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目標のある幸せ 第一話
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生きていくのに目標がある人は幸せだ。
私には目標というものは無かった。
何かに一心に打ち込めることがあればそれでいい。
たとえその結果がどうであろうと、結果はあくまで振り返ってみた時に、そこにあるだけだ。
本当に必要なのは目標に向かっている瞬間。
それは生きているということだと思う。
そういうものがあるということは幸せなのだ。
そう私は思っている。
幼稚園から帰った私は近所の公園にいた。
「なるほど本に書いてあった通り。本当に蟻はみんなが同じところを通るんだな」
最近の私の日課は昆虫の本に書いてあることを実際のものを見て確認してみることだった。
本で読んだだけではただの知識と想像でしかない。出来ることならもっときちんと知って確かめたい。
「……らちゃーん。紗良ちゃーん。助けてー!」
声がした公園のフェンスの向こうで、春代が泣きそうな顔をして立っているのが見える。
「えっ!」
視線の先には春代より少し大きいのではないかと思われる犬が歯を剥いて唸り、今にも飛びかかられそうになっていた。
私はちょっと混乱しながらも、犬の興味をこっちに向けなきゃと思い、最近覚えた指笛を吹き、犬の興味をこっちに向けるようにして、あえて大きな声で春代に向かって叫ぶ。
「いきなり動いたらダメー!」
私はそう言いながら、春代のいる方に向かって走り出す。
今まで読んだ本に犬に襲われた時の対処法なんてあったっけ? 頭の中で今まで読んだ本を思い返してみたけど、そういう本を読んだことはなさそうだった。
唯一犬の調教とかに関する本には、嚙まれても大丈夫なように手に布を巻いて行うという事が書いてあったと思い出して、自分が着ていた上着を手に巻きながら春代に向かって走っていた。
幼稚園児の自分の背丈よりも三十cmは高いフェンスが迫ってきたが、悠長に上っているような余裕はなく、春代との距離を目測しながら、あのくらいの高さならたぶん大丈夫だろうと、思いっきり踏み込んだ。
フェンスの一番上に片足をかけ、自分の体を上に引き上げながら、そこからさらに一気に飛んで春代と犬の前に飛び降りる。一瞬犬が驚いて後ろにさがったが、状況は大して変わらず、私は直ぐに春代を背中にして犬のほうに向き状況を分析する。
「紗良ちゃん、怖いよ」
背中越しに春代が震えた泣き声で言って服をキュッと握るのがわかる。
「これは私も怖いよ」
布をまいた手を自分の首のところに上げて、飛びかかられても何とかしようと思うものの、この大きさでは本気で咬まれたらただじゃ済まないだろう。
とにかく春代を安全なところに行かせないと。
「春代ちゃん。よく聞いて。私で犬から見えないように後ろのほうに下がって向こうの家の影に隠れて。分かった? 静かにね」
肩に手を乗せていた春代が頷いたような感じがあり、離れていく靴の音が聞こえて小さくなっていく。
暫くして後ろに春代が離れたことをそっと振り返って確認し、犬と一対一で向き合いながら、唸り声をあげてかなり空腹そうでいらだっていらっしゃる様子の犬を見た。
犬は突然現れた“物”に戸惑ったものの、現れたのは小さい子供だと認識してターゲットを私へと変えてくれたらしい。
「言うことを聞きそうな犬じゃないな」
私まで春代のほうに逃げたのでは意味がないし、このまま引き取ってもらいたいが、あきらめる様子はなさそうだ。
「こうなったらちょっと痛い思いをしてもらってでも、あきらめてもらうしかないか」
犬もお腹付近なら急所にはなるだろうと、狙いを定めて自分に集中しろと言い聞かせたその時、ついに犬がとびかかってきた。
牙をむき出しにしてとびかかってくる様子はまるで向こうから車の白いライトが一気に近づいてくるようだったが、私は持ち前の動体視力で冷静に動きを捉えていた。
「えいっ!」
犬が口を開けて飛びかかってくるところを、神経を集中することでスローモーションのように見ながら、半身でよけて通り過ぎる犬の前足の後ろを思いっきり蹴り上げる。
ギャンという鳴き声の後、下からお腹を蹴られた犬はもんどりうって横たわる。大丈夫かな? とみていると暫くして立ち上がり、尻尾を下げて春代と反対側の方向に走って行った。
「この状況で手加減とかできないから、死んでなくて良かった。ごめんね」
自分もケガをするかもしれなかったが、何とか立ち上がって走って逃げていく犬にホッとしながら、こっちを心配そうに見ていた春代のところに行き、微笑みながら声をかける。
「春代ちゃん。大丈夫だった?」
「うわーん。怖かったよー」
泣きながら抱きついてくる春代をなだめながら、「また来るかも知れないから今日はうちに帰ろうね。ねっ」そう言って、いまだ半泣きの春代を家まで送ってあげた。
カーテンから差し込む日差しが顔に当たり、すずめのうるさいくらいの言い合いのような鳴き声が聞こえている。
賑やかいなあ、すずめの朝ご飯の時間なのかなとぼんやり目をこすりながら、いやそれにしても本当に良く寝られてなんて気持ちのいい朝だ、すこぶる爽快だ、などと思いながら時計をみた。
「やばっ!」
時計を両手でつかみ上げ、もう一度確認。
「こんなに寝たら気持ちが良いに決まってる。いつもより一時間も遅いじゃない」
特に学校に目標もないが出席日数だけはパーフェクトにしようと思ってたのに、完全に終わった。
もう、どうにもならないという絶望感が漂う。
「なんでこんな時間なの? 時計セットし忘れた? わたしとしたことが遅刻確定じゃない。お母さんも、起こしてくれればいいのに」
