッサが! アネッサが黙っていない!!」
公爵がアネッサを大切にしているらしいことは、話の節々から聞き取れた。
事実、今も伯爵が口にした『アネッサ』という言葉に、公爵はぴくりと眉を動かしている。
――い……いける!! アネッサなら!!
絶望の中に、かすかな期待が芽生える。
役立たずと罵り続けた娘が、今の伯爵にはなによりも頼もしく思えた。
「私がいないと知れば、アネッサは確実に探しに来るぞ!! い、いいのか! アネッサにこのことが知られてもいいのか!!」
妹のアーシャばかりを可愛がり、これまで見向きもしなかった姉が。
ずっと蔑み、否定し、石ころのように捨て置いたアネッサだけが、伯爵にとっての最後の希望だった。
「私はアネッサの父親だ!! アネッサなら、絶対に――――」
「……アネッサが探すなら、な」
伯爵の悲鳴じみた叫びを、公爵の声がさえぎった。
静かなのに、奇妙なほどに力のある声だ。
伯爵は続く言葉を呑みこんだ。
嫌な予感に肌がざわつき、喉の奥がひりついている。
「アネッサが気にかけるなら、俺も貴殿を無事に森の外まで送り届けた」
だが、と言って公爵は首を振る。
その顔に浮かぶのは、あまりにも――あまりにも化け物じみた、嘲笑だ。
「――『もう二度と、関わらないで』」
どこかで聞いたその言葉に、伯爵は目を見開く。
アネッサは唯一公爵が反応する言葉で、伯爵にとっての最後の希望で――。
「『私からも、今後関わらない』――――だったか」
……ずっと、伯爵が見向きもしなかった相手。
縁を切られても、ずっと。
「あ…………」
か細い声が伯爵の口から洩れる。
頭の中を後悔が駆け巡る。
アネッサをもっと可愛がればよかった。
アネッサをもっと大事に扱っておけばよかった。
アネッサに縁を切らせないように、もっと、もっと――――。
「あ、ああ…………」
そうすれば――――。
「そういうことだ」
言葉を失くした伯爵に、公爵は微笑みかける。
伯爵を掴む手まで一度離し、わざとらしく慇懃に、公爵は彼の手を握りしめた。
「末永くよろしく頼む。――――お義父さん」
アネッサに目を向けていれば、そうすれば――。
こんなことには、ならなかった。
「ああ……ああああ……」
おぞましいほどに美しく、魅惑的な化け物を前に、伯爵はようやくその事実に気付いた。
気付いてしまった。
「うぁああああああああああああああああああ!!!!!!」
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