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10 運命のひと(エリーゼ視点)

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 なにひとつ欲しいものなどありはしないのに、全てが手の届くところにあると勘違いしていた。

 どんな美食も輝く宝石も、かっこいい皇子さまさえも━━私の心をゆさぶることはなかったのだけど、周りの人たちがうらやましがるから。私はそれらを見せびらかして、ほんの少しの高揚を得た。いま思えば、なんて空虚な人生だっただろう。私は少しも幸せじゃなかった。

 不幸がないから幸せを感じられないんだ━━そのことに気づいたのは、私が14歳のときだった。『学園』に入る数ヶ月前だ。

 当時、帝国の最高権力者と言われていたラングハイム公爵が、私を妻に欲しがった。ラングハイム公は五十路過ぎのおじさんで、しかもすでに6人の妻をもっていた。これまで私が集めてきた宝石のように、ラングハイム公は私の身体を寝室にかざる装飾品にみたてていた。こんなにおぞましい結婚はないだろう。それでもアードルング家は、ラングハイム公に逆らうことができなかった。

「エリーゼ、おまえはラングハイム家に降嫁してもらう」

 父の声は屈辱に濡れていた。あの日のことは、今でも生々しく思い出せる━━というより、私はいまも、あの日の続きを生きている。

 私は泣き叫び、ありったけの愛想をふりまいて父の情に訴えかけた。それも無駄だとわかると、今度は帝室の権威を借りて自分の身を守ろうとした。

「そうよ、こんなこと、ディートハルトさまが承知するはずないわ。ラングハイム公だって、帝家には逆らえないはずでしょう」

「ディートハルト殿下は、婚約破棄に同意されたそうだ。いまのラングハイム公に逆らえるものなど、この世のどこにもいないのだ。わかってくれ、エリーゼ」

 私は絶望した。かっこいい皇子さまの妻から、好色な権力者の玩具に。高い塔の上から、地べたに叩き落された私は、何度も死を口にして周りを困惑させた。薬品で顔を焼き、美しい容姿を捨てようともした━━実行しなかったのは、治癒術があるかぎり顔を焼いても元通りになってしまうからだ。

 もしもあのとき━━カーマクゥラの御前を名乗る謎のが、ラングハイム公を追い落としてくれなかったら、私は今ごろ、好色な50男に純潔を奪われていたに違いない。ラングハイム公が失脚したおかげで、私はふたたびディートハルトさまの婚約者の地位を取り戻すことができた。

 だから私は、2度と失敗するわけにはいかない。ディートハルトさまの寵愛ちょうあいを得なければ、私にはなんの価値もない。私は幸せだ。私は幸せだ。私は幸せなんだ。全身をおおう怖気おぞけをふりはらうために、私は何度も自分に言い聞かせる。

 かけがえのない、いまの立場を守るために、どんなことでもやってみせる。たとえばそれは、ディートハルトさまに近づこうとする、ほかの女を排除することだって━━。

「このっ泥棒猫ッ」

 パシンという乾いた音が、校舎裏に響いた。暴力だなんて下品なやり方だけど、異物は徹底的に排除しなければならない。そのために私は、都合のいい少女たちをえらんでハンナ・フォン・グレッツナーにけしかけたのだ。

 ケヴィン・バルツァーに懸想けそうする女。エルマー・フォン・シュレンドルフに淡い想いを寄せる女。クライド・ユルゲンのファンクラブ会長。私は実際に指示したりしなかった。彼女たちの危機感をあおって、行動を起こさせただけだ。

 校舎の影に潜んだ私は、ことの成り行きを確認していた。本当はこの場にいたくはなかったのだけれど、少女たちが私についてきてほしいと望んだのだ。どうやらアードルング家の権力をあてにしているみたいだけど、おあいにくさま、いざとなれば私は彼女たちを切り捨てるだろう。そのために言質をとられないようにしてきたのだから。

「あなた方は野蛮人のように暴力での解決をお望みですか?それとも、文明人らしく話し合いをしますか?」

 ぞっと寒気がした。これが私の敵ハンナの声。声そのものには柔らかさがあり、耳孔をくすぐるような甘美な高音だったが、そこには予期しない凄みが含まれていた。周りを敵に囲まれたこの状況で、ハンナはそら恐ろしいほど落ち着いている。

「そう、自分ではビタ一文稼いだことがなく、親に飼われて籠の鳥。死人も同然の愛玩動物…。そのことに気づきもしない愚か者」

 しかも相手を嘲弄してさえいる。この場に及んで、あの絶対の自信はなんだろう。いうなれば、何者にも負けないという、烈迫の意思。それは私が欲して得られなかったものだ。寄る辺なくとも自分が自分でいられるための、強い自我だ。あたかも長き風雪にたえた老木のような…。