ひとしきりぶつぶつ言った後、そこでふと我に返る。もう一度落ち着いて考えてみると、明日は休みだから時計をセットしなくてもいいか、と思ったことを思い出した。
「ああ、そうか休みだ」
よかったと、心から安堵してベッドから降り、軽く伸びをしてから、部屋のドアを開けリビングへと降りる階段に歩いていく。
「おはようございます」
リビングでは朝ご飯を食べ終えたお父さんが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
不愛想ではあるが、私的にも愛想以外はまあまあかっこいいのではないかと思うお父さんが新聞を読みながらこちらをちらりと見て返事をする。
「お母さんおはよう。寝坊しちゃった。お父さんは今日も仕事なの?」
「ああ、日本は休みだけど海外は別に休みでもないし、残念ながら休日出勤だよ」
「頑張ってね。お父さん」
お父さんに微笑んだら、ちらっとこちらを見て、すぐに新聞に目を落とした。
「紗良さんおはよう。今日はお父さんと違って学校はおやすみだから、ゆっくりすればいいんじゃない。何か用事でもあったの?」
キッチンで洗い物をしていた母がこっちに来ながら言った。
「ううん。全然なにもないけど、起きたら遅刻の時間でびっくりしちゃったから」
「慌てて起きたら休みだったなんて得した気分じゃない? 朝ご飯は食べる?」
「いただきます」
お母さんはかなりのポジティブシンキングの持ち主だ。もちろん明るくて普通にきれいだし、優しくてあまり怒られた記憶もない。
そういえば一度だけ、虫の観察に夢中で遅くなった時にどこに行っているのかと心配した、とすごく怒られたことがあったくらいだ。
あれは蝉の羽化というものがどうなるのか知りたくて、ずっと見ていた時だったな。
「得した気分にならないこともないけど、めちゃくちゃあせった」
「まあまあ、休みだったんだからいいじゃない。部活とかあったら休みにはならないかもしれないけど」
「そう考えたら学校の先生も大変だよね。でも私は休みといっても宿題くらいしかすることないから、終わらせたらぼ~とテレビでもみてようかな」
「たまにはいいんじゃないの? 今日は知り合いの娘さんがオーディションを受けたと言っていたアイドルグループのライブが放送されるんだって。一緒に見ましょうよ」
「いいよ。何時から?」
「お昼かららしいから、お昼を食べながらになるわね」
「そうなんだ。じゃあまだ時間があるね」
とりあえず今からお昼すぎの話をしても仕方がないので、朝ご飯を食べ終えると部屋に戻って宿題を片づけることにした。
私の名前は相羽紗良、会社員のお父さんである相羽睦と専業主婦のお母さん相羽紗弓との三人暮らしで、基準はよくわからないけど、多分一般的に見て中の上といった家庭。
もともとお父さんとお母さんは大学が一緒で、お父さん的にはひとめぼれだったらしい。
お母さんはとっくに気がついていて、早く言えと思って待っていたみたいだけど、お父さんは詳しいことはあまり教えたがらない。
でも、今の二人を見ていると本当に仲良しでほほえましく思う。
私が生まれた時にお母さんは会社をすっぱりと辞めて専業主婦になったらしく、それまでは会社に入ったころから優秀で、かなり有能なキャリアウーマンだったので何度か戻ってきてほしいと言われたという。
お父さんは学生時代あまり目立たない人だったそうだが、お母さんと付き合い始めた時にお母さんにいろいろとコーディネートしてもらい普通の人にしてもらったとのことだった。
もともと勉強のできる人だったらしく、会社ではそれなりの役職についているらしい。
私は十七歳になったばかりで普通の高校に通っている。今年は二年生で、成績はまあまあといったところだけど、両親には話していない秘密がある。
物心がついたころから、周りのみんなが絵本などを読んでいるのを見て一度見れば内容を覚えられるのに、何でそんなに何度も見るのか理解ができなかった。
いや理解できなかったのはみんなの気持ちで、はたらく車の本を見てもその構造がどうなっているのかは興味があったけど、それは私だけだった。
それに、構造自体も調べればそれがすぐにどういう理屈でできているのか理解できた。
一時期は知らないことが分かるようになることが面白く感じて、幼稚園から帰って父が大学で勉強していたときの本まで読んでいたらひどく驚かれたので、面白い絵でも書いてあるのかと思ったと適当に誤魔化した。それ以来私は家でもできるだけ普通にしていることにした。
運動にしても飛んだり走ったりは人並み以上にできるし、集中すれば物がゆっくり見えるくらい動体視力もいいので、球技を含めてたいがいのことはやればできる。
昔、急いでいた時に自分の身長の倍近い高さの柵の上を飛び超えてしまいみんなを驚かせてしまうこともあった。
でも、あまりにみんなと違うことに気付き、目立たないようにすることにした。
子供の世界はみんな自由そうに見えて閉鎖的で、あまり飛びぬけていると一時は称賛されても、だんだん仲間外れにされたりする事があるので、目立ちたいわけでもなく、面倒くさいこともあって、初めから何もなければ、そういうこともないと早いうちに学んだ。
そのまま今の学校でも、できるだけ自分ができることを隠して生活をしている。
あまり人と関わろうとしない私は、どちらかといえば暗いとか付き合いが悪いということになり、友達と呼べるのはほぼ幼馴染の一人。
だからと言って、いつも悲観的になって生活をしているのではなくて、知識を広げることは好きだから図書館にも行くし、目立たない程度に一人で運動をしたり、それなりに親しいクラスメイトとは、付き合い程度に出かけたりすることもある。
だいたいのことは人よりできるから、普通にできてしまうことで達成感もなにも感じない。
簡単にできることを人と比べて優越感を得たいという気持ちもなく、それを披露したり技術を磨いていこう、という気にもならなかった。
ある程度できてしまうので集中して打ち込むという必要もあまりなく、することと言えば本を読むことくらいで、これといった自分のしたいことのない無味乾燥な毎日を過ごしていた。
そんな私でも唯一の友達である近所の幼馴染、山岸春代とは仲良くしている。
春代は私がひとりぼっちにならないように気を遣ってくれる優しい良い子で、私もそんな春代には結構打ち解けていて一緒にいる時間も長い。
春代は私がなんでもできることを隠しているのを気が付いているが、面倒くさいので言わないでほしいと言ったら、みんなの前では黙って知らないふりをして特に変わりなく付き合い続けてくれている。
小さいころ、犬に襲われそうになっているのを助けてあげたり、勉強が分からないと泣いているときに、それとなく教えてあげたりしていたので、時々勉強でもなんでも本当はできてわかるんでしょ? 何で見せないの? という感じで私の目を覗くが、そんな時はいつもあいまいに返していた。
ただ勉強や運動ができることと、創作できることとは別だ。
私は自分でも創造性が無い、と思っている。
例えば絵をきれいに書いたとして、記憶力と学んだ技術を駆使して、写真のようにうまく書けても、感心されるだけで感動させるのは難しい。
よくうまい絵だが心が入っていないという人がいるが、私の場合はそういうことだ。
だからと言って、それを真剣に突き詰めよう、という気持ちにも今のところなれないのが、世の中のうまくいかないところなのだと思うけれど。
「ようやく宿題が終わった」
問題が人より早く解けても書くスピードはそれほど速くなるわけではないから、書く量が多ければそれなりに時間はかかる。
何とか宿題を書き終えて時計を見ると十二時近かったので、リビングに降りていくとお昼の準備をしながらお母さんが肩越しにこっちを見て話しをしてきた。
「すぐできるから、ちょっと待ってて。お洗濯と掃除をしていたら遅れちゃった」
「何、いい匂い。オムライス? 全然大丈夫だから、何か手伝おうか?」
「悪いわね。冷蔵庫にサラダを入れているから出しておいて」
「はーい。スプーンとかも出しておくね」
あらかた準備をおえてテレビをつけてみると、お昼のニュースでは中東でミサイル攻撃があったとか、芸能人が脅迫文を受け取ったなどのあまり楽しくない話題ばかりだったが、お母さんが作ってくれたオムライスはおいしく、お昼の時間をそれなりに楽しく過ごしたところで、お母さんが言った。
「そろそろ始まる時間よね。コーヒーでもいれる?」
「麦茶でいいよ。お母さんも一緒に見るでしょ。自分が見るって言ったのに」
「あらそう? じゃあそうしましょう」
二人で麦茶を飲みながらテレビを見ていると、派手なオープニングとオーバーチャーが流れてくる。
「知り合いの人の子は何歳なの?」
「十五才って言っていたかしら。今の子はスマホも持っているし、ネットで応募とかなんでもできて行動力もすごいのかもね」
「ふーん」
話をしながら私はテレビ画面をなんとなく眺めていた。
「なんか、グループの名前が聞いていたのと違うわね」
お母さんが不思議そうに見ていた。
「何て名前だったの?」
「星座の名前だったと思ったんだけど、アクエリアスだったかしら」
スマホを手に取り、今出ているグループを調べてみると違うグループだった。
「それは姉妹グループみたい。アクエリアスシャインていうのね。いま出ているのはヴァルコスマイルだって。星座の名前をつけているのはどちらも同じみたい」
「じゃあ、当たらずとも遠からずということで」
こっちを見て間違えちゃったと微笑みながらお母さんが言った。
「見て。ステージの衣装とかかわいいし照明とかもすごいきれいだね」
暗転から、スモークとともにステージに現れるところは突然グループ全員が何もないところから現れたようで、とてもきれいだと思った。
始めは激しめな曲調から始まったライブはだんだんゆっくりとした曲に変わっていき、ソロパート主体の曲になったときに、私は心を奪われ、目が離せなかった。
人形のようなくりくりとした澄んだ目と、すらっとした体形なのに歌声は心が震えるほどにしっかりとしているその姿を見た私は、呆然としてしばらく放心状態だった。
「紗良さんどうしたの? 口をあけてぼーっとして」
私はすぐ横でお母さんにじーとみられていることにも気が付かず、口を半開きにして見入っていたようだ。
「可愛くて。歌もすごいなと思って」
「確かにね。あんなに周りもかわいらしい子がいるのに、あの子は更に何か目が離せないものがあるような気がするわね」
ライブが終盤になり、感謝の言葉とこれからもっと大きな舞台でやっていけるようになりたいという、多分リーダーと思われる女性の決意表明の後に、運営から二期生を募集するとの告知があった。
そのあとアンコールがあり、画面の向こうは熱狂的な雰囲気とともに映像が途切れた。
「終わったぁ。他の子も可愛かったけど、ソロで歌ってたあの子はすごくよかったね」
「すごく、お気に入りになったのね。あまり興味がないと思っていたから意外だわ」
「ああいう世界もあるのかと思って。せっかくだからいろいろ調べてみようと思う」
私は部屋に戻ってすぐさまグループのことをネットで調べ始めた。
ヴァルコスマイルは結成して二年目のグループで、何もないところからオーディションで選ばれた子たちで始められたらしく、結成から一年ほどして知名度があがってきたところで姉妹グループ的な感じでアクエリアスシャインも結成されたと出ている。
ヴァルコスマイルもここまでいろいろと大変だったらしいが、メンバーにかわいらしい子が多く、だんだんとファンが増えてきているらしい。