「では、そうなさってください。

 見たい。私はこの声の主を━━ハンナを見てみたい。校舎の影から顔を出そうという誘惑に、私は何度もかられた。だから。

「そろそろ大将が出てきたらどうですか。ご自分の手を汚さないやり口は見事でしたが、あなたの手下では私の相手は役者不足です」

 黒幕である私の存在がハンナに知られているとなったいま、私はほとんどためらうことなく、ハンナのまえに姿をさらした。そして私の身体は凍りついた。

 ━━もしも妖精という存在を肉眼で確認できたなら、きっとこういう姿をしているんだろう。

 陽射しを透かした赤い髪、ルビーよりも魅惑的な、丸っこい紅の瞳。ちょこんと小さな鼻、柔らかそうな唇と頬。まるで子どもみたいな小さな身体で、毅然きぜんと立っている姿に私の心は撃ち抜かれる。いますぐ駆け寄り抱きしめて、撫でまくりたい。だけどそんなことをしたら、私の自我はあっけなく崩壊するだろう。

 どうにかなってしまいそう。

 半ば狂気に身を委ね、私は全身を小刻みに震わせた。いったいどんなバランスでデザインしたら、これほど愛らしい存在を生み出せるのだろう。たぶん、人類には何千年かけたって不可能だ。

 どんな動物、魔物でも、赤ちゃんの姿は愛らしいという。それは周囲の庇護欲をかきたて、守ってもらうための防御機能なのだろう。

 だとしたら、いかに小さいといっても15歳になるハンナが、その能力を持っていること自体、魔性というよりほかない。

「あ、あんたは…」

 そのハンナの声で、私は現実に引き戻された。そうだ、この柔らかな高音…!たった数音のその言葉で、私の情緒はめちゃくちゃになった。いま私の顔はどうなっているだろう。赤くなるくらいならいいけれど、みっともなく鼻血を噴き出しているんじゃないだろうか。

「あんたが、あの令嬢けだものたちをアタシに猛獣使いかい?」

 ハンナに訊かれて、私は取り繕うつもりだった。でもハンナの魅力をまえにして、そんなことは不可能だったのだ。私の口から漏れたのは、意味不明な喘ぎ声だけだった。

「あっ、あの、あっ、あっ、あっ…」

「落ち着きな、深呼吸して、ゆっくりしゃべるんだ」

「あっ、貴女が━━」

「アタシが?」

 ハンナが小首をかしげた。その仕草の可愛らしさといったら!

「ふぐっ」

 私はもう、立っていることができなかった。その場にしゃがみこんで、ハンナを見ないようにすることが最大の防御だ。それだというのにハンナときたら、私に近づいて肩に手をふれたのだ。そんなことをされて、正気でいられる自信がなかった。すぐにハンナを押し倒して、めちゃくちゃにしたい衝動にかられる。

「さ、さわらないで!」

「いや、でも━━」

 私はおかしくなっている。自分で自分が制御できていない。だいたい、この状況はなに?私が愛すべきはディートハルトさまで、だから私はハンナを排除しなくちゃいけなくて━━。

「貴女が悪いんですわ。ディートハルトさまを誘惑するからっ」

「えっ、ああ━━あんたもしかして、エリーゼかい?アードルング家の」

「名前を呼ばないで!」

 名前を呼ばれただけで、頭がぐらぐら煮えたようになる。こんな感情を私は知らない。15年間、経験したことがなかったし、誰からも教わったことがない。

 どんな美食も輝く宝石も、かっこいい皇子さまさえも━━これほど私をゆさぶることはなかった。

 そんな私の衝動を知ってか知らずか、ハンナは私をなだめようとする。

「アタシが悪かったよ。だけど勘違いしないでほしいんだ。アタシゃ、ディートハルトなんかにゃ、これっぽっちも興味がないんだよ。あんたのを取ったりしないよ」

「…ほんとうに?」

「ああ、約束する」

「━━ほんとうに、ディートハルトさまに興味がないの?…ほかの男性は?」

 そうだディートハルトさまだけじゃない。下調べはついている。ケヴィンやエルマーやクライドや━━ハンナの周りにはいろんな種類の悪い虫がたかっているのだ。けれどハンナはあっけなく言った。

「ええと、アタシは男に興味がないんだよ」

「男性に興味がないって、それ…」

 だとしたら、そんなのはもう聖処女じゃない。ハンナの姿に似合いすぎる称号だわ。だけど━━私は想像してしまう。

 犯しがたい存在だからこそ、人は想像力をかきたてられるのだ。ハンナのあんな姿や、こんな姿。聖なるものを汚したくなる、どうしようもない欲望。私は自分の顔がみるみる燃えあがっていくのがわかった。

「い、いやらしいっ、男性に興味がないだなんて、そんなの、そんなのっ」

 ハンナ・フォン・グレッツナーを汚したい━━それは私の中に初めて生じた欲望だった。15年の人生で、私はようやくそれを得たのだ。

 煩悩いつくしみという名の愉悦を。
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