今回のライブ映像は一か月前のものらしく、新規ファン獲得に向けて休みに合わせて放送されたもので、私はまんまとその策略にはまった形になったわけだが、もっとアイドルというものがどういうものか知りたい、どうせならヴァルコスマイルというグループの中に入ってみたいという気持ちがどんどん大きくなってきていた。
この前のライブ映像で発表のあったメンバー募集について調べてみたところ、まだ募集期間中で、書類審査はスマホで応募できるということだった。
アイドルのことを知りたいという欲求に駆られて、受かるとも落ちるとも決まっているわけではないし、どうせなら応募してみようと、かなり軽い気持ちで応募してみることにした。
自分的にはアイドルは絶対になってやるというものではなかったし、書類審査だけなら個人情報の一部くらいしか失うものもないという軽い気持ちだったわけだが、これが後々の自分の人生を大きく変えることになるとは、この時は深く考えてもおらず、どうなるのかを知る由もなかった。
締め切りぎりぎりの応募だったこともあり、とりあえずという安易な気持ちでメンバー募集に応募してから、二週間もたたないうちに運命の第一歩となるその日が来た。
「紗良さん、コンステレーション合同会社というところから封書が届いていたわよ」
「見せてっ!」
「何、何っ。びっくりするわ。珍しいそんな勢いで」
「ごめんなさい。すぐに中身を確認したくて」
部屋に入って見てみると会社名が右下に書かれた乳白色の封筒は、書類審査に通った場合に送られてくるという合格通知と、二次審査の案内の封書だった。
「受かってる」
待ち望んでいたというわけではないが、何かしら認められるというのは、少なからず心に来るものがある。
中を開けてみると書類審査に合格したということと、二次審査の案内が書かれていた。最低でも四次審査まであるらしい。
「そんなにあるんだ。結構長い道のりだな」
自分の部屋で椅子に座りながら一人でつぶやいていた。
「ただいま」
「あら? おかえりなさい。今日はいつもよりも早いのね」
「外で打ち合わせだったんだけど、直帰していいことになったんだ」
お父さんがこんなに早く帰ってくるなんて珍しい。リビングに行くとお父さんはシャワーを浴びてからお母さんと楽しそうに話をしていた。
「紗良さん。お父さんも早く帰ってきたからそろそろ夕食にしましょう」
「うん。こんな時間に帰ってこられるのなんて。久しぶりだね」
「なかなか。帰られなくてね。サラリーマンはつらいよ」
「お疲れ様です。準備ができたからご飯にしましょう」
みんな早くに揃っているからか、お母さんが楽しそうだ。
「いただきます」
お父さんがビールを飲みながら、仕事で外回りをしているときにテレビの取材をしているところを見たという話をお母さんとしているのをなんとなく聞いていた。
「なんか、人だかりができていてね。『これ何ですか?』って見ている人に聞いたらテレビの取材で、アイドルと芸人がお店の紹介をしていたんだ」
「なんのお店?」
「新しくできたケーキ屋さんらしい。果物がふんだんに使ってあるものが有名らしいよ。今度寄って買ってきてあげ
るよ」
「ありがと。楽しみにしてるわ」
「ところでお父さん、アイドルって誰だったの?」
アイドルは最近の興味の対象なので気になってしょうがない。
「詳しくないからよくわからないけど、聞いたときに星座かぁって思ったんだ。何だったかなぁ。ああ、たしかおとめ座だなと思ったんだ」
「ヴァルコスマイルっ!」
「なに? なんなんだ? いきなり」
「この前、紗良さんとテレビで見たっていったでしょ。それ以来珍しいことにすごくお気に入りらしいのよ」
「でっ? だれ? だれだったの?」
「よくわからないよ。遠かったし背がすらっと高い子だった」
「恵美ちゃんかなぁ。実物みたかったなぁ。可愛かったんでしょ?」
「うーん。それこそ遠かったしスタイルが良いのはわかったけど、さゆさんよりもかわいいとか他の人に思ったことないからなぁ」
「そう言ってもらえるのはうれしいけど、アイドルと比べて、そんなわけないでしょ。年も取っているんだから、若い女の子と比べないでください」
「うそじゃないよ」
いつもの不愛想な感じはどこに行ったのだろうか。
お父さんも不愛想な割には仲がいいとは思っていたけどこの年になってこうも変なイチャイチャを見せつけられるとは。
「ねぇお父さん。アイドルって職業的にどう思う?」
「どうって。不安定な職種だなと思うけど。あの人たちは簡単に出てきたように見えるけど、選ばれた人だし、その中でも表に出てこられるのはほんの一握りって聞くよ」
「そっかぁ。そうだよね」
ネットで調べても大したことは出ていないが、一生懸命やっているだろう彼女たちへの心ない誹謗中傷などもみると、それだけでも大変なんだろうなという風に思っていた。
「なんなの紗良さん。変な感じ」
「でもね紗良。さゆさんは大学のころから、めちゃくちゃ美人でもててたんだよ。だからあのころさゆさんがアイドルになろうとしてたら相当上に行けたんじゃないかと思う」
「そうなの?」
大学時代のことは殆ど聞いたことがないので新鮮だった。
「まぁ、そういう時代もあったかもしれないけど、私自身は普通だと思っていたからそれ以上の興味がなくて。むしろ睦さんを本当はすごく好男子なのにって何とかしたくて必死だったわ」
「どういうこと?」
「睦さんはいまでこそ、イケてる感じになったけど、あの頃は自分の容姿に対して無頓着極まりない人でね。昔から知っててようやく告白してくれたものの、こんなに中身を含めて素敵な人なのに何て外面がイケてないのかと思って一生懸命プロデュースしたわけ」
「そこまでのこと初めて聞いた」
「自分が駄目駄目だったことなんて言う必要は無いだろ。わざわざ」
少しむくれた感じで、なんか不愛想なくせに可愛らしい。
「それはさておき、そういうことだから何というか二人の間に生まれた紗良もかわいいと思うよ」
「ありがとう。でも身内の評価はあてにならないな」
二人は顔を見合わせ笑っていた。
私には目標というものは無かった。
何かに一心に打ち込めることがあればそれでいい。
たとえその結果がどうであろうと、結果はあくまで振り返ってみた時に、そこにあるだけだ。
本当に必要なのは目標に向かっている瞬間。
それは生きているということだと思う。
そういうものがあるということは幸せなのだ。
そう私は思っている。
幼稚園から帰った私は近所の公園にいた。
「なるほど本に書いてあった通り。本当に蟻はみんなが同じところを通るんだな」
最近の私の日課は昆虫の本に書いてあることを実際のものを見て確認してみることだった。
本で読んだだけではただの知識と想像でしかない。出来ることならもっときちんと知って確かめたい。
「……らちゃーん。紗良ちゃーん。助けてー!」
声がした公園のフェンスの向こうで、春代が泣きそうな顔をして立っているのが見える。
「えっ!」
視線の先には春代より少し大きいのではないかと思われる犬が歯を剥いて唸り、今にも飛びかかられそうになっていた。
私はちょっと混乱しながらも、犬の興味をこっちに向けなきゃと思い、最近覚えた指笛を吹き、犬の興味をこっちに向けるようにして、あえて大きな声で春代に向かって叫ぶ。
「いきなり動いたらダメー!」
私はそう言いながら、春代のいる方に向かって走り出す。
今まで読んだ本に犬に襲われた時の対処法なんてあったっけ? 頭の中で今まで読んだ本を思い返してみたけど、そういう本を読んだことはなさそうだった。
唯一犬の調教とかに関する本には、嚙まれても大丈夫なように手に布を巻いて行うという事が書いてあったと思い出して、自分が着ていた上着を手に巻きながら春代に向かって走っていた。
幼稚園児の自分の背丈よりも三十cmは高いフェンスが迫ってきたが、悠長に上っているような余裕はなく、春代との距離を目測しながら、あのくらいの高さならたぶん大丈夫だろうと、思いっきり踏み込んだ。
フェンスの一番上に片足をかけ、自分の体を上に引き上げながら、そこからさらに一気に飛んで春代と犬の前に飛び降りる。一瞬犬が驚いて後ろにさがったが、状況は大して変わらず、私は直ぐに春代を背中にして犬のほうに向き状況を分析する。
「紗良ちゃん、怖いよ」
背中越しに春代が震えた泣き声で言って服をキュッと握るのがわかる。
「これは私も怖いよ」
布をまいた手を自分の首のところに上げて、飛びかかられても何とかしようと思うものの、この大きさでは本気で咬まれたらただじゃ済まないだろう。
とにかく春代を安全なところに行かせないと。
「春代ちゃん。よく聞いて。私で犬から見えないように後ろのほうに下がって向こうの家の影に隠れて。分かった? 静かにね」
肩に手を乗せていた春代が頷いたような感じがあり、離れていく靴の音が聞こえて小さくなっていく。
暫くして後ろに春代が離れたことをそっと振り返って確認し、犬と一対一で向き合いながら、唸り声をあげてかなり空腹そうでいらだっていらっしゃる様子の犬を見た。
犬は突然現れた“物”に戸惑ったものの、現れたのは小さい子供だと認識してターゲットを私へと変えてくれたらしい。
「言うことを聞きそうな犬じゃないな」
私まで春代のほうに逃げたのでは意味がないし、このまま引き取ってもらいたいが、あきらめる様子はなさそうだ。
「こうなったらちょっと痛い思いをしてもらってでも、あきらめてもらうしかないか」
犬もお腹付近なら急所にはなるだろうと、狙いを定めて自分に集中しろと言い聞かせたその時、ついに犬がとびかかってきた。
牙をむき出しにしてとびかかってくる様子はまるで向こうから車の白いライトが一気に近づいてくるようだったが、私は持ち前の動体視力で冷静に動きを捉えていた。
「えいっ!」
犬が口を開けて飛びかかってくるところを、神経を集中することでスローモーションのように見ながら、半身でよけて通り過ぎる犬の前足の後ろを思いっきり蹴り上げる。
ギャンという鳴き声の後、下からお腹を蹴られた犬はもんどりうって横たわる。大丈夫かな? とみていると暫くして立ち上がり、尻尾を下げて春代と反対側の方向に走って行った。
「この状況で手加減とかできないから、死んでなくて良かった。ごめんね」
自分もケガをするかもしれなかったが、何とか立ち上がって走って逃げていく犬にホッとしながら、こっちを心配そうに見ていた春代のところに行き、微笑みながら声をかける。
「春代ちゃん。大丈夫だった?」
「うわーん。怖かったよー」
泣きながら抱きついてくる春代をなだめながら、「また来るかも知れないから今日はうちに帰ろうね。ねっ」そう言って、いまだ半泣きの春代を家まで送ってあげた。
カーテンから差し込む日差しが顔に当たり、すずめのうるさいくらいの言い合いのような鳴き声が聞こえている。
賑やかいなあ、すずめの朝ご飯の時間なのかなとぼんやり目をこすりながら、いやそれにしても本当に良く寝られてなんて気持ちのいい朝だ、すこぶる爽快だ、などと思いながら時計をみた。
「やばっ!」
時計を両手でつかみ上げ、もう一度確認。
「こんなに寝たら気持ちが良いに決まってる。いつもより一時間も遅いじゃない」
特に学校に目標もないが出席日数だけはパーフェクトにしようと思ってたのに、完全に終わった。
もう、どうにもならないという絶望感が漂う。
「なんでこんな時間なの? 時計セットし忘れた? わたしとしたことが遅刻確定じゃない。お母さんも、起こしてくれればいいのに」
ひとしきりぶつぶつ言った後、そこでふと我に返る。もう一度落ち着いて考えてみると、明日は休みだから時計をセットしなくてもいいか、と思ったことを思い出した。
「ああ、そうか休みだ」
よかったと、心から安堵してベッドから降り、軽く伸びをしてから、部屋のドアを開けリビングへと降りる階段に歩いていく。
「おはようございます」
リビングでは朝ご飯を食べ終えたお父さんが新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
「おはよう」
不愛想ではあるが、私的にも愛想以外はまあまあかっこいいのではないかと思うお父さんが新聞を読みながらこちらをちらりと見て返事をする。
「お母さんおはよう。寝坊しちゃった。お父さんは今日も仕事なの?」
「ああ、日本は休みだけど海外は別に休みでもないし、残念ながら休日出勤だよ」
「頑張ってね。お父さん」
お父さんに微笑んだら、ちらっとこちらを見て、すぐに新聞に目を落とした。
「紗良さんおはよう。今日はお父さんと違って学校はおやすみだから、ゆっくりすればいいんじゃない。何か用事でもあったの?」
キッチンで洗い物をしていた母がこっちに来ながら言った。
「ううん。全然なにもないけど、起きたら遅刻の時間でびっくりしちゃったから」
「慌てて起きたら休みだったなんて得した気分じゃない? 朝ご飯は食べる?」
「いただきます」
お母さんはかなりのポジティブシンキングの持ち主だ。もちろん明るくて普通にきれいだし、優しくてあまり怒られた記憶もない。
そういえば一度だけ、虫の観察に夢中で遅くなった時にどこに行っているのかと心配した、とすごく怒られたことがあったくらいだ。
あれは蝉の羽化というものがどうなるのか知りたくて、ずっと見ていた時だったな。
「得した気分にならないこともないけど、めちゃくちゃあせった」
「まあまあ、休みだったんだからいいじゃない。部活とかあったら休みにはならないかもしれないけど」
「そう考えたら学校の先生も大変だよね。でも私は休みといっても宿題くらいしかすることないから、終わらせたらぼ~とテレビでもみてようかな」
「たまにはいいんじゃないの? 今日は知り合いの娘さんがオーディションを受けたと言っていたアイドルグループのライブが放送されるんだって。一緒に見ましょうよ」
「いいよ。何時から?」
「お昼かららしいから、お昼を食べながらになるわね」
「そうなんだ。じゃあまだ時間があるね」
とりあえず今からお昼すぎの話をしても仕方がないので、朝ご飯を食べ終えると部屋に戻って宿題を片づけることにした。
私の名前は相羽紗良、会社員のお父さんである相羽睦と専業主婦のお母さん相羽紗弓との三人暮らしで、基準はよくわからないけど、多分一般的に見て中の上といった家庭。
もともとお父さんとお母さんは大学が一緒で、お父さん的にはひとめぼれだったらしい。
お母さんはとっくに気がついていて、早く言えと思って待っていたみたいだけど、お父さんは詳しいことはあまり教えたがらない。
でも、今の二人を見ていると本当に仲良しでほほえましく思う。
私が生まれた時にお母さんは会社をすっぱりと辞めて専業主婦になったらしく、それまでは会社に入ったころから優秀で、かなり有能なキャリアウーマンだったので何度か戻ってきてほしいと言われたという。
お父さんは学生時代あまり目立たない人だったそうだが、お母さんと付き合い始めた時にお母さんにいろいろとコーディネートしてもらい普通の人にしてもらったとのことだった。
もともと勉強のできる人だったらしく、会社ではそれなりの役職についているらしい。
私は十七歳になったばかりで普通の高校に通っている。今年は二年生で、成績はまあまあといったところだけど、両親には話していない秘密がある。
物心がついたころから、周りのみんなが絵本などを読んでいるのを見て一度見れば内容を覚えられるのに、何でそんなに何度も見るのか理解ができなかった。
いや理解できなかったのはみんなの気持ちで、はたらく車の本を見てもその構造がどうなっているのかは興味があったけど、それは私だけだった。
それに、構造自体も調べればそれがすぐにどういう理屈でできているのか理解できた。
一時期は知らないことが分かるようになることが面白く感じて、幼稚園から帰って父が大学で勉強していたときの本まで読んでいたらひどく驚かれたので、面白い絵でも書いてあるのかと思ったと適当に誤魔化した。それ以来私は家でもできるだけ普通にしていることにした。
運動にしても飛んだり走ったりは人並み以上にできるし、集中すれば物がゆっくり見えるくらい動体視力もいいので、球技を含めてたいがいのことはやればできる。
昔、急いでいた時に自分の身長の倍近い高さの柵の上を飛び超えてしまいみんなを驚かせてしまうこともあった。
でも、あまりにみんなと違うことに気付き、目立たないようにすることにした。
子供の世界はみんな自由そうに見えて閉鎖的で、あまり飛びぬけていると一時は称賛されても、だんだん仲間外れにされたりする事があるので、目立ちたいわけでもなく、面倒くさいこともあって、初めから何もなければ、そういうこともないと早いうちに学んだ。
そのまま今の学校でも、できるだけ自分ができることを隠して生活をしている。
あまり人と関わろうとしない私は、どちらかといえば暗いとか付き合いが悪いということになり、友達と呼べるのはほぼ幼馴染の一人。
だからと言って、いつも悲観的になって生活をしているのではなくて、知識を広げることは好きだから図書館にも行くし、目立たない程度に一人で運動をしたり、それなりに親しいクラスメイトとは、付き合い程度に出かけたりすることもある。
だいたいのことは人よりできるから、普通にできてしまうことで達成感もなにも感じない。
簡単にできることを人と比べて優越感を得たいという気持ちもなく、それを披露したり技術を磨いていこう、という気にもならなかった。
ある程度できてしまうので集中して打ち込むという必要もあまりなく、することと言えば本を読むことくらいで、これといった自分のしたいことのない無味乾燥な毎日を過ごしていた。
そんな私でも唯一の友達である近所の幼馴染、山岸春代とは仲良くしている。
春代は私がひとりぼっちにならないように気を遣ってくれる優しい良い子で、私もそんな春代には結構打ち解けていて一緒にいる時間も長い。
春代は私がなんでもできることを隠しているのを気が付いているが、面倒くさいので言わないでほしいと言ったら、みんなの前では黙って知らないふりをして特に変わりなく付き合い続けてくれている。
小さいころ、犬に襲われそうになっているのを助けてあげたり、勉強が分からないと泣いているときに、それとなく教えてあげたりしていたので、時々勉強でもなんでも本当はできてわかるんでしょ? 何で見せないの? という感じで私の目を覗くが、そんな時はいつもあいまいに返していた。
ただ勉強や運動ができることと、創作できることとは別だ。
私は自分でも創造性が無い、と思っている。
例えば絵をきれいに書いたとして、記憶力と学んだ技術を駆使して、写真のようにうまく書けても、感心されるだけで感動させるのは難しい。
よくうまい絵だが心が入っていないという人がいるが、私の場合はそういうことだ。
だからと言って、それを真剣に突き詰めよう、という気持ちにも今のところなれないのが、世の中のうまくいかないところなのだと思うけれど。
「ようやく宿題が終わった」
問題が人より早く解けても書くスピードはそれほど速くなるわけではないから、書く量が多ければそれなりに時間はかかる。
何とか宿題を書き終えて時計を見ると十二時近かったので、リビングに降りていくとお昼の準備をしながらお母さんが肩越しにこっちを見て話しをしてきた。
「すぐできるから、ちょっと待ってて。お洗濯と掃除をしていたら遅れちゃった」
「何、いい匂い。オムライス? 全然大丈夫だから、何か手伝おうか?」
「悪いわね。冷蔵庫にサラダを入れているから出しておいて」
「はーい。スプーンとかも出しておくね」
あらかた準備をおえてテレビをつけてみると、お昼のニュースでは中東でミサイル攻撃があったとか、芸能人が脅迫文を受け取ったなどのあまり楽しくない話題ばかりだったが、お母さんが作ってくれたオムライスはおいしく、お昼の時間をそれなりに楽しく過ごしたところで、お母さんが言った。
「そろそろ始まる時間よね。コーヒーでもいれる?」
「麦茶でいいよ。お母さんも一緒に見るでしょ。自分が見るって言ったのに」
「あらそう? じゃあそうしましょう」
二人で麦茶を飲みながらテレビを見ていると、派手なオープニングとオーバーチャーが流れてくる。
「知り合いの人の子は何歳なの?」
「十五才って言っていたかしら。今の子はスマホも持っているし、ネットで応募とかなんでもできて行動力もすごいのかもね」
「ふーん」
話をしながら私はテレビ画面をなんとなく眺めていた。
「なんか、グループの名前が聞いていたのと違うわね」
お母さんが不思議そうに見ていた。
「何て名前だったの?」
「星座の名前だったと思ったんだけど、アクエリアスだったかしら」
スマホを手に取り、今出ているグループを調べてみると違うグループだった。
「それは姉妹グループみたい。アクエリアスシャインていうのね。いま出ているのはヴァルコスマイルだって。星座の名前をつけているのはどちらも同じみたい」
「じゃあ、当たらずとも遠からずということで」
こっちを見て間違えちゃったと微笑みながらお母さんが言った。
「見て。ステージの衣装とかかわいいし照明とかもすごいきれいだね」
暗転から、スモークとともにステージに現れるところは突然グループ全員が何もないところから現れたようで、とてもきれいだと思った。
始めは激しめな曲調から始まったライブはだんだんゆっくりとした曲に変わっていき、ソロパート主体の曲になったときに、私は心を奪われ、目が離せなかった。
人形のようなくりくりとした澄んだ目と、すらっとした体形なのに歌声は心が震えるほどにしっかりとしているその姿を見た私は、呆然としてしばらく放心状態だった。
「紗良さんどうしたの? 口をあけてぼーっとして」
私はすぐ横でお母さんにじーとみられていることにも気が付かず、口を半開きにして見入っていたようだ。
「可愛くて。歌もすごいなと思って」
「確かにね。あんなに周りもかわいらしい子がいるのに、あの子は更に何か目が離せないものがあるような気がするわね」
ライブが終盤になり、感謝の言葉とこれからもっと大きな舞台でやっていけるようになりたいという、多分リーダーと思われる女性の決意表明の後に、運営から二期生を募集するとの告知があった。
そのあとアンコールがあり、画面の向こうは熱狂的な雰囲気とともに映像が途切れた。
「終わったぁ。他の子も可愛かったけど、ソロで歌ってたあの子はすごくよかったね」
「すごく、お気に入りになったのね。あまり興味がないと思っていたから意外だわ」
「ああいう世界もあるのかと思って。せっかくだからいろいろ調べてみようと思う」
私は部屋に戻ってすぐさまグループのことをネットで調べ始めた。
ヴァルコスマイルは結成して二年目のグループで、何もないところからオーディションで選ばれた子たちで始められたらしく、結成から一年ほどして知名度があがってきたところで姉妹グループ的な感じでアクエリアスシャインも結成されたと出ている。
ヴァルコスマイルもここまでいろいろと大変だったらしいが、メンバーにかわいらしい子が多く、だんだんとファンが増えてきているらしい。
今回のライブ映像は一か月前のものらしく、新規ファン獲得に向けて休みに合わせて放送されたもので、私はまんまとその策略にはまった形になったわけだが、もっとアイドルというものがどういうものか知りたい、どうせならヴァルコスマイルというグループの中に入ってみたいという気持ちがどんどん大きくなってきていた。
この前のライブ映像で発表のあったメンバー募集について調べてみたところ、まだ募集期間中で、書類審査はスマホで応募できるということだった。
アイドルのことを知りたいという欲求に駆られて、受かるとも落ちるとも決まっているわけではないし、どうせなら応募してみようと、かなり軽い気持ちで応募してみることにした。
自分的にはアイドルは絶対になってやるというものではなかったし、書類審査だけなら個人情報の一部くらいしか失うものもないという軽い気持ちだったわけだが、これが後々の自分の人生を大きく変えることになるとは、この時は深く考えてもおらず、どうなるのかを知る由もなかった。
締め切りぎりぎりの応募だったこともあり、とりあえずという安易な気持ちでメンバー募集に応募してから、二週間もたたないうちに運命の第一歩となるその日が来た。
「紗良さん、コンステレーション合同会社というところから封書が届いていたわよ」
「見せてっ!」
「何、何っ。びっくりするわ。珍しいそんな勢いで」
「ごめんなさい。すぐに中身を確認したくて」
部屋に入って見てみると会社名が右下に書かれた乳白色の封筒は、書類審査に通った場合に送られてくるという合格通知と、二次審査の案内の封書だった。
「受かってる」
待ち望んでいたというわけではないが、何かしら認められるというのは、少なからず心に来るものがある。
中を開けてみると書類審査に合格したということと、二次審査の案内が書かれていた。最低でも四次審査まであるらしい。
「そんなにあるんだ。結構長い道のりだな」
自分の部屋で椅子に座りながら一人でつぶやいていた。
「ただいま」
「あら? おかえりなさい。今日はいつもよりも早いのね」
「外で打ち合わせだったんだけど、直帰していいことになったんだ」
お父さんがこんなに早く帰ってくるなんて珍しい。リビングに行くとお父さんはシャワーを浴びてからお母さんと楽しそうに話をしていた。
「紗良さん。お父さんも早く帰ってきたからそろそろ夕食にしましょう」
「うん。こんな時間に帰ってこられるのなんて。久しぶりだね」
「なかなか。帰られなくてね。サラリーマンはつらいよ」
「お疲れ様です。準備ができたからご飯にしましょう」
みんな早くに揃っているからか、お母さんが楽しそうだ。
「いただきます」
お父さんがビールを飲みながら、仕事で外回りをしているときにテレビの取材をしているところを見たという話をお母さんとしているのをなんとなく聞いていた。
「なんか、人だかりができていてね。『これ何ですか?』って見ている人に聞いたらテレビの取材で、アイドルと芸人がお店の紹介をしていたんだ」
「なんのお店?」
「新しくできたケーキ屋さんらしい。果物がふんだんに使ってあるものが有名らしいよ。今度寄って買ってきてあげ
るよ」
「ありがと。楽しみにしてるわ」
「ところでお父さん、アイドルって誰だったの?」
アイドルは最近の興味の対象なので気になってしょうがない。
「詳しくないからよくわからないけど、聞いたときに星座かぁって思ったんだ。何だったかなぁ。ああ、たしかおとめ座だなと思ったんだ」
「ヴァルコスマイルっ!」
「なに? なんなんだ? いきなり」
「この前、紗良さんとテレビで見たっていったでしょ。それ以来珍しいことにすごくお気に入りらしいのよ」
「でっ? だれ? だれだったの?」
「よくわからないよ。遠かったし背がすらっと高い子だった」
「恵美ちゃんかなぁ。実物みたかったなぁ。可愛かったんでしょ?」
「うーん。それこそ遠かったしスタイルが良いのはわかったけど、さゆさんよりもかわいいとか他の人に思ったことないからなぁ」
「そう言ってもらえるのはうれしいけど、アイドルと比べて、そんなわけないでしょ。年も取っているんだから、若い女の子と比べないでください」
「うそじゃないよ」
いつもの不愛想な感じはどこに行ったのだろうか。
お父さんも不愛想な割には仲がいいとは思っていたけどこの年になってこうも変なイチャイチャを見せつけられるとは。
「ねぇお父さん。アイドルって職業的にどう思う?」
「どうって。不安定な職種だなと思うけど。あの人たちは簡単に出てきたように見えるけど、選ばれた人だし、その中でも表に出てこられるのはほんの一握りって聞くよ」
「そっかぁ。そうだよね」
ネットで調べても大したことは出ていないが、一生懸命やっているだろう彼女たちへの心ない誹謗中傷などもみると、それだけでも大変なんだろうなという風に思っていた。
「なんなの紗良さん。変な感じ」
「でもね紗良。さゆさんは大学のころから、めちゃくちゃ美人でもててたんだよ。だからあのころさゆさんがアイドルになろうとしてたら相当上に行けたんじゃないかと思う」
「そうなの?」
大学時代のことは殆ど聞いたことがないので新鮮だった。
「まぁ、そういう時代もあったかもしれないけど、私自身は普通だと思っていたからそれ以上の興味がなくて。むしろ睦さんを本当はすごく好男子なのにって何とかしたくて必死だったわ」
「どういうこと?」
「睦さんはいまでこそ、イケてる感じになったけど、あの頃は自分の容姿に対して無頓着極まりない人でね。昔から知っててようやく告白してくれたものの、こんなに中身を含めて素敵な人なのに何て外面がイケてないのかと思って一生懸命プロデュースしたわけ」
「そこまでのこと初めて聞いた」
「自分が駄目駄目だったことなんて言う必要は無いだろ。わざわざ」
少しむくれた感じで、なんか不愛想なくせに可愛らしい。
「それはさておき、そういうことだから何というか二人の間に生まれた紗良もかわいいと思うよ」
「ありがとう。でも身内の評価はあてにならないな」
二人は顔を見合わせ笑っていた。
